エジプト
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- エジプト・アラブ共和国
- جمهورية مصر العربية
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ファイル:Flag of Egypt.svg ファイル:Coat of arms of Egypt.svg (国旗) (国章) - 国の標語: なし
- 国歌: 我が祖国
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- ファイル:LocationEgypt.svg
公用語 アラビア語 首都 カイロ 最大の都市 カイロ 独立
- 日付イギリスより
1922年2月28日通貨 エジプト・ポンド (£)(EGP) 時間帯 UTC (+2)(DST: (+3)) ISO 3166-1 EG / EGY ccTLD .eg 国際電話番号 20
西にリビア、南にスーダン、北東にイスラエルと隣接し、北は地中海、東は紅海に面している。南北に流れるナイル川の河谷とデルタ地帯(ナイル・デルタ)のほかは、国土の大部分が砂漠である。ナイル河口の東に地中海と紅海を結ぶスエズ運河がある。
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国号
正式名称はアラビア語で جمهورية مصر العربية (翻字: Ǧumhūrīyah Miṣr al-ʿarabīyah)。通称は مصر (標準語: Miṣr ミスル、エジプト方言: [mɑsˤɾ] マスル) 。
アラビア語の名称ミスルは、古代からセム語でこの地を指した名称である。なお、セム語の一派であるヘブライ語では、双数形のミスライム (מצרים, ミツライム) となる。
公式の英語表記は Arab Republic of Egypt 。通称 Egypt。形容詞はEgyptian(イジプシャン)。
日本語の表記はエジプト・アラブ共和国。通称エジプト。漢字では、埃及と表記し、埃と略す。この漢字表記は、漢文がそのまま日本語や中国語などに輸入されたものである。
- 1882年 - 1922年 (イギリス領エジプト)
- 1922年 - 1953年 エジプト王国
- 1953年 - 1958年 エジプト共和国
- 1958年 - 1971年 アラブ連合共和国
- 1971年 - 現在 エジプト・アラブ共和国
歴史
古代から中世
「エジプトはナイルの賜物」という古代ギリシアの歴史家ヘロドトスの言葉で有名なように、エジプトは豊かなナイル川のデルタに支えられて世界四大文明の一つである古代エジプト文明を発展させてきた。エジプト人は紀元前3000年頃には早くも中央集権国家を形成し、ピラミッドや王家の谷、ヒエログリフなどを通じて世界的によく知られている高度な文明を発達させた。3000年にわたる諸王朝の盛衰の末、紀元前525年にペルシアに支配され、ペルシア帝国、紀元前332年にはアレクサンドロス大王に征服された。その後ギリシア系のプトレマイオス朝が成立し、ヘレニズム文化の中心のひとつとして栄えた。
プトレマイオス朝は紀元前30年に滅ぼされ、エジプトはローマ帝国の属州となりアエギュプトゥスと呼ばれた。ローマ帝国の統治下ではキリスト教が広まり、コプト教会が生まれた。ローマ帝国の分割後は東ローマ帝国に属し、豊かな穀物生産でその繁栄を支えたが、639年にイスラム帝国の将軍アムル・イブン・アル=アースによって征服され、ウマイヤ朝およびアッバース朝の一部となった。
アッバース朝の支配が衰えると、そのエジプト総督から自立したトゥールーン朝・イフシード朝の短い支配を経て、969年に現在のチュニジアで興ったファーティマ朝によって征服された。これ以来、アイユーブ朝、マムルーク朝とエジプトを本拠地としてシリア地方まで版図に組み入れたイスラム王朝が500年以上に渡って続く。とくに250年間続いたマムルーク朝のもとで中央アジアやカフカスなどアラブ世界の外からやってきたマムルーク(奴隷軍人)による支配体制が確立し、1517年にマムルーク朝を滅ぼしてエジプトを属州としたオスマン帝国のもとでもマムルーク支配は温存された。
近代から現代
1798年、フランスのナポレオン・ボナパルトによるエジプト遠征をきっかけにエジプトは近代国家形成の時代を迎える。フランス軍撤退後、混乱を収拾して権力を掌握したのはオスマン帝国が派遣したアルバニア人部隊の隊長としてエジプトにやってきた軍人、ムハンマド・アリーであった。彼は実力によってエジプト総督に就任すると、マムルークを打倒して総督による中央集権化を打ち立て、経済・軍事の近代化を進めて、エジプトをオスマン帝国から半ば独立させることに成功し、アルバニア系ムハンマド・アリー家による世襲政権を打ち立てた(ムハンマド・アリー朝)。
しかし、当時の世界に勢力を広げたヨーロッパ列強はエジプトの独立を認めず、また、ムハンマド・アリー朝の急速な近代化政策による社会矛盾は結局、エジプトを列強に経済的に従属させることになった。1869年にエジプトはフランスとともにスエズ運河を開通させるが、その財政負担はエジプトの経済的自立に決定的な打撃を与え、イギリスの進出を招いた。1882年にアフメド・ウラービー (en:Ahmed Orabi)が中心となって起きた反英運動(ウラービー革命)もイギリスによって武力鎮圧され、エジプトはイギリスの保護国となる。
1914年には、第一次世界大戦によってイギリスがエジプトの名目上の宗主国であるオスマン帝国と開戦したため、エジプトはオスマン帝国の宗主権から切り離された。その結果、大戦後の1922年2月28日にエジプト王国が成立し、翌年イギリスはその独立を認めたが、その後もイギリスの間接的な支配体制は続いた。
エジプト王国は立憲君主制をひいて議会を設置し、緩やかな近代化を目指すが、第二次世界大戦前後からパレスチナ問題の深刻化や、1948年から1949年のパレスチナ戦争(第一次中東戦争)でのイスラエルへの敗北、経済状況の悪化、ムスリム同胞団など政治のイスラム化(イスラム主義)を唱える社会勢力の台頭によって次第に動揺していった。この状況を受けて1952年、自由将校団がクーデターを起こしてムハンマド・アリー朝を打倒(エジプト革命[2])、1953年に最後の国王フアード2世が廃位され、共和政へと移行し、エジプト共和国が成立した。
1956年、第2代大統領に就任したガマール・アブドゥル=ナーセルのもとでエジプトは冷戦下での中立外交と汎アラブ主義(アラブ民族主義)を柱とする独自の政策を進め、第三世界・アラブ諸国の雄として台頭する。同年にエジプトはスエズ運河国有化を断行し、これによって勃発した第二次中東戦争(スエズ戦争)で政治的に勝利を収めた。1958年にはシリアと連合してアラブ連合共和国を成立させた。しかし1961年にはシリアが連合から脱退し、国家連合としてのアラブ連合共和国はわずか3年で事実上崩壊した。さらに1967年の第三次中東戦争は惨敗に終わり、これによってナーセルの権威は求心力を失った。
1970年に急死したナーセルの後任となったアンワル・アッ=サーダートは、社会主義的経済政策の転換、イスラエルとの融和など、ナーセル体制の切り替えを進めた。1971年には、国家連合崩壊後もエジプトの国号として使用されてきた「アラブ連合共和国」の国号を捨ててエジプト・アラブ共和国に改称した。しかしサーダートが進める政治的自由化によってイスラム主義がかえって勢力を伸張させ、体制に対する抵抗が激化した。サーダート自身も1981年にイスラム過激派のジハード団によって暗殺された。代わって副大統領から大統領に昇格したホスニー・ムバーラクは、対米協調外交を進める一方、イスラム主義運動を厳しく弾圧して国内外の安定化をはかるなど、開発独裁的な政権を20年以上にわたって維持した。ムバーラクが大統領就任と同時に発令した非常事態法は、ムバーラクが追放されるまで30年以上に渡って継続された[3]。
アルカイダを中心にしたイスラム過激派が未だ多く潜伏しており、外国人などを狙ったテロも後を絶たない。1997年にはイスラム原理主義過激派の「イスラム集団」が外国人観光客を襲撃したルクソール事件などが発生している。
2011年1月、近隣諸国の民主化運動が波及し、30年以上に渡って独裁体制を敷いてきたムバーラクの辞任を求める大規模なデモが発生。同2月には大統領支持派によるデモも発生して騒乱となり、国内主要都市において大混乱をまねいた。大統領辞任を求める声は日に日に高まり、2月11日、ムバーラクは大統領を辞任し、全権がエジプト軍最高評議会に委譲された。同年12月7日にはカマル・ガンズーリを暫定首相とする政権が発足し、軍・司法などをのぞく権限の大部分が移譲された。
詳細は「エジプト革命 (2011年)」を参照
政治
詳細は「エジプトの政治」、「:en:Politics of Egypt」、および「近代エジプトの国家元首の一覧」を参照
大統領
国家元首の大統領は、立法・行政・司法の三権において大きな権限を有する。また国軍の最高司令官でもある。大統領の選出は、議会が候補者を指名し、国民が信任投票を行う。任期は6年で、再選も可であるが、第2代大統領ガマール・アブドゥル=ナーセル以来、事実上の終身制が慣例となっており、第4代大統領ホスニー・ムバーラクは1981年の就任以来、約30年にわたって独裁体制を築いた。ムバーラクの親米・親イスラエル路線が欧米諸国によって評価されたために、独裁が見逃されてきたのが実情である。
2011年9月に大統領選が予定されていたが1月に騒乱状態となり、2月11日、ムバーラクは国民の突き上げを受ける形で辞任した。翌日より国防大臣で軍最高評議会議長のムハンマド・フセイン・タンタウィが、総選挙実施まで大統領代行を務めている。
議会
議会は、一院制の人民議会(マジュリス)。全454議席で、444議席は民選、10議席は大統領指名枠[4]。任期5年。これとは別に、諮問機関としての諮問議会(シューラ)がある。全264議席で、176議席が民選、88議席が大統領指名枠。
選挙
2011年11月21日、シャラフ暫定内閣は、デモと治安部隊の衝突で多数の死者が出たことの責任を取り軍最高評議会へ辞表を提出した。 人民議会選挙(下院に相当、定数498)が2011年11月28日から来年1月までに行政区ごとに3回に分けて、また、投票日を1日で終わりにせず2日間をとり、大勢の投票での混乱を緩和し実施される予定である。 軍最高評議会議長タンタウィは22日テレビで演説し、28日からの人民議会選挙を予定通り実施し、次期大統領選挙を2012年6月末までに実施すると表明した。[5][6][7]
政党
政党については、エジプトの政党を参照。エジプトでは宗教政党が禁止されているためムスリム同胞団(事実上の最大野党)などは非合法化されている。
ムバラク政権崩壊(2011年)後初めての選挙(人民議会[下院に相当]選挙)では、自由公正党(ムスリム同胞団)、ワフド党(エジプト最古の政党)、国民進歩統一党(左派)、青年たちの新党(今回の革命の中心を担った)ら全部で50以上の政党が参加している。
国際関係
国力、文化的影響力などの面からアラブ世界のリーダーとなっている。ガマール・アブドゥル=ナーセル時代には非同盟諸国の雄としてアラブに限らない影響力を持ったが、ナーセル死後はその影響力は衰えた。ナーセル時代は親ソ連だった外交はサーダート時代に入って親米路線となり、さらにそれに伴いイスラエルとの外交関係が進展。1978年のキャンプ・デービッド合意とその翌年の対イスラエル国交回復によって親米路線は確立したが、これはイスラエルを仇敵とするアラブ諸国の憤激を買い、ほとんどのアラブ諸国から断交されることとなった。その後、1981年にサーダートが暗殺されたのち政権を握ったムバーラクは親米路線を堅持する一方、アラブ諸国との関係回復を進め、1988年にはシリア、レバノン、リビアを除くすべてのアラブ諸国との関係が回復した[8]。以降はアラブの大国として域内諸国と協調する一方、アフリカの一国として2004年9月には国際連合安全保障理事会の常任理事国入りを目指すことを表明した。2011年、パレスチナのガザの検問所を開放した。また、イランと関係修復しようとしている[9]。
軍事
詳細は「エジプト軍」を参照
中東有数の軍事大国であり、イスラエルと軍事的に対抗できる数少ないアラブ国家であると目されている。兵員数は陸軍34万人、海軍6万人、空軍3万人、防空軍3万人。イスラエルとは4度にわたる中東戦争で毎回干戈を交えたが、第二次中東戦争で政治的な勝利を得、第四次中東戦争の緒戦で勝利を収めたほかは劣勢のまま終わっている。親アメリカのため、北大西洋条約機構のメンバーではないものの同機構とは親密な関係を保っている。
地方行政区画
詳細は「エジプトの県」を参照
エジプトの最上級の地方行政単位は、29あるムハーファザ(محافظة, 県、州 と訳されることもある)である。知事は、中央政府から派遣される官選知事で、内務省の管轄下において、中央集権体制をとる。極端な行政区分でナイル川流域やナイル下流は非常に細分化されているにもかかわらず、南部は非常に大まかに分けられている。これは、ナイル流域以外が全域砂漠であり、居住者がほとんどいないことによるものである。
主要都市
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地理
詳細は「エジプトの地理」および「:en:Geography of Egypt」を参照
アフリカ北東隅に位置し、面積1,002,450平方キロメートルで世界で30番目の大きさである。国土の90%は砂漠で、ナイル川の西側にはサハラ砂漠の一部である西部砂漠(リビア砂漠)、東側には紅海とスエズ湾に接する東部砂漠(シャルキーヤ砂漠)がある。西部砂漠には海抜0m以下という地域が多く、面積1万8000km²の広さをもつカッターラ低地は海面より133mも低く、ジブチのアッサル湖に次いでアフリカ大陸で2番目に低い地点である。シナイ半島の北部は砂漠、南部は山地になっており、エジプト最高峰のカテリーナ山 (2637m) や、旧約聖書でモーセが十戒をさずかったといわれるシナイ山がある。シナイ半島とナイル河谷との間はスエズ湾が大きく湾入して細くくびれており、ここがアフリカ大陸とユーラシア大陸の境目とされている。この細い部分は低地であるため、スエズ運河が建設され、紅海と地中海、ひいてはヨーロッパとアジアを結ぶ大動脈となっている。
ナイル川は南隣のスーダンで白ナイル川と青ナイル川が合流し、エジプト国内を南北1545kmにもわたって北上し、河口で広大なデルタを形成して地中海にそそぐ。アスワン以北は人口稠密な河谷が続くが、幅は5kmほどとさほど広くない。上エジプト中部のキーナでの湾曲以降はやや幅が広がり[10]、アシュート近辺で分かれた支流がファイユーム近郊のカールーン湖へと流れ込む。この支流によって、カールーン湖近辺は肥沃なオアシスを形成している。一方本流は、カイロ近辺で典型的な扇状三角州となるナイル・デルタは、地中海にむかって約250kmも広がっている。かつてはナイル川によって運ばれる土で、デルタ地域は国内で最も肥沃な土地だったが、アスワン・ハイ・ダムによってナイル川の水量が減少したため、地中海から逆に塩水が入りこむようになった。ナイル河谷は、古くから下エジプトと上エジプトという、カイロを境にした2つの地域に分けられている。前者はデルタ地域をさし、後者はカイロから上流の谷をさしている。ナイル河谷は、世界でも最も人口密度の高い地域の一つである。
ナイル河谷以外にはほとんど人は住まず、わずかな人がオアシスに集まって住むのみである。乾燥が激しく地形がなだらかなため、特にリビア砂漠側にはワジがまったくない。シーワ、ファラーフラ、ハルガ、バハリーヤ、ダフラといったオアシスが点在している[11]。ナイル以東のシャルキーヤ砂漠は地形がやや急峻であり、ワジがいくつか存在する。紅海沿岸も降雨はほとんどないが、ナイルとアラビア半島を結ぶ重要な交通路に位置しているためいくつかの小さな港が存在する。
気候
詳細は「エジプトの気候」および「:en:Climate of Egypt」を参照
国土の全域が砂漠気候で住民はナイル河谷およびデルタ地帯、スエズ運河付近に集中し、国土の大半はサハラ砂漠。夏の気候は40℃を超え、降雨はわずかに地中海岸にあるにすぎない。冬はデルタで13度から14度、上エジプトで16度程度となる。
経済
詳細は「エジプトの経済」および「:en:Economy of Egypt」を参照
2010年のエジプトのGDPは約2168億ドル(約17兆円)[12]でありアフリカ屈指でありBRICsの次に経済発展が期待できると言われているNEXT11の一国にも数えられている。しかし、スエズ運河収入と観光産業収入に依存するところが大きく、政情に左右されやすい。かつては綿花の世界的生産地であり、ナイル川のもたらす肥沃な土壌とあいまって農業が重要な役割を果たしていた。しかし、通年灌漑の導入によってナイルの洪水に頼ることが少なくなった上、アスワン・ハイ・ダムの建設によって上流からの土壌がせき止められるようになった、そのため、ダムによる水位コントロールによって農地が大幅に拡大し、農業生産高が格段に上がったにもかかわらず、肥料の集中投入などが必要になったためにコストが増大し、近年代表的な農業製品である綿製品は価格競争において後塵を拝している。1970年代に農業の機械化及び各種生産業における機械への転換により、労働力の過剰供給が見受けられるようになり、都市部に流出し、治安・衛生の悪化及び社会政策費の増大を招くも、80年代には、石油産業従事者の増大に伴い、農業において労働力不足が顕著となる。この為綿花及び綿製品の価格上昇を招き、国際競争力を失った。1990年代から、IMFの支援を受け経済成長率5%を達成するがまた、社会福祉政策の低所得者向け補助の増大及び失業率10%前後と支出の増大に加え、資源に乏しく食料も輸入に頼るため、2004年には物価上昇率10%に達するなどの構造的問題を抱えている。現状、中小企業育成による国際競争力の強化、雇用創生に取り組んでいるも結果が出ていない。2004年のナズィーフ内閣が成立後は、国営企業の民営化及び税制改革に取り組んでいる。2008年、世界的な食料高騰によるデモが発生した。
交通
エジプトの交通の柱は歴史上常にナイル川であった。アスワン・ハイ・ダムの建設後、ナイル川の流れは穏やかになり、交通路として安定性が増した。しかし貨物輸送はトラック輸送が主となり、内陸水運の貨物国内シェアは2%にすぎない。ファルーカという伝統的な帆船や、観光客用のリバークルーズなどの運航もある。
鉄道は、国有のエジプト鉄道が運営している。営業キロは5,063キロにのぼり、カイロを起点としてデルタやナイル河谷の主要都市を結んでいる。
航空は、フラッグ・キャリアであるエジプト航空を筆頭にいくつもの航空会社が運行している。カイロ国際空港はこの地域のハブ空港の一つである。
国民
詳細は「エジプトの人口統計」および「:en:Demographics of Egypt」を参照
人口構成
エジプトの人口は80471879人(2010年推計)で、近年急速に増大し続けている。年齢構成は0から14歳が33%、15から64歳が62.7%、65歳以上が4.3%(2010年)で、若年層が非常に多く、エジプトだけにピラミッド型の人口構成をしている。若年層が非常に多く、しかも増加傾向にある一方、経済はそれほど拡大していないため、若者の失業が深刻な問題となっており、2011年エジプト騒乱の原因のひとつともなった。年齢の中央値は24歳である。人口増加率は2.033 %。
民族
「エジプト民族」も参照
住民はイスラム教徒とキリスト教徒(コプト教会、東方正教会など)からなるアラブ人がほとんどを占め、その他にベドウィン(遊牧民)やベルベル人、ヌビア人、アルメニア人、ローマ人、トルコ人、ギリシア人などがいる。遺伝的に見ればエジプト住民の殆どが古代エジプト人の直系であり、エジプト民族との呼称でも呼ばれる由縁である。また、エジプト人の大半は、イスラム勢力のエジプト征服と続くイスラム系国家の統治の間に言語学的にアラブ化し、本来のエジプト語を捨てた人々であるとする見解があるが、長いイスラーム統治時代の人的交流と都市としての重要性から、多くのアラブ人が流入、定住していったのも事実である。1258年にアッバース朝が崩壊した際、カリフ周辺を含む多くの人々がエジプト(主にカイロ近郊)へ移住したという史実は、中東地域一体における交流が盛んであったことを示す一例である。
なお古代のエジプト文明の印象があまりに大きいためか、特に現代エジプトに対する知識を多く持たない人は、現代のエジプト人を古代エジプト人そのままにイメージしている事が多い。すなわち、スフィンクスやピラミッドを建て、太陽神やさまざまな神を信仰していた古代エジプト人を、現代のエジプト人にもそのまま当てはめていることが多い。しかし上述のとおり現代エジプト人の9割はイスラム教徒であり、アラビア語を母語とするアラブ人である。それもアラブ世界の中で比較的主導的な立場に立つ、代表的なアラブ人の一つである。
言語
詳細は「エジプトの言語」および「:en:Languages of Egypt」を参照
現在のエジプトではアラビア語が公用語である。これは、イスラムの征服当時に齎されたもので、エジプトのイスラム化と同時に普及していった。ただし、公用語となっているのは正則アラビア語(フスハー)だが、実際に用いられているのはアラビア語エジプト方言である。
本来のエジプト語(厳密にはコプト語)を喋れる国民は極めて少なく、少数のキリスト教徒が典礼言語として使用するほかはエジプトの歴史に興味を持つ知識層が学んでいるだけであり、日常言語としてエジプト語(コプト語)を使用する母語話者は数十名程度である[13]。他には地域的にヌビア語、教育・ビジネスに英語、文化においてはフランス語なども使われている。
宗教
詳細は「エジプトの宗教」および「:en:Religion in Egypt」を参照
宗教はイスラム教が90%(ほとんどがスンナ派)であり、憲法では国教に指定されている(が、既述の通り、現在では宗教政党の活動ならびにイスラム主義活動は禁止されている)[14]。その他の宗派では、エジプト土着のキリスト教会であるコプト教会の信徒が9%、その他のキリスト教徒が1%となる[14]。
教育
詳細は「エジプトの教育」および「:en:Education in Egypt」を参照
エジプトの教育制度は、1999年から小学校の課程が一年延び、日本と同じく小学校6年・中学校3年・高校3年・大学4年の6・3・3・4制となっている[15]。 。義務教育は小学校と中学校の9年である。1923年のエジプト独立時に初等教育はすでに無料とされ、以後段階的に無料教育化が進み、1950年には著名な作家でもあった文部大臣ターハー・フセインによって中等教育が無料化され、1952年のエジプト革命によって高等教育も含めたすべての公的機関による教育が無料化された。しかし、公立学校の教師が給料の少なさなどから個人の家庭教師を兼任することが広くおこなわれており、社会問題化している[16]。高額な授業料を取る代わりに教育カリキュラムの充実した私立学校も多数存在する。エジプト国内には、20万以上の小中学校、1000万人以上の学生、13の主要大学、67の師範学校がある。
2005年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は71.4%(男性:83%、女性:59.4%)である[14]。2006年にはGDPの4.2%が教育に支出された[14]。
主な高等教育機関としては、アル=アズハル大学(988)、カイロ大学(1908)などが存在する。
国立図書館として新アレクサンドリア図書館が存在する。
文化
詳細は「エジプトの文化」および「:en:Culture of Egypt」を参照
- 古代エジプトの建造物で有名。
- カードゲームの発祥の地としても知られている。
- 座ったときに足を組むと、相手に敵意があると受けとられる。
- 普段おとなしいライオンを檻に閉じ込め槍で目を突き失明させることが、エジプト男性の最強の証とされている(虎や白熊は怖いので対象外)。
文学
詳細は「エジプト文学」を参照
古代エジプトにおいてはパピルスにヒエログリフで創作がなされ、『死者の書』などの作品が現代にも残っている。7世紀にアラブ化した後もエジプトはアラブ文学の一つの中心地となった。現代の作家であるナギーブ・マフフーズは1988年にノーベル文学賞を受賞している。
世界遺産
エジプト国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件、自然遺産が1件登録されている。詳細はエジプトの世界遺産を参照。
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祝祭日
8月8日は、母の日である。
参考文献
脚註
- ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1])
- ^ 片山正人「現代アフリカ・クーデター全史」叢文社 2005年 ISBN 4-7947-0523-9 p49
- ^ エジプト副大統領が野党代表者らと会談、譲歩示す
- ^ 2011年12月現在では、定数498議席のうち、3分の2(332議席)が政党(連合)リストによる比例代表制で、3分の1(166議席)が小選挙区制で選出される
- ^ エジプト・シャラフ内閣が総辞職表明 デモの混乱で引責 朝日新聞 2011年11月22日
- ^ エジプト軍議長「近く挙国一致内閣」とテレビ演説 朝日新聞 2011年11月23日
- ^ エジプト軍議長、元首相に組閣要請 選挙管理内閣を想定 朝日新聞 2011年11月25日
- ^ 『アフリカを知る事典』、平凡社、ISBN 4-582-12623-5 1989年2月6日 初版第1刷 p.58
- ^ “エジプト:ガザ、出入り自由に 検問所開放、外交転換鮮明に” 2011-05-26閲覧。
- ^ 「朝倉世界地理講座 アフリカⅠ」初版所収「ナイル川の自然形態」春山成子、2007年4月10日(朝倉書店)p198
- ^ ミリオーネ全世界事典 第10巻 アフリカⅠ(学習研究社、1980年11月)p206
- ^ IMF
- ^ The Dairy Star of Egypt 2007年1月23日
- ^ a b c d CIA World Factbook "Egypt" 2010年1月31日閲覧。
- ^ [2]
- ^ [3]
関連項目
外部リンク
- 政府
- エジプト・アラブ共和国政府 (アラビア語)(英語)
- 在日エジプト大使館 (英語)(日本語)
- 日本政府
- 日本外務省 - エジプト (日本語)
- 在エジプト日本国大使館 (日本語)
- 観光
- その他
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