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アレックス・ラミレス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

アレックス・ラミレス
Alex Ramirez
横浜DeNAベイスターズ #3
ファイル:YG-Alex-Ramirez.jpg
巨人時代(2009年8月18日、東京ドーム)
基本情報
国籍 ファイル:Flag of Venezuela (state).svg ベネズエラ
出身地 ファイル:Flag of Venezuela (state).svg カラカス
生年月日 1974年10月3日(37歳)
身長
体重
180cm
100kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 左翼手
プロ入り 1991年
初出場 MLB / 1998年9月19日
NPB / 2001年3月30日
年俸 3億5,000万円(2012年)
※2012年から2年契約
経歴(括弧内は在籍年)

アレキサンダー・ラモン・ラミレスAlexander Ramon Ramirez , 1974年10月3日 - ) は、横浜DeNAベイスターズに所属するプロ野球選手外野手)。愛称はラミちゃん

目次

来歴・人物

プロ入り前

実家はベネズエラの首都・カラカス近郊の「ピニャンゴ・デ・ジャレ」という小さな町にある。当地の人口は約200人で、うち3/4ほどがラミレスの一族だという[1]

ラミレスは5歳のときに兄の影響で野球を始め、8歳のときに地元のリトルリーグの監督にスカウトされ、15歳になると本格的に野球選手を目指すため学校を退学。当時は主に投手を務めていたが、18歳のとき[2]にベネズエラの国内選手権に出場した際にたまたま外野手として試合に出ていたところをクリーブランド・インディアンズのスカウトの目に留まりチームと契約する[3]1994年2月に現在の夫人と結婚[4]

MLB時代

1998年にメジャーに昇格し、2000年にはウィル・コルデロとのトレードピッツバーグ・パイレーツに移籍。しかしパイレーツへの移籍直後は好調だったものの、8月に入るとスランプに陥りスタメンから外されるようになる。ラミレスによれば「打撃コーチ(ロイド・マクレンドン)に打席でのスタンスを変えるよう指示されそれに従ったところスランプに陥ったため、コーチに『スタンスを元に戻したい』と言ったら、次の日からスタメンを外された」という[5]

ヤクルト時代

2001年ヤクルトスワローズに入団。当時ラミレスはフロリダで家と車を購入したばかりでそのローンが残っていたため、当初は「1年だけ日本で金を稼いでローンを返済したらすぐに戻ってくる」つもりだったという[6]。1年目から打率.280、29本塁打、88打点の好成績を残し、主に7番・左翼手としてチームのリーグ優勝・日本一に貢献。ちなみに当初チームと結んだ契約では5番・右翼手での出場を確約されていたが、キャンプ初日に当時のヤクルトで右翼手のレギュラーだった稲葉篤紀の守備を見て「自分は彼(稲葉)には勝てない」と感じて左翼手に転向したとのこと[7]

2003年は移籍したロベルト・ペタジーニに替わって4番に座り、打率.333、40本塁打、124打点で打点王・本塁打王・最多安打・ベストナインの各タイトルを獲得。

2004年8月21日の対阪神戦(明治神宮野球場)では、トレイ・ホッジスから1回2死にランニングホームランを放った。これは阪神の右翼手・桧山進次郎が詰まり気味の右前打にバウンドを合わせ損ね、球が右翼線に転がる間に一気に本塁を陥れたものであった。終盤には代理人の意向もあって移籍が取り沙汰されたが、本人の希望もあってチームに残留。その際、義理の息子であるアレックス・ラミレス・ジュニアの入団が決め手となった。

2006年は26本塁打、112打点を記録するものの、636打席で19四球であり、出塁率.289は両リーグで最低だった。

2007年10月4日の対横浜21回戦(明治神宮野球場)において、外国人選手・右打者としては史上初のシーズン200本安打を達成、打率も.343をマークした。最終的には204安打を記録し、2010年マット・マートンが破るまでセ・リーグ歴代最多記録であった。しかし、シーズン終了後に球団側との契約の折り合いがつかずに退団が決まり、11月30日に自由契約公示。同年12月29日読売ジャイアンツへの入団が正式に発表された。巨人初のビデオレターによる入団会見となり、会見では「このチーム(巨人)に足りないものを加えに来た」とコメントした。

巨人移籍への背景

2005年からの3年契約を結んでいたヤクルト球団とラミレスだが、2005年・06年の成績は推定3億円の年俸に見合った成績とは言い切れなかった。しかし、2007年は打撃スタイルの変化によって外国人右打者初の200本安打、セントラル・リーグの最多安打記録(当時)を更新したが、球団側はこの記録でもラミレスとの交渉に消極的だった。シーズン終了後、球団側からラミレス側への残留要請が行われたが、提示された条件は契約年数1年、推定年俸4億円というラミレス側の希望とはかけ離れたものであった。7年在籍した球団に対する彼の希望は、高年俸ではなく契約年数で、ラミレスは球団側が複数年契約を認めればヤクルトに残留する選択も考えていた。実際、ラミレスは後に「現状維持の2年契約の提示があれば残留していた」と記している[8]が、最終的に球団側は複数年契約を提示しなかったため、ヤクルトを退団することとなった。

自由契約となったラミレスに対し、右の大砲を探していた巨人とオリックス・バファローズが獲得を検討していたが、オリックスはアレックス・カブレラを獲得したため、巨人が獲得した。推定年俸は5億円(契約年数2年、総額10億円)。ラミレスは以前から「巨人では外国人選手が大変な思いをしている」と聞かされていたため、巨人は一番行きたくないチームだったが[9]、巨人がラミレス自身が希望する複数年契約を提示したことに加え、ラミレス自身が原辰徳の指揮に以前から興味を持っていたこともあって巨人入りを決めたという[10]

巨人時代

2008年は開幕から5番打者としてシーズンを迎えたが、開幕から結果を残したことと、4番候補のイ・スンヨプ高橋由伸の不振により、主に4番で起用されるようになった。前年の高打率を維持しながら長打力も発揮し、45本塁打、125打点で2年連続3度目の打点王を獲得。2008年のセ・リーグ最優秀選手に選ばれた。指名打者制の試合では主に指名打者として起用されていたが、日本シリーズの第4・5戦はで阿部慎之助が負傷して指名打者で出場したため左翼手として出場した。この年にフリーエージェント資格を取得したため、2009年から外国人枠を外れて日本人扱いとなった。

2009年は144試合全てで4番に座り、前年に続く活躍。3割30本100打点を達成したほか、打率.322で自身初の首位打者と3度目の最多安打を獲得。チームの3連覇に貢献し、2年連続の最優秀選手に選ばれた。シーズン通しての調子の波も少なく、6月以外の月間打率は全て3割以上だった。同年の日本シリーズで、観戦に来た小笠原道大の娘にファールボールを当ててしまうが、翌日「ゴメンナサイ」と書いた自身のサインボールを小笠原に渡した[11]

2010年4月、孫のD・J・ラミレスが誕生(夫人の連れ子であるアレックス・ラミレス・ジュニアの子)。好不調の波が少なかった過去2年と違ってシーズン当初は低打率に苦しんだが、その中でも得点圏においては勝負強い打撃を見せ、本塁打と打点を量産。夏場に入ると一気に調子を上げて打率も向上させ、最終的に打率.304、49本塁打、129打点で二冠王に輝いた。しかし、首位打者の青木宣親(ヤクルト)、シーズンMVPの和田一浩中日)、シーズン安打数の日本新記録を挙げたマット・マートン(阪神)の3人に阻まれ、ベストナインには選出されなかった。打撃二冠のタイトルを獲得しながらベストナインに選ばれなかったのは、1960年の藤本勝巳に次いで二人目である。

2011年5月1日、4番としての連続先発出場記録を416試合として、松井秀喜が持つ415試合を抜き、巨人軍新記録を達成する。しかし7月13日の対阪神戦で受けた死球の影響で、翌日の7月14日に先発から外れ、長野久義が4番で先発出場し、記録は469試合で途切れた。代打で途中出場したため連続試合出場は続いたが、翌日の試合では途中出場もなかったため、連続試合出場は985試合で止まった。この記録は外国人選手としては歴代最長記録となった[12]。8月5日、3回表に内野安打を放ち、NPB通算1793安打を記録。タフィ・ローズの1792安打を越え、歴代外国人選手の通算最多安打記録を更新した[13]。シーズン成績は、打率(.278)が巨人入団以来初めて3割を切り、打点(73)は連続100打点が8年で止まり、来日以来最低の数字となった。本塁打数(23)も来日以来最低の数字となり、打撃三部門で来日以来最低の記録となった。但し、本塁打数はリーグ2位である。これは「飛ばないボール」に変わったこともあり、セ・リーグの選手全体の本塁打数も減少したため、本塁打数に関しては決して不振とは言える数字ではなかった(最多は、ウラディミール・バレンティン(ヤクルト)の31本)。指揮官の起用面を配慮し契約最終年となる今年、10月31日の同年のクライマックスシリーズ・ファーストステージ終了を以て、正式に退団を表明した。12月8日、横浜DeNAベイスターズが獲得を発表した[14]

選手としての特徴

首位打者を1度、本塁打王を2度、打点王を4度、最多安打を3度獲得するなど打撃に優れている。早打ちの傾向があり[15]、2007年の初球打ちの打率は5割を超えたが、それゆえに四球が非常に少ない。三振数も多く、来日から7年連続100三振以上を記録している。しかし巨人移籍後は出場試合が多いながらも全てのシーズンで100を下回っており長距離打者としては少ない部類になっている。

来日当初は典型的なプルヒッターだったが、近年はボールを手元まで呼び込んで外角球を捌くことができるようになった[16]。追い込まれると右方向に流し打つ柔軟さも兼ね備える[17]。球種的な弱点も少なく[18]、巨人移籍以降2010年までの通算得点圏打率.347とチャンスに強い他、同じく通算対左打率.337と左投手にも強い。

走塁面では盗塁数が少なくベースランニングで手を抜くことが多いが、右打者ながら一塁到達4.2秒台前半を記録するなど足が特別遅いという訳ではない[17]。200安打を達成した2007年には22本の内野安打を記録しており、200本安打を達成した際の安打も三塁手への内野安打であった。

守備では主に左翼を守っているが、守備範囲は非常に狭く、2010年には得点換算で両リーグワーストの数値を記録[19]。同じく刺殺150は規定試合以上の外野手では守備固めでの起用が主だった藤川俊介に次いでリーグワースト2位を記録。失策も多く、2008年から2010年まで3年連続で両リーグの外野手でワーストの守備率を記録している。また、本人曰く「日本に来るまで外野は右翼しか守ったことがなかった」こともあり(前述しているように、ヤクルトとは当初右翼手として契約している)、試合終盤で自チームがリードしている局面では守備固め要員を送られるケースが多い。守備能力の問題については本人も自覚しており、著書でも「日本に来たら、外野手はほとんどみんな、僕よりうまいんだ」と記している[20]。パ・リーグ主催分の交流戦や日本シリーズでは、主に指名打者として出場している。

故障をせず、長期離脱したことがほとんどない。2004年8月8日以降、2011年7月15日に欠場するまで全試合に出場。日本の外国人枠選手の連続出場試合記録(985試合連続出場)、日本人選手を含めても歴代8位の記録を保持している。

人物

「試合を支配する要素の70%はメンタリティー、残り30%がフィジカル」との考え方を持っている[21]。またメンタリティーの強化のためには「相手を研究し準備する」ことが不可欠であると考えており、そのためシーズン中は試合前に過去の試合のDVDを、試合後にはその日の自分の打席のDVDを観ることを日課にしている[22]。過去のDVDを観る際は主に「得点圏にランナーがいるときのバッテリーの配球」に主眼を置くとのことで[23]、特に日本に来てからは、捕手が配球の主導権を握る日本野球のスタイルに合わせ「捕手を中心に研究する」ようになったとのことである[24]。そのような自らの意識から「日本の選手はフィジカル面ばかりでなく、もう少しメンタリティーに重きを置いてもいいのではないか」とも感じているという[25]

パフォーマンス

本塁打を打った際やヒーローインタビューの際に、パフォーマンスを行うことで知られている。

本塁打ではダッグアウト前でチームメイトとハイタッチを交わした後、ベンチ脇のテレビカメラ前でコミカルなアクションを披露する。特にホームゲームでは、球団マスコット(ヤクルト:つば九郎、巨人:ジャビット)とコンビでアクションを行うほか、本塁打や適時打でチームに貢献した場合、直後に守備に就く際にもファンの声援に応え、パフォーマンスを交えてお辞儀や敬礼で感謝の意を伝えている。

パフォーマンスには毎年モデルチェンジが加えられ、近年はシーズン前にファンからパフォーマンス内容を募集している。下記にこれまでラミレスが行ってきた主なパフォーマンスの基本フォーマットを示す(括弧内はパフォーマンスの元ネタを演じているお笑い芸人)。またヒーローインタビューなどの際にパフォーマンスを行う際、開始前に「1、2、3(イチ、ニー、サン)」と日本語によるカウントアップを行うことがある。

ラミレスによれば、元々はキャンプ中にロッカールームで選手数人が互いに「アイーン」をやって遊んでいたのを目撃した際に、当時の同僚だった度会博文から「お前もやってみろ」と言われて、その日の練習中に数人の子供の前でやってみたところ好評だったのがきっかけだという。メジャーリーグでは選手が試合中にパフォーマンスを行うことは相手選手を挑発しているように取られかねなかったため、通訳などに相談したところ「日本では問題ない」と言われたので、積極的にパフォーマンスを行うようになったとのこと[26]。その後もパフォーマンスを続けている理由としては、「野球のことをよく知らない小さな子供が『アイーン』『ゲッツ』として自分のことを覚えてくれるのが嬉しい」ことを挙げている[27]

  • 2001年・2002年
    1. 「アイーン」と右肘を前方にかざす(志村けん)。
  • 2003年
    1. 「アイーン」(志村けん)
    2. 「ゲッツ」と両人差し指で前方を指し、そのままカメラからフレームアウトする(ダンディ坂野)。
    5月28日の対広島東洋カープ戦の試合前、クラブハウスでダンディ本人と対面。取材陣の前で共演を果たした。
  • 2004年
    1. 「ラミちゃんペッ」と鼻に右人差し指・中指を当てる(加藤茶の「カトちゃんペッ」)。
    2. 「アイーン」(志村けん)
    3. 「ゲッツ」、そしてフレームアウト(ダンディ坂野)。
    この年から、球団ウェブサイトなどでのパフォーマンスアイデア募集がスタート。約300通のうち11通寄せられた「ラミちゃんペッ」が採用された。浦添春季キャンプでは加藤から直々にレクチャーを受け、4月3日の対横浜ベイスターズ2回戦で初披露。ヒーローインタビューでは初回限定でハゲヅラと眼鏡、付け髭を着用して加藤に扮した。
    この試合でエディ・ギャラードから決勝本塁打を放ったが、三塁を回る際に嬉しさの余り、三塁側の横浜ベンチに向かって「ペッ」のジェスチャーをして見せた。これが横浜側から「挑発的」と指摘されたため、翌日「あれはやり過ぎた。もうあんな真似はしない」と謝罪するおまけも付いた。
  • 2005年
    「ラミちゃんペッ」「アイーン」「ゲッツ」を使用した他、下記のパフォーマンスもレパートリーとなっていた。
    1. 「俺の時代だ!」と自分を指す。
    2. 「ハイ! ハイ! ハイ、ハイ、ハイ!」と、左隣の人の肩に両手を添えながら足踏み(レギュラー)。
  • 2006年
    1. 「ラミちゃんチッチキチー」と親指をカメラ前に差し出す(大木こだま)。
    2. 「ペッ」と鼻に人差し指・中指を当てる(加藤茶)。ただし、これは省略されることが多かった。
    3. 「アイーン」(志村けん)
    4. 「ゲッツ」、そしてフレームアウト(ダンディ坂野)。
    浦添春季キャンプ期間中の2月11日に番組企画で大木こだま・ひびきと対面し、直々にレクチャーを受け「こんなに上手く出来る人はおらん」と太鼓判を頂戴した。
  • 2007年
    1. 「ラミちゃん」と自分の顔を指す。
    2. 「カッチカチ」と左二の腕に力瘤を作り、右の拳で2度叩く(ザブングル加藤歩の「見ろや、この筋肉!カッチカチやぞ!」)。
    3. 「アイーン」(志村けん)
    4. 「ゲッツ」、そしてフレームアウト(ダンディ坂野)。
    5月10日の対横浜ベイスターズ戦の試合前、ザブングルの両名と対面を果たし、加藤らと取材陣の前でパフォーマンスを共演した。
  • 2008年(この年から読売ジャイアンツに所属)
    • 巨人がリードしている場面で本塁打を打った際のパフォーマンス。
    1. 「そんなの関係ない!」と右拳を地面へ振り下ろし、さらに「はい、オッパッピー!」と両手を広げる(小島よしお)。
    2. 「ゲッツ」、そしてフレームアウト(ダンディ坂野)。
    「そんなの関係ない!」は、本来は「そんなの関係ねぇ!」だが、ラミレスは「子供たちへの影響も考え、丁寧な言葉にした」としている。
    • 相手チームにリードを許している場面で本塁打を打った際のパフォーマンス
    1. 「ラララライ! ラララライ!」と両腕を上下させながら足踏み(藤崎マーケット)。
    2. 「ゲッツ」、そしてフレームアウト(ダンディ坂野)。
    前年の離日前、宮本慎也からお笑い芸人のネタを複数収録したDVDをプレゼントされ、これらを元にキャンプ、オープン戦の間にアイディアを練り続けた。さらにヤクルト時代に引き続き、2月下旬には球団Webサイトでパフォーマンスのアイディア募集を実施し、約600通のアイディアが寄せられた。またこの間、多くの有名人から本人直々にパフォーマンスの売込みもあったが、主なものは「どげんかせんといかん」(東国原英夫)、スキップするように横向きに走る「欽ちゃん走り」(萩本欽一)。
    欽ちゃん走りについては萩本本人と、東京ドームで初本塁打を打った折に本塁からダッグアウトに戻る際に披露すると約束を交わした(この欽ちゃん走りは4月18日の対東京ヤクルトスワローズ5回戦で、移籍後東京ドーム初となる3号3ラン本塁打を放った際に披露して公約を果たした)。
    こうして検討を進めた結果、ラミレスは同年のパフォーマンスを2本立てで行うことを決め、3月16日に東京ドームで行われたオープン戦前のファンイベントで発表した。まず巨人がリードしている場面でのパフォーマンスには「そんなの関係ねぇ!」を採用。「リードしていても気を抜かずに戦っていこう」という意味合いを持つ。一方、追う展開でのパフォーマンスには「ラララライ体操」を採用。「みんなでテンションを上げていきたい」とチームを鼓舞する気持ちが込められている。また、お立ち台ではこの2本をミックスしたパフォーマンスを行っている。蛇足だが、そもそもラミレスが1月25日に来日した際、当初から今季のパフォーマンス候補としていたのがこの2本であった。
    なお、小島は7月1日の対東京ヤクルトスワローズ戦を観戦した際、同日2本塁打を放ったラミレスの「オッパッピー」に対し「動き的に物足りない」と辛辣な評価を下した。これを試合後に伝え聞いたラミレスは「時間に限りがあるし、物足りないのは分かっている」と釈明している。藤崎マーケットは、球団側から所属事務所を通じて「ラララライ体操」の使用許可を求められ、快諾したと語っている(テレビ朝日系『アメトーーク』にて)。
  • 2009年
    1. 「ら!み!」と、茶道のように茶碗を回すジェスチャーをする。
    2. 「茶!」と、茶を飲み干すジェスチャーをする。
    3. 「ゲッツ」、そしてフレームアウト(ダンディ坂野)。
    2月の宮崎春季キャンプの期間中には例年通りパフォーマンスのアイディア募集も行われた。宮崎市立大塚中学校では、野球部に所属していた男子生徒が、お祭りのお囃子にあわせるような見事なパフォーマンスアイデアを考え、ラミレスは気に入っていたが、ラミレス自身は前年フリーエージェントの資格を得たため、同年から選手登録が日本人扱いとなるのにちなんで、「和」の要素を取り入れたいと考えていた。
    そんな折のキャンプ休日、ラミレスは宮崎学園中学校・高等学校の生徒の手解きで茶道を体験した。この席上、茶道部所属のある女子生徒から「今年のパフォーマンスに、茶道を取り入れてほしい」とリクエストされたのを受け、ラミレスは茶道の作法をアレンジした『らみ茶ゲッツ』を考案した。
    9月8日の対横浜ベイスターズ戦では、始球式を務めた加藤茶と再会して談笑。試合前、加藤と往年のパフォーマンス復活を約束したラミレスは本塁打を放ち、約束通りカメラ前で「ラミちゃんペッ」を「この夜限りのスペシャルバージョン」(本人談)として披露した。
  • 2010年
    • ジャイアンツ主催試合で本塁打を打った際のパフォーマンス
    1. ジャビットからこん棒を受け取ると、2人で剣道のジェスチャーを始め「面!小手!胴!」と打突の所作を真似る。
    2. 「ゲッツ」、そしてフレームアウト(ダンディ坂野)。
    • ビジターの試合で本塁打を打った際のパフォーマンス(主催試合でも行うことがある)
    1. 右拳を下から突き上げるようにガッツポーズし「ヨロコンデー!」と叫ぶ。
    2. 「ゲッツ」、そしてフレームアウト(ダンディ坂野)。
    ラミレスは前年に続き、和のテイストを含むパフォーマンスを考案した。前年同様2月の春季キャンプ休日、宮崎学園高等学校の生徒との交流で剣道を体験し、席上で剣道部所属のある男子生徒から「剣道を使ったパフォーマンスをやってほしい」とリクエストされた。この話題がニュースなどで取り上げられたこともあって、直後に球団が行ったアイディア募集でも剣道に関する反響が多かったという。ラミレス自身も「宮崎で剣道を見学した時『素晴らしいパフォーマンスになる』と確信した」と語っている。
    一方「ヨロコンデー」は、キャンプ期間に行きつけにしている宮崎市内の寿司店で、板前がオーダーを受ける際に「喜んで」と笑顔で答える姿を基に発案したもの。「ファンのみんなと勝利の喜びを分かち合いたい」という願いが込められている。同年は自身のサインにもローマ字で「YOROKONDE!!」と書き入れている他、試合後のヒーローインタビューでも「ヨロコンデー」のパフォーマンスを行っている。
    巨人ではこの「ヨロコンデー」の掛け声に引っ掛け、抽選で選ばれた100人のファンがラミレスと交流するイベント「ヨロコンデー」を毎月5日(5月から8月まで)に計4回実施した。これはラミレスが「できるだけ多くのファンとふれあいたい」と自ら発案したイベントで、サインや写真撮影などでファンとの交流を楽しんだ。
  • 2011年
    1. 「We are one!」と手話を交えてメッセージを送る。
    2. 「がんばろう!日本」とガッツポーズを交え、人差し指を立ててアピール。
    3. 「ゲッツ」、そしてフレームアウト(ダンディ坂野)。
    ラミレスはこれまでと同様、宮崎春季キャンプの休日には宮崎学園高等学校の生徒との交流でパフォーマンスのプレゼンテーションを受けるなどしてアイディアを練っていた。しかし3月11日に発生した東日本大震災を受けてコミカルなパフォーマンスを自粛し、被災者へのメッセージを込めたパフォーマンスを考案した。手話を取り入れたのは、震災報道のテレビ画面の手話通訳を見た夫人が「耳の聞こえない被災者だっている」と助言したのがきっかけである。「がんばろう!日本」で人差し指を立てるジェスチャーには「僕たちは一人じゃないんだよ、と伝えたい」というラミレスの思いが込められている[28]

これらパフォーマンスの中でも特に「アイーン」と「ゲッツ」を気に入っており、2003年以降、パフォーマンスの締めには「アイーン」「ゲッツ」が使用されている。またアンダーシャツやグラブ、打撃グラブ、リストバンドなど用具類にも「アイーン」「Get's」「ラララライ」「らみ茶」などの刺繍を入れている。

略歴

  • 1974年ベネズエラの首都カラカスで生まれる。
  • 1992年クリーブランド・インディアンスと契約。
  • 1998年、メジャー昇格。
  • 2000年、シーズン途中にピッツバーグ・パイレーツに移籍。この年は主力の怪我が多く、メジャーで初めての4番打者も経験する。
  • 2001年、ヤクルトスワローズに入団。
  • 2002年、前年度同様、主に6番以降を打つ。
  • 2003年、打率.333、40本塁打、124打点と惜しくも三冠王は逃すものの、来日以来最高の成績を残す。
  • 2006年9月16日の試合で、プロ野球史上5人目の4年連続100打点を記録した。
  • 2007年
    • 4月21日の対中日ドラゴンズ戦で、外国人選手としては球団史上初の1000本安打を達成した。
    • 7月から9月まで連続で月間MVPを受賞。3か月連続はプロ野球史上初。
    • 8月19日の対読売ジャイアンツ戦で、金刃憲人からソロホームランを放ち、外国人選手としては球団史上初の200号本塁打を達成した。
    • 9月14日の対横浜ベイスターズ戦で、山口俊から2点タイムリーを放ち、史上3人目、外国人選手では初の5年連続100打点を達成した。
    • 9月25日の対広島東洋カープ戦で、連続試合出場を473試合とした。これは外国人選手としては歴代1位の記録である。
    • 9月27日の対広島戦で、シーズン24度目の猛打賞を記録。前田智徳が持っていたセ・リーグのシーズン最多猛打賞記録を塗りかえた。また、この試合で安打数を195まで伸ばし、ロバート・ローズが持っていたシーズン右打者最多安打記録も更新した。
    • 10月4日の対横浜戦で、三橋直樹からサード強襲の内野安打を放ち、史上3人目、また外国人選手、右打者としては史上初のシーズン200本安打を記録した。
    • 10月8日の対横浜戦で、青木宣親のセ・リーグ記録を塗り替えるシーズン203安打を記録。さらに翌日の対広島シーズン最終戦で1安打を追加し、204本に記録を更新した。しかし首位打者のタイトルはこの年まで同僚の青木宣親が獲得している。200本安打を放ちながら首位打者を逃したのは両リーグ通じて初めてである。
  • 2008年
    • 3月28日の対東京ヤクルトスワローズ1回戦で、「全球団から本塁打」を達成。
    • 5月3日の対東京ヤクルト戦から6月4日の対オリックス・バファローズ戦まで、巨人の球団歴代2位、外国人枠選手としては球団新記録となる27試合連続安打を記録した。
    • 5月7日対阪神戦(東京ドーム)で左中間へオーバーフェンスの打球を打ったが、阪神ファンがフェンスより前で手で叩き落とした為、二塁打と判定された。
    • 5月8日の対阪神戦で来日から8年連続2桁本塁打を達成。この試合のホームラン談話で「今日は阪神ファンがいないところ(バックスクリーン)に打ったよ」とコメントした。
    • 9月3日の対広島戦で王貞治以来プロ野球史上2人目の6年連続100打点を達成した。
    • 9月17日の対横浜戦でプロ野球53人目の通算250本塁打を達成した。
    • 9月21日の対阪神戦でスコット・アッチソンから通算1338本目の安打を放ち、与那嶺要が持つセ・リーグの外国人最多安打記録を更新した。
    • 10月25日クライマックスシリーズでの第二ステージでの対中日戦での同点の場面から中日の高橋聡文から決勝2ランホームランを放ち6対2で巨人が中日ドラゴンズを下して勝利をしアドバンテージ含む3勝1敗1分けでクライマックスシリーズでの第二ステージを制し、2001年以来の日本シリーズ出場となり、クライマックスシリーズのMVPを受賞した。
    • 埼玉西武ライオンズとの日本シリーズでは7試合シリーズでの個人最多となる併殺4を記録してしまうなど不調のときもあったが、第2戦ではサヨナラ本塁打を放つなど随所での活躍を見せ、日本シリーズ敢闘選手賞を獲得した。
    • シーズンを通じて活躍し、自己最高の本塁打、打点、出塁率、長打率、OPSを記録した。そして来日して初めて三振が2桁で収まったシーズンでもあった。
  • 2009年
    • 8月26日の対中日戦で川井雄太から1500本目の安打を放つ。
    • 8月30日の対阪神戦で下柳剛からシーズン150本目の安打を放つ。これにより8年連続150本安打のプロ野球新記録を樹立した。
    • 9月30日の対中日戦で7年連続100打点を達成した。これは王貞治と並び、日本プロ野球タイ記録。
  • 2010年
    • 8月26日の対中日戦で8年連続100打点を達成した。これは王貞治を抜き、日本プロ野球新記録。
    • 10月9日の最終戦、対ヤクルト戦で自己最多の49号を放つ。セ・リーグでは2002年の松井秀喜以来の50号には届かなかったものの、最終的に49本塁打と129打点で2003年以来2度目の本塁打王と打点王の二冠王が決定した。
  • 2011年
    • 5月1日の対横浜戦で、4番としての連続先発出場記録を416試合として、巨人軍新記録を達成した。

判定

  • 以下のような「疑惑の判定」に絡んだことがある。
  1. 2001年8月16日 横浜戦(神宮) 12回表、佐伯貴弘の打球をダイレクト捕球したと判定されるも、横浜側がワンバウンドで捕球したと抗議し中断、森祇晶監督が退場処分。
  2. 2008年5月7日 阪神戦(東京D) 7回裏、レフトスタンド際のオーバーフェンスの打球を阪神ファンの男性が叩き落とし、結果的に二塁打となった。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1998 CLE 3881100010000000030.125.125.125.250
1999 4810297112961346181110301261.299.327.474.801
2000 41117112133251554121000500173.286.316.482.798
PIT 43123115132461444181010720326.209.254.383.637
'00計 8424022726561129983020101220499.247.285.432.716
2001 ヤクルト 1385475106014323029253881205270513211.280.320.496.816
2002 1395695396515925024256920404226414610.295.325.475.800
2003 140614567105189343403491244607346610414.333.373.616.988
2004 12955752579160302312871102002231711822.305.341.547.888
2005 14662959670168191322851045103235712113.282.315.478.793
2006 146636603791612822627111200010191410428.267.289.449.739
2007 14462859480204413293381220005233610614.343.371.569.940
2008 巨人 14460054884175280453381251003399109020.319.373.617.990
2009 1446085776618635031314103430621448812.322.347.544.891
2010 14460656693172280493471291207211129814.304.338.613.951
2011 13751547739133121232167321053013729.279.322.453.775
MLB:3年 13535033238861731214548312015217810.259.293.437.730
NPB:11年 15516509610282018503031235932541182201905728237681179167.303.338.533.871
  • 2011年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績


外野
試合刺殺補殺失策併殺守備率
2001137176960.969
2002139227940.983
20031402201062.975
2004129175841.979
2005146218631.987
2006134205850.977
2007132184420.989
2008134171240.977
2009133147260.961
2010132150540.975
2011120119330.976
通算 1476199266474.978
  • 2011年度シーズン終了時

タイトル

表彰

記録

初記録
節目の記録
  • 100本塁打:2004年6月15日、対読売ジャイアンツ10回戦(明治神宮野球場)、9回裏に岡島秀樹から ※史上234人目
  • 150本塁打:2005年8月19日、対阪神タイガース15回戦(明治神宮野球場)、1回裏に下柳剛から ※史上137人目
  • 1000本安打:2007年4月21日、対中日ドラゴンズ5回戦(明治神宮野球場)、3回裏に吉見一起から左前安打 ※史上244人目
  • 200本塁打:2007年8月19日、対読売ジャイアンツ8回戦(東京ドーム)、4回表に金刃憲人から ※史上89人目
  • 1000試合出場:2008年4月18日、対広島東洋カープ1回戦(広島市民球場)、5番・左翼手として先発出場 ※史上425人目
  • 250本塁打:2008年9月17日、対横浜ベイスターズ22回戦(横浜スタジアム)、3回表に三浦大輔からソロ ※史上53人目
  • 1500本安打:2009年8月26日、対中日ドラゴンズ17回戦(ナゴヤドーム)、5回表に川井雄太から中前安打 ※史上104人目
  • 1000三振:2009年9月20日、対東京ヤクルトスワローズ22回戦(明治神宮野球場)、2回表に由規から ※史上47人目
  • 日米通算300本塁打:2010年4月1日、対横浜ベイスターズ3回戦(横浜スタジアム)、2回表にスティーブン・ランドルフから左越満塁本塁打
  • 1000打点:2010年4月10日、対中日ドラゴンズ2回戦(東京ドーム)、8回裏に鈴木義広から左越満塁本塁打を放ち達成 ※史上37人目
  • 300本塁打:2010年5月15日、対千葉ロッテマリーンズ1回戦(東京ドーム)、5回裏に成瀬善久からソロ ※史上36人目
  • 3000塁打:2010年9月19日、対阪神タイガース21回戦(阪神甲子園球場)、4回表に福原忍から中前安打 ※史上70人目
  • 日米通算350本塁打:2011年4月15日、対広島東洋カープ1回戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)、1回表にディオーニ・ソリアーノから左越3ラン本塁打
  • 1500試合出場:2011年8月14日、対広島東洋カープ15回戦(東京ドーム)、4番・左翼手として先発出場 ※史上170人目
  • 350本塁打:2011年8月24日、対阪神タイガース17回戦(東京ドーム)、4回裏に能見篤史から中越ソロ ※史上26人目
その他の記録
 日付対戦球団球場相手投手
12001年4月4日巨人2回戦明治神宮野球場4回裏高橋尚成
24月6日中日1回戦明治神宮野球場9回裏紀藤真琴
34月12日阪神3回戦阪神甲子園球場4回表バディ・カーライル
44月13日広島1回戦広島市民球場2回表黒田博樹
55月12日横浜6回戦宮城球場6回裏木塚敦志
62005年5月9日ソフトバンク3回戦明治神宮野球場6回裏倉野信次
75月11日日本ハム2回戦明治神宮野球場4回裏岩本勉
85月17日楽天1回戦フルキャストスタジアム宮城4回表山村宏樹
95月21日オリックス2回戦明治神宮野球場5回裏光原逸裕
106月7日西武3回戦インボイスSEIBUドーム7回表長田秀一郎
112006年6月16日ロッテ4回戦明治神宮野球場4回裏小林宏之
122008年3月28日ヤクルト1回戦明治神宮野球場2回表石川雅規

背番号

  • 61 (1998年 - 2000年)
  • 3 (2001年 - 2007年, 2012年 - )
  • 5 (2008年 - 2011年)

関連情報

著書

関連項目

脚注

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  1. ^ 『ラミ流』p.141
  2. ^ 『ラミ流』p.159では「16歳のとき」とされている。ただし同ページには「1年後の1993年にルーキーリーグでデビュー」との記述もあるため、本記事ではそちらを基準とした。
  3. ^ 『ラミ流』pp.146 - 159
  4. ^ 『ラミ流』p.84
  5. ^ 『ラミ流』pp.162 - 163
  6. ^ 『ラミ流』p.12
  7. ^ 『ラミ流』pp.18 - 19
  8. ^ 『ラミ流』p.56
  9. ^ 『ラミ流』p.53
  10. ^ 『ラミ流』p.60 - 63
  11. ^ 反撃弾!トドメ2点打!オガラミ砲で引導渡した-スポーツニッポン
  12. ^ ラミレス、連続試合出場止まる-時事通信、2011年7月16日配信、同日閲覧
  13. ^ ラミ 知らずに歴代外国人「No.1」の1793安打-スポニチアネックス、2011年8月6日配信、同日閲覧
  14. ^ アレックス・ラミレス選手 入団発表”. 横浜DeNAベイスターズ (2011-12-08). 2011-12-09閲覧。
  15. ^ 小関順二、西尾典文、石川哲也、場野守泰 『プロ野球スカウティングレポート2011』 廣済堂出版、2011年、340-341頁。ISBN 978-4-331-51519-8
  16. ^ 小関順二、西尾典文、泉直樹 『プロ野球スカウティングレポート2008』 アスペクト、2008年、40頁。ISBN 978-4-7572-1439-2
  17. ^ a b 小関順二、西尾典文、泉直樹 『プロ野球スカウティングレポート2010』 アスペクトムック、2010年、36-37頁。ISBN 978-4-7572-1744-7
  18. ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2011』 白夜書房、2011年、115頁。ISBN 978-4-86191-710-3
  19. ^ Baseball Lab守備評価~Left FielderSMR Baseball Lab
  20. ^ 『ラミ流』p.20
  21. ^ 『ラミ流』p.97
  22. ^ 『ラミ流』pp.110 - 114、pp.120 - 121
  23. ^ 『ラミ流』pp.114 - 118
  24. ^ 『ラミ流』pp.101 - 105
  25. ^ 『ラミ流』p.100、pp.122 - 125
  26. ^ 『ラミ流』pp.32 - 34
  27. ^ 『ラミ流』pp.37 - 38
  28. ^ [http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:lkGKcF-YpRUJ:hochi.yomiuri.co.jp/giants/news/20110327-OHT1T00184.htm+we+are+one+%E3%83%A9%E3%83%9F%E3%83%AC%E3%82%B9&cd=1&hl=ja&ct=clnk&gl=jp&lr=lang_ja&source=www.google.co.jp ラミ手話で復興メッセージ「WE ARE ONE 頑張ろう ニッポン」(スポーツ報知・2011年3月28日付)※キャッシュデータ
  29. ^ ラミレスJr.、入団即ベンチ入り…関西独立リーグ・神戸”. スポーツ報知 (2011年5月3日). 2011-05-05閲覧。
  30. ^ 巨人ラミレス選手がAKB渡辺麻友さん似を認めた, YUCASEE MEDIA, 2011年3月8日閲覧
  31. ^ 龍前寺(2011-03-06), ラミレス、AKBまゆゆと似てることをついに認める, POPUP, 2011年3月8日閲覧

外部リンク