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ろ号作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ろ号作戦
戦争太平洋戦争 / 大東亜戦争
年月日1943年10月28日-11月12日
場所ラバウル周辺
結果:連合軍の勝利
交戦勢力
ファイル:Merchant flag of Japan (1870).svg 大日本帝国 ファイル:US flag 48 stars.svg アメリカ合衆国
指揮官
古賀峯一 ウィリアム・ハルゼー
戦力
航空機306 空母5
艦載機約300機
他陸上機
損害
航空機121(一航戦のみの数) 航空機約30
魚雷艇1沈没
巡洋艦1大破等

ろ号作戦(ろごうさくせん)とは、太平洋戦争大東亜戦争)中に実施された日本軍の作戦。空母艦載機をラバウルに進出させ、アメリカ軍を攻撃したが、損害が大きく、作戦は中止された。同時期に連合軍がラバウルに対して行なった攻撃についてはラバウル攻撃を参照。

目次

背景

1943年の秋に至っても、日本軍が太平洋上に展開させた前線は伸びきった状態であった。日本側でも前線を縮小する必要性は認識しており、例えば1943年8月には陸海統帥部連合で図上演習を行ない、ラバウルは放棄し、マリアナ諸島カロリン諸島西部ニューギニア方面に後退するのが望ましいという結果を得ていた。その後1943年9月30日の御前会議絶対国防圏構想に関わる戦争指導の大綱を裁可した。しかし、こうした戦略変更に対応するための内南洋諸島等、新たな前線予定地域の防備強化は手薄な状況で、軍令部作戦課長だった山本親雄は8月末、現状では基地航空部隊の飛行場も十分に得られない旨を述べている。

一方で前線にも問題があった。パプアニューギニアからソロモン諸島北部には十数万の陸軍兵と多数の航空部隊が貼り付けられた状態であり、それらは豊富な戦力を持つ南西太平洋方面の連合軍と対峙していた。前線を下げにかかった際に、この方面の連合軍の攻勢へ当面どのように対処するかで問題があった。また輸送手段の確保にも課題があった。当時は船舶喪失量が増大を続けており、船舶は不足しつつあった。後方線の防禦資材や撤収のために船舶を割いた場合、日本本土への資源搬入に問題を生じる可能性が高かった。

これらに関連して、海軍の実戦部隊を統括する連合艦隊は専守防衛策に徹した場合、必敗するとの認識もあり、絶対国防圏より外側での決戦を志向し、軍令部の中堅とは温度差があった。9月15日の陸海統帥部長の参内の際に昭和天皇永野修身を叱責するなど、軍内での戦略上の不統一は当時から指摘されていたが、上記のように前線を簡単に下げられない事情や戦争終結への見通しに絡む問題もあった。秋になってもラバウル周辺が激戦場であり続けた背景にはこうした事情が存在した[1]

10月14日と16日、軍令部は通信諜報から、敵機動部隊が中部太平洋ないし本土に来襲する公算大との警報を発した。暗号解読とは異なり、通信状況の変化で判断を行なう通信諜報が根拠であった為、連合艦隊の所見は軍令部とは異なっていたが、結局トラックに進出させてあった主力をブラウン環礁に出撃させた。しかし、この警報は誤報に終わり、連合艦隊は重油を無駄に消費して9日後トラックに帰還した。これによりトラックに備蓄してあった重油は払底したので連合艦隊は重油の補充を要請したが、日本本土にも30万トンの貯油しかなかったという。軍令部の中澤佑作戦部長によれば当時の出撃見込みは油槽船の不足から次のようなものとなった。

  • 第三艦隊第二水雷戦隊のみであれば10月末に出動可能
  • 第三艦隊と第二艦隊のみであれば11月初旬に出動可能
  • 第三艦隊と第二艦隊と第一戦隊(大和、武蔵)のみであれば11月10日には出動可能
  • 全力での出撃は11月中旬に可能

当時の第三艦隊は空母2-3隻、戦艦2隻、重巡2隻、軽巡3隻、駆逐艦4隻、第二艦隊は重巡6隻、軽巡1隻、駆逐艦4隻、第二艦隊から抜き出した第二水雷戦隊は軽巡1隻、駆逐艦4隻となっており、補助艦艇の不足が目立つ。

また、機動部隊の空母は、第一航空戦隊(「瑞鶴」、「翔鶴」、「瑞鳳」)だけが進出しており、第二航空戦隊(「飛鷹」、「隼鷹」、「龍鳳」)はシンガポールで再建中、第三航空戦隊の中核である2隻の千歳型空母のうち「千代田」は改装工事が完了しておらず、同戦隊は明年2月以降投入可能の見込みであった。こうした事情から、連合艦隊参謀長であった福留繁は、空母艦載機のみを一時的に陸揚げしてラバウルに投入することを発案した[2]

戦闘経過

1943年10月27日、アメリカ軍はモノ島スターリング島へ上陸した。ラバウルの航空兵力はこれを攻撃したが、連日の戦闘で消耗しており、アメリカ軍の進出阻止は不可能であった。この状況で28日、古賀峯一連合艦隊司令長官は、先のい号作戦に倣ったろ号作戦を発動、第一航空戦隊の艦載機にラバウルへの進出を命じた。

この結果第一航空戦隊の173機が11月1日から3日にかけて進出し、ラバウルに展開する航空兵力は所在の第十一航空艦隊が擁する戦闘機72機、爆撃機61機と合わせ大幅に補強された。一方、アメリカ南太平洋方面軍は1日、ブーゲンビル島第3海兵師団を上陸させ、基地航空隊や水上部隊がこれを攻撃した(水上部隊の攻撃についてはブーゲンビル島沖海戦を参照)。下記の作戦中タロキナ沖に敵が出現した際、軍令部から伊藤整一次長がトラック・ラバウルに派遣され、連合艦隊司令部と協議を行なっている。軍令部情報部第五課は中部太平洋からの進攻を予想していたが、作戦課や連合艦隊は南東方面からの進攻を予想しており、結果としては無視された。

11月2日

第一航空戦隊の作戦は2日から開始された。この日、ラバウルは空襲を受け、空中戦が行われた。

また、セント・ジョージ岬沖の輸送船団に対し攻撃が行われたが、戦果は軽巡「モントピリア」小破のみであった。

11月5日(第一次ブーゲンビル島沖航空戦)

5日、アメリカ軍第38任務部隊(空母「サラトガ」、「プリンストン」基幹)の艦載機がラバウルを空襲した。この空襲によって、進出していた第二艦隊の艦船は多くが損傷し、トラックに後退した。

同日12時25分、ラバウルの南にアメリカ艦隊を発見した日本軍は15時15分に攻撃隊を発進させ、日没40分後に無照明夜間雷撃を行なったが、LST魚雷艇3隻を機動部隊と誤認、空母1隻撃沈と報告されたが、実際は魚雷艇1隻が沈んだのみであった。

11月8日(第二次ブーゲンビル島沖航空戦)

8日、偵察機がタロキナ沖に大型輸送船10、駆逐艦7、上空警戒機多数を発見した。輸送船団攻撃のため攻撃隊計97機が発進したが、輸送艦2隻を撃破したのみであった。また、モノ島西の艦隊を攻撃し、軽巡「バーミンガム」に魚雷1本を命中させ大破に追い込んだ。

11月11日(第三次ブーゲンビル島沖航空戦)

アメリカ軍では、第3艦隊を率いるハルゼーの増援要請が認められ、従来から攻撃に参加していた第38任務部隊に加えて空母3隻(「エセックス」、「バンカー・ヒル」、「インディペンデンス」)を擁する第50.3任務部隊が加わった。この日の早朝、両任務部隊はラバウルを空襲し、その後に陸上機70機も空襲を行なった。日本側は107機(67機という記述もあり)でこれを迎撃したが駆逐艦「涼波」が沈没し、軽巡「阿賀野」と駆逐艦2隻が損傷、戦闘機11機の被害を受けた。空襲は3時間に及んだ。

この直後、日本側は攻撃隊を出撃させた。計画では計106機となるはずであったが、空中集合に失敗し、第一航空戦隊の71機のみが攻撃に向かった。攻撃隊は11時42分、第50.3任務部隊を発見し攻撃を加えたが、戦闘機2機、艦爆17機、艦攻は14機全機を失った。攻撃隊は空母1中破、空母1大火災等の戦果を報じたが、実際の戦果は皆無だった。更に、陸攻11機、艦攻10を夜間攻撃に出撃させたが、陸攻5機のみが敵を捕捉して雷撃し、しかもその相手はメリル部隊で戦果は無かった。

この攻撃を最後として、12日、古賀長官はろ号作戦の中止を命じた。艦載機部隊は再編と搭乗員再養成のためトラックへ引き上げた。

結果

11月11日までに艦載機の消耗は70パーセントに達した(173機から52機まで減少)。搭乗員も約半数を失い、中でも中堅指揮官の消耗が多かった。機種別では艦爆は7機、艦攻は6機の残存であり、戦闘機に比較し極めて大きな損害を受けた。ただし、伊藤整一軍令部次長は搭乗員の3分の2を失っても作戦目的達成の為なら差し支えない旨を述べているという事情があった。

一方で、福留が意図した航空機と艦隊の連携策は、実際にはブーゲンビル島沖海戦に間に合わず、ただ艦船を空襲に晒すだけの結果に終わり、逆上陸支援の企図は潰えた。ただし、この後も12月3日の第6次ブーゲンビル島沖航空戦までブーゲンビル島方面への攻撃は行われ、4次以降は入れ替わりに内南洋方面配備の第二十二航空戦隊の第五五二航空隊と東北方面部隊の第二八一航空隊が増派され、ラバウルの航空兵力は艦上戦闘機66機、艦上爆撃機37機、艦上攻撃機22機、陸上攻撃機30機、夜間戦闘機2機、水上偵察機15機、陸上偵察機1-2機の合計約170機となった[3]

作戦中止から半月も経たない11月下旬より、軍令部情報部第五課が予測していた中部太平洋からの進攻がマキンの戦いタラワの戦いとして現実化した。この時、上記の消耗の為に機動部隊は投入不可能となっており、水上艦は重油問題は解消したものの、損傷艦が多数出ていたために出撃を見合わせた。結局、連合艦隊司令部が考えていた中部太平洋での決戦計画(Z作戦)は実行不能となり、有力な反撃が行なえなかった。基地航空部隊だけがギルバート諸島沖航空戦を展開して「大戦果」を報じたものの、これも誤報だったと見られる。

外山三郎はい号作戦が大成功であったと判断していた事、戦線が後退を続けているにもかかわらずラバウルに依然として価値を認めていることが本作戦の実施に繋がったと分析した。また、戦果の誤報も深刻であり、第五戦隊が在艦したラバウルの重巡「妙高」内ですら誤認は甚だしかった。それが誤りだったと判明するのは戦後になってからのことである。

脚注

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  1. ^ 以上、防御線の後退に関連する課題については
    大井篤『海上護衛戦』「10  絶対国防圏の戦略」他(初出1953年、以後数回に渡り出版社を変え再版)
  2. ^ 吉田俊雄 「第一章」内「中部太平洋」『四人の軍令部総長』文春文庫 ISBN 4-16-736004-7 (初出1988年、1991年文庫化)
  3. ^ 戦闘経過と増派までの数的記述は基本的に下記による。
    外山三郎「〔解説〕八の(一)」『図説 太平洋海戦史3』光人社 ISBN 4-7698-0711-2(1995年) P68~69

文献(基本的に上記以外)

関連項目