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アイタペの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

アイタペの戦い
ファイル:Battle of Driniumor River.jpg
戦争太平洋戦争/大東亜戦争
年月日:1944年7月10日~8月上旬
場所ニューギニア島アイタペ
結果:アメリカ・オーストラリアの勝利
交戦勢力
ファイル:Merchant flag of Japan (1870).svg 大日本帝国 ファイル:US flag 48 stars.svg アメリカ合衆国
ファイル:Flag of Australia.svg オーストラリア
指揮官
安達二十三 ウォルター・クルーガー
戦力
35,000 第32歩兵師団、第43歩兵師団
損害
戦死・戦病死13,000 戦死450名
戦傷2,550

アイタペの戦い(あいたぺのたたかい)は、太平洋戦争大東亜戦争)中のニューギニア戦線における日本軍アメリカオーストラリア軍との間の戦闘である。パプアニューギニア北岸のアイタペ東方において、1944年7月10日から同年8月上旬まで行われた。アメリカとオーストラリアの連合国軍側が勝利した。

目次

背景

日本陸軍第18軍(司令官:安達二十三中将)は、ニューギニア東部のウェワク地区に、指揮下の3個師団全てを初めて集結できて迎撃態勢を整えていた。ところが、1944年4月、連合国軍はウェワクを飛び越えて西進し、防備の弱いホーランジアに上陸すると占領してしまった(ホーランジアの戦い)。同時にウェワク西方200kmのアイタペにも連合国軍は上陸し、陸軍2000人と海軍200人の日本軍守備隊を壊滅させた[1]。第18軍は、連合国軍の後方に取り残され、戦略的な存在価値を失うこととなった。

そこで安達中将は、アイタペへの攻勢を実行することで連合国軍の戦力を引き付け、連合国軍の進撃を妨害する作戦を計画した。計画は猛作戦(もうさくせん)と命名された。しかし、上級部隊である第2方面軍司令官の阿南惟幾大将がこの計画を支持する一方で、大本営南方軍は第18軍が現地自給によって戦力を温存することを期待し、6月20日には、大本営は第18軍を第2方面軍指揮下から南方軍直属へ移し、「東部ニューギニア方面の要域に於いて自給を策し、以って全般の作戦遂行を用意ならしむべし」と命じて、積極行動の停止を促した[2]。ところが、補給の途絶えたウェワク地区では日本軍54000人(インド人部隊などを含む)と現地人15000人という人口を養うことは不可能と判断され、備蓄食料は定量の1/4支給でも2カ月分しかなかった[3]。こうした状況から第18軍は、激しさを増す連合軍の反攻作戦を牽制し、全般的戦局に影響を与えるためにも、絶望的な状況であっても食料の枯渇する前にアイタペ攻撃を敢えて実行することを決定した[4]

日本の第18軍は額面は3個師団を有したが、実戦力ははるかに低く、作戦成功は困難と予想されていた。第51師団ビスマルク海海戦ラエの戦いで、第20師団フィンシュハーフェンの戦いで損耗し、日常的な空襲艦砲射撃もあって、一定の戦闘能力を保持しているのは第41師団の一部のみであった。兵士はみな骨と皮の栄養失調者で、軍服は擦り切れ、軍靴は破れ、加えてほぼ全員がマラリア赤痢の既往症者であった。

アメリカ第6軍司令官ウォルター・クルーガー中将の指揮する連合国軍は、アイタペを占領したアメリカ軍の第32歩兵師団の一部および第112騎兵連隊戦闘団を、アイタペ=ウェワク間のドリニュモール川(日本軍呼称:坂東川。アイタペ東方30km)付近に布陣させていた。日本軍の攻撃計画を5月末に察知した第6軍は、第32歩兵師団の残部、第124連隊戦闘団(第31歩兵師団より抽出)、第43歩兵師団を順に急派するよう指示した。この増援部隊の到着によって、アイタペ周辺のアメリカ軍は合計で2個と3分の2師団の兵力に増強された[5]

経過

ファイル:HMAS Arunta bombarding Japanese positions.jpg
日本軍陣地に対し艦砲射撃をするオーストラリア駆逐艦アランタ(1944年7月)

1944年6月、日本軍は、ドリニュモール川河畔(日本軍呼称:川中島)での戦闘を予定し、前進を開始した。参加兵力35000人のうち20000人だけを戦闘要員として安達中将が率い、残る15000人(本来の輜重兵7000人のほか第41師団主力など)は物資輸送に充てられた[6]。しかし、作戦実施のための前線への物資輸送は全く進捗せず、自動車道路の構築も試みられたが、雨期のため実用不可能であり、大発などの各種舟艇を用いた海上輸送も航空機や魚雷艇の攻撃により、困難を極めた[7]。また連合国軍は、オーストラリア海軍重巡2隻と軽巡2隻を基幹とする第74任務部隊により、6月14日から24日にかけて日本軍の兵站線に艦砲射撃を行い、それと平行して激しい空襲も行われた。そのため、日本軍の物資前送や、後続部隊の移動はさらに困難となった。それでも、第20師団を先鋒に日本軍は前進し、アメリカ軍の前哨拠点を撃破しつつドリニュモール川まで10kmに迫った。

7月10日21時30分、物資集積が不十分なまま、日本軍はドリニュモール川の渡河攻撃を開始した。なけなしの砲弾による10分間の準備射撃の後、第20師団と歩兵第237連隊(第41師団所属)が河口から3km上流の渡河点を渡河し前進した。この時点で川沿いのアメリカ軍は3個大隊に過ぎず、日本軍は渡河点を守っていた第128連隊第2大隊の陣地を突破して、食糧などを鹵獲した。日本の歩兵第237連隊はアメリカ軍を海岸へ圧迫、第20師団は上流側に旋回して川沿いのアフア陣地を包囲した。緒戦の戦果に、第18軍司令部ではうまくいくかもしれないという期待が広がった。

7月13日以降アメリカ軍の増援は続々戦場へ到着し、河畔において両軍が激しい戦闘となった。日本軍の重火器はわずかに山砲20門程度であったのに対し、アメリカ軍を主力とする連合国軍は戦車や200門以上の火砲を有し、航空支援もあって優勢だった。15日にはアメリカ軍は渡河点を奪回し、日本の歩兵第237連隊は川向こうに取り残されてしまう。17日に日本軍は歩兵第239連隊で渡河点の再奪取を試みるが撃退され、歩兵第237連隊は22日までに壊滅状態となって対岸から撤退した。

日本軍は第41師団の後続部隊とアイタペ突入用の予備隊だった歩兵第66連隊を投入した。両部隊はジャングル内を南に大きく迂回して、8月1日からアフア陣地攻撃を開始したが、成功しなかった。

8月4日、日本軍の各歩兵連隊の戦力は100名以下にまで損耗していた。弾薬も食料も尽きた状態となり、安達中将は作戦中止を決定した。日本軍は撤退を開始し、8月10日頃までにドリニュモール川付近での戦闘は終わった。

結果

ファイル:Aust soldiers Wewak June 1945.jpg
ウェワク地区で日本軍陣地を攻撃するオーストラリア兵(1945年6月)

7月10日から8月5日までの戦闘で、日本軍は1万3000名が戦死した。アメリカ軍の戦死者は450名、戦傷者は2,550名であった[8]。安達中将はウェワクでの持久戦に方針を転換した。

これに対し、アメリカ軍と交代したオーストラリア軍は、オーストラリア第6師団を主力として追撃戦を行った。第6師団隷下の第19旅団はジャングル戦闘の専門訓練を受けていた[1]。日本軍に大規模な反撃を行う戦力は残っておらず、アレキサンダー山脈に後退しつつ、小部隊による夜襲を反復して応戦した。オーストラリア軍の追撃戦は終戦まで続いた。食糧不足と病気により日本軍将兵は次々と死亡し、終戦頃の第18軍所属将兵の生存者は、第20師団が約1700人、第41師団が1200人、第51師団は4300人、その他を合計して約13000人だった[9]。追撃戦におけるオーストラリア軍の損害も死傷1600人に上り、戦略的に無意味な損害として士気の低下を招いた。

注記

  1. ^ 陸軍は、第20師団の補充員450人から編成のアイタペ警備隊(2個中隊)ほか、第54兵站地区隊アイタペ支部や第3揚陸隊主力など兵站部隊、航空部隊の地上要員。海軍は第27特別根拠地隊の一部。
  2. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 南太平洋陸軍作戦(5)―アイタペ・プリアカ・ラバウル―』(朝雲新聞社、1975年)、94-98頁。
  3. ^ 伊藤 p.250。ただしガダルカナル島の戦いの戦訓を生かせば、さらに若干の期間は生存可能と思われていたという。
  4. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 南太平洋陸軍作戦(5)―アイタペ・プリアカ・ラバウル―』(朝雲新聞社、1975年)、126-129頁。
  5. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 南太平洋陸軍作戦(5)―アイタペ・プリアカ・ラバウル―』(朝雲新聞社、1975年)、134頁。
  6. ^ 伊藤 P.253。
  7. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 南太平洋陸軍作戦(5)―アイタペ・プリアカ・ラバウル―』(朝雲新聞社、1975年)、111-112頁。
  8. ^ 『戦史叢書 南太平洋陸軍作戦(5)』224頁によると、本作戦による第18軍損害は約9000名である。
  9. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 南太平洋陸軍作戦(5)―アイタペ・プリアカ・ラバウル―』(朝雲新聞社、1975年)、421頁。

参考資料