コンゴ民主共和国
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- コンゴ民主共和国
- République Démocratique du Congo
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ファイル:Flag of the Democratic Republic of the Congo.svg ファイル:Coat of arms of the Democratic Republic of the Congo.svg (国旗) (国章) - 国の標語: Démocratie - Justice - Unité
(フランス語:民主主義、正義、団結) - 国歌: 起てコンゴ人よ
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- ファイル:Democratic Republic of the Congo (orthographic projection).svg
公用語 フランス語 首都 キンシャサ 最大の都市 キンシャサ 独立
- 宣言
- 承認ベルギーより
1960年6月30日通貨 コンゴ・フラン(CDF) 時間帯 UTC +1 ~ 2(DST: なし) ISO 3166-1 CD / COD ccTLD .cd 国際電話番号 243
アフリカ大陸中央部のコンゴ川流域に広がり、アルジェリアに続いてアフリカ大陸で第2位の面積を擁し、世界全体でも第11位の面積を擁する広大な国家である。1997年に現在の国名に改められたが、それまでの国名のザイールとしてもよく知られる。熱帯性気候。
目次 |
国名
正式名称はフランス語で、République Démocratique du Congo(レピュブリク・デモクラティク・デュ・コンゴ)。
公式の英語表記は、Democratic Republic of the Congo。
日本語の表記はコンゴ民主共和国。簡略表記としては、「コンゴ(旧ザイール)」が多いが、「DRコンゴ」と呼ばれることもある。
1960年から1967年の間の正式名称は西のコンゴ共和国と同じ「コンゴ共和国」であったため、区別のために、コンゴ・レオポルドビル、コンゴ・キンシャサなどと呼ばれた。
- 1885年 - 1908年 コンゴ自由国(ベルギー国王の私有地)
- 1908年 - 1960年 ベルギー領コンゴ
- 1960年 - 1967年 コンゴ共和国
- 1967年 - 1971年 コンゴ民主共和国
- 1971年 - 1997年 ザイール共和国
- 1997年 - 現在 コンゴ民主共和国
歴史
詳細は「コンゴ民主共和国の歴史」を参照
13 - 17世紀にかけてコンゴ王国が栄えたほか、南部にはクバ王国があった。
ベルギー植民地時代
1885年にベルギーの国王、レオポルト2世の私有地「コンゴ自由国」(État indépendant du Congo)とされ、1908年にはベルギー政府に所有権が移され植民地に。1950年代後半からジョゼフ・カサブブのコンゴ人同盟、パトリス・ルムンバのコンゴ国民運動が独立闘争を開始。
独立とコンゴ動乱
1960年6月30日にコンゴ共和国(1967年、コンゴ民主共和国に改称)としてベルギーから独立。カサブブは大統領、ルムンバは首相に就任。独立から1週間も経たずして内乱とベルギー軍の介入を経験し、「コンゴ動乱」が始まる。1961年、ルムンバ首相が殺害される。
ザイール共和国(モブツ政権)時代
1965年11月、モブツ商務・雇用・貿易相がクーデターで実権掌握。1997年までの32年間モブツ大統領の独裁が続いた。
1971年に国名をザイール共和国 (République du Zaïre) に。革命人民運動 (MPR) の一党独裁制を敷いた。1990年4月、民主化要求の高まりを受け議会は11月に複数政党制への道を開く憲法修正案を可決。12月任期2期を満了したモブツ大統領が、3選を禁止した憲法条項を無視し辞任を拒否。
モブツ体制崩壊以降
議会は1996年4月、東部のツチ系ムレンゲ人の追放を決議し政府軍が攻撃。バニィヤムレンゲ等の武装組織コンゴ・ザイール解放民主勢力連合 (AFDL) がルワンダ、ウガンダ、ブルンジなどの支援で反撃し、1997年5月にキンシャサを制圧(第一次コンゴ戦争)。モブツ政権は崩壊し、AFDLのローラン・カビラ議長が大統領に就任、国名をザイール共和国からコンゴ民主共和国に変更した。大統領は司法権を除く全権を自身に付与することを発表するなど、強権支配体制を敷いた。
カビラ大統領は、ツチ系が政権を握るルワンダなどの影響力が強まることを恐れ、政権や軍部からツチ系の排除を始めたために、1998年8月に東部を中心として第二次コンゴ戦争に発展。国内のダイヤモンドやコバルトなどの豊富な鉱産資源に関する利権も絡み、反政府勢力コンゴ民主連合 (RCD) を主にウガンダとルワンダが、政府軍を主にジンバブエ、ナミビア、アンゴラが支援。戦闘などで住民20万人以上が死亡し、紛争に伴う食糧・医薬品不足などでさらに150万人が死亡したとされる。
政府と介入5か国は1999年7月、ザンビアのルサカで停戦協定に調印(ルサカ合意)。しかしカビラ大統領は国連部隊の自由な展開を拒否し、停戦は事実上無効化した。2001年1月16日、ローラン・カビラ大統領が護衛兵に撃たれ死亡。長男のジョゼフ・カビラが26日に後任大統領に就任。
和平協定に向け、2001年10月15日からエチオピアのアディスアベバで対話が実現。ルワンダが支援するコンゴ民主連合 (RCD)、ウガンダが支援するコンゴ解放運動 (MLC)、そしてRCDから分離したコンゴ民主連合解放運動 (RCD-ML) の主要反政府勢力3組織などが、協議継続などをうたった共同声明に調印した。
2002年2月25日、戦争終結を目指す各派の対話がボツワナのクェット・マシーレ前大統領を調停役として、南アフリカのサンシティで再開されたが決裂。対話は南アフリカのプレトリアで、セネガルのニアセ前首相の仲介で再開され、反政府勢力はRCDとMLCが参加した。12月にプレトリア包括和平合意が成立し、2003年7月、合意に基づき暫定政権が成立した。
しかし政権は国内すべてを掌握しておらず、依然として戦争状態が続いている。民族対立とも相まって東部は虐殺・略奪・強姦の頻発する一種の無法地帯となっている。2003年には北部地方でエボラ出血熱が流行。死亡者は100名以上に及んだ。また、同国を生息地とするゴリラへも感染が飛び火し、全個体数の2/3が死亡したと発表されている。
和平合意により2005年に大統領選挙と国民議会選挙を行い民主的政権に移管する予定だったが、同年7月に選挙準備の遅れを理由に延期。2006年6月までに実施を予定していたが、実施されたのは同年7月30日であった。2005年12月には、この選挙の前提としての憲法草案に対する国民投票が行われ、賛成多数で可決した。この結果を受けて2006年2月18日に新憲法が発効された。
政治
詳細は「コンゴ民主共和国の政治」を参照
- 政治体制:共和制。
- 大統領:ジョゼフ・カビラ(任期: 2001年1月26日 - )
- 内閣:閣僚は大統領が任免。新憲法下で首相職が新設され、現在はアドルフ・ムジトが首相。
- 議会:立法・憲法制定会議(300議席)が暫定議会として機能
- 政党:カビラ大統領の与党再建民主人民党 (PPRD)、ADFLの後身人民権力委員会 (CPP) のほか、旧モブツ政権下の独裁政党革命人民運動 (MPR)、そしてキリスト教民主社会党 (PDSC) など。
2002年8月、ムベキ南アフリカ大統領の仲介により、和平が成立した(プレトリア合意)。2003年7月、暫定政府が正式に発足。2005年12月の憲法国民投票を得て2006年7月の選挙が実現した。しかし、各地で武装組織の活動が続き、不穏な情勢の中で投票日を迎えた。
2006年7月30日、大統領選挙と議会選挙が行われた。定数500。8月20日、大統領選挙の暫定公式結果が発表された。当選に必要な過半数の得票率の候補者がなく10月29日に上位二人の決選投票が行われることになった。
独立選挙委員会の発表によると、「大統領多数派連合」から立候補したカビラ暫定政府大統領の得票数は44.81%。元コンゴ解放運動 (MLC) 指導者で暫定政府副大統領のベンバが20.03%で2位。投票率は、約2500万人の登録有権者のうち70%が投票した。
内戦について
詳細は「コンゴ動乱」、「第一次コンゴ戦争」、および「第二次コンゴ戦争」を参照
地方行政区分
詳細は「コンゴ民主共和国の行政区画」を参照
コンゴ民主共和国の地方行政は、2006年までは10の州といずれの州にも属さない首都市キンシャサに区分された。2005年憲法で25州制への移行が決められ、2006年2月に国民投票で承認された。憲法226条の規定により36か月後の2009年2月までに移行される。
- 西部
- 北部
- 3 赤道州
- 東部
- 中部
- 南部
- 6 カタンガ州
地理
詳細は「コンゴ民主共和国の地理」を参照
コンゴ民主共和国の面積は西ヨーロッパに匹敵する。3分の1が赤道の北側に、3分の2が南側に位置する。非常に雨が多く、雷も地球上で最も多い。年間降雨量は場所により2,000ミリを超え、アマゾンに次ぐ広さの熱帯雨林を抱える。西の大西洋へゆっくり下るコンゴ川の流域は広大なコンゴ盆地の大部分を占める。南はサバンナに続く高地に、西は山がちの台地に、北は草地に囲まれ、最も東には氷河で覆われる高山がある。
コンゴの名前はコンゴ川と植民地以前に存在したコンゴ王国に由来する。流域はコンゴの経済・輸送の背骨であり、住民の日常生活に大きく影響している。アフリカ大地溝帯にあるボヨマ滝の下流のキサンガニから西へ流れ始め、ゆっくり南西に向きを変え、ムバンダカを過ぎてウバンギ川と合流し、プールマレボ(スタンレープール)に注ぐ。キンシャサとブラザヴィルはこのプールの対岸同士である。ここから川幅が狭くなり、峡谷にはいくつもの急流と瀑布があり、集合的にリビングストン滝と呼ばれる。アマゾン川に次ぐ流量と流域面積を誇るが、コンゴが大西洋に面する部分はコンゴ川の北側40kmに過ぎない。
大地溝帯は火山活動を起こし、アルバート湖、エドワード湖、タンガニーカ湖などの大湖を形成した。最も重要なのは南部と東部にある膨大な鉱物資源を地表へ露出させ採掘可能にしたことである。コバルト、銅、カドミウム、ダイアモンド、金、銀、亜鉛、マンガン、錫、ゲルマニウム、ウラン、ラジウム、ボーキサイト、鉄鉱、石炭がすべて豊富にあり、とくに南東部カタンガ地域が有名である。2002年1月17日に噴火したニーラゴンゴ火山の溶岩は幅50m、時速60kmの早さで流れ、ゴマ市付近を襲い、45人を死亡させ、12万人の家を奪った。40万人が避難し、キブ湖の魚が全滅した。半年後には近くのニャムラギラ火山も噴火し、2006年に再噴火している。
主要都市:ルブンバシ、ムブジ・マイ、キサンガニ、カナンガ、ゴマ、ムバンダカ、マタディ、ブカヴ
経済
地下資源に恵まれるものの、1990年代の内戦などでインフラは破壊され、経済は壊滅状態となっており、世界最貧国の1つとなっている。
鉱業
銅、コバルト、ダイヤモンド、カドミウム、黄金、銀、亜鉛、マンガン、錫、ゲルマニウム、ウラン、ラジウム、ボーキサイト、鉄鉱石、石炭などを産する世界トップクラスの鉱産資源国であり、輸出の約9割を鉱産資源が占める。コバルトの埋蔵量は世界の約65%。かつてはウランの採掘も行われており、1945年に広島市に投下された原子爆弾の原料はベルギー領コンゴ国産であった。一方、コルタン(タンタルの鉱石)は、北キヴ州などに展開する反政府武装組織の資金源とされており、国内が不安定化する要因の一つとなっている。
また、ギニア湾沖に海底油田を擁しており、原油の輸出も盛んで同国の経済を支える重要な財源となっている。
交通
詳細は「コンゴ民主共和国の交通」を参照
コンゴ民主共和国の陸上交通は慢性的に困難な状態である。コンゴ盆地の地勢と気候は道路や鉄道を建設するのに深刻な障壁となり、この広大な国家を横断するための距離は莫大である。さらに、慢性的な経済的失敗と国内紛争によって長年に渡り、投資が深刻に低い水準に留まっている。
他方では、コンゴ民主共和国には数千キロの航行可能な水路が存在し、伝統的に水上交通は国の移動の約2/3を占めてきた。
コンゴ民主共和国によって保障された全ての航空会社は安全基準が不十分なため、欧州委員会によりヨーロッパ連合内の飛行・発着陸を禁止されている[2]。
国民
詳細は「コンゴ民主共和国の国民」を参照
国際連合は2007年にコンゴ民主共和国の人口を6,260万人と推計した。これは1997年には4,670万人となった戦争にもかかわらず急激に増加したものである。250以上の民族集団が認識され、名づけられている。バントゥー系、スーダン系、ナイル系などの黒人が大半を占め、最も人口が多いのはコンゴ人、ルバ人、モンゴ人などである。700もの地方語や方言が話されているが、この言語的不一致は、フランス語と、コンゴ語やルバ語、スワヒリ語、リンガラ語といった仲介言語の広範な普及によって乗り越えられている。
言語
コンゴ民主共和国内には約242の言語が存在するが、公用語はフランス語である。アフリカ土着言語からはスワヒリ語(キスワヒリ)、コンゴ語(キコンゴ)、リンガラ語、ルバ語の4つが国民語として認められており、西部ではリンガラ語の影響力が、東部ではスワヒリ語の影響力がそれぞれ増す傾向にある。
宗教
詳細は「コンゴ民主共和国の宗教」を参照
コンゴ民主共和国の主要宗教はキリスト教であり、人口の約80%によって信仰されている。宗派ごとに見ると、カトリックが50%、プロテスタントが20%、キンバング教会が10%となる[3]。キンバング教会は植民地時代にシモン・キンバングによって創設され、植民地支配体制を批判する勢力となったためにベルギー当局によって弾圧された。キンバング教会には約300万人の信徒が存在し[3]、バス=コンゴとキンシャサのコンゴ人が主な担い手となっている。コンゴ民主共和国においてウィリアム・ブランハムは最も多くのキリスト教徒を集め、およそ2,000,000人の信徒が存在すると見積もられている[要出典] 。コンゴキリスト教会の傘下に62のプロテスタントの諸宗派が連合している。人口の20%以上を占めるプロテスタントをカバーしているため、単に「プロテスタント教会」と言及されることもある。
残りの20%の人口のうち、半数はムスリムであり[5] 、残りは伝統宗教か、習合した宗派を信仰している。イスラームはアラブ人の奴隷商人によって象牙交易などを通して普及された[6]。伝統宗教は一神教、アニミズム、生気論、霊魂崇拝、祖先崇拝、ウィッチクラフト、呪術などの概念によって具現化され、幅広い民族集団の間で異なっている。往々にして習合した宗派はキリスト教と伝統的な信仰や儀式を統合し、主流教会によってキリスト教の一部だとみなされることはない。
教育
詳細は「コンゴ民主共和国の教育」を参照
コンゴ民主共和国の教育システムはMinistère de l’Enseignement Primaire, Secondaire et Professionnel (MEPSP)、Ministère de l’Enseignement Supérieur et Universitaire (MESU) 、Ministère des Affaires Sociales (MAS)の3つの省庁によって担われている。教育システムはベルギーのものと似ている。2002年には、160,000人の生徒が通う19,000校以上の初等学校と、110,000人の生徒が通う高等学校(中等教育を行う)が存在した。
しかしながら、コンゴ民主共和国の初等教育は必修ではなく、無料でも一般的なものでもなく、多くの児童は両親が入学金を支払うことができないために学校に通うことができない[7]。両親は慣習的に教員の給料を支払うことを期待されているのである[7]。1998年には、近年のデータが利用可能になり、初等教育の就学率の合計は50%だった[7]。就学率の合計は初等学校に正式に登録された生徒の数に基づいており、それゆえに実際の登校率に反映する必要はない[7]。2000年には、10歳から14歳までの児童の65%が学校に出席していた[7]。6年間の内戦のため、520万人以上の児童が教育を受けていない[7]。
2001年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は67.2%(男性:80.9% 女性:54.1%)である[8]。
女性の状態
詳細は「コンゴ民主共和国の女性」を参照
2006年のあらゆる形態の女性差別を撤廃する国連委員会は、戦後の過渡期においては、女性の人権と性的平等の増進は優先するものだと考えてられていないことに懸念を表明した[9]。
コンゴ東部では、数おおく報告された激しいレイプやその他の性的暴力が世界最悪を物語っている[10]。アフリカ人権防衛協会による2006年の報告によれば、委員会はコンゴ民主共和国の女性が法的、日常生活の両面において直面する問題の広い概観を示すことを提案している[11]。戦争の中で彼女たちはレイプされ続け、兵士たちの奴隷状態に置かれている。女性たちが解放されるのは、多くは自殺したか死んでいるのが病院で確認された時である。
戦争は女性の人生をより不安定なものにした。女性に対する暴力は社会の大部分には「当たり前」と認識されているようである[12]。2007年7月には、国際赤十字委員会がコンゴ民主共和国東部の状態に懸念を表明した[13]。「振り子運動」の様に、人々は安全のため夜間の移動にせきたてられる。2007年7月にコンゴ東部の暴力に関する国連の特別報告者のヤキン・エルトゥルク (Yakin Ertürk) によれば、南北キヴ州の女性に対する暴力は「想像もつかないほど残酷」で「武装集団が地域共同体を襲撃し、略奪し、レイプし、女性と子供を誘拐し、彼等を性奴隷にしている」とエルトゥルクは語った[14]。
文化
詳細は「コンゴ民主共和国の文化」を参照
コンゴ民主共和国の文化は数百を越す民族集団の多様性と、国全体を通した生き方の差異が反映されている。例えば沿岸部のコンゴ川の河口、上流の熱帯雨林、中央部のサヴァナ、東部の人口が密集した山岳部などである。19世紀末から伝統的な生き方は、植民地主義、独立の混乱、モブツ時代の停滞、そして近年の第一次コンゴ戦争や第二次コンゴ戦争などによって変容した。このような圧力にもかかわらず、コンゴの習慣や文化はその独自性を強く保っている。6,000万の住民は多くは農村部に居住している。都市部に居住する30%の人口は西側世界の文化の影響に強く開かれている。
音楽
ポピュラー音楽においては、植民地時代の1930年代、1940年代にキューバからルンバなどのラテン音楽がもたらされ、ベルギー領コンゴでも盛んにラテン音楽の演奏が行われた。また、1950年代にはアメリカ合衆国のジャズもアフリカン・ジャズとして盛んに受容された。この時期の音楽家としては「コンゴ音楽の王」ことフランソワ・ルアンボ・マキアディ(通称フランコ)や、マーロ・マシ、グラン・カレなどの名が挙げられる。
コンゴのポピュラー音楽はそのようなアメリカ大陸のリズムだけではなく、教会音楽やガーナのハイライフ、さらにはコンゴの伝統音楽をも取り入れて発達し、1969年にパパ・ウェンバが中心となってザイコ・ランガ・ランガが結成された後のポピュラー音楽は、キューバ音楽の模倣を越えてザイール音楽を形成し、その流れのままザイールのポピュラー音楽の主要ジャンルとして諸外国に名を轟かせた、ルンバ・ロックやリンガラ・ポップスと呼ばれるジャンルが生まれた。リンガラ・ポップスのミュージシャンとしてはザイコ・ランガ・ランガの他にトゥ・ザイナやタブー・レイ、オルケストル・ヴェヴェ、カンダ・ボンゴマン、サム・マングワナなどの名が挙げられる。
その他にも北東部のイトゥリの森のピグミー人には独自の音楽文化が存在する。
世界遺産
コンゴ民主共和国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された自然遺産が5件存在する。詳細は、コンゴ民主共和国の世界遺産を参照。
Nyiragongo2004.jpg
ヴィルンガ国立公園 - (1979年、自然遺産) |
White rhinoceros Hluhluwe-Umfolozi.jpg
ガランバ国立公園 - (1980年、自然遺産) |
KahuziBiegaSign.jpg
カフジ=ビエガ国立公園 - (1980年、自然遺産) |
Bonobo.jpg
サロンガ国立公園 - (1984年、自然遺産) |
Epulu Okapi Reserve.jpg
オカピ野生生物保護区 - (1996年、自然遺産) |
祝祭日
| 日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1月4日 | 独立の殉教者の日 | journée des Martyrs de l'indépendance | |
| 1月16日 | date anniversaire de l'assassinat du Président de la République Laurent-Désiré Kabila | ||
| 1月17日 | date anniversaire de l'assassinat du premier Ministre Patrice Émery Lumumba père de l' indépendance nationale | ||
| 5月1日 | メーデー | journée internationale du travail | |
| 5月17日 | date anniversaire de la libération du Peuple de la tyrannie | ||
| 6月30日 | 独立記念日 | date anniversaire de l'indépendance | |
| 8月1日 | 両親の日 | fête des parents/anciens |
著名な出身者
- ジョン・ムウェテ・ムルアカ
- ムエゼ・ンガングラ - 映画監督
- カマ・シウォール・カマンダ - 作家
- クロード・マケレレ - サッカー選手
脚注
参考文献
- 梶茂樹「モンゴ人のジレンマ : ザイール国語化問題の一断章(アフリカ研究編)」『大阪外大スワヒリ&アフリカ研究』 1991
- 砂野幸稔「アフリカ文化のダイナミズム」『ハンドブック現代アフリカ』岡倉登志:編 明石書店 2002/12
関連項目
- コンゴ民主共和国関係記事の一覧
- 自衛隊ルワンダ難民救援派遣(1994年に自衛隊がルワンダ難民救援のために当時のザイールに派遣された。)
- シンコロブエ鉱山
- ミサ・ルバ
- オナトラ船
外部リンク
- 政府
- 日本政府
- 日本外務省 - コンゴ民主共和国 (日本語)
- 日本政府
- 観光
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