サッカー日本代表
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| 国または地域 | ファイル:Flag of Japan.svg 日本 | ||||||||
| 協会 | 日本サッカー協会 | ||||||||
| 愛称 | SAMURAI BLUE(サムライ・ブルー) | ||||||||
| 監督 | ファイル:Flag of Italy.svg アルベルト・ザッケローニ | ||||||||
| 最多出場選手 | 井原正巳(122試合) | ||||||||
| 最多得点選手 | 釜本邦茂[1](75得点) | ||||||||
| 初の国際試合 | |||||||||
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ファイル:Flag of Japan.svg 日本 0–5 中華民国 ファイル:Flag of the Republic of China 1912-1928.svg (東京, 日本; 1912年5月9日) | |||||||||
| 最大差勝利試合 | |||||||||
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ファイル:Flag of Japan.svg 日本 15–0 フィリピン ファイル:Flag of the Philippines (navy blue).svg (東京, 日本; 1967年9月27日) | |||||||||
| 最大差敗戦試合 | |||||||||
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ファイル:Flag of Japan.svg 日本 2–15 フィリピン ファイル:US flag 48 stars.svg (東京, 日本; 1917年5月27日) | |||||||||
| FIFAワールドカップ | |||||||||
| 出場回数 | 4回 (初出場は1998) | ||||||||
| 最高成績 | ベスト16 (2002, 2010) | ||||||||
| AFCアジアカップ | |||||||||
| 出場回数 | 7回 | ||||||||
| 最高成績 | 優勝 (1992, 2000, 2004, 2011) | ||||||||
| FIFAコンフェデレーションズカップ | |||||||||
| 出場回数 | 4回 | ||||||||
| 最高成績 | 準優勝 (2001) | ||||||||
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サッカー日本代表(サッカーにっぽんだいひょう、サッカーにほんだいひょう)は、日本サッカー協会 (JFA) によって編成される日本のサッカー国家代表チームである。一般的に「サッカー日本代表」と呼称する場合は、「男子Aナショナルチーム」(年齢制限のないベストメンバーによる代表)を指すことが多い。
FIFAワールドカップには4回出場し、2002年と2010年に最高成績となるベスト16に入った。AFCアジアカップでは最多となる4回の優勝を記録している。アジアサッカー連盟および東アジアサッカー連盟に所属する。
目次 |
概要と特徴
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チームカラー
現在は基本色として青、サブカラーに白を使用している。青は「日本の国土を象徴する海と空の青」を表すとされているが、これは後付の説明であり、採用時の理由は不明である[2]。
最初期の日本代表は選抜チームではなく、大学やクラブなどの単独チームで構成されており、代表ユニフォームも各チームのものをそのまま使用していた。日本代表にとって初の国際試合となった1917年極東選手権では、東京高等師範学校(東京教育大学を経て現在の筑波大学)の海老茶色のシャツを使用した。初の選抜チームで構成され優勝を果たした1930年極東選手権ではライトブルーのシャツを使用した。これは選手の大半を送り込んだ東京帝国大学にならったものと考えられている。これ以降は日本代表のチームカラーとして青が定着することになった。[3][4]
1964年東京オリンピックでは上下共に白、1968年メキシコシティオリンピックでは白のシャツに紺のパンツとなり、1970年代以降は白と青が交互に基調とされるようになった。1988年から1991年に赤が採用された[5]。1988年に日本代表監督に就任した横山謙三の意向により日本代表のユニフォームは国旗の色である赤に変更され、胸には従来あった日の丸ではなく三本足の八咫烏が付けられるようになった。横山監督の成績が振るわず更迭されると1992年に青を基調としたユニフォームに戻された[4]。
愛称
口語では単に「代表」と呼ぶのが一般的である。日本サッカー協会は2005年10月に5つの候補の中から一般投票を行い、2006年1月27日に他の候補に2倍以上の得票数を獲得した「SAMURAI BLUE 2006」を2006年ワールドカップに向けたペットネームにすることが発表された。2009年10月19日には「SAMURAI BLUE(サムライ・ブルー)」を公式の愛称とすると定められた[6]。グループリーグ敗退に終わった2006 FIFAワールドカップでの愛称の使い回しであることや、ワールド・ベースボール・クラシックでの野球日本代表の愛称「SAMURAI JAPAN(サムライ・ジャパン)」と類似していると点を批判するメディアもある[7]。そのためか一般には全くといっていいほど浸透しておらず「第2のE電」と揶揄されている。
マスメディアではハンス・オフトが初の外国人代表監督となった際に「オフト・ジャパン」という呼称が使われるようになり、以降「監督名+ジャパン」という呼称が用いられ広く浸透している。フィリップ・トルシエの代表監督時代は「トルシエ・ニッポン」という呼称も使用されていた[8][9][10][11]。代表監督が交代する毎に愛称も変わることは世界的に見ても極めて稀である。
海外メディアでは「ライジング・サン」や「ブルー・サムライ」が使われる事がある。ブルーズという愛称もあるが[12][13]一般的ではない。
マスコット
三本足のカラスである八咫烏をモチーフにした「カラッペ」と「カララ」がマスコットキャラクターである。デザインは松下進がおこなった。チームユニホームのデザインが変更される度に、2匹のユニホームもそれに合わせて手直しされている。
プレースタイル
サッカー日本代表のプレースタイルとしては中盤にテクニックのある選手を揃えショートパスを丁寧に繋ぐ事が挙げられる。日本のショートパス戦法は古くは1920年(大正9年)頃からインステップキックやインサイドキック等の基礎技術とショートパスを繋いで攻める基礎戦術を早稲田高等学院などで教え、後に日本全国で巡回指導したビルマ(現ミャンマー)人留学生チョウ・ディンの指導により始まったとされる[4][14]。後にテクニカルなブラジルスタイルを模倣するようになった[15]。
1960年代から1970年代にかけて活躍した釜本邦茂以降はシュート・得点能力に優れるFWの選手が存在せず、ゴール前での絶好のシュートチャンスを決めきれないという特徴がある[16]。この特徴はしばしば「決定力不足」と形容される[16]。
悪質なファウルなどが他国の代表と比べて少なく、世代別代表も含め国際大会ではフェアプレー賞を多く受賞している。
待遇
プロ化される以前の日本代表選手は、日本サッカー協会(JFA)から給料や手当を受け取っていなかった。森孝慈が日本代表監督に就任すると、JFAと日本代表選手の手当てなどについて交渉して、1982年から1日3千円の手当てがつくようになり、翌1983年からは出場した場合あるいは勝利した場合にボーナスがつくようになった[4]。同時に宿泊施設についても改善された[17]。Jリーグ誕生後には日当と勝利給が支給されるようになったが、出場給は存在しなかった。
2005年時点では、試合だけでなく合宿なども含めた日本代表全活動期間の日当が1万円、勝利した場合は勝利給が全額支給され、引き分けだと半額、負ければ勝利給ゼロで日当のみとなる。勝利給は試合の重要性によって異なり、 キリンカップのような親善試合では10万円、アジアカップなどの公式戦で30万円、W杯アジア予選では50万円となる[18]。成績が良ければプレミア給も追加して支給される。ドイツW杯アジア予選を突破した際には、日本代表選手1人当たり約1000万円が支給された。2004年のアジアカップ中国大会で日本代表が優勝した際には、主将(当時)の宮本恒靖が「ベンチの選手にもボーナスを」と訴え、ベンチ入りしたものの出場機会はなかった選手も含め全員に一律で優勝ボーナス300万円が支払われた。海外クラブに所属している日本代表選手には、ビジネスクラス相当の移動費が支給され、上位のファーストクラスを利用する場合は、その差額は選手の自己負担となる。これらの日本代表選手が受け取る給料はJFAが選手の銀行口座に振り込む。また選手の負傷に備えて、保険がかけられている。日本代表選手が所属するクラブに対してJFAは選手1人につき、1日1万5千円の「クラブペイメント」を支払っている。
日本代表の報酬総額は年々アップしている。アメリカW杯アジア予選の際には、JFAは2億円を用意していた。次回のフランスW杯アジア予選の時には2倍の4億円(出場時間に応じて配分された。1人最高1000 万円)を計上し、見事に初出場を果たした。開催国だったため、アジア予選に出場しなかった日韓W杯では、本大会のボーナスとして総額6億9000万円の予算を組んだ。
日本代表選手の給料の支給方法についてはJFA技術委員会で決めているが、その時の日本代表監督の意向が反映される。南アフリカW杯アジア予選では、岡田武史監督(当時)の意向で、出場給の「実績変動制」が導入された。1試合につき、出場した選手に80万円、ベンチに入った選手に60万円、ベンチ外の選手に40万円(金額はいずれも推定)が支払われた[19]。しかし、アジア予選突破の特別ボーナスはなかった。これについて、犬飼基昭JFA会長(当時)は「世界(南アフリカW杯本大会)ベスト4が目標である以上、アジア予選通過はその対象にならない」と述べている。南アフリカW杯本大会では、具体的な支給額は決まっていないが、アジア予選と同様の方法で支給された。
歴史
初期
日本サッカー協会(JFA)は1921年に設立され、1929年の国際サッカー連盟(FIFA)総会で日本のFIFA加盟が承認された。
日本代表にとって最初の国際試合は、1917年に日本で開催された第3回極東選手権の初戦となった5月9日の中華民国戦だった。東京高等師範学校の単独チームによる日本は0-5で中華民国に敗れた。2試合目の5月10日フィリピン戦では、パウリノ・アルカンタラ擁するフィリピンに2-15と大敗した。これは現在も日本代表の最大差敗戦試合に記録されている。
1927年の第8回極東選手権には早稲田WMWが日本代表として出場し、フィリピンを2-1で破って国際試合初勝利を挙げた。1930年に日本で開催された第9回極東選手権には単独チームではなく初めて全日本選抜が編成された。日本は中華民国と同位優勝し、国際大会における初タイトルを獲得した。
1936年のベルリンオリンピックでは、1回戦でスウェーデンを破る番狂わせを起こした(「ベルリンの奇跡」)。
ワールドカップへの道程
1930年の第1回ワールドカップ開催にあたり、開催地が南米であることから欧州勢は相次いで不参加を表明した。これに対してFIFAは加盟国に招待状を送ったものの、日本サッカー協会は参加を見送った。その理由は、当時の日本国内が1927年の昭和金融恐慌以来慢性的な不況であったため、同年の昭和恐慌発生でさらに経済状態が悪化していたため、そして、日本サッカー協会自身も財政難であったためである。なお、この大会は、以降の大会とは異なり、地区予選は行われていない。
日本は、1938年のフランス大会予選にエントリーした。この予選ではオランダ領東インドとの直接対決に勝てば本大会出場が決まる筈だったが、折からの情勢不安により参加を辞退しエントリーのみに終わった。
第二次世界大戦後の連合国軍による占領期間の終了後、FIFAへの復帰が認められると、日本代表は1954年のスイス大会で初めてワールドカップアジア予選への参加を果たした。韓国代表との一騎打ちとなった最終予選は、本来ホーム&アウェイ方式で行われるはずが、韓国が李承晩大統領の意向で自国開催を拒否したことにより、2試合とも東京で開催されることとなった。日本はホーム開催のアドバンテージがあったにもかかわらず、その2試合とも敗れ出場を逃す。その後も、1950年代から60年代の日本はアマチュアリズム全盛の時代で、ワールドカップの意義、ワールドカップに出場する意義について理解していたとは言いがたく(長沼健JFA元会長によれば1954年のスイス大会予選に出場した頃は、そもそもワールドカップとはどんな大会なのか分からずに戦っていたという)[4]、また東京オリンピックを目指して強化を進めていた時期も重なり、ワールドカップよりもオリンピック(以下五輪と略すことあり)に重点が置かれ、予選参加と辞退を繰り返す状態だった。
1968年のメキシコオリンピックで銅メダルを獲得すると、メダル獲得の目的を達成した。これによって、次の目標としてワールドカップ出場にも関心が向くようになり、1970年 メキシコ大会以降、継続的に予選に参加するようになった。しかし、オーストラリア(当時はオセアニアサッカー連盟(OFC)の予選の勝者がアジア予選に参加)やイスラエル(当時アジアサッカー連盟(AFC)所属)といった国々の前に屈し、アジア予選での敗退が続くことになった。この時期も依然としてサッカー界にはアマチュアリズムの精神が色濃く残っていた。当時の日本代表選手にとっては「ワールドカップはプロ選手の大会」という認識だったのである。そのため、ワールドカップはオリンピック前のチーム育成の一環として捉えられることが多かった。例えば、ワールドカップアジア予選に若手を出場させ底上げを図り、主力のA代表(年齢制限のないその国最強の代表)を“本番”の五輪に参加させるといったことも、しばしばあった。また、テレビ放送やサッカー雑誌によってワールドカップの紹介がなされるようにはなったものの、選手もファンも、ワールドカップはあくまでもテレビで観戦するものであり、違う世界の出来事という認識を持っていた。
日本にとって遠い道程であるワールドカップが身近なものとなったのは、1986年メキシコ大会アジア予選の活躍である。この大会の1次予選を1位で通過すると、日本は2次予選で香港を破り、最終予選となる韓国戦へと駒を進めた。しかし、第1戦ホームでは10番木村和司のFKが決まるも1-2で惜敗。ソウルでの第2戦も0-1で敗れ、日本は本大会出場を逃すこととなった。
この敗戦によりアマチュアリズムの限界を悟った日本サッカー協会は、翌1986年にスペシャル・ライセンス・プレーヤーの導入を決定した。また当時のFIFA会長のジョアン・アヴェランジェの意向もあり、ワールドカップ日本開催が俄かに現実味を帯び始めたことで国内での状況にも変化が現れた。日本でワールドカップを開催するとなれば、開催国の名に相応しい強い代表チームが必要となる。その為の強化に関わる様々な改革がなされるようになった。1993年からスタートしたJリーグもその一つである。
さらに、それまで日本A代表の最大の目標だった五輪が、1992年のバルセロナ五輪から23歳以下の選手の大会に規定が変更された為、日本A代表の目標はFIFAワールドカップへと完全に変わることになった。
1992年3月に、日本のクラブを指導し実績を上げていたハンス・オフトを日本代表初の外国人監督として就任させ、それまで出場したことのないワールドカップ本大会への挑戦が本格化した。強化は順調に進み、1994年アメリカ大会アジア予選では最終予選に進出する。しかし、イラクと対戦した最終戦で後半ロスタイムに同点に追いつかれ引き分けたため、あと一歩のところで出場権を逃した(ドーハの悲劇)。
1998年フランス大会は、日本にとってワールドカップ本大会初出場を自力で果たす最後のチャンスとなった。それは、2002年に日本でのワールドカップが開催されることが決定していたためである。1997年のフランス大会予選では、最終予選グループでは韓国に次ぐ2位となったものの、プレーオフでは延長戦の末、岡野雅行のVゴールでイランを3-2で破り、1954年のスイス大会予選から43年越し10回目の挑戦にして悲願のワールドカップ出場権を獲得した(ジョホールバルの歓喜)。
FIFAワールドカップ
詳細は各大会の記事を参照
初の本大会出場を果たした1998年フランス大会では、グループリーグでアルゼンチン・クロアチア・ジャマイカと対戦。アルゼンチン戦・クロアチア戦をともに0-1で落とし、早々とグループリーグ敗退が決定。最終戦となったジャマイカ戦では中山雅史がチーム初得点こそ挙げたものの、試合は1-2で敗戦。結局、グループリーグ3戦全敗で初のW杯本大会を終えた。
2度目の本大会出場となった2002年日韓大会では開催国のため予選免除での出場。1990年代のサッカー界の改革の元で育成された選手達が中心になったチームは、本大会グループリーグ初戦のベルギー戦を2-2で引き分け、初の勝ち点を獲得すると、続く第2戦ではロシアを1-0で降し、W杯初勝利。そして、最終戦となったチュニジア戦も2-0で勝利し、グループリーグを2勝1分で1位通過。初の決勝トーナメントに駒を進める。決勝トーナメント1回戦ではトルコと対戦したが、0-1で敗戦。ベスト16という成績で地元開催のW杯を終えた。
2006年ドイツ大会では、2大会ぶりに予選に参加し、アジア予選を1位で通過。3大会連続の本大会出場を果たす。本大会では、初戦でオーストラリアと対戦したが1-3で逆転負け。続く第2戦のクロアチア戦では0-0の引き分け。第3戦のブラジル戦では1-4で逆転負けし、通算2敗1分でグループリーグ敗退に終わった。
2010年南アフリカ大会は、2009年6月6日のアジア最終予選においてウズベキスタンに勝利。2試合を残して4大会連続4度目の本大会出場を決め、2006年大会に引き続き、2大会連続で世界最速で本選出場権を手に入れた。本大会のグループリーグではE組に入り、岡田武史監督及び日本サッカー協会は「ベスト4」を目標に掲げた。初戦のカメルーン戦を1-0で勝利し、他国開催でのW杯初勝利を挙げると、第2戦のオランダ戦は0-1で敗れはしたものの優勝候補相手に善戦。最終戦のデンマーク戦を3-1で勝利し、通算2勝1敗のグループ2位で2大会ぶりのグループリーグ通過を果たした。決勝トーナメント1回戦ではパラグアイと対戦し、0-0のまま延長戦でも決着せずPK戦にもつれ込んだが、3-5で敗れベスト16で敗退した。目標のベスト4とはいかなかったが、前評判を大きく上回る結果を残すことになった。
ちなみに、南アフリカ大会までの時点で、レッドカードを受けた日本代表の選手は1人もいない。また、正ゴールキーパーの番号とされることが多い背番号1をつけたゴールキーパーは本大会には1試合も出場していない。
FIFAコンフェデレーションズカップ
1995年にサウジアラビアで開催された第2回大会(当時の大会名は「キング・ファハド杯」)で初出場を果たしたが、グループリーグ敗退。地元開催だった2001年大会ではA代表のFIFA公式戦で初の決勝進出を果たし、フランスに0 - 1で敗れたが準優勝。その後、2003年大会、2005年大会にも出場したが、いずれもグループリーグで敗退した。2009年大会は不出場だったが、2011年のアジア杯で優勝したため2013年大会に通算5回目の出場を決めた。
アジアカップ
アジアにおいてはアジアサッカー連盟(AFC)主催のアジアカップ(サッカー単一種目での大陸選手権)と並んで、アジアオリンピック評議会主催のアジア競技大会(総合競技大会)がかつて高い位置を占めていたので、サッカー日本代表は後者をより重視した。その理由としては、当時はアマチュアリズム全盛の時代であり、オリンピックを重視していたため五輪と同年のアジアカップを軽視していたことや、現在とは違い代表に投資できる年間予算も限られていたことなどが挙げられる(当時のアジア大会の最高成績は1951年イラン大会と1966年バンコク大会の3位。U-23の大会に変わった後の2002年に準優勝、2010年に優勝を果たしている)。
1967年7月、台北で開催された第4回アジアカップイラン大会東地区予選に日本B代表が初参加したものの予選で敗退した。B代表が出場したのは、同じ7月にA代表がペルーとブラジルへ遠征中だったためである。続く第5回タイ大会は不参加。1975年6月、香港で開催された第6回イラン大会東地区予選では初めてA代表が出場した。東地区予選大会は決勝に進んだ2チームが出場する形だった。6月14日の組み分け予備戦で香港と対戦し引き分けたもののPK戦で勝てず (0-0 (PK3-4) ) 、グループリーグでは1勝1敗で準決勝に進み、中国と対戦したが、6分、33分と失点。日本の得点は43分に1点を返したのみで終わり、1-2で敗れ、予選敗退が決まった。その後、第7回クウェート大会、第8回シンガポール大会と立て続けに参加しなかった。
1988年、第9回カタール大会予選で大学生を主体とするB代表が初めて予選を突破し、そのままB代表が同年12月の本大会に出場したが、本大会では1次リーグ4試合を通じ無得点で1分3敗のグループ最下位で大会を終えた。当時は依然としてJFAやマスコミはアジアカップを軽視しており(同時期に日本で開催していたトヨタカップを重視し、アジアカップに帯同する記者が少なかったことについて大会の関係者が次回の日本開催について考えなおす旨の発言もあった)、バルセロナ五輪(この五輪から23歳以下の大会)アジア予選に向けたチーム作りの一環として第9回カタール大会予選にB代表を参加させた。ところが、期せずして予選を突破した為、そのまま本大会にも出場させたという[4]。
前述のとおり、バルセロナ五輪から五輪が23歳以下の選手の大会になったことで、その最大の目標をワールドカップへと完全に切り替えたJFAは、日本代表監督としては史上初の外国人監督ハンス・オフトを1992年3月に日本代表監督へ就任させた。
1992年10月30日から開幕する日本大会へは開催国として出場が決まっており、開催国としても、翌年5月15日に迫ったJリーグ開幕に向け盛り上げる為にも、オフトがチームを掌握する為にも(就任当初は基礎を徹底するオフトに主力が反発するも、結果が出るに従い収まっていったが、中心選手のラモス瑠偉だけが未だに猛反発していた)、そして何より翌年4月8日から始まる1994年アメリカW杯アジア予選(1993年4月8日がアジア一次予選初戦タイ戦)に自信を持って挑む為にも、この大会での勝利、好成績が求められていた[4]。
広島県各地で開催された日本大会では三浦知良、ラモス瑠偉、北澤豪、中山雅史らが活躍し、主要国際大会で史上初めての優勝をもたらした。実質日本が初めて真剣に取り組んだアジアカップで、初の栄冠を勝ち取ったのであった。またこの大会は日本各地にサポーターが生まれるきっかけにもなった(それまでも東京の国立では日本サッカー狂会をはじめ数少ないサポーターたちが声をそろえて応援し続けていたが、この大会ではウルトラス・ニッポンの一般観客を巻き込みながらスタンド全体で手拍子と歌によって応援するスタイルが注目を集め、マスコミが報道した[4]。そのことで翌年のJリーグ開幕以降、日本各地にサポーターが誕生することになった)。
1996年のUAE大会はグループリーグを3戦全勝で通過したものの、準々決勝でクウェートに0-2で敗れ連覇ならず。
2000年のレバノン大会は直前のシドニー五輪を戦った中村俊輔・高原直泰ら「黄金世代」といわれたシドニー五輪代表と、名波浩や川口能活らフランスワールドカップ以来のメンバーが融合したチームをフィリップ・トルシエ監督が率い、圧倒的なパフォーマンスで大会を席巻。グループリーグを2勝1分で1位通過すると、準々決勝ではイラクを4-1、準決勝では中国を3-2でそれぞれ逆転で降す。そして、決勝戦では前回優勝のサウジアラビアを1-0で破り2大会ぶり2度目の優勝を果たした。
2004年の中国大会ではジーコ監督のもと主力を怪我などで欠き、地元サポーターの激しいブーイングを受けるなど逆境の中での戦いであったが、決勝トーナメントで2度の延長戦を制した末決勝戦で地元中国を3-1で下して、2大会連続3度目の優勝を果たした。
2007年の4ヵ国(タイ、マレーシア、ベトナム、インドネシア)共催大会ではグループリーグを2勝1分の1位で通過。準々決勝では初参加のオーストラリアをPK戦の末に勝利してベスト4へ進んだものの、準決勝でサウジアラビアに2-3で敗れ3連覇はならず、さらに3位決定戦でも韓国にPK戦の末に敗れ4位に終わった(日本代表はUAE大会の準々決勝でクウェートに敗れて以来16試合無敗を続けていたが、アジアカップ2007準決勝でサウジアラビアに敗れ記録は止まった。ちなみにサウジアラビアも16試合無敗の記録を持っているが、この記録を止めたのは日本だった)。
2011年のカタール大会ではグループリーグを2勝1分の1位で通過。準々決勝の地元カタール戦では10人になりながらも3-2で逆転勝利。準決勝の韓国戦では延長戦でも決着が付かずPK戦に突入し、川島永嗣が相手のPKを2本止める活躍で勝利し決勝進出。決勝のオーストラリア戦では0-0のまま延長戦に突入し、延長後半に長友佑都の左サイドからのクロスボールに李忠成がボレーシュートで合わせ代表初ゴールとなる決勝点を決めて、2大会ぶり4度目(歴代最多)の優勝を遂げた。
初優勝した1992年大会以降グループリーグは全て無敗で1位通過しており、また2大会続けて優勝を逃していない。
特筆すべき試合
- ベルリンの奇跡 - 1936年8月4日 ベルリンオリンピック1回戦 対スウェーデン戦
- ドーハの悲劇 - 1993年10月28日 FIFAワールドカップ・アジア最終予選 最終戦 対イラク戦
- マイアミの奇跡 - 1996年7月22日 アトランタオリンピック第1次リーグ 対ブラジル戦
- ジョホールバルの歓喜 - 1997年11月16日 FIFAワールドカップ・アジア予選 3次ラウンド(グループA/B プレーオフ) 対イラン戦
- AFCアジアカップ2004準々決勝 - 対ヨルダン戦
- 2010 FIFAワールドカップ - 対カメルーン戦(日本が初めて自国開催以外のワールドカップで勝利を収めた試合)
- 東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチ - 2011年3月29日 東北地方太平洋沖地震を受けての慈善試合(練習試合) 対Jリーグ選抜
成績
FIFAワールドカップの成績
FIFAワールドカップでの全試合結果
FIFAコンフェデレーションズカップの成績
(出場した大会のみ表記)
AFCアジアカップの成績
| AFCアジアカップ | AFCアジアカップ・予選 | |||||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 開催年 | 結果 | 試合数 | 勝 | 分 [注2 1] | 負 | 得点 | 失点 | 試合数 | 勝 | 分 | 負 | 得点 | 失点 | |
| ファイル:Flag of Hong Kong.svg 1956 | 不参加 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | |
| ファイル:Flag of South Korea.svg 1960 | 不参加 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | |
| ファイル:Flag of Israel.svg 1964 | 不参加 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | |
| ファイル:Flag of Iran.svg 1968 | 予選敗退 | - | - | - | - | - | - | 4 | 3 | 1 | 0 | 8 | 4 | |
| ファイル:Flag of Thailand.svg 1972 | 不参加 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | |
| ファイル:Flag of Iran.svg 1976 | 予選敗退 | - | - | - | - | - | - | 4 | 1 | 1 | 2 | 3 | 4 | |
| ファイル:Flag of Kuwait.svg 1980 | 不参加 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | |
| ファイル:Flag of Singapore.svg 1984 | 不参加 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | |
| ファイル:Flag of Qatar.svg 1988 | グループリーグ敗退[注2 2] | 4 | 0 | 1 | 3 | 0 | 6 | 4 | 2 | 1 | 1 | 6 | 3 | |
| ファイル:Flag of Japan.svg 1992 | 優勝 | 5 | 3 | 2 | 0 | 6 | 3 | - | - | - | - | - | - | |
| ファイル:Flag of the United Arab Emirates.svg 1996 | ベスト8 | 4 | 3 | 0 | 1 | 7 | 3 | - | - | - | - | - | - | |
| ファイル:Flag of Lebanon.svg 2000 | 優勝 | 6 | 5 | 1 | 0 | 21 | 6 | 3 | 3 | 0 | 0 | 15 | 0 | |
| ファイル:Flag of the People's Republic of China.svg 2004 | 優勝 | 6 | 4 | 2 | 0 | 13 | 6 | - | - | - | - | - | - | |
| ファイル:Flag of Indonesia.svgファイル:Flag of Malaysia.svgファイル:Flag of Thailand.svgファイル:Flag of Vietnam.svg 2007 | 4位 | 6 | 2 | 3 | 1 | 11 | 7 | 6 | 5 | 0 | 1 | 15 | 2 | |
| ファイル:Flag of Qatar.svg 2011 | 優勝 | 6 | 4 | 2 | 0 | 14 | 6 | 6 | 5 | 0 | 1 | 17 | 4 | |
| 合計 | 7/15 (4 優勝) | 37 | 21 | 11 | 5 | 72 | 37 | 27 | 19 | 3 | 5 | 64 | 17 | |
コパ・アメリカの成績
ダイナスティカップの成績
東アジアサッカー選手権の成績
オリンピックの成績
オリンピックサッカー日本代表選手も参照。1992年大会以降の成績はU-23サッカー日本代表も参照。
- 1908 - 1928 - 不参加
- 1936 - ベスト8
- 1948 - 不参加
- 1952 - 不参加
- 1956 - 1回戦敗退
- 1960 - 予選敗退
- 1964 - ベスト8
- 1968 - 3位
- 1972 - 予選敗退
- 1976 - 予選敗退
- 1980 - 予選敗退
- 1984 - 予選敗退
- 1988 - 予選敗退
アジア競技大会の成績
- 1951 - 3位
- 1954 - グループリーグ敗退
- 1958 - グループリーグ敗退
- 1962 - グループリーグ敗退
- 1966 - 3位
- 1970 - 4位
- 1974 - 1次リーグ敗退
- 1978 - 1次リーグ敗退
- 1982 - ベスト8
- 1986 - グループリーグ敗退
- 1990 - ベスト8
- 1994 - ベスト8
- 1998 - 2次リーグ敗退
2002年大会以降はU-23サッカー日本代表を参照。
タイトル
世界レベル
- FIFAコンフェデレーションズカップ
- 準優勝 (1):2001
- オリンピック
- 銅メダル (1)':1968
大陸レベル
大陸間レベル
- AFC/OFCチャレンジカップ
- 優勝 (1):2001
- アフロアジア選手権
- 優勝 (2):1993、2007
地域レベル
- 極東選手権
- 優勝 (1):1930(同位)
- 準優勝 (2):1927、1934(同位)
- ダイナスティカップ
- 東アジアサッカー選手権
その他
- カールスバーグ・カップ
- 準優勝 (1):1996
- ムルデカ大会
- 準優勝 (2):1963、1976
- キリンカップ
- JOMO CUP
- 優勝 (2):1997(同位)、2000
選手
ファイル:Soccer ball.svg ワールドカップ登録メンバー - 1998年 - 2002年 - 2006年 - 2010年
世代
記録
各ランキングは2011年11月15日北朝鮮戦 終了時のもの。(#)は現役選手(代表引退ではなく、現役を引退していない選手)を表す。「期間」は代表で試合に出場した期間であり、末期が抜けている選手は現役の代表選手を表す。
出場数
| 位 | 名前 | 出場数 | 得点数 | 期間 |
|---|---|---|---|---|
| 1 | 井原正巳 | 122 | 5 | 1988年-1999年 |
| 2 | 川口能活(#) | 116 | 0 | 1997年- |
| 3 | 遠藤保仁(#) | 113 | 9 | 2002年- |
| 4 | 中澤佑二(#) | 110 | 17 | 1999年- |
| 5 | 中村俊輔(#) | 98 | 24 | 2000年-2010年 |
| 6 | 三浦知良(#) | 89 | 55 | 1990年-2000年 |
| 7 | 三都主アレサンドロ(#) | 82 | 7 | 2002年-2006年 |
| 7 | 稲本潤一(#) | 82 | 5 | 2000年- |
| 9 | 都並敏史 | 78 | 2 | 1980年-1995年 |
| 10 | 中田英寿 | 77 | 11 | 1997年-2006年 |
| 10 | 楢崎正剛(#) | 77 | 0 | 1998年-2010年 |
得点
JFAは、最多得点者を釜本邦茂(75得点)としている[1]。
| 位 | 名前 | 得点数 | 出場数 | 期間 |
|---|---|---|---|---|
| 1 | 釜本邦茂[1] | 75 | 76 | 1964年-1977年 |
| 2 | 三浦知良(#)[1] | 55 | 89 | 1990年-2000年 |
| 3 | 原博実 | 37 | 75 | 1978年-1988年 |
| 4 | 高木琢也 | 27 | 44 | 1992年-1997年 |
| 5 | 岡崎慎司(#) | 26 | 49 | 2008年- |
| 5 | 木村和司 | 26 | 54 | 1979年-1986年 |
| 7 | 中村俊輔(#) | 24 | 98 | 2000年-2010年 |
| 8 | 高原直泰(#) | 23 | 57 | 2000年-2008年 |
| 9 | 中山雅史(#) | 21 | 53 | 1990年-2003年 |
| 10 | 宮本輝紀 | 18 | 58 | 1961年-1971年 |
一方、国際サッカー歴史統計連盟 (IFFHS) は、三浦知良(56得点)を最多得点者、続いて釜本邦茂(55得点)としている。これは以下に示す JFA、IFFHS 両者の統計方法の違いによる。
- JFA - 1988年以前のオリンピック予選および本大会における、プロリーグの存在しない国・地域の、年齢制限のないオリンピック代表チームとの試合は国際Aマッチとする。
- IFFHS - 1954年以降の全てのオリンピック関係の試合を国際Aマッチから除外。
背番号
最も大きな数の背番号をつけ日本代表の公式戦に出場したのは権田修一(88番、AFCアジアカップ2011予選大会、対イエメン代表、アウェー戦[25])。 また同試合においては、既に登録された77人の選手に加え、19人の選手を追加した為、総勢96人となり、欠番も関係し、河野広貴が背番号100で登録された。
歴代監督の一覧
試合数および成績は日本サッカー協会が認めた国際Aマッチのみをカウントしている[26]。試合数が0の監督がいるのは、指揮した試合がすべて国際Aマッチ以外の試合だったためである。
略式:WC=FIFAワールドカップ、IC・CC=FIFAコンフェデレーションズカップ、OG=オリンピックサッカー競技、AC=AFCアジアカップ、AG=アジア競技大会サッカー競技、FEC=東アジアサッカー選手権、FEG=極東選手権競技大会サッカー競技、CA=コパ・アメリカ、予=各大会ごとの予選
年代別日本代表
国籍以外の資格制限がない、いわゆるA代表(国際Aマッチの成立要件となる)のほかに、派遣対象となる試合が選手資格に制限を設けている場合などに、資格を満たす範囲で選手を選出しチームを編成する。このときは、日本代表という呼称の前に制限や派遣大会の名称等を関して、A代表との区別をする(ただし、正式にはA代表にも派遣大会名称を冠している)。
- オリンピック日本代表 - 1992年のバルセロナオリンピック以降、オリンピックサッカー競技の予選および本大会では、原則として23歳以下の選手に限るという制約が設けられた。このため予選期間にはU-23日本代表(前年に予選が行われる場合はU-22日本代表)と呼ばれることが多いが、本大会ではオーバーエイジ枠を含むことができるため、オリンピック日本代表という呼称が用いられる。詳細はオリンピックサッカー日本代表選手を参照。年齢に制限は無く、アマチュアのみに出場が許された1968年のメキシコシティ大会でオリンピック日本代表は銅メダルを獲得した。
- ユニバーシアード日本代表 - 大学生のスポーツ大会であるユニバーシアードに派遣される日本代表を指す。選考範囲は原則として大学または大学院在学中、ならびに大会の前年に大学または大学院を卒業した選手に限られる。その他の大会で同じ選考範囲で選手構成がなされる場合は、学生日本代表や大学日本代表、もしくは学生選抜や大学選抜と断りを入れるなどをして呼ばれることが多い。ユニバーシアード日本代表は、1995年の福岡大会で初優勝、その後2001年北京大会、2003年大邱大会および2005年イズミル大会で3大会連続優勝を果たした。
- U-21日本代表 - 出場資格が21歳以下であるトゥーロン国際大会などに派遣される日本代表を指す。また、アジア競技大会サッカー競技では2002年釜山大会より、出場資格がオリンピックと同じ23歳以下(オーバーエイジ可)となっているものの、同大会をその2年後のオリンピック日本代表の強化試合と位置付けて、あえて21歳以下の代表を編成する場合もある。
- U-20日本代表 - 出場資格が20歳以下であるFIFA U-20ワールドカップ(旧:ワールドユース)、およびその予選を兼ねたAFC U-19選手権(旧:AFCユース選手権)に派遣される日本代表を指す。AFC U-19選手権についてはU-20ワールドカップの前年に開催されることから、その時点ではU-19日本代表と呼ばれる。ユース日本代表とも。高校を卒業しJリーグクラブに加入したばかりの若手選手を中心に編成されるのが一般的だが、大学生やU-17世代が加わることもある。1999年のワールドユース選手権では、男女、年代の別を問わないすべてのカテゴリーを通じた「サッカー日本代表」として初めて、FIFA主催の世界大会で準優勝の座に立った[27]。
- U-17日本代表 - FIFA U-17ワールドカップ、およびその予選を兼ねたAFC U-16選手権に派遣される日本代表を指す。2008年大会から大会名が変更になった。
オフィシャルサポーティングカンパニー
- 長年にわたりキリンカップサッカーを初めとした日本国内での国際Aマッチシリーズを特別協賛している
- 1999年以降、2010年現在に至るまでサッカー日本代表チームの「オフィシャルサポーティングカンパニー」として、2002年と2006年のFIFAワールドカップで特別塗装機材を運航した他、2010年の南アフリカ大会の際にはキャンプ地までの特別機の運航も行った[28]。
脚注
- ^ a b c d 国際サッカー歴史統計連盟 (IFFHS) は、三浦知良(56得点)を最多得点者としている。
- ^ 出典:『JFAサッカーQ&A - 日本代表』、日本サッカー協会
- ^ 出典:『速報!歴代日本代表ユニフォーム』、サッカーミュージアムな日々
- ^ a b c d e f g h 後藤健生 『日本サッカー史 日本代表の90年』 双葉社、2007年。
- ^ 出典:『ヒストリカルアーカイブ - 歴代ユニフォーム』、日本サッカーミュージアム
- ^ 日本代表チーム愛称は、「SAMURAI BLUE 」・日本サッカー協会公式HPトピックス2009年10月19日発表
- ^ 岡田ジャパン新愛称発表!そのとき周囲はあ然… - スポニチ、2009年10月20日、2010年5月21日閲覧
- ^ お祭り好きに火が付いた 数万人、未明まで熱狂 - 京都新聞、2002年6月15日閲覧。
- ^ 健闘たたえる温かい拍手 スタジアムに祈り届かず - 京都新聞、2002年6月18日閲覧。
- ^ 夕刊フジ全記録『日本代表の1366日』vol.1〜永久保存版、トルシエニッポンの軌跡(夕刊フジzakzak編)
- ^ W杯特別連載特集<検証トルシエ・ニッポン> - 日刊スポーツ、2002年6月19日〜25日閲覧。
- ^ Yahoo!辞書 - ブルーズ
- ^ U−20日本代表、ライバル韓国と激突/カタール国際決勝 - livedoor スポーツ、2005年1月25日閲覧。
- ^ チョー・ディン Kyaw Din 日本サッカー人物史 - 日本サッカーアーカイブ
- ^ 出典:松本育夫『燃えてみないか、今を! - サッカーに教えられた熱き人生』(ぱるす出版、1987年)174-176頁
- ^ a b 二宮清純『勝者の組織改革』 2004年、PHP研究所、P75 - 82、ISBN 978-4569636924。
- ^ 『週刊サッカーマガジン』2008年12月16日号、p56-57
- ^ 日当、勝利給、賞金…日本代表まるごとハウマッチ
- ^ 岡田“格差”ジャパン!W杯予選出場給を3段階支給
- ^ 東日本大震災に伴うJリーグ日程変更等の影響により
- ^ 参考:『日本代表 - JFA』、日本サッカー協会
- ^ 参考:『J'sGoal日本サッカー協会オフィシャルニュース』 、J's GOAL
- ^ 参考:『Aマッチ得点ランキング』 (PDF)、日本サッカー協会 ※PDFファイル。閲覧にはAcrobatリーダが必要
- ^ [1] 2011年7月22日閲覧。
- ^ 『日本代表公式記録集2008』 日本サッカー協会、2008年、14-28頁、225-226頁。
- ^ その後にFIFA主催の世界大会で日本代表が準優勝以上の成績を挙げた大会は、FIFAコンフェデレーションズカップ2001(準優勝)・2010 FIFA U-17女子ワールドカップ(準優勝)・2011 FIFA女子ワールドカップ(優勝)がある。
- ^ 日本航空プレスリリース
関連項目
外部リンク
- SAMURAI BLUE サッカー日本代表
- 日本サッカー協会 日本代表
- 日本サッカー協会 試合別出場記録 (PDF)
- 日本サッカー協会 日本代表歴代記録A
- RSSSFによる日本代表の記録
- RSSSFによる日本代表の選手の記録
- SAMURAIBLUE (jfa_samuraiblue) on Twitter
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