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ウィリアムズF1

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ウィリアムズ
エントリー名 AT&T Williams
チーム国籍 ファイル:Flag of the United Kingdom.svg イギリス
チーム本拠地 ファイル:Flag of the United Kingdom.svg イギリスオックスフォード州グローヴStation Road,Wantage,OX12 0DQ
チーム代表者 フランク・ウィリアムズ,
パトリック・ヘッド
テクニカルディレクター サム・マイケル
2011年のF1世界選手権
ドライバー 11. ルーベンス・バリチェロ
12. パストール・マルドナド
テストドライバー バルテリ・ボータス
シャーシ FW33
エンジン コスワース
タイヤ ピレリ
F1世界選手権におけるチーム履歴
参戦年度 1975 -
出走回数 555 (1103台)
コンストラクターズ
タイトル
9 (1980, 1981, 1986,
1987, 1992, 1993, 1994,
1996, 1997)
ドライバーズ
タイトル
7 (1980, 1982, 1987,
1992, 1993, 1996, 1997)
優勝回数 113
通算獲得ポイント 2634.5
表彰台(3位以内)回数 296
ポールポジション 125
ファステストラップ 129
F1デビュー戦 1975年アルゼンチンGP[1]
初勝利 1979年イギリスGP
2010年順位 6位(69pts)
( ※ : 記録は2010年第19戦終了時 )
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ウィリアムズF1(ウィリアムズ・エフワン、Williams F1)は、イギリスに本拠地を置くF1のレーシング・チームで、1977年フランク・ウィリアムズパトリック・ヘッドにより設立された。正式名称はウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング(Williams Grand Prix Engineering)。それの前身は1966年に設立されたフランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ(Frank Williams Racing Cars)である。

目次

概要

1970年代に誕生したコンストラクターとしては最も成功を収め、過去にドライバーズタイトル7回、コンストラクターズタイトル9回(2010年時点)を獲得している。フェラーリマクラーレンと並び、F1を代表する名門チームである。

チームの特色は「頑固なエンジニア集団」と表現される。1980年代までは車作りは保守的で、ターボエンジンやカーボンファイバーモノコックの導入は他チームより遅かった。1990年代前半にはR&D能力を活かし、セミオートマチックトランスミッションアクティブサスペンションなどのハイテク競争をリードした。またドライバーとの契約時に技術知識に関する筆記テストを行うユニークな特徴がある[2][3]

チーム内に明確な序列を設けず「チャンピオンは独力で勝ち取れ」という方針の為、コンストラクターズチャンピオンを獲得してもドライバーズチャンピオンを獲得できなかったことが他チームより多く、チャンピオンを獲得したドライバーが契約を更新せずにチームを離脱することもあった(後述)。

チームの歴史

1966年 フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ設立

フランク・ウィリアムズは1966年にフランク・ウィリアムズ・レーシングカーズを設立した。主にF3F2で友人であるピアス・カレッジなどと共にモータースポーツ活動を行っていた。そして1969年、ついにF1参戦を果たす。カレッジは1967年にデビューしていたが、フランクが自らのチームで参戦することとなったのに伴い、ウィリアムズに移籍した。この年はブラバムBT26Aを購入して参戦。カレッジが2度の2位表彰台を獲得した。

1970年はデ・トマソと提携を結び、マネージメント面をウィリアムズが、技術面をデ・トマソが、という風に役割が分担されていた。この年は一転して苦戦することとなり、さらに第5戦オランダGPでカレッジが事故死してしまう。その後、ブライアン・レッドマン、ティム・シェンケンがドライブするも予選落ちや途中リタイヤを繰り返し、結局1度も入賞どころか完走さえできなかった。

1971年と1972年にはマーチ・エンジニアリングのシャーシを購入。この頃からコンストラクターとしての参戦を目指していたフランクは、1972年には玩具メーカーのポリトイの大型支援を受けることに成功。そしてついにポリトイFX-3を完成させた。しかし、資金難にも悩ませられた状況であるので、当初はシーズン開幕にデビューの予定が中盤のイギリスGPとなった。このデビューレースでいきなりクラッシュしてしまい、次戦から再びマーチ721を使用した。終盤のイタリアGPで再び持ち込まれたが、サスペンション系に欠陥が見つかったため使用されなかった。

1973年には新たにイソマールボロからの援助を受けて「Iso Marlboro-Williams IR-01」が製作された。しかし、チームが資金難に悩まされるようになっただけでなく、フランク自身も破産寸前にまで追い込まれた。そこで、カナダの大富豪であるウォルター・ウルフに株式の一部を売却し、共同オーナーという形をとった。1976年シーズン、チームは入賞することなく、ウルフが発表した1977年の体制にフランク自身が加わっていないとわかった時点でフランクはチームを離脱した。

1977年 ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリングへ

1977年にエンジニアであるパトリック・ヘッドを引き連れて共同設立したのが現在のウィリアムズ(ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング)である。ウィリアムズが70%、ヘッドが30%を出資した。ただし、現在まで続くFWという型式番号は、フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ時代の1974年にさかのぼる。この年にFW01が製作された(別名 Iso Marlboro-Williams FW-01)。FW02は基本的にFW01と同一デザインのシャーシである。

パトリック・ヘッドの加入とともに、ウィリアムズはそれまでのテールエンダーから上位チームへと変貌を遂げる。1978年に登場させたFW06は、当時トレンドとなり始めていたグラウンド・エフェクト・カーではなくコンサバティブなデザインとしたが、多くのチームがグラウンド・エフェクト・カーの調整に苦しむ中で上位を走っていった。そして翌年に、グラウンド・エフェクト理論をしっかり理解した上で開発されたFW07で、ウィリアムズはタイトル争いに絡んでゆく。

運営面でもサウジアラビア航空やアルビラッド、サウジ・ビン・ラディン・グループなど複数のサウジアラビア企業のスポンサーを獲得し、長年の資金難から脱した。フランクは営業活動でサウジアラビアの王室関係者のオフィスへマシンを運び込み、「このマシンにあなた方の企業名が付いて走ります」と口説いたという。

1979年 初タイトル

1979年第9戦イギリスGPでクレイ・レガッツォーニがチーム初勝利を挙げ、残り6戦でFW07は4勝をあげた。そして、1980年には初のコンストラクターズチャンピオンを獲得するとともに、アラン・ジョーンズを世界チャンピオンへと導いた。

1981年にはジョーンズとカルロス・ロイテマンにより2年連続のコンストラクターズチャンピオンを獲得したものの、両ドライバー間の確執をうまく調整できなかったことから、ブラバムネルソン・ピケに最終戦でドライバーズチャンピオンを奪われてしまった。

1982年は、ターボエンジン全盛時代において出力的に劣るノン・ターボエンジンの搭載を継続したが、熟成されたマシンはバランスの良さから快走。堅実にポイントを積み重ねたケケ・ロズベルグをわずか1勝で年間チャンピオンに押し上げた。このFW08は、リヤを4輪にした6輪車のベースとして設計されたため、ホイールベースが短くなり、コーナリング性能に優れたマシンになった。ウィリアムズはFW07D、FW08Bで6輪車をテストしたが、規定変更により実戦には持ち出せなかった。

1984年 ホンダとの提携

1983年終わりにはそれまでスピリットが搭載していたホンダエンジンを獲得する。ウィリアムズがターボエンジンを使うのはこれが初めてだったことに加え、ホンダエンジンの燃費や過渡特性の悪さもあり、すぐにはその能力を発揮することはできなかった。そんな中、1984年アメリカGPでケケ・ロスベルグが優勝、ホンダエンジンとして17年ぶりであった。1985年にはナイジェル・マンセルが加入。ホンダが全面的に設計を見直した新エンジンを投入したが、それにより逆にマシンのサスペンションジオメトリーのアンバランスさが表面化し、一発の速さはあるもののタイヤがすぐに磨耗してしまうため決勝では苦戦を強いられる。しかしシーズン終盤にはサスペンションを改善したマシンを投入し、シーズン最後に3連勝を飾った。ちなみにマンセルはその口火となる地元イギリスでの第14戦ヨーロッパGPが初優勝、出走72戦目で当時としてはデビュー後最も遅い初優勝だった。

ファイル:Mansell - Williams 1985.jpg
FW10 ウィリアムズ・ホンダ 80年代を象徴するキヤノンカラー

1986年にはピケが加入。ホンダエンジンを武器に同年、1987年で計18勝を挙げ、連続してコンストラクターズタイトルを獲得する。しかし、1986年の交通事故によりフランク・ウィリアムズが半身不随となってしまった。フランクがチームを離れている間にチーム内では、ピケ派とマンセル派の諍いが生じる。自国ドライバーのマンセルをチームが支持したのに対し、ホンダはピケの契約金を一部負担していたことからピケを支持していた。両ドライバーの確執の為、1986年はマクラーレンアラン・プロストにドライバーズチャンピオンを奪われ、1987年はピケがチャンピオンを獲得するがこのシーズン限りでロータスに移籍してしまう。また、ホンダも運営に不満を持ち、ウィリアムズとの契約を終了。コース上では最速を誇ったものの、短期間に多くのものが失われる幕切れとなった。

1988年 ジャッド時代

1988年は、前年までのパートナーだったホンダがマクラーレンへエンジン供給契約を結んだ結果、ジャッドエンジンを搭載した。「ウィリアムズがジャッドエンジンを使用するにあたってホンダがジャッドとウィリアムズへ資金援助をしているのではないか」と噂になったが、ホンダはこれを否定。そしてジャッドエンジンそのものに大した戦闘力が無く、前年末から投入したアクティブサスペンションもチームが期待したほどの成果を挙げる事が出来ず、シーズン中盤のイギリスGPでは突貫工事でノーマルサスペンションへ変更せざるを得なかった。優勝は無く、表彰台に上がったのもイギリスとスペインの2レースでマンセルが2位になった2回だけであった。シーズン途中には1989年からルノーエンジンを獲得を発表した。しかしオイルスポンサーであったモービル社との契約がシーズン終了まで残っていた関係でルノー指定のエルフ社のオイルとガソリンをレギュラーシーズン中はテストであっても使用出来なかった[要出典]

1989年 ルノーとの提携

1989年1990年はチャンピオン争いに加わる事が無かったが、ルノーと良好な関係を築き、マシンとエンジンの共同開発路線を整えた。1989年カナダグランプリでは、ティエリー・ブーツェンが遅咲きの初優勝を達成しシーズン2勝を挙げた。1990年にはリカルド・パトレーゼがサンマリノGPで久々の優勝をし、ブーツェンもハンガリーGPでポール・トゥ・ウィンを果たした。シーズン途中にはレイトンハウスからエイドリアン・ニューウェイを迎え入れた。前衛的な空力設計者ニューウェイと、堅実なヘッドというデザイナーの異なる個性が融合したFW14は、翌年からマクラーレンとタイトル争いをしていく。

ファイル:WilliamsFW14B.jpg
ウィリアムズ・ルノーFW14B(1992年)
ファイル:Jacques Villeneuve 1996.jpg
FW18 ウィリアムズ・ルノー ウィリアムズの90年代を象徴するロスマンズカラー

1991年は信頼性不足や不運などでタイトルを逃すがマクラーレン・ホンダを脅かすパフォーマンスは見せていて、1992年アクティブサスペンション[4]を搭載した改良型、FW14Bが10勝を挙げ、マンセルと共にダブルタイトルを獲得する。同シーズン中にFW15の投入を予定していたが、FW14Bでも十分であった為、FW15は1993年シーズンに向けて改良されてFW15Cとして投入された。しかし、マンセルとの契約交渉は既にウィリアムズ入りが決定していたプロストとの待遇差もあり決裂し、マンセルはシーズン中に記者会見を開きチームを離脱することを発表した。イギリス国内の非難に慌てたウィリアムズは引き留めたが、マンセルは翌年からアメリカのCARTへ参戦した。

1993年ウィリアムズは、プロストのチームメイトにテストドライバーであったデイモン・ヒルをレギュラードライバーに昇格[7]。前年チャンピオン不在のためカーナンバーは「0」と「2」となるが、プロストはフランス語で無能を示唆する「0」ではなく「2」を選んだ。プロストはハイテクマシンFW15Cで、2年連続のダブルタイトルを獲得する。この年のマシンはあまりの高度ハイテク装備から一部メディアから「実物大ラジコンカー」とまで言われた。プロストはこの年をもって引退した。

1994年はプロストの代わりに、アイルトン・セナを迎える。そして前年までのキヤノンに代わりロスマンズをメインスポンサーとし、カラーリングも一新する。セナとウィリアムズの組み合わせで、シーズン開幕前からチャンピオンは決定していると言われた。同シーズンからハイテクが禁止されたため、パッシブカーとしてデザインされたFW16はリアサスペンションをカバーで覆うという、空力的に洗練された意欲作であった。

開幕戦ブラジルGP、第2戦パシフィックGPと立て続けにセナがポールポジションを獲得するが1戦目はスピン、2戦目はアクシデントでリタイア。ヒルの開幕戦2位のみでベネトンミハエル・シューマッハに2連勝されていた。第3戦サンマリノGPもセナがポールポジションを獲得したが、決勝スタート直後の事故によりセーフティカーが入る。再スタート後のタンブレロ・コーナーでセナはコーナーを直進しコンクリートウォールに激突。レースは赤旗中断となり、セナはヘリコプターで病院まで搬送されるが帰らぬ人となった。この事故以降、ウィリアムズのマシンにはセナのSマークが刻まれている。セナ亡き後の第4戦モナコGPはヒルのみの1台体制で、第5戦スペインGPから、ヒルのチームメイトには、テストドライバーのデビッド・クルサードを起用した。

タイトル争いはシューマッハがリードする展開となったが、彼が失格や出場停止となったレースでヒルは確実に勝利を収め、ドライバーズタイトル決定は最終戦オーストラリアGPまでもつれ込む。コーナーを飛び出しふらついていたシューマッハのインにヒルは入るが、シューマッハのブロックにより両者接触リタイア。タイトルはシューマッハのものとなった。しかし、インディカーシリーズの日程と重複しないフランスGPヨーロッパGP日本GP・オーストラリアGPにクルサードに代わってスポット参戦したマンセルの働きもあり、コンストラクターズタイトルを獲得した。

1995年はウィリアムズとして初めてのハイノーズマシンFW17と投入する。しかし、ライバルであるベネトンが同じルノーエンジンを搭載したこともあり、リヤサスペンションをFW16と同型の空力的に突き詰めたものからオーソドックスなものにした改良型FW17Bを投入するが両タイトルを奪われてしまう。予選の速さにおいてはベネトンを上回っていたが、チームの戦略ミスと両ドライバーのミス、シーズン序盤のマシンの信頼性などでことごとくチャンスを潰してしまった。またプロストも前述のチーム内に明確な序列を設けないチーム方針が、両タイトルを奪取できなかった敗因ではないかと当時メディアを通してコメントしている。

1996年はマクラーレンに移籍したクルサードに代わり、インディカー・チャンピオンのジャック・ヴィルヌーヴアメリカから呼び寄せた。前年からテストを十分行ってきたこともあり、ヴィルヌーヴはデビュー戦からポールポジションを獲得し、レースもリードするがギアボックスのトラブルにより2位に甘んじた。この年は前年のチャンピオンであるシューマッハが当時低迷していたフェラーリに移籍したため、ウィリアムズの二人のドライバーがタイトルを争い、ヒルは日本グランプリで念願のチャンピオンを獲得した。しかし、チームはチャンピオンを獲得したヒルに対し、翌年は契約しなかった。これは、1998年以降ルノー・エンジンを失うことが決定していたウィリアムズが、BMWエンジン獲得のためにドイツ人ドライバーとの契約を必要としていたためと言われる。ヒルの契約は1996年までだったのに対し、ヴィルヌーブは1996年から1997年までの2年契約だった。1997年のドライバーとしてヒルの代わりにウィリアムズが契約したのは、ザウバーからの移籍のドイツ人ハインツ=ハラルド・フレンツェンだった。しかし、ウィリアムズは1998年にBMWエンジンを搭載することは出来ず、2000年まで待つことになる。なお、このヒルとの契約終了で彼の盟友であったニューウェイを激怒させたと言われており、この一件がニューウェイのマクラーレンへの移籍の理由の一つとも言われている[8]

1997年シーズンは大方の「ヴィルヌーヴ+FW19の圧勝」という予想通り、開幕戦オーストラリアGP予選で早くもヴィルヌーヴが2位の同僚フレンツェンに対し約1.7秒、3位フェラーリのM・シューマッハーには2秒以上の差でPPを獲得するなど凄まじいリードを築き上げたが、これに気を良くしたチームが早々に来期マシンの開発に重点を置いたため今期マシンであるFW19の熟成が遅れてマシンのセッティングに苦慮する一面などがあった結果[9]ヴィルヌーブとフェラーリのシューマッハの激しいチャンピオン争いとなり、最終戦ヨーロッパGPまでもつれこんだ。シューマッハが追い越しをかけたヴィルヌーヴと接触しリタイアという結果により、辛くもヴィルヌーヴがチャンピオンを獲得し、コンストラクターズタイトルも制した。このシーズン末をもってルノーエンジンはF1から撤退し、9年間に渡る蜜月関係にピリオドが打たれた。

1998年1999年は、スポンサーブランドがロスマンズからウインフィールドに変更され、同チームでは珍しい赤いマシンカラーとなった。ルノーのカスタマー仕様エンジン(それぞれメカクロームスーパーテックと呼ばれた)を使用した。1998年シーズンをもって、ヴィルヌーヴとフレンツェンとの契約を終了する。1999年に加入したラルフ・シューマッハが健闘したもののスーパーテックエンジンの戦闘力不足もあり、優勝戦線からは遠ざかった。

2000年 BMWとの提携

ファイル:J p montoya usgp 2004.jpg
FW26 ウィリアムズ・BMW
いわゆる「セイウチノーズ」のマシン

2000年シーズンからは、F1に復帰したBMWとエンジン使用と技術協力の長期の契約(2009年まで)を結び、登録名はBMWウィリアムズF1(BMW WilliamsF1)となり、マシンカラーリングも白と紺を基調とした現在のものとなった。この年はラルフ・シューマッハと、新人テストを経て加入しF1デビューとなったジェンソン・バトンのコンビで戦い、ラルフが開幕戦を含む3回の3位表彰台を獲得し、コンストラクターズ3位となった。 2001年には同じく復帰したミシュランタイヤと組み、タバコスポンサーとの離脱を宣言する活動を進めた。この年に国際F3000選手権・インディカーシリーズチャンピオンのファン・パブロ・モントーヤが加入した。2004年迄は、公称19,000回転のBMWパワーで10勝(モントーヤ4勝、ラルフ6勝)を挙げる。2003年にはミシュランとのマッチングで快走し、フェラーリをあと一歩まで追い込んだ。 ちなみにラルフ・シューマッハのF1時代の優勝はすべてこの時期に達成されたものである。

しかし、2004年は一転して特異なハイノーズ(通称「セイウチノーズ」)が失敗し、最終戦ブラジルGPでのモントーヤの1勝に留まった。また、この勝利は現時点でウィリアムズ最後の優勝となっている。2005年シーズンはモントーヤがマクラーレン、ラルフがトヨタへ移籍したことを受け、ジャガーよりマーク・ウェバージョーダンよりニック・ハイドフェルドがレギュラードライバーとして加入することとなったが、前年から続いてのシャシー設計(特に空力部門)の失敗とBMWとの不和から成績が低迷し、ついに2000年シーズン以来の未勝利、1999年以来のコンストラクターズ順位トップ4からの陥落(5位)という不本意なシーズンを送ることとなった。

また、この2年に渡りB・A・Rとの間で争われたジェンソン・バトンの契約問題(通称「バトン・ゲート」)は、バトン自身がウィリアムズに多額の違約金を支払いB・A・Rに残留するという結末となった。

2006年 コスワースへの変更

ファイル:Nico Rosberg Canada 2006.jpg
FW28 ウィリアムズ・コスワース

成績の低迷とシャシーを含めたフルメーカー参戦したいBMWの意向などからBMWとの間に確執が生まれ、BMWはザウバーチームを買収してコンストラクターとして参戦することを決意。結果としてウィリアムズとの長期契約は2005年限りで打ち切りとなった。

BMWエンジンを失ったウィリアムズは代替のエンジンを求め、トヨタやホンダとの交渉が噂されていたが、どれも実現には至らなかった。V8・2400ccエンジンへ変更となる2006年については結局、コスワースからエンジンが供給されることになり、昨今の自動車メーカーのワークス化というF1界の潮流に逆らうように、「プライベーター」として参戦することとなった。また、タイヤについてもミシュランからブリヂストンへ変更されることになった。

ドライバーについては、マーク・ウェバーが残留し、そのパートナーには、ニック・ハイドフェルドが新生BMWチームへ移籍した為、11月3日にかつてウィリアムズでチャンピオンを獲得したケケ・ロズベルグの息子である、ニコ・ロズベルグの起用を発表した。また、3rdドライバーとして、前マクラーレンのアレクサンダー・ヴルツを起用することとなった。

しかし、ワークスエンジンを搭載していた他のチームには遠く及ばず、コスワースエンジンも全くの不振で、結局コンストラクターズランキング8位という、チームが現体制になって以来最悪のシーズンとなった。

2007年 トヨタとの提携

ファイル:Nico Rosberg model '07.jpg
FW27(カラーはFW29) ウィリアムズ・トヨタ 

2007年はチーム名の「F1」の部分を外すことになり、トヨタと2009年までのエンジン供給の契約を、AT&Tとメインスポンサー契約を交わした。更にドライバーラインナップも発表され、ニコ・ロズベルグが残留。パートナーは3rdドライバーのヴルツがレースドライバーに昇格、テストドライバーにはナレイン・カーティケヤンが残留し、さらに中嶋悟の息子である中嶋一貴が起用されることになった。ヴルツは2000年以来のレースドライバーとなる。なお、当初ウィリアムズは3rdドライバーは起用しない方針を明らかにしていたが、実際は5GPで中嶋を金曜日に起用した。ヴルツの引退が最終戦ブラジルをのこした中国GP限りでのこととなったため、中嶋がブラジルGPでF1デビューを飾ることになった。 コンストラクターズランキングはマクラーレンの失格やワークスチームの失速に伴い4位で終えた。

2008年は、ウイリアムズF1が30周年と記念すべきシーズンという事で冬のテスト中はメモリアルカラーリングで走行した。このシーズン中に出走500回(トルコGP)、決勝レース50000周回(スペインGP)が達成された。 (これらの記録は、1977年創設、1978年から参戦したウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリングの成績であり、1973年、1974年に参戦したイソ-ウィリアムズと1975年、1976年の旧ウイリアムズ(ウルフに売却)、1977年のマーチのシャーシで参戦した分は入っていない。) 開幕戦こそロズベルグが表彰台に上がったがそれ以降は他のチームに追い抜かれていき最終的にはコンストラクターズランキング8位で終えた。 また、2009年に導入されたKERSの開発を見越してオートモーティブ・ハイブリッド・パワー社の株式を少数取得した。尚、この買収に伴い、オートモーティブ・ハイブリッド・パワー社はウィリアムズ・ハイブリッド・パワー社と名称を変更し、ウィリアムズのチームファクトリーに移転した。

2009年は大幅なレギュレーション変更があったが、レギュレーションの穴を突き、2層ディフューザを投入し議論の的となった。しかし、最終的にFIAから許可が出されたため他チームもこれを追随する形となった。シーズン序盤は2層ディフューザもあり、ウィリアムズの成績も序盤は上向くかと思われたが、信頼性の不足や中嶋がノーポイントに終わる不調もあり、コンストラクターズランキング7位に終わっている。今シーズンから規約で認められたKERSであったが、ウィリアムズは全F1チームの中で唯一フライホイール式のKERSを開発していた。しかし、実戦に投入されることは無かった。

トヨタとのエンジン供給契約はあと1年残っていたが、2009年10月14日に2009年末に契約を前倒しして終了することを発表した。これに伴い、2010年に使用するエンジンはコスワースとなる事も後日発表された。

2009年12月にはウィリアムズの株式をトト・ヴォルフに少数売却したことを発表した。のちに、売却比率が全体の10%であり、フランクが63%、ヘッドが27%を引き続き所有していることが明らかにされた[10]

2010年 再度コスワースと提携

2010年に投入したマシンFW32ではエンジンをトヨタからコスワースにスイッチした。また、ドライバーラインナップを一新し、ロズベルグとのトレードでブラウンGP(現メルセデス・グランプリ)からルーベンス・バリチェロを起用した。中嶋の後任にはテストドライバーから昇格したニコ・ヒュルケンベルグとなった。テスト・ドライバーにはバルテリ・ボータスと新しく契約した。ブラジルGPにてヒュルケンベルグがチームにとって5年ぶり、コスワースエンジンにとって11年ぶりとなるポールポジションを記録した。しかし最終戦アブダビGP終了後の11月15日に、ヒュルケンベルグがチームを離脱し、同時にバリチェロとの契約を翌年も継続することが発表された[11]

2005年以来、主要スポンサーとしてチームを支援していたRBS(ロイヤル・バンク・オブ・スコットランド)が2010年末をもってスポンサーから撤退することが明らかとなっている。これは2008年末からの金融危機が原因である[12]。その他にオランダ家電機器であるフィリップスもウィリアムズからスポンサー撤退する事を発表している[13]

2011年シーズンはバリチェロが残留する一方で、ヒュルケンベルグの後任としてベネズエラ人ドライバーのパストール・マルドナドを起用することを発表し、これに伴いベネズエラ国営石油会社(PDVSA)などベネズエラ資本の複数のスポンサーを獲得。しかしそれでもRBS・フィリップスらの離脱による収入減少を補いきれない(一説には43%もの減収となったとされる[14])ため、チームはレーシングチームとしては異例となる自社の株式公開を計画し、2011年3月2日フランクフルト証券取引所に株式を上場することを発表した[15]。フランク・ウィリアムズは株式の過半数を保有し続けるものの、主にパトリック・ヘッドらの所有株を中心に、発行済株式の約27%が市場に放出される。

2012年 ウィリアムズ・ルノー復活

2012年シーズンからルノーが15年ぶりにエンジンを供給することが2011年7月に決定。契約は2013年までの2年間で、エンジンのレギュレーションが変更される2014年はオプションとなっている[16]。ルノーエンジンはレッドブル・レーシングが使用して好成績を挙げており、ウィリアムズの復調につながるかが注目される。

F1以外の活動

ウィリアムズはF1以外にも過去に下記のような活動を行っている。

新人の登竜門

かつては、レギュラードライバーは30代のベテランしか起用しなかったり、技術も保守的といわれていたウィリアムズだが、1990年代半ば以降のドライバーに関しては、ザウバーミナルディジョーダンほどではないが、新人ドライバーを起用することがある。この傾向は新人を自分のチームでF1デビューさせることはめったにないフェラーリ、マクラーレンとは大きく異なる。ウィリアムズからF1デビューしたドライバーとしてクルサード、ジャック・ヴィルヌーヴ、バトン、モントーヤ、ニコ・ロズベルグ、中嶋一貴、ニコ・ヒュルケンベルグがいる。 このうちヴィルヌーヴとバトンはワールドチャンピオンを獲得している。

なお、1983年にイギリスF3参戦中のセナをテストをさせており、早くからセナの才能に目をつけていた。但し、当時のウィリアムズの方針では、セナはまだ若いということでレギュラードライバーの起用は見送られた。

ウィリアムズでF1初優勝を記録したドライバー

歴代のウィリアムズドライバーの中で9名がウィリアムズでF1初優勝を達成している。

ウィリアムズでドライバーズタイトルを獲得したドライバー

変遷表

エントリー名 車体型番 タイヤ エンジン 燃料
オイル
ドライバー ランキング 優勝数
1969年 フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ ブラバムBT26A D フォードDFV ガルフ ピアス・カレッジ - -
1970年 フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ デ・トマソ505-38 D

G

フォードDFV BP ピアス・カレッジ
ブライアン・レッドマン
ティム・シェンケン
- -
1971年 フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ マーチ701,711 G フォードDFV モチュール アンリ・ペスカロロ
ジャン・マックス
- -
1972年 チーム・ウィリアムズ・モチュール マーチ711,721
ポリトイ)FX-3
G フォードDFV モチュール アンリ・ペスカロロ
カルロス・パーチェ
- 0
1973年 フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ イソ)FX-3B,IR F フォードDFV フィナ アンリ・ペスカロロ
ハウデン・ガンリー
10 0
1974年 フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ FW01
FW02
FW03
F フォードDFV フィナ アルトゥーロ・メルヅァリオ
ジャック・ラフィット
10 0
1975年 フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ FW02
FW03
FW04
G フォードDFV フィナ アルトゥーロ・メルヅァリオ
ジャック・ラフィット
ジャッキー・イクス
9 0
1976年 フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ
Walter Wolf Racing(FW05)
Mapfre-Williams(FW04)
FW04
FW05
G フォードDFV フィナ ジャッキー・イクス
アルトゥーロ・メルヅァリオ
クリス・エイモン
ワーウィック・ブラウン
ハンス・ピーター
- 0
1977年 ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング
Jolly Club of Switzerland (FW04)
マーチ761 G フォードDFV テキサコ パトリック・ネーヴェ - -
1978年 ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング FW06 G フォードDFV テキサコ アラン・ジョーンズ 9 0
1979年 アルビラド-ウィリアムズ・レーシング・チーム FW06
FW07
G フォードDFV モービル アラン・ジョーンズ
クレイ・レガッツォーニ
2 5
1980年 アルビラド-ウィリアムズ・レーシング・チーム
RAM/Penthouse-Rizla Racing(FW07)
RAM/Rainbow Jeans Racing(FW07)
RAM/Williams Grand Prix Engineering(FW07)
RAM/Theodore/Rainbow Jeans Racing(FW07)

Brands Hatch Racing(FW07)
FW07
FW07B
G フォードDFV モービル アラン・ジョーンズ
カルロス・ロイテマン
1 6
1981年 アルビラド-ウィリアムズ・レーシング・チーム FW07C M

G

フォードDFV モービル アラン・ジョーンズ
カルロス・ロイテマン
1 4
1982年 タグ・ウィリアムズ・チーム FW07C
FW08
G フォードDFV モービル ケケ・ロズベルグ
カルロス・ロイテマン
マリオ・アンドレッティ
デレック・デイリー
3 1
1983年 タグ・ウィリアムズ・チーム FW08C
FW09
G フォードDFV,DFY
ホンダRA163E
モービル ケケ・ロズベルグ
ジャック・ラフィット
4 1
1984年 ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング FW09
FW09B
G ホンダRA164E モービル ケケ・ロズベルグ
ジャック・ラフィット
6 1
1985年 キヤノン・ウイリアムズ・ホンダ FW10 G ホンダRA164E,RA165E モービル ナイジェル・マンセル
ケケ・ロズベルグ
3 4
1986年 キヤノン・ウイリアムズ・ホンダ FW11 G ホンダRA166E モービル ナイジェル・マンセル
ネルソン・ピケ
1 9
1987年 キヤノン・ウイリアムズ・ホンダ FW11B G ホンダRA167E モービル ナイジェル・マンセル
ネルソン・ピケ
リカルド・パトレーゼ
1 9
1988年 キヤノン・ウイリアムズ・チーム FW12 G ジャッドCV モービル ナイジェル・マンセル
リカルド・パトレーゼ
マーティン・ブランドル
ジャン=ルイ・シュレッサー
7 0
1989年 キヤノン・ウイリアムズ・チーム FW12C
FW13
G ルノーRS1 エルフ ティエリー・ブーツェン
リカルド・パトレーゼ
2 2
1990年 キヤノン・ウイリアムズ・チーム FW13B G ルノーRS2 エルフ ティエリー・ブーツェン
リカルド・パトレーゼ
4 2
1991年 キヤノン・ウイリアムズ・チーム FW14 G ルノーRS3 エルフ ナイジェル・マンセル
リカルド・パトレーゼ
2 7
1992年 キヤノン・ウイリアムズ・チーム FW14B G ルノーRS3C,RS4 エルフ ナイジェル・マンセル
リカルド・パトレーゼ
1 10
1993年 キヤノン・ウイリアムズ FW15C G ルノーRS5 エルフ アラン・プロスト
デイモン・ヒル
1 10
1994年 ロスマンズ・ウイリアムズ・ルノー FW16
FW16B
G ルノーRS6 エルフ アイルトン・セナ
デイモン・ヒル
デビッド・クルサード
ナイジェル・マンセル
1 7
1995年 ロスマンズ・ウイリアムズ・ルノー FW17
FW17B
G ルノーRS7 エルフ デイモン・ヒル
デビッド・クルサード
2 6
1996年 ロスマンズ・ウイリアムズ・ルノー FW18 G ルノーRS8 エルフ デイモン・ヒル
ジャック・ヴィルヌーヴ
1 12
1997年 ロスマンズ・ウイリアムズ・ルノー FW19 G ルノーRS9 カストロール ジャック・ヴィルヌーヴ
ハインツ・ハラルド・フレンツェン
1 8
1998年 ウインフィールド・ウイリアムズ FW20 G メカクロームCG01 カストロール
ペトロブラス
ジャック・ヴィルヌーヴ
ハインツ・ハラルド・フレンツェン
3 0
1999年 ウインフィールド・ウイリアムズ FW21 B スーパーテックFB01 カストロール
ペトロブラス
ラルフ・シューマッハ
アレックス・ザナルディ
5 0
2000年 BMW・ウイリアムズF1チーム FW22 B BMW E41 カストロール
ペトロブラス
ラルフ・シューマッハ
ジェンソン・バトン
3 0
2001年 BMW・ウイリアムズF1チーム FW23 M BMW P80 カストロール
ペトロブラス
ラルフ・シューマッハ
ファン・パブロ・モントーヤ
3 4
2002年 BMW・ウイリアムズF1チーム FW24 M BMW P82 カストロール
ペトロブラス
ラルフ・シューマッハ
ファン・パブロ・モントーヤ
2 2
2003年 BMW・ウイリアムズF1チーム FW25 M BMW P83 カストロール
ペトロブラス
ファン・パブロ・モントーヤ
ラルフ・シューマッハ
マルク・ジェネ
2 4
2004年 BMW・ウイリアムズF1チーム FW26 M BMW P84 カストロール
ペトロブラス
ファン・パブロ・モントーヤ
ラルフ・シューマッハ
マルク・ジェネ
アントニオ・ピッツォニア
4 1
2005年 BMW・ウイリアムズF1チーム FW27 M BMW P84/5 カストロール
ペトロブラス
マーク・ウェバー
ニック・ハイドフェルド
アントニオ・ピッツォニア
5 0
2006年 ウイリアムズF1チーム FW28 B コスワースCA2006 カストロール
ペトロブラス
マーク・ウェバー
ニコ・ロズベルグ
8 0
2007年 AT&Tウイリアムズ FW29 B トヨタRVX-07 ペトロブラス ニコ・ロズベルグ
アレクサンダー・ヴルツ
中嶋一貴
4 0
2008年 AT&Tウイリアムズ FW30 B トヨタRVX-08 ペトロブラス ニコ・ロズベルグ
中嶋一貴
8 0
2009年 AT&Tウイリアムズ FW31 B トヨタRVX-09 - ニコ・ロズベルグ
中嶋一貴
7 0
2010年 AT&Tウイリアムズ FW32 B コスワースCA2010 - ルーベンス・バリチェロ
ニコ・ヒュルケンベルグ
7 0

*太字はチャンピオンを獲得したドライバー
*斜体になっているチームに車体を供給(括弧内に供給した車体の型番を記載)
*斜体になっているドライバーはスポット参戦など

脚注

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  1. ^ FIAによる2007年エントリーリストによると、1978年アルゼンチングランプリとなっている。これは、同一人物による運営ではあるものの、ウルフに買収されるまでとその後新規に設立した現在のウイリアムズを別記録としていることによる。
  2. ^GRAND PRIX SPECIAL』(ソニー・マガジンズ)2008年8月号 p.23
  3. ^ 『GRAND PRIX SPECIAL』がドライバーに対する筆記テストの有無について取材したところ、フェラーリ・BMWザウバーの2チームは「ノーコメント」、残る7チームは「筆記テストは行っていない」と答えている。
  4. ^ 商標の関係から当時チームでは「リアクティブサスペンション」と称していた
  5. ^F1速報』 7/16号「フランスGP号」 第9巻13号、ニューズ出版、1998年7月16日発行、39頁。
  6. ^ 「“フライング・フィン”飛んでしまったマクラーレン」『F1グランプリ特集』 1993年4月号、第5巻4号、ソニー・マガジンズ、79 - 81頁。
  7. ^ プロストのチームメイトにミカ・ハッキネンと契約したが、フランク・ウィリアムズは1993年シーズンのエントリーを忘れていた為、ウィリアムズが参戦するには他の全チームの承認が必要となった。ハッキネンを取り返したかったピーター・コリンズロータス)が認めなかった為、ウィリアムズはハッキネンを諦めることとなったという報道と[5]、ロータス側は「93年もハッキネンは残留」と発表したが、それは口約束という情報を掴んだウィリアムズがロータスと交渉。コリンズはハッキネンを手放す意思はなかったが、金銭的条件(6億円)次第では応じようと目論んでいた。しかしウィリアムズはその条件を受け入れるつもりはなく、結局1992年12月14日にデイモン・ヒルとの契約を発表したという報道がある[6]
  8. ^GPX(F1 Grand Prix Xpress)』 BELGIUM GP 山海堂、30-31頁、1997年。詳しくはエイドリアン・ニューウェイの項目を参照
  9. ^ 『F1 RACING 日本版』2010年3月号 三栄書房、31項
  10. ^ Struggling Williams' sale of stake was 10%(this is london)
  11. ^ ウィリアムズ、ニコ・ヒュルケンベルグの離脱を発表(F1TopNews.JP)
  12. ^ “RBS ウィリアムズとの提携は来年限り”. GPupdate.net. (2009-02-26). http://f1.gpupdate.net/ja/news/2009/02/26/207402/ 2009-02-26閲覧。 
  13. ^ “フィリップス、ウィリアムズのスポンサーを終了”. F1 Gate.com. (2010-11-06). http://f1-gate.com/williams/f1_9856.html 2010-11-07閲覧。 
  14. ^ ウィリアムズ、上場でスポンサー減少か - ESPN F1・2011年2月10日
  15. ^ F1ウィリアムズが上場へ=独フランクフルト市場 - 時事通信・2011年2月7日
  16. ^ ウイリアムズ・ルノー復活! 2012年から2年契約(オートスポーツweb 2011年7月4日)
  17. ^ F2マシン「ウィリアムズJPH01」発表(F1-Gate.com)
  18. ^ 新設のF2王者、ウィリアムズのF1テスト参加へ - MSNスポーツ
  19. ^ ウィリアムズ、ポルシェにKERS技術を提供(F1TopNews.JP)

関連項目

外部リンク