ギルバート・マーシャル諸島の戦い
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ギルバート・マーシャル諸島の戦い(ギルバート・マーシャルしょとうのたたかい)は太平洋戦争(大東亜戦争)中のギルバート諸島、マーシャル諸島で行われた戦い。それぞれの戦いの詳細はそれぞれの記事を参照。
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ギルバート諸島
背景
日本軍は1941年12月10日にギルバート諸島を攻略して以来、同地の守備兵力は少数しか置いていなかった。しかし、1942年8月17日にマキンが潜水艦による奇襲攻撃を受けたことにより、同方面への兵力の増強と守備施設の強化が行われた。しかし、その守備兵力はまだ充分とはいえなかった。このほか、逆上陸作戦用に陸軍の「甲支隊」がポナペ島に待機していた。
日本海軍は、基地航空部隊や機動部隊などの総力を挙げた共同攻撃で撃退するという作戦計画「Z作戦」を立案していた。しかしながら、9月と10月の2度に渡るマーシャル方面への艦隊出撃(いずれも空振り)のため、前進基地トラック島の備蓄燃料が不足し、大規模な艦隊の行動が困難となってしまった。さらに、ソロモン諸島方面での「ろ号作戦」で空母搭載機が大打撃を受けてしまい、計画通りの迎撃は不可能となった。結果、基地航空部隊と潜水艦を中心に反撃することとなる。
一方、1943年にアリューシャン列島、ソロモン諸島で勝利を収めた米海軍は、米国統合戦略委員会とともに中部太平洋への侵攻作戦を計画した。
当初、この計画に南太平洋最高司令官であるダグラス・マッカーサーを中心とした米陸軍は反対していたのだが、最終的には米国統合参謀本部の決定により中部太平洋への侵攻作戦が行われることになった。
8月21日から8月24日の間にはカナダのケベックでアメリカ合衆国、イギリス、カナダ、フランスの四箇国が会談した。この会談により中部太平洋への侵攻作戦の具体案が決定し、米軍の攻撃の最初の矛先がギルバート諸島のマキン、タラワ、アベママに向けられることになった。
マキン島
詳細は「マキンの戦い」を参照
マキンには第3特別根拠地隊分遣隊243名を中心とした693名が守備についていた。
11月19日から連日空襲が行われるようになり、21日早朝に陸軍27師団の1個連隊が上陸した。守備隊は奮戦するも、23日早朝に1名を除き全員玉砕した。
タラワ島
詳細は「タラワの戦い」を参照
タラワには第3特別根拠地隊本隊902名、佐世保第7特別陸戦隊1669名を中心とした約4500名が守備についていた。
タラワも11月19日から空襲を受け、21日早朝に海兵第2師団が上陸作戦を開始した。しかし、守備隊の抵抗は激しく、上陸初日はほとんどの米兵は海岸までたどり着くことはできなかった。
だが、22日午後には形勢が逆転し守備隊は追い詰められていった。そして翌23日夜に残存守備隊は最後の突撃を敢行し、17名を除き全員玉砕した。
アベママ島
アベママには見張員24名が守備についていた。
21日夜に潜水艦によって輸送された米兵78名が上陸。日本兵は全員玉砕した。
ギルバート諸島沖航空戦
ギルバート攻略後、同諸島に航空基地を整備した米軍は、マーシャル諸島に対する航空攻撃を開始した。この攻撃に対し、在マーシャルの日本軍航空部隊はギルバート沖で米軍航空部隊を迎撃した。
ギルバート諸島沖航空戦は11月末まで4次にわたって行われ、その後12月5日にはマーシャル諸島沖航空戦が行われた。日本軍は空母多数撃沈の大本営発表をしたが、実際にアメリカ軍が受けた損害は空母2隻損傷にとどまった。日本軍航空部隊の損害は甚大であった。
主な出来事
- 1941年
- 12月10日 - 日本軍、ギルバート諸島攻略
- 1942年
- 8月17日 - マキン島、米軍部隊の奇襲を受ける
- 1943年
- 2月18日 - 第3特別根拠地隊が新編制される
- 9月18日 - アメリカ機動部隊がギルバート諸島を空襲。日本軍機動部隊も迎撃に向かうが、会敵できず。
- 10月中旬 - アメリカ軍が襲来するとの情勢判断から、日本艦隊が大規模な出動を行うが、実際には戦闘とならず。この作戦でトラック島の備蓄燃料が尽きたため、以後、大規模な艦隊行動は困難となる。
- 11月19日 - B24 1機、ギルバートに来襲
- 11月20日 - 艦載機による空襲が開始される
- 11月21日 - マキン、タラワ、アベママの三島に米軍上陸開始(アベママの日本軍守備隊は同日玉砕)
- 同日 - 日本海軍がZ作戦発令。ギルバート諸島沖航空戦が始まる(~29日)。
- 11月23日 - マキン、タラワの日本軍守備隊玉砕
マーシャル諸島
背景
ギルバート攻略後、米軍は中部太平洋における次なる攻略目標としてマーシャル諸島を目指した。
米軍の作戦計画は、まず、チェスター・ニミッツ提督がマーシャル東端のマロエラップ、ウオッゼの両環礁と日本軍の司令部があるクェゼリン環礁を同時攻略するという計画を立てた。
しかし、タラワ戦で上陸部隊を指揮したホーランド・スミス少将はこの計画に反対し、レイモンド・スプルーアンス、リッチモンド・ターナーの両提督も反対した。三人は、まずマロエラップとウオッゼを攻略し、その後にクェゼリンの攻略作戦を行うべきだと主張した。
これに対してニミッツ提督は、マロエラップ、ウオッゼなどの東マーシャルの日本軍基地を素通りして、クェゼリンのみを攻略対象とするという案を出した。スミス、スプルーアンス、ターナーの三人はこの案に反対したが、ニミッツ提督の意思は固く、スプルーアンス中将もこの計画を認めざるをえなかった。
そのかわりにスプルーアンス中将は、クェゼリン攻略の際にマジュロ環礁の同時攻略を主張した。これをニミッツ提督は承諾し、米軍の作戦計画は決定した。
一方、日本軍は、ギルバートに近いミリ、ヤルートかハワイから最も近い所にあるマロエラップ、ウオッゼに次の米軍の攻撃が向けられるものと考えていた。そのため、日本軍はこれらの前線基地に優先的に物資と人員を送っており、クェゼリンの防備はこれらの島と比べて進んでいなかった。
日本軍はマキン、タラワの失陥以来、満洲の関東軍からも兵力を送った。1944年1月15日の時の各島の兵力は
- クェゼリン 5210名
- ミリ 4640名
- マロエラップ 3330名
- ウオッゼ 3324名
- ルオット・ナムル 2900名
- ヤルート 2311名
となっていたが、各島の兵力は充分とはいえず、防御施設はほとんど整備されていなかった。なお、クェゼリンの兵力のうち、陸軍部隊1000名は輸送船の都合でクェゼリンに待機を余儀なくされていた部隊で、ウオッゼへ進出の予定であった。そのため、クェゼリンでは実戦部隊としての任務についていなかった。
マジュロ島
1944年2月1日、ハリー・ヒル少将が指揮する攻略部隊が上陸。島には日本軍守備隊はおらず、同日中に無血占領を果たした。
ルオット島・ナムル島
詳細は「クェゼリンの戦い」を参照
ルオット(ロイ)とナムルはクェゼリン環礁の北部にある双子島で、第61警備隊分遣隊約400名を主力とした2900名が守備についていた。
1944年1月30日より、リチャード・コノリー少将指揮の攻撃部隊による空襲と艦砲射撃を受けるようになり、2月2日、海兵第4師団の海兵第23、24連隊が上陸した。
事前の砲爆撃で日本軍守備隊のほとんどは死傷していた。そのため、同日中に米軍は両島を占領できた。
クェゼリン島
詳細は「クェゼリンの戦い」を参照
クェゼリンには日本陸軍海上機動第1旅団第2大隊約1000名を中心とした5210名が守備についていた。
1月30日からリッチモンド・ターナー中将指揮の攻撃部隊による空襲と艦砲射撃を受けるようになり、2月2日午前に米軍は上陸を開始した。
その日の夜、日本軍は夜襲をかけ米軍を海岸まで一時撤退させた。しかし、米軍は、環礁内の周辺無人島から砲撃を加え、日本軍を撃退した。その後は日本軍は守勢となり、守備隊は5日に玉砕した。生存者は263名。
エニウェトク環礁
詳細は「エニウェトクの戦い」を参照
エニウェトクには海上機動第1旅団主力2763名を中心とした3560名の日本軍が守備についていた。
当初、エニウェトクは今次作戦の攻略対象ではなかったが、クェゼリン攻略の予備隊として準備していた第4海兵師団第22連隊と第27歩兵師団第106大隊を使用しなかったので、この部隊をエニウェトク攻略にあてることになった。
1月31日からマーク・ミッチャー少将指揮の攻撃部隊による空襲を受け、2月18日未明から艦砲射撃が開始された。そして2月19日午前に米軍はエンチャビ島に上陸を開始し、同日中にエンチャビ島を占領した。その後、米軍は同環礁内のエニウェトク島、メリレン島にも上陸し、23日までに同環礁を確保した。
マロエラップ環礁
同環礁には、タロア島を中心に陸軍3000名、海軍警備隊1100名、他に海軍航空部隊が展開していた。
1944年1月30日、スプルーアンス部隊の攻撃を受けて、飛行隊を中心とした航空施設は壊滅的な打撃を受けて、本土から救援も絶望的な状況になる。しかし、同島はアメリカ軍の占領地域には入っておらず、終戦までアメリカ軍による航空攻撃と降伏勧告が続く。しかし、生き残った部隊は降伏する事無く、結果として終戦まで同島を維持する事に成功する。
その他の島
1944年1月30日、米軍による上陸作戦が直接行われなかった島に対しても空襲や艦砲射撃による攻撃が行われた。マロエラップとウオッゼにはマーク・ミッチャー少将指揮の攻撃部隊が、ミリとヤルートにはジョン・フーバー少将指揮の基地航空隊が攻撃を行った。
これらの島はクェゼリン陥落後、日本本土からの食糧などの補給が困難となり、終戦時まで飢餓に悩まされることになる。
主な出来事
- 1942年
- 2月1日 - 米機動部隊、マーシャル諸島来襲
- 1943年
- 1944年
トラック島空襲
詳細は「トラック島空襲」を参照
1944年2月17、18日の両日、海軍がソロモン諸島方面の拠点としていたトラック島が第58任務部隊艦載機589機による空襲を受けた。航空機の殆どを破壊損傷し、港から脱出した艦船は敵の艦隊に撃沈された。施設・物資を破壊され、補給が途絶えたことで基地としての機能を失ったが、米軍が迂回作戦をとって上陸しなかったため、トラック島は終戦まで維持された。
結果
海軍の一大拠点トラック島を無力化し制海権、制空権を握った米軍はマリアナ・パラオ諸島へ侵攻を開始した。
参考文献
- 佐藤和正 『玉砕の島』 (光人社NF文庫 2000年) ISBN 4-7698-2272-3
関連項目
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