ザ・ベストテン
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| ザ・ベストテン | |
|---|---|
| ジャンル | 音楽番組 |
| 放送時間 | 木曜日21:00 - 21:54(54分) |
| 放送期間 |
1978年1月19日 - 1989年9月28日 (603回) |
| 放送国 | ファイル:Flag of Japan.svg 日本 |
| 制作局 | TBS |
| 企画 | 鬼沢慶一(企画協力) |
| 演出 | 山田修爾 ほか |
| プロデューサー |
弟子丸千一郎 ほか スタッフを参照 |
| 出演者 |
黒柳徹子 久米宏 小西博之 松下賢次 渡辺正行 ほか |
| 音声 | ステレオ放送 |
| オープニング | 作曲:服部克久 |
| エンディング | 同上 |
『ザ・ベストテン』(英称:The Best Ten)は、1978年1月19日から1989年9月28日までTBS系列で、毎週木曜日の21:00 - 21:54(JST)に生放送されていた音楽番組。全603回放送。
1976年から1977年にかけて放送された『トップスターショー・歌ある限り』の後番組としてスタート。最高視聴率41.9%[1]を記録し、TBSの看板番組の一つになった。放送期間は主にアイドル全盛の1980年代で、当時の人気アイドル歌手が多く出演した。詳細は「ザ・ベストテン登場歌手一覧」を参照
多くの歌手にとってこの番組で自分の曲を歌うことは目標の1つであった。愛称は『ベストテン』『ベッテン』。概要
内容
毎週生放送で独自の邦楽ランキング上位10曲をカウントダウン形式で発表し、ランキングされた曲を歌手が披露する歌番組である。
ランキングの決定方法
レコード売り上げ(オリコン、ミュージック・ラボ、ミュージック・リサーチの3社のランキングを使用)・有線放送リクエスト(全国有線音楽放送協会のデータを使用)、ラジオ放送のリクエストチャート(JRN系列)・番組に寄せられたはがきのリクエスト(番組冒頭で発表)を合わせたポイント制で決定。
番組開始時の配点比率は「レコード30:有線10:ラジオリクエスト20:はがきリクエスト40」とはがきのポイントが高く、レコードや有線で20位以内に入らない曲がベストテンに入ることもあった。だが1979年2月に配点比率を「レコード30:有線10:ラジオ30:はがき30」に改めることがTBSから番組の中でなく週刊誌などを通じて周知された。これは「ハガキの筆跡が明らかに同じなのに名前が異なるハガキが多数見つかり、中には他人の名義を無断で借用するなど、一部ファンの組織票が目に余る状態になった」ことが理由とされている[2]。
配点比率はその後も見直され、1981年頃から「レコード45:有線10:ラジオ21.9:リクエスト23.1」になり、1986年からは「レコード60:有線10:ラジオ10:リクエスト20」となったが、配点見直しの公式通知はなかった。TV番組の音楽ランキングにおけるレコード・CD売上重視の傾向は『ザ・ベストテン』終了以降も続き、『ミュージックステーション』のシングルランキングに至ってはランキングの内容はCD売上が100%もしくはほとんど100%となっている。
得点の計算方法は、各要素のランキング上位30曲に対し1位30点、2位29点…30位1点という形で得点を振った上で、前記の配点比率に従い合計が300点満点になるように倍率をかけ、最終的にその得点を加算してランキングを決定。番組では演出上の理由で33.33倍し9999点を満点として表示[3]。
ランキングの客観性
フジテレビ発のおニャン子クラブもテレビ局の壁の問題があり、出演拒否をしていたためランキングもオリコンより低くなった。『夕やけニャンニャン』では『ザ・ベストテン』にデータを提供しているオリコンの順位で煽るようになったことから、レコード売り上げに特化したオリコンのランキングが注目を集めるようになり、『ザ・ベストテン』のランキングは衰退を始めることになった。夕やけニャンニャンに限らず他局にとっては競合テレビ局が作成する『ザ・ベストテン』よりもおニャン子以降注目を高めてきたオリコンのランキングのほうを報道するようになった。
ランキングにおける客観性の有無は、ハガキの組織票、水面下でのランク操作等の有無も含めザ・ベストテンに係わらず、ランク付けする媒体においては誰もが疑問に感じる問題である。 ただし、本番組におけるランキング形式は、番組の呼び物であり、テレビ的エンターテイメントな演出のひとつであったため、当然出演者の大部分は、番組の趣旨をくみ、ある程度のアバウト性は理解した上で信頼し出演していた。この理解によって国民的歌番組が成り立っていたことは言うまでもない。また元々テレビ出演はせず、コンサート中心の活動を行っていたニューミュージック系歌手の出演拒否理由は、このランキングの客観性とは関係しない。
番組構成、ならびにセット
ランキングは、当時世界各国の国際空港で出発・到着案内として用いられていた反転フラップ式案内表示機(正式英名ソラリーボード。通称:パタパタ、現在は撤去)をヒントに考案された「ランキングボード」を使って発表された。左側に前週の総合ベストテンの順位(オレンジ色で表示)、右側に今週の総合ベストテンの順位を表示(白色)し、10位から順番に発表する。「今週の第○位」という司会者の掛け声にあわせ、ドラムロールと同時に曲名と歌手名部分が回転、数秒遅れて得点部分が回転する。
歌手が登場する際は、オーケストラの演奏(10 - 2位と1位では登場音色が多少異なる)をバックに「ミラーゲート」を通って登場。1位の歌手がスタジオに出演した際、くす玉割りや様々なプレゼントをスタッフが用意することもあった。くす玉割りの紐は当初は司会者が引っ張っていたが、後期は1位を獲得した歌手が直接引っ張り、大量の紙吹雪、風船、紙テープの舞う中祝福した。
スタジオでの歌の演奏は、基本的にオーケストラによる生演奏だったが、末期はカラオケになることが多かった。セットは『ザ・ベストテン』ならではの独特の演出で、まれに意図がよく分からないものや歌とは全く関係のないものが登場したり、長渕剛など、歌手によってはセットは不要という歌手もいた。
1980年代後半にはグループのメンバーの一部が別行動している際には、そのメンバーを他のメンバーがいる中継先の映像にビデオ合成するということも行われた。
ランキング外の1・2曲をピックアップして「今週のスポットライト」というコーナーで紹介。11〜20位の曲もVTRで紹介され、出演者が少ない時には30位や50位からの発表もあった。
番組の最後には、出演者全員で集合写真を撮影し、その写真(番組中期以降は写真をジグソーパズルにしたもの)を番組宛てにリクエストはがきを送った視聴者に毎週抽選でプレゼントしたり、番組内でリクエストはがきが採用された視聴者には無条件でプレゼントするのが恒例だった。「ハイポーズ」の掛け声は主に第1位を獲得した歌手に振る事が多かった。なお、番組終了時にこれらの集合写真を本にまとめ、国立国会図書館および各都道府県立の図書館に寄贈した。ネットした各放送局も所蔵しているが、開局記念イベント等以外は非公開となっている。
年間ベストテン
番組が終了した1989年を除く毎年末に「年間ベストテン」、1981年からは6月に「上半期年間ベストテン」[4]を発表し、1988年には「月間ベストテン」も放送。1978年から1980年までは、年間ランキングでは得点は発表されなかった。年間ランキングの回が3時間の「豪華版」となって「年間ベストテン」を発表したのは1982年からでそれ以前は通常放送と同じく1時間枠内でその週のベストテンの後で放送しており、1978年は1位のみ、1979年は3位と1位、1980年は3位・2位・1位、1981年は2位と1位がスタジオで歌われた。
1986年1月には、1985年の歌手別年間ランキングが発表された。テロップと字幕での発表でランキングボードは使われなかった。なお、歌手別ランキングが発表されたのはこの年だけだった。
歴代司会者
黒柳徹子は初回から最終回まで担当
- 初代:黒柳徹子・久米宏
- 1978年1月19日 - 1985年4月25日(第1回 - 第375回)
- 1985年5月2日 - 1985年9月26日(第376回 - 第397回)
- 2代目:黒柳徹子・小西博之
- 1985年10月3日 - 1986年9月25日(第398回 - 第448回)
- 3代目:黒柳徹子・松下賢次
- 1986年10月2日 - 1989年1月5日(第449回 - 第565回)
- 4代目:黒柳徹子・渡辺正行・柄沢晃弘
- 1989年1月12日 - 1989年9月28日(第566回 - 第603回)
初回放送の前週に放送された『ザ・ベストテン前夜祭』(1978年1月12日)が黒柳・久米コンビの司会スタート。正式の最終回(1989年10月5日)は4代目の黒柳・渡辺・柄沢トリオが主に司会を担当した。
なお、上記の放送回数はランキング紹介を行ったレギュラー放送回についての通算回数を表記しており、この前夜祭と正規最終回の回数は含まれていない(これらを含むと通算放送回数は605回)。また、初代男性司会者の久米については前番組に当たる『トップスターショー・歌ある限り』のサブ司会を担当しており、それを含めたTBS木曜21時枠での通算司会期間は計9年7ヶ月となる。
歴史
前史
当時のTBSでは、前番組である『トップスターショー・歌ある限り』の視聴率が振るわなかったことから、新しい音楽番組の制作を企画することとなった。当時TBSプロデューサーだった田中敦が当時の制作局長に「いい歌番組のアイデアがないのか」と聞かれ、その時「毎週、一番売れている人気曲を10曲並べてベストテン番組を作れば面白いかも。出来っこないですが・・・」と提案をし、制作局長も「そのアイデアいただき、やってよ!」と一発で快諾した[5]。
ただ当時のスタッフ内部では、「(当時流行し始めた)ニューミュージックの歌手はテレビ出演を拒否する者が多いため、客観性を持ったデータによるランキング方式では番組が成り立たない恐れがある」との理由から、番組スタッフの主観で出演者を選ぶ「キャスティング方式」を継続すべきとの意見が主にベテランスタッフを中心に根強く、「キャスティング方式ではニューミュージックの歌手などが取り上げられない」との理由でランキング方式を支持する若手スタッフとの間で意見が真っ二つに分かれた。結局当時の制作局長の裁定でランキング方式による番組の制作が決定したが、この対立のため当初1977年10月に放送を開始する予定であった新番組は3ヶ月スタートが遅れ、1978年1月にスタートがずれ込んだ[6]。大里洋吉は『ザ・ベストテン』のスタートは、キャンディーズの引退が密接に関係していると話している[7]。
新番組の司会は、最初にTBSの局アナだった久米宏が前番組から続投することが決まり、次に相方を女性とすることとなり黒柳徹子がキャスティングされた。制作サイドでは西田敏行を加えた3人体制での司会を予定していたが、西田がスケジュールの都合がつかず、結局2人体制で番組がスタートすることとなった[8]。久米は当初『トップスターショー』を最後に歌番組の司会から足を洗うつもりだったが、黒柳とのコンビが決まったことで歌番組を担当し続ける気になったという[9]。
前夜祭
初回放送の前週(1978年1月12日)に『ザ・ベストテン前夜祭』を放送。前半は、昭和43年~昭和51年の年間オリコン1位の楽曲を出演した歌手が持ち回りで歌唱。
- S43(1968) 恋の季節(小柳ルミ子/コーラスで西城秀樹・郷ひろみ・野口五郎) ピンキーとキラーズの楽曲
- S44(1969) 港町ブルース(松崎しげる) 森進一の楽曲
- S45(1970) 黒ネコのタンゴ(郷ひろみ) 皆川おさむの楽曲
- S46(1971) 知床旅情(山口百恵) 加藤登紀子の楽曲
- S47(1972) 瀬戸の花嫁(小林旭) 小柳ルミ子の楽曲
- S48(1973) 女のみち(野口五郎/バックに西城秀樹・郷ひろみ) 宮史郎とぴんからトリオの楽曲
- S49(1974) なみだの操(殿さまキングス…この曲のみ本人による歌唱) 殿さまキングスの楽曲
- S50(1975) シクラメンのかほり(西城秀樹) 布施明の楽曲
- S51(1976) およげ!たいやきくん(桜田淳子) 子門真人の楽曲
後半は、レコード売り上げと有線放送のデータのみに基づいた1977年の年間ランキングを発表。テーマ曲はレギュラー放送と異なるアレンジで生演奏。
- 第1位:青春時代(森田公一とトップギャラン)
- 第2位:勝手にしやがれ(沢田研二)
- 第3位:昔の名前で出ています(小林旭)
- 第4位:渚のシンドバッド(ピンクレディー)
- 第5位:ウォンテッド (指名手配)(ピンクレディー)
- 第6位:津軽海峡・冬景色(石川さゆり)
- 第7位:雨やどり(さだまさし)
- 第8位:失恋レストラン(清水健太郎)
- 第9位:星の砂(小柳ルミ子)
- 第10位:愛のメモリー(松崎しげる)
石川さゆりとさだまさしは欠席。8曲がスタジオで歌われた。
またゲストとして山口百恵・桜田淳子・殿さまキングス・八代亜紀・郷ひろみなど合計15組が出演した。「スポットライト」のコーナーもあり、日野てる子が「夏の日の思い出」を歌った。前夜祭ということもあり、番組は会場のTBSテレビ「Gスタジオ」にいくつかのテーブル席が設けられたお披露目パーティーのようなものであった。歌のセットは作られず、バンド前に全歌手が椅子に座っていた。ランキングボードは、本放送でのパタパタパネルではなく、手書きにより左側にオレンジ色の文字で過去の年間1位曲、右側に白文字で1977年の年間ベストテンが表示され、その前に置かれたソファーには黒柳・久米の司会者コンビが時々座っていた。歌手以外にも福田一郎などの音楽評論家・プロダクション関係者も出席していた。オープニングのテーマもおなじみの音楽ではなく全く違うものが使用された。視聴率は24%(21.4%とする資料もある[10])。
第1回放送
1978年1月19日に放送開始。放送時間は21:00 - 21:55。ここから週間ランキングを発表。
- 第1位:UFO(ピンク・レディー)
- 第2位:わな(キャンディーズ)
- 第3位:しあわせ芝居(桜田淳子)
- 第4位:わかれうた(中島みゆき)欠席
- 第5位:禁猟区(郷ひろみ)
- 第6位:憎みきれないろくでなし(沢田研二)
- 第7位:ブーツをぬいで朝食を(西城秀樹)欠席
- 第8位:若き旅人(狩人)欠席
- 第9位:泣き虫(清水健太郎)欠席
- 第10位:風の駅(野口五郎)
当時人気絶頂の山口百恵の「赤い絆」が第11位にランキングされ、また4位にランク入りした「わかれうた」の中島みゆきはレコーディングを理由に生出演を拒否するなど、初回から順風満帆とはいかなかった。それでも視聴者からは正直なランキングの発表に評価があった。これは、黒柳が司会を引き受けるに当たり「番組の演出で順位を動かすことはしないで、正直な形で順位を発表してほしい」という条件を付けたことを守るためだったと言われている。実際黒柳は、後に対談で「ランキングが不正操作されていないかどうかを確認するため、総合ランキングの集計結果を毎週100位までチェックしていた」と語っている[11]。
初回の「今週のスポットライト」はランキングとは無関係に懐メロとしてフランク永井・松尾和子の「東京ナイトクラブ」。初回は1 - 10位は曲名と点数、11 - 20位は曲名のみの発表だったが、2003年12月31日放送の『ザ・ベストテン2003』でこの週の11 - 20位の点数、21位 - 30位の曲名と点数が初めて明らかにされた。
1978年 - 1984年
- 1978年9月28日は渋沢栄一を題材とした西田敏行と武田鉄矢主演の時代劇ドラマスペシャル『雲を翔びこせ』を放送したため休止したが、冒頭の5分間(21:00 - 21:05)を使いベストテンのランキングのみ発表された。
- 1979年4月5日と12日の放送で、西城秀樹の「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」が計算上の週間得点の最高である9999点を獲得。番組史上満点を獲得したのはこの曲のみである。
- 1979年12月27日の「年間ベストテン」では、通常のベストテンではベスト3に入らなかった渥美二郎(年間第3位「夢追い酒」)と小林幸子(年間第1位「おもいで酒」)が息の長いヒットにより年間ベスト3に入り、両者がスタジオで熱唱。渥美は通常のベストテンではわずか3週のランクイン、それもすべて10位であったが、8ヶ月間ベスト30に入り年間の高得点につながったことを久米が解説。また直前まで順位を知らされていなかったという小林は、あまりの感激に歌う前に紙吹雪の中で号泣、黒柳や共演者たちももらい泣きした(第2位はサザンオールスターズの「いとしのエリー」。通常のベストテンでも7週連続1位獲得)。
- 1980年2月14日、「今週のスポットライト」に『3年B組金八先生』の主題歌である海援隊の「贈る言葉」が登場するのに合わせて、3年B組の生徒役一同がスタジオに押し掛けた。
- 1980年3月27日、竹内まりやが「不思議なピーチパイ」で10位で初登場した際、コンサートを行っていた大阪のフェスティバルホールより生中継された。また竹内まりやが、ベストテンランクイン1000組目となり、その際スタッフより「初登場の記念に、何か贈り物をしたい。」と竹内に提案した所、「会場においてある公衆電話に、自分の写真を飾って欲しい。」と答えた。本人の写真入の公衆電話は、初登場した日に会場に贈呈され、数年間会場に置かれ多く人が利用した。
- 1980年9月25日、「青い珊瑚礁」がこの日2週連続の第1位となった松田聖子が、「さよならの向う側」で10位にランクされた山口百恵と、同番組では最初で最後の共演となった。山口から「おめでとう御座います。これからも頑張って下さい」と祝福されると、松田は「有り難う御座います。もう嬉しいです」と笑顔を見せていた。さらに同日、「How many いい顔」が5位だった郷ひろみも出演、松田は郷と握手を交わしていた[12]。
- 1981年3月26日放送分より、TBSと一部のネット局でステレオ放送を開始。
- 1981年6月18日放送で寺尾聰が歌った「ルビーの指環」がそれまでの番組記録だった世良公則&ツイストの「銃爪」が記録した10週連続1位を更新する11週連続1位を達成。記念として寺尾には1位記念番組オリジナルのハイライト (タバコ)がプレゼントされ、歌と当週出演者のお祝いメッセージを収録したゴールドディスクが作成された。記録は12週連続となる翌週まで続き、その偉業を称える形でスタジオに赤いソファーが設置された。なお、赤いソファーは2005年7月30日から8月7日まで大阪城公園で開催された『オーサカキング2005』(毎日放送主催)で特別展示された。現在は緑山スタジオの倉庫に保管しているという。
- 1981年9月17日の放送で、最高視聴率41.9%(ビデオリサーチ調べ・関東地区)を記録。久米宏が休養明けで司会に復帰したこの週の1位はイモ欽トリオの「ハイスクール・ララバイ」。また、この週に3位だった田原俊彦「悲しみ2(TOO)ヤング」が、2位の松田聖子「白いパラソル」と相合傘をする演出があった。
- 1981年11月19日、山本譲二の「みちのくひとり旅」が5週連続6位という珍事に、「1位記録よりも難しいでしょう」と本人も苦笑い。
- 1981年12月、200回記念をパーティー形式で行い、これまでにランク入りした歌手が集合した。
- 1982年10月より、放送時間が21:00 - 21:54に変更(直後の天気予報枠の1分拡大に伴う)。
- 1983年から「ザ・ベストテンIN○○」(550回は「ザ・ベストテン大移動」)と称して、年1回全国各地を回る公開生放送を開始、当初は放送300回記念、350回記念とキリのいい回に行っていた。初回は「ザ・ベストテンIN長崎」で中継を含めると8組の歌手が出演し、そのうち4組が特設ステージで歌を披露した。この週は杏里の「CAT'S EYE」がテレビアニメの主題歌として初めての1位となった週でもある。
- 1984年10月18日放送では「秋のザ・ベスト展」と題してランクインした歌手による芸術作品が披露された。
1985年 - 1987年
- 1985年1月10日、オープニングを生演奏しオーケストラ・コーラス・指揮者を紹介。
- 1985年4月18日、司会の久米宏が翌週で『ザ・ベストテン』を降板すると発表。半年後の同年10月からテレビ朝日で『ニュースステーション』を担当するための降板だったが、当時このことはトップシークレットで、黒柳や番組開始当初からのスタッフである山田修爾プロデューサーにすら知らされず、久米は視聴者やスタッフに降板理由として「疲労による休養」と説明した。黒柳は「足腰が動かなくなるまでやろう」と久米を翻意させようとしたという。当初は3月で降板の予定だったがスタッフが4月まで延長させた。この時点で久米は日本テレビの『おしゃれ』を除きレギュラー番組を全て降りていた。当初は黒柳も辞める気だったが、スタッフに説得され最終回まで司会を続けた。久米の降板に黒柳は思わず泣きながらコメントした後、この日の出演者の中森明菜・松田聖子らも涙を流していた(さらに松田も神田正輝との結婚を機に歌手活動を休業するため、この日を以て同番組の生出演も暫く休止する事を発表していた)。
- 1985年4月25日、久米宏が番組を卒業。翌週から松下賢次アナウンサー・タモリ・寺尾聰・小沢昭一・生島ヒロシら徹子と以前より交流のある芸能人が司会の代わりを務めた(その後、タモリと生島の音楽番組司会はテレビ朝日のミュージックステーションでも生かされている)。
- 1985年9月26日エンディングにて小西博之が2代目司会者となることを発表、翌10月3日より就任。エンディング時に紹介されていた。
- 1985年10月17日、静岡・日本平から「400回記念 ザ・ベストテンin静岡」を放送。静岡放送はラジオでも同時放送された。
- 1986年春頃からテレビ番組出演を必要としないアーティスト系も常時ランキングされるようになり、出演拒否する歌手が毎回半数近くにのぼり、当初は「レコーディング中」「コンサート中」を理由にしていたが、松下が司会になって数週間後には「各方面との折り合いがつかず」という理由が使われるようになる。『ザ・ベストテン』はこの頃から徐々に視聴率を下げていった。
- 1986年2月20日と、5月8日は10位から4位まで7曲とも女性一色の曲。
- 1986年4月10日、第1位だった少年隊の「デカメロン伝説」の歌唱終了後、通常回ではエンディングで行う記念写真を先に繰り上げ、黒柳が「この後ちょっと皆様にお話が有りますのでそのままご覧下さい」と一旦CMに。CM明け、放送2日前の4月8日に自殺した岡田有希子の訃報に関し、黒柳は「18歳の有希子さんに、悩みを私達分かってあげられなくて本当に申し訳ないし、又残念に思っています」「有希子さんの明るい笑顔と美しいお顔が、永久に皆さんの心に残る事を祈ってます」と、視聴者に対して涙ながらのコメントを述べる。この日スタジオに同席の、岡田と懇意だった中森明菜と南野陽子、西村知美らも哀しみの表情を浮かべていた。
- 1986年9月25日、小西博之が1年を区切りに司会を卒業すると発表。この日黒柳はアフリカに行っており、VTRで小西にメッセージを伝えた。数日後が小西の誕生日であったため、ケーキが用意され菊池桃子からプレゼントをもらった。
- 1986年10月2日、3代目男性司会者の松下賢次アナウンサーが初登場。正式な司会初日にもかかわらず5組も欠席。
- 1986年10月9日、長野県松本市のあがたの森公園から「450回記念 ザ・ベストテンin松本」を放送。ランクインした中山美穂は放送終了30分前に到着の特急あずさで松本入りし、特設ステージで歌を披露した。
- 1986年12月4日の1位、杉山清貴の「最後のHoly Night」は、ザ・ベストテン史上最低得点での1位(7559点)。
- 1987年4月2日に「ザ・ベストテン延長戦」を放送。これはランキングを1位から順番に発表し、時間が許すまでランキングを発表していくが、歌手が○×クイズに正解しないと歌えない、という内容。この時西村知美(「シンフォニーの風」、16位)がクイズに連続して間違え(他の出演者は一発正解)、進行が止まってしまったため司会の松下賢次がわざわざ「マルか、バツか?」と正解を強調して言ったのにもかかわらず西村は「バツ?」と大ボケぶりを発揮した。さすがに溜まりかねた松下は、次の問題で「マルと言って下さい!!」と答えを教えていた。この日の19位は森川美穂「おんなになあれ」。時間がギリギリまで迫っており、何とか歌うことはできたが1番だけであった。20位の曲のみランキングボードが回らなかった。
- 1987年4月16日、初ランクインした立花理佐は、黒柳の年齢の出題で『70歳くらい?』と発言したため、黒柳が困惑しつつ苦笑いするシーンがあった(当時黒柳の実年齢は53歳)。このことは、翌年3月最後の放送日の延長戦にてクイズ出題の題材として取り上げられた。
- 1987年5月7日、どうしても1位が獲れないとんねるずが5回目(3曲目)の2位獲得。5回とも1位の歌手が違うという珍記録。
- この頃、黒柳が1987年10月から開始した22時台のニュース番組『ニュース22プライムタイム』のキャスター就任の打診を受けるも、共に生放送であるがゆえにベストテンの司会を降板しなければならず、「ベストテンの司会を続けたい」として断った[13]。
- 1987年10月1日、宮城県仙台市より500回記念「ザ・ベストテンin仙台」を放送。それまで労働基準法の関係からメンバー7人揃っての生出演が困難だった光GENJIが初めてフルメンバーで生出演、番組内では「都民の日のため出演が可能になった」と説明されたが、翌週以降もフルメンバーでの生出演は続いた。とんねるずがこの公開放送の回に出たさに、チャート初登場がこの回になるようにシングルの発売日を合わせたというエピソードも残っており、チャートインしなければもう歌わない、と『オールナイトニッポン』などでリスナーに脅しを入れていた。
- 1987年10月8日、この週が10組フル出場した最後の回になった。またこの回と翌週15日は黒柳が番組を欠席、代わりに全国のJNN各局の人気女子アナがTBSに集合し、松下アナのアシスタントを務めた。当時独身だった松下アナの番組内でのお見合いも兼ねた。
- 1987年12月31日に『ザ・ベストテン電リク祭り』を開催。過去の「ザ・ベストテン豪華版」のハプニング集・5周年記念に放送されたベストテンフェスティバルからの映像が多く使用された。スタジオにはC-C-B・クリスタルキング・桜田淳子・島田奈美・光GENJI・西村知美・寺尾聰らが集まった。また、裏番組の『NHK紅白歌合戦』に有力視されながら出場できなかった南野陽子や酒井法子らも駆けつけた。中継先は、翌年3月で廃止される青函連絡船の青森駅、ビートたけしがテレビ朝日の生番組で草野球をしていた神宮球場などから。なお、VTR出演だが、ベストテンに2年7ヶ月ぶりに登場した久米宏が『ニュースステーション』のセットからコメントを出した。この日、生歌を披露したのは光GENJI・寺尾聰・森川由加里・クリスタルキングの4組。放送時間の関係で光GENJIの歌唱中に終了。
- 番組の出演回数が200回を超え当時の番組出演最多記録を誇った田原俊彦に対して、寺尾聰の赤いソファーになぞらえた名前入りの青いソファーが贈られ、スタジオに置かれることになった。最終回まで246回と出演最多記録を伸ばした。
1988年 - 番組の終焉
- 1988年から各月の最終週に「月間ベストテン」開始。月間ベストテンに限り、歌われる曲すべてに歌詞のテロップが出た。ところが、1988年2月25日に池田政典の「FORMULA WIND」が通常のウイークリーで10位で初登場したものの、当日は月間ベストテンだったため事前にファンを招いてのスタジオ収録が10秒程度流れるも生歌唱ができず、翌週には圏外落ちしてしまった。その後は、月間ベストテン放送回で週間ランキングに初登場した歌手がいればトップバッターで歌わせる処置がとられた。
- ランキングボードが老朽化のため制作費数千万円をかけてランプが円から星型になった新しいものに変更。得点の表示が4桁から6桁に増え、年間ベストテンの得点表示が可能になった。4桁時代のランキングボードは、1987年の豪華版終了後に視聴者プレゼントされた。実際に6桁全てを使用したのは計16回。
- 1988年からオープニングの映像と番組テーマ曲を新しいアレンジのものに変更された。また、ランキングボードの隣に日付のテロップ(デジタル表示)が設置されるようになる。
- 1988年3月31日、2回目の「ザ・ベストテン延長戦」を放送。この日は月間ベストテンという形での延長戦になった。しかし、クイズまでの映像が長すぎたこと、光GENJIの諸星和己が黒柳をちゃかして司会の邪魔をしたこと、出演しない歌手のクイズに黒柳が代理で答えるなど前年度より段取りの悪い内容のためランキング紹介が途中(17位)で終わる。17位は酒井法子の「GUANBARE」だったが、わずか20秒前後しか出演せず、歌唱披露すら出来ないまま放映終了となってしまった。そのため代替として、酒井は翌週の冒頭に中継出演で「GUANBARE」を歌唱した。この年で延長戦は廃止されたが、視聴率が初めて8%台にダウンとなった。これらの原因が後に視聴者離れを加速し、「ザ・ベストテン」の終了に至った遠因ともされている。
- 1988年6月16日・23日の2週に限り、「私は黒柳」というテーマで黒柳のまねをした女性が松下アナウンサーと司会を進行。サザンオールスターズが3年ぶりに出演。
- 1988年8月4日は、光GENJI・薬師丸ひろ子を迎えて箱根からの生中継。それ以外の歌手は、コンサート会場などからの中継。
- 1988年10月6日、公開生放送は550回目ではなく、期首改編に合わせ552回目に「ザ・ベストテン大移動・鹿児島編」を放送。視聴率は鹿児島地区では70.5%を記録したが、関東地方では初の1ケタ(9.8%)。この年が最後の公開生放送になった。
- 1988年10月13日から、フジテレビの裏番組で『とんねるずのみなさんのおかげです』がスタート。これにより、視聴者層が被っていたザ・ベストテンの視聴率は10%台前半から時には一桁台になるなど悪化。
- 1988年11月11日の一部新聞で、1989年3月に「ザ・ベストテン打ち切り」という記事が掲載されたが否定。
- 1988年11月24日は、月間ベストテンの週で月間にランクインした歌手9組と週間ベストテンで初登場1組の10組出場した。
- 1989年1月5日には、オープニングから8位発表まで、久米宏が司会で登場。その後、生島ヒロシ・小西博之・草野仁・チャック・ウィルソン・松下賢次が登場。この日が松下の最後の出演で、エンディングでは松下がくす玉を割り、全員で長渕剛の「乾杯」を熱唱。元号が昭和の時代としては最後の放送となった。
- 1989年になるとオーケストラ演奏を必要としないバンド系の歌手の増加で、オープニングにバンドが毎週いることがなくなり、オープニング時は歌手席のところに集合する形をとるようになった。
- 1989年1月12日、4代目司会者としてコント赤信号のリーダー・渡辺正行と柄沢晃弘アナウンサーが登場。柄沢アナは基本的にデータの読み上げなどの補佐に回った。元号が平成になってからの最初の放送となった。
- 1989年2月23日から毎回歌詞テロップ表示するようになる(それまで初登場時のみ)。
- 1989年4月6日、ゲスト席がリニューアルされる。前週(3月30日)の放送分が特別番組で中止になったため、先週のランキングも発表した。4月のみ「春の秘蔵映像豪華版」と題して、歌手や視聴者のリクエストに答えて昔の映像を流すようになった。同じ頃、『夜のヒットスタジオ』でも総集編などの形式で過去の映像を流す機会が増えており、両番組でのこの措置は生歌だけでは視聴率がとれない時代に突入していたことを象徴する出来事でもあった。
- 1989年7月6日放送の終了直前に黒柳徹子が、9月末をもって「ザ・ベストテン」を番組終了することを発表。終了理由としては、「番組開始当初は2分30秒の歌も、現在は平均3分30秒になり長いものは5分近くなっていき、10組フル出場してもらっても満足なインタビューをすることが困難なために、この番組も役目を果たした」との説明がなされる。この日スタジオ出演の田原俊彦・TUBE・少年隊・斉藤由貴・南野陽子・工藤静香らは神妙な面持ちで黒柳のコメントを聞いていた。次週から最終回まで、同番組のテレビ欄には「あと○週!」と表示されるようになる。
1989年8月24日、黒柳が欠席。渡辺が豪華に登場したいと希望したため、派手に登場。また、この回よりTBS初のクリアビジョン放送を開始、ただしネット局では通常放送。
- 1989年9月7日の600回目には公開生放送は行われず、スタジオから12年間のベストテンを発表。1位は五木ひろしの「長良川艶歌」。
- 1989年9月14日、「スポットライト」の最終回はC-C-Bが登場。解散直前でシングルメドレーだった。なかなか登場しなかったZIGGYが最初で最後の出演。
- 1989年9月21日、第1回目の映像を画面右下で小さく再放送。主音声では通常の生放送を、副音声では第1回目の音声を放送する方式がとられた。なお、歌手が歌っている時やCM中は再放送は流されず、その部分はステレオ放送。
- 1989年9月28日、最終回を迎える。10組中5組がスタジオに登場、1組が中継、4組が欠席。欠席の竹内まりやからは電話があった。最終回の1位は工藤静香の「黄砂に吹かれて」。その後「ごくろうさま黒柳徹子さん」という文字と得点999,999点がランキングボードに表示され、12年間の感謝を込めて全員で黒柳を盛り上げた。最終回視聴率は20.4%だった。
- 1989年10月5日に『さよならザ・ベストテン』を放送。歴代の司会者・登場歌手などが昔の映像を見返す。番組途中からは松山千春が初めてGスタジオに登場。また全国各地から出演した歌手からのメッセージも放送された。エンディングには、高田純次が翌週からの新番組の宣伝に登場。番組のテーマ曲に秋元康作の歌詞が付けられたスペシャル・ソングが発表された。
ハプニング・放送事故
生放送のためハプニングは多かった。下記に主なハプニングや放送事故を列記するが、「放送事故」に関してはその旨該当項目冒頭に記述する。
- 1978年、世良公則&ツイストが「銃爪」の9週連続1位の際、「もう楽屋に誰もいないから」と、発表・コールされる前にスタジオに出てきてしまった。この時彼らは世良を乗せた神輿を担ぎ、「銃爪大明神」と大書した幟を押し立てての登場であった。
- 1978年11月16日、松山千春が『季節の中で』で初出演した際に旭川市民文化会館からの生中継を行ったが、当初3分間の予定だったスピーチが長引き8分間に及んだため、その後に出演した山口百恵が歌う時間がなくなってしまい、記念撮影だけ参加した。ほかの出演歌手はこの措置に対し不快感を示したが、当時のプロデューサーである弟子丸千一郎が、テレビ出演もせず地道な活動でここまできた松山と、テレビの力で人気になった他の歌手との努力の差を示した上で、松山に対する特別措置に理解を示すよう訴え、事態を収めたという[14]。
- 1980年、長渕剛が中継先で「順子」の歌唱中に、そばにいた歌手仲間たち(桑名正博、アン・ルイスら)に「あのー、済みませんが失恋の歌なので手拍子はやめてくださいませんか?」と言って演奏を最初からやり直した。
- 1980年6月12日、スタジオの出演歌手に地方各地の視聴者が中継先から質問を受け付けるコーナーで、シャネルズ(後のラッツ&スター)に対して、ある青年が「黒人のクセに何でシャネルズ(フランスの高級ブランド名)なんだ」と質問をした。鈴木雅之はとまどいつつも、「ブランド名が元になったのではない」と答えたが、その後黒柳が質問をした青年に対し「人種差別となる発言となるので、こういった表現をすることはやめてほしい」と注意喚起した。またラッツ&スターになり、初の1位を獲得したあまりにその感激で、登場時に勢いよく飛び出そうとしてミラーゲートの回転ドアの中心部を強く押しすぎてドアが外れて前に飛んだこともあった。久米曰く「ちゃんと弁償していただいた」そうである。
- 1983年1月13日、中森明菜がこの日「セカンド・ラブ」が5週連続で1位にランクイン。作曲者の来生たかおより祝福の電話が入り、来生から「今日は風邪で喉を痛めていると聞きましたが?」と心配されるも、中森は「大丈夫です」とコメント。しかし「セカンド・ラブ」の歌唱中、やはり風邪の影響からか急に声が出にくくなり、歌唱終了後に中森は大粒の涙を流してしまう(当初スタッフは口パクでの歌唱を勧めたが、中森本人が「TVを見ている人に対して失礼だから」と拒否したとの事)。エンディングでの中森は、電話相手の来生や同番組の出演者らに気丈に笑顔を見せようとしながらも、悔し涙は止まらないままだった。番組終了後に黒柳は、中森に対して「良いお医者さんがいるの。(松田)聖子ちゃんにも教えているから、是非聞いてみて」と気遣ったという。
- 1983年のある放送で、スタッフの手違いで本来はスタジオの最上部に吊るされるはずの1位のくす玉が誤ってスタジオの下部に落ちてしまった。この時の1位歌手・中森明菜はくす玉を割って紙テープ・紙ふぶきをかぶるためにわざわざしゃがみこみくす玉に顔を突っ込んだらしく(このとき、くす玉は画面正面ではなく横向きであった[15])、この年の年末豪華版でゲストコメンテーターをしていたビートたけしは「女便所をのぞいてるんじゃないんだから…」とコメントした。
- 1983年、「夏色のナンシー」でランクインした早見優は自分の順位まで時間が在る為、楽屋で先輩の松田聖子と談笑中に2組の歌手が欠席した為,早くに自分の出番に。慌てて回転ドアを飛び出して来るも口紅は塗れておらず靴も先にランクインしていた堀ちえみに履かせて貰う。その日は動揺で声も数回、ひっくり返っての歌唱になる。
- 【放送事故?】1983年9月8日、アルフィーが南紀白浜ワールドサファリより生中継(曲は メリーアン)。しかし国内であるにもかかわらず衛星中継を行ったため、バックのカラオケと歌がずれた状態でオンエアされた。なおその際、オリの中で歌っていた。(毎日放送千里丘放送センターの送出。追っかけマンは青木和雄アナ)
- 1984年、杏里が「悲しみがとまらない」の歌唱中、側に座っていたチンパンジーが杏里の手を引っ叩き、その態度に吹き出した杏里はその後、笑いを堪えきれず歌えなくなってしまう。
- 1984年12月13日、アルフィーが愛知県犬山市のファンの家に突然押しかけ「恋人達のペイヴメント」を歌うドッキリ企画を行ったが、当のファンは留守で、アポ無し企画ゆえにリハーサルでは使用出来なかった撮影用ライトを点灯させた影響で機材の電圧が落ち、バンドセットが組めないために持ってきたカラオケテープが止まりそうになった為中継スタッフが指で回して再生、安定しない音質のまま曲の終了まで放送し散々な中継になってしまった。DVD『THE ALFEE ザ・ベストテン&ある日ィ突然! Complete edition 2000』にも収録されている。(中部日本放送からの中継。追っかけマンは小堀勝啓アナ。)
- 【放送事故】1985年に「夏ざかりほの字組」(田原俊彦と研ナオコ)の歌唱時、音楽が歌い手に聞こえなくなり、順番を後に回された。
- 1985年、吉幾三が「俺ら東京さ行ぐだ」で「今週のスポットライト」に登場した際、1番の途中で歌詞をど忘れし、スタジオは大爆笑。初めからやり直した。ベストテンにランクインした週には、歌の前「景気づけに」と黒柳からすすめられた日本酒を飲んだところ、故郷の青森を思い出し涙ぐんでしまった。
- 【放送事故】1985年9月19日、カール・ルイスがゲスト出演した回において番組進行が押してしまい、本来流すべきCMが放送できないという事態が発生した。この際、1分間の番組内CMを1回カットするべきところで、TBSマスター担当者のミスから番組内CMを2回分カットしてしまい、番組最後のCMにおいて、本来関東ローカルで流すべきCM4本を全国放送してしまった。
- 1985年10月17日、「ザ・ベストテンin静岡」において、2位で登場したとんねるずに対して客席は総立ちに。とんねるずは客席から大井川の川越用の輿にのって登場するはずだったが、警備の不備なども重なり観客によって衣装がもみくちゃにされた。激怒した石橋貴明は生放送中にもかかわらず、ステージ上で観客に対して「ふざけんじゃねぇぞ!この野郎!!」「てめぇら最低だ!」などと罵声を浴びせ、身に着けている物を投げつけたりし、木梨憲武のフォローも構わず、「雨の西麻布」を怒鳴り声で歌った。その態度に対し、番組宛に抗議が殺到し、翌週の放送で石橋が謝罪した。このシーンは2009年10月27日放送の「大日本名作ドラマ主題歌とくばんスペシャル」でも放送されている。その際の石橋の話によれば、当日は「夕やけニャンニャン」の収録後に静岡に向かい、時間の都合上、細かい打ち合わせやリハーサル無しに本番に突入してしまい、客席の中を渡る演出について不安を感じていたようである。
- 1988年11月3日、南野陽子は3位にランクされた「秋からも、そばにいて」の歌唱の途中、歌詞の一部を忘れ出てこなくなってしまった。秋真っ直中を思わせる沢山の枯葉を敷いたセットで、南野はロングスカートの衣装で歩きながら歌っていたが、本人曰く「スタッフから『スカートで枯葉を散らさないように歩いて下さい』と言われ、無事ステージに辿り着いた途端、歌詞が飛んでしまった」との事。なお黒柳はその直後南野に、歌詞が掲載された台本を見せるため駆け寄ろうとしたが、スタッフに止められたという。その黒柳の行動を見た南野は思わず手を震わせ、歌い終えた後「どうもすみませんでした。ごめんなさい!」と涙ぐみながら頭を下げて謝った。この歌詞忘れのハプニングに、南野自身「あの瞬間に歌手生命が終わったと思った」と後に語っている。翌週の登場時、ファンから「失恋したのですか?」「体調が悪かったのですか?」等という南野を心配するはがきが届いたが、南野は「いえ違います、ただのど忘れです。済みませんでした」と笑顔でコメントした。
- 番組スポンサーの1社が日立製作所だったにもかかわらず、シャネルズの「ランナウェイ」(パイオニアのラジカセ『ランナウェイ』CMソング)や徳永英明の「風のエオリア」(松下電器産業のエアコン『エオリア』CMソング)、Winkの「淋しい熱帯魚」(パナソニックのヘッドホン・ステレオ『Sタイプ』CMソング)といったライバルメーカーのタイアップ曲がランクインしても、タイトルや歌詞を差し替えたりすることはなかった。しかしやはりスポンサーであるキリンビールに配慮し矢沢永吉の「THIS IS A SONG FOR COCA-COLA」(当時のコカ・コーラ社のCMソング)に限っては、ライバル社の社名を含むタイトルを表記できず、レコード売り上げランキングでは「(C.M.SONG)」と紹介された。「今週の20位から11位まで」のコーナー自体しばらく休止となった。また、番組スポンサーではない企業のCMソング(特に化粧品メーカーのCMソングが多かった)も番組内でランクインされていた。
- C-C-Bは解散の際に、ベストテンの「スポットライト」に出演し解散についてのコメント及びヒットメドレーを披露しているが、1994年3月29日の同窓会IIで登場した時の黒柳の第一声は「解散した事知らなかったの〜」。
ランキング第1位
- 1位最多獲得歌手は中森明菜で計69回。「ベストテンの女王」の異名がある。2位最多獲得歌手も中森である。
- 先述のとおり、1位の歌手がスタジオに出演した場合には天井からくす玉が下ろされ、当初は司会者が、後期は1位の歌手が紐を引っ張ってくす玉を割り、大量の紙テープ・紙吹雪・風船が舞う中祝福した。
- くす玉の紙テープや外観は基本的には金色一色が多く、グループでの場合はその人数分のくす玉が用意されたこともあった。光GENJIや少年隊といったジャニーズ事務所系列などのグループユニットのアーティストが1位になるとくす玉の数も多くなり、スタジオの天井が紙テープで埋め尽くされたこともある。
- 少年隊が「仮面舞踏会」で1位に輝いた時はくす玉の外観が銀色、紙テープは五色のメタリックテープを使ったり、松田聖子が1位になった時には、中身はピンク色一色の紙テープのハート型のものや、割れたくす玉の中にもう一つ小さいくす玉が用意され2つとも割れるようになっている親子くす玉といったもの、また中森明菜が「DESIRE -情熱-」で1位になった時には、和洋折衷という曲のイメージから、和紙や折鶴を紙テープ代わり、更に風船も紙風船で作った「和風くす玉」、あるいはこの曲が通算44週目の第1位の時に小さめのくす玉を44個割って、その垂れ幕に1位になった楽曲を書き記したもの、更に「BLONDE」で1位になった時で七夕に近い時期の放送では星型のくす玉なるものまでも用意された。
- アルフィーには「星空のディスタンス」にちなんで「星型のタンス」がプレゼントされた。のちに探したところ、紛失したらしい。(後述のDVDにて発言あり)
- 1978年11月16日の放送では「季節の中で」で1位を獲得した松山千春が初めて番組に中継で出演し、歌う前にテレビに出演しない理由を語った後、「テレビで歌うのはこれが最初で最後」と言い、生ギターで歌を熱唱した。しかし3年後の1981年に「長い夜」がランクインし、コンサートビデオ映像を流す形で再び出演している(スタジオ出演、生中継はなし)。松山の1位獲得曲はこの2曲のみだが、「ルビーの指環」の12週・「銃爪」の10週という連続1位記録のNo.1・No.2を止めたのは、いずれも松山である。
- 1981年6月18日、寺尾聰の「ルビーの指環」が11週連続1位新記録を記念して、前出の赤いソファー・タバコに咥えて、出演者のお祝いの言葉を吹き込んだゴールドディスクがその場で制作されプレゼントされた。
- 1985年4月4日、C-C-Bの「Romanticが止まらない」が通算100曲目の1位獲得曲になったのを記念して、100度数の記念テレホンカードがこれまでに1位を獲得した歌手全員(バンド・ユニットは人数分)に1位獲得曲の数だけプレゼントされた。
- 1986年、年間チャート1位を記録したKUWATA BANDの「BAN BAN BAN」では、年間ベストテンにて出場した際のスタジオでの演奏を演奏前の司会者の「KUWATA BAND、年間ベストテン1位おめでとう!」とのメッセージ入りでゴールドディスクにライブ録音し、プレゼントされた。
- 1988年2月、光GENJIの『ガラスの十代』が連続1位新記録を獲得するかどうかに注目が集まるムードとなっていたが、8週で止まり、翌9週目は中森明菜の『AL-MAUJ(アルマージ)』に1位を譲った。その際の出演時に諸星が『ちくしょう。こんばんは』と半ば笑みを浮かべながら登場した。その後くす玉を割る際に中森は『ごめんなさいね』と小声で言っていた。
番組終了後(特番など)
- 1989年秋の放送終了後しばらくは、末期に提供していたスポンサーが夜10時枠に移行し、音楽番組『音楽派トゥギャザー』が放送されたが、同年12月に打ち切りとなった。代わって夜9時枠には、1976年7月 - 9月にかけて放送された連続ドラマ『グッドバイ・ママ』以来、約13年ぶりに連続ドラマ枠が復活した(詳細はTBS木曜9時枠の連続ドラマを参照)ものの[16]、2009年4月からはバラエティー枠になり、現在の当該枠は2010年9月まで『笑撃!ワンフレーズ』が放送され、10月からは1年半振りに再度ドラマ枠になる。
- 1990年4月に開始した『週刊ワニてれび』で毎月最終金曜日に放送された「極楽ベストテン」内で番組リクエストは無いがランキングボードを使ってベストテン形式の月間ランキングと上半期ランキングが発表されていた。1990年の上半期1位はLINDBERGの「今すぐKiss Me」。1990年9月の『週刊ワニてれび』終了以降は、同時間帯に月に1度カラオケ番組が放映され、番組の最後に月間ランキングが得点付で発表されていたが、1991年3月で終了した(番組自体は毎週放映になって続いた)。
- 1991年3月から1992年3月ごろまで、不定期で『思い出のベストテン』という30分番組が放送。ベストテンゆかりの歌手が毎回1組ゲスト出演し思い出を語る番組で、ランクイン曲のVTRを見るほか、エンディングにはゲストが最新曲1曲を熱唱。司会は追っかけマンだった生島ヒロシ、2代目司会者の小西博之、元フジテレビアナウンサーの長野智子。15回あった放送のうち、長野はすべての回で司会を担当。ゲストには山本譲二、中森明菜、早見優、西村知美、原田真二、本田美奈子、チェッカーズ、Wink、関口誠人(元C-C-B)アルフィーほかが出演した。基本的に関東地区のみの放送であったが、関東地区以外の一部の地方でも不定期で放送されていた。
- 1991年10月2日には山田邦子と、フジテレビの『オレたちひょうきん族』のコーナーでパロディ版の「ひょうきんベストテン」の司会を務めていた長野智子が司会の『今夜だけ!ご本家復活ザ・ベストテンスペシャル』を放送。田原俊彦・松田聖子・細川たかし・中森明菜・小泉今日子・工藤静香・中山美穂など豪華ゲストがスタジオで昔の映像を見ながらトークしたり、新曲を披露した。久米や黒柳からのVTRでの参加もあった。久米が「山口百恵のお尻を本当に触ったりお尻の肉もつかんだ」とのコメントもあった。
- 1991年12月28日には『総決算!ザ・ベストテン1991年末スペシャル』が放送されたが、槇原敬之・KAN・ドリカムなど当時の人気アーティストによるライブであり、『ザ・ベストテン』本体とはほとんど関係がない。
- 1993年12月26日には『ザ・ベストテン同窓会』として2時間の生放送で復活。ゲストに中森明菜・五木ひろし・西城秀樹・河合奈保子・柏原芳恵・近藤真彦・光GENJI・少年隊らを迎えた。
- 1994年3月29日にも『ザ・ベストテン同窓会II』を開催。ゲストに南野陽子・八神純子・世良公則・寺尾聰・C-C-B・荻野目洋子・ゴダイゴを迎えた。また、1979年12月13日放送分の映像がダイジェストで放送された。
- 1994年、『テレビの王様』の「ザ・ベストテン」特集で『ザ・ベストテン』のランキング集計は今(1994年当時)も行われていることが明らかになる。1993年11月25日放送分と思われるランキングも映され1位は長渕剛の「RUN」。なお、このランキング集計について、1993年4月から放送している『COUNT DOWN TV』との関係は不明。
- 1995年4月4日には『ザ・ベストテン復活版』を放送。司会は黒柳徹子・中山秀征。松下賢次も進行役で登場。杉山清貴、西原俊次、高島信二(現・Being)らオメガトライブの元メンバーの面々およびWinkなどが出演。スポットライトに内田有紀とSMAP(中継で登場)。この回をもって指揮者の長洲忠彦は、復活版への参加を辞退。
- 1997年12月28日には『ザ・ベストテン今夜だけの豪華版'97』を放送。司会は黒柳徹子・KinKi Kids。1997年の年間ランキングも1位〜3位までではあるが発表された。1997年の年間3位はLe Coupleの「ひだまりの詩」、2位はKinKi Kidsの「硝子の少年」、年間の1位は安室奈美恵の「CAN YOU CELEBRATE?」だった。
- 1998年7月31日には『金曜テレビの星!サザン20周年緊急特番 バカさわぎの腰つき!!』にて、『ザ・ベストテン』を放送(サザンオールスターズは、スポットライトとして出演)。司会は、久米宏と黒柳徹子、ゲスト(サザンファン)は、爆笑問題、スガシカオ、森雪之丞、岡本麗、出川哲朗。コーナーは、名迷場面集・ライブ(PARADISE)・トーク。
- 1998年12月30日には、『21世紀プロジェクト 年越し30時間生放送!!テレビのちから』の「とっておき映像永久保存版 20世紀名番組ベスト200」にて『ザ・ベストオブザ・ベストテン全12年栄光の奇跡』という1コーナーで放送され、1978年〜1989年の主な曲紹介をした。20世紀名番組ベスト200では、番組最高視聴率の週に1位だった[イモ欽トリオの映像が使われた。
- 2000年より2004年までは、12月30日に復刻版スペシャルを放送。ゲストがベストテン放映年の1978〜1989年および最近のヒット曲を歌うほか、ベストテンにまつわる秘密を検証する企画などで構成。司会は黒柳徹子と安住紳一郎アナ。2000年は38時間特別番組『SAMBA・TV』で放送され、以後2001年より4年間、大型スペシャル番組『ザ・ベストテン(年度)』として放送。2003年までは午後7時からの4時間、2004年は午後9時からの2時間30分放送。復活版では久米もVTR出演していたが、2000年の中森明菜登場の時の激励の電話を最後に出演がなくなってしまった。
- 2005年9月30日に、『ザ・ベストテン』特番のプロデュースをしている阿部龍二郎が手がけている番組『中居正広の金曜日のスマたちへ』の波瀾万丈スペシャルで、『ザ・ベストテン』番組を手がけていた山田修爾プロデューサー(この日に定年退職)と『ザ・ベストテン』の歴史を振り返った。ゲストに黒柳徹子が出演し、安住アナの対談で久米宏もVTRで登場。この日の『金スマ』は特別にステレオ放送が実施された。
- 2006年7月12日に、水曜日20時台に放送されていた『ドリーム・プレス社』で「復活!ザ・ベストテン!」として復活。CM前にも提供クレジットテロップで「ザ・ベストテン」と「ドリーム・プレス社」のタイトルロゴを併記して表示し、放送当時の流れを忠実に再現。2006年10月に金曜日20時台に移動してからも裏番組の『ミュージックステーション』(テレビ朝日系)の放送がないときに限り、この企画が行われた。
- 2009年2月15日・2月22日に、TBSラジオ『新井麻希 プレシャスサンデー』にて、「青春のザ・ベストテン リクエストスペシャル!」を放送。山田修爾プロデューサーが出演(2月22日)。
- 2009年3月11日に、『特バン!久米宏のテレビってヤツばっかり!?スペシャル』にて、旧Gスタジオがあった赤坂サカスACTシアター前で、1989年10月5日の『さよならザ・ベストテン』以来20年ぶりに、オープニングシーン(ザ・ベストテンコール)を行なった。周囲の観客から拍手が沸いた。
- 2009年3月30日から9月24日まで放送した『サカスさん』にて、毎週木曜日に『サカス・ザ・ベストテン』としてコーナー復活した。司会は田中裕二と西川史子。『ザ・ベストテン』を放送した1978年〜1989年の中から毎週ある年代を振り返る。その中から毎週1組のゲストを当時使用していたミラーゲートで登場し、懐かしの歌をサカス広場の特設ステージで披露した。
- 2009年4月18日に、TBSラジオ『久米宏ラジオなんですけど』に、黒柳徹子がゲストで生出演。番組冒頭から最後まで「全編黒柳徹子スペシャル」として放送。また、14時台後半には『ザ・ベストテン』の最多ランキング記録を持つ田原俊彦が飛び入り出演し、当時の『ザ・ベストテン』を振り返った。
- 2009年4月23日に、『ひるおび!』にて『甦るザ・ベストテン 秘蔵映像公開』で、ひるおびセレクションとして、1984年までの曲を紹介した。また、「ザ・ベストテン伝説」として3つのデータ(連続1位曲/ルビーの指環、最多1位歌手/中森明菜、最多出演歌手/田原俊彦)をフリップで紹介した。
- 2009年4月26日に、TBSラジオの特番『ラジオでザ・ベストテン!放送30周年!みんなの『ザ・ベストテン』大検証』を放送。進行役は小林豊アナ。黒柳徹子、山田修爾プロデューサーをスペシャルコメンテーターに、ファン代表として『サカスさん』木曜日司会の田中裕二(仕事スケジュールにより途中まで)、出演歌手の南野陽子が出演。
- 2009年7月20日の『はなまるマーケット』のコーナー、「クイズデイリーママダス」2009にて、ザ・ベストテンをテーマとして出題。
- 2010年9月21日、21:00から放送した『爆!爆!爆笑問題大同窓会!伝説の人気番組からアノ大スター登場SP』にて、「ザ・ベストテン大同窓会」として、当時の思い出などのトークをした。出演は、浅香唯、国生さゆり、新田恵利、早見優、堀ちえみ、諸星和己 ほか
- 2011年4月25日より月曜24時台にて本番組を踏襲した『カミスン!』がTBSなど一部系列局で放送されている(但し、ランキング形式ではない)。
『中居正広の金曜日のスマたちへ』でのベストテン
2005年9月30日の『中居正広の金曜日のスマたちへ』の「ザ・ベストテンの真相」でのランキング。
- 第1位 西城秀樹「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」
- 9999点を獲得
- 第2位 ピンクレディー「UFO」
- 同番組のスタジオに出演したことは覚えているが、あまりに忙しすぎたため「久米さん・黒柳さんに会ったことは覚えていない」と語った。
- 第3位 キャンディーズ「微笑がえし」
- 解散した後であるにもかかわらずベスト10内にランクイン、メンバーの旅先である外国から国際電話で出演していた。なお当時は国際電話の通信事情が悪かったため、通話を確保するために出演するまでの間、番組スタッフが24時間を通して電話を切らずに話し続け、その電話代が数十万円もかかったという。
- 第4位 シャネルズ「ランナウェイ」
- 第5位 松山千春「季節の中で」
- それまでテレビ出演を拒否していたが、視聴者からのリクエストが殺到して1位になったことと、山田プロデューサーからの必死の説得で出演を承諾してくれた。
- 第6位 小泉今日子「夜明けのMEW」
- 第7位 松坂慶子「愛の水中花」
- 北海道大学からの生中継で、人が集まり過ぎて脱出に苦労した。当時、北海道内で放送されていたHBCラジオの人気ローカル番組『ベストテンほっかいどう』のDJであったMr.デーブマンがHBC担当の追っかけマンとして登場していた。
- 第8位 郷ひろみ「マイレディー」
- 5週連続1位であったが同曲のランキング発表直後の郷は、隣のスタジオでドラマ(家路〜ママ・ドント・クライ)の撮影中であったためすぐに出演出来なかった。しかしその事情を知らない司会の久米宏は、「郷さ〜ん!ごうさ〜ん〜!!」と叫びながら、ミラーゲートを潜ってまで郷を探し続けている。数分後にようやく郷はスタジオに登場し、この時は通常の1.5倍ほどテンポを速くして、ぎりぎりワンコーラスを歌いきった。後日、タモリが自らのラジオ「オールナイトニッポン」番組内にて「共演者の自分が収録時にNGを出したために、郷さんの登場を遅らせてしまった。NGを出してしまった時の空気は凄かった。」旨の発言をしている。
- 第9位 大川栄策「さざんかの宿」
- 第10位 松田聖子「青い珊瑚礁」
- 番外編1位 中居正広「ガラスの十代」※点数は0点
- デビュー前の下積み時代に、光GENJIの「ガラスの十代」のバックダンサーとして中居が出演していた映像が披露された。
中継
歌手が地方や海外に行っていてスタジオに来られない場合でも、“追いかけます、お出かけならばどこまでも”を売りに、当時TBSアナウンサーだった松宮一彦や生島ヒロシ、JNN各局のアナウンサーが「追っかけマン」「追っかけウーマン」として登場し、各局の協力を得て、現地からの歌唱を中継披露するのも恒例行事であった。
松田聖子がデビュー期には羽田空港のランプエリアで歌い、その後甲子園から梅田へ向けて走る阪神電車の車内で歌ったり、『スチュワーデス物語』の撮影中の堀ちえみが日本航空のスチュワーデスの格好をして成田空港のハンガー内に駐機しているボーイング747の機内で歌ったり、郷ひろみが熊本駅に停車中で出発間際の特急おおよど(肥薩線経由、宮崎行きで現在廃止)に乗車し乗降デッキで歌っている途中でドアが閉まり発車した事、後日「ひょうきんベストテン」において片岡鶴太郎によってまねされる近藤真彦と田原俊彦が原宿・表参道のど真ん中を走るオープンカーの上から中継したり、斉藤由貴がNHK連続テレビ小説『はね駒』出演中、収録の合間を縫ってNHKの駐車場に簡易セットを組み立てて歌ってもらうなど、変わったシチュエーションでの中継も多かった。
新幹線での移動途中の中継も少なくなく、静岡駅や名古屋駅、新大阪駅での停車時間帯を狙った中継も多かった。特に静岡駅や名古屋駅では停車時間が短いこともあり、歌の途中でドアが閉まり、そのまま発車してしまうことも幾度かあった。移動途中での中継は「新幹線から下車してホームで歌う」「停車時間に合わせてデッキから歌う」というパターンが多かったが、「駅周辺のビルから新幹線の車中で歌う歌手を撮影」という今では考えられないような中継もあった。田原俊彦(「ピエロ」1983年3月31日放送)や小泉今日子(「迷宮のアンドローラ」1984年8月16日放送)などがこのパターンだったが、田原のケースでは唄っている途中に列車が出発してしまい、小泉のケースでは本人はどこから撮影しているか最後までわからないようであった。
国内中継での珍しいパターンとしては、東名高速道路を車で西に移動中だった田原俊彦が、いったん高速を降り、静岡インターチェンジ至近にあったSBS本社から中継で歌うというものもあった。しかし番組放送時間中にSBS本社へ到着できず、放送終了後何とか到着したところで、SBS本社に見物に来たファンへのサービスおよび翌週放送分の素材として収録を始めたが、マイクロ回線の使用予約時間を過ぎてしまい、曲の1番を歌い終えたところで回線は途絶えてしまうというハプニングもあった。田原の中継では温泉の男湯から行ったものもあった。これは直前にジャニーズ系タレントのイベントで将棋倒し事故が起こったことから、「女の子のいないところから中継しよう」と言う判断に基づいたものであった。
海外からの中継も多く、代表的なものとしては、杏里のホノルルのレコーディングスタジオからの中継、近藤真彦のハワイ沖の豪華客船からの中継、徳永英明のニューヨークからの中継、一風堂のロンドンやリヴァプールからの中継(イギリスのロックバンド・JAPANとの共演)、灼熱のアリゾナ州の砂漠の真ん中でパラシュートを背負った沢田研二が「TOKIO」を熱唱した一件などがある。
少年隊はオーストラリアのアデレードから生中継を行ったが「ABC」を歌唱中に、現地のテレビ局の電波と中継用の衛星回線が混線したのが原因で、突然現地のドラマの映像が流れ出す、といったハプニングがあった。この時の司会の松下アナは、少年隊が歌っていた時にソファーで横になっていたが、すぐさまオーストラリアのドラマの映像(中年の男性が映っていた)に対して「この方はオーストラリアの大変有名な俳優さんでございまして、日本の森繁久弥さんのような非常に重厚な演技で知られております」とアドリブで解説を入れ、同日出演の中森明菜らは大受け。急場をしのいだ松下の機転は日本の視聴者たちをうならせた。
追っかけの対象は歌手だけでなく司会である黒柳にも及んだ。これは番組開始時に、黒柳が司会に就任する条件の一つとして「毎年海外旅行に行くので2〜3週間の夏季休暇が取れること」を挙げ、番組側がこれを受諾したことが遠因。しかし番組制作側としては要の一人である黒柳を3週間も欠くことは大きな痛手であると考えたため、結局黒柳の旅行先である海外までスタッフを派遣し衛星生中継で黒柳を出演させた[17]。黒柳を追いかけての衛星生中継は1978年のニューヨークに始まり[18]オスロ、パリなど毎年夏の恒例となり、1984年にはついに久米も一緒に海外に飛び出してミュンヘンからの生中継を行うまでとなった。
追っかけマン・追っかけウーマン(中継リポーター)
- TBS東京放送 - 生島ヒロシ、松宮一彦、浦口直樹、吉川美代子、小笠原保子、三雲孝江、神津栄子、牧嶋博子、松下賢次 、畑恵美子(現姓、戸田)
- HBC北海道放送 - Mr.デーブマン(高田文之)、ジャンボ秀克、田中徳志郎、桜井宏、大久保真弓、野宮範子、天野博章、鎌田強、赤城敏正、大神政敏
- ATV青森テレビ - 及川羊子、小林文子
- IBC岩手放送(現、アイビーシー岩手放送) - 千輝順子、樋田由美子、水越かおる
- TBC東北放送 - 鈴木俊光、福井弘文、石川太郎、菅家真奈紀
- FTV福島テレビ( - 1983年9月) - 高橋雄一、金井淳郎(新人時代に短期間のみ担当)
- TUFテレビユー福島(1983年12月 - ) - 桑折久子、佐藤千春
- UTYテレビ山梨 - 佐藤泰男
- BSN新潟放送 - 小原三永子
- SBC信越放送 - 久保正彰、船戸導洋、小林万利子
- SBS静岡放送 - 上原孝男
- CBC中部日本放送 - 荒川戦一、島津靖雄、小堀勝啓、重盛啓之、松山香織
- MRO北陸放送 - 八田静輔、沼田憲和、久保千浪
- MBS毎日放送 - 斎藤努、角淳一、青木和雄、増田一樹、三上智恵、鈴江香(現・関岡香)
- BSS山陰放送 - 荒井由岐子、大谷典子
- RSK山陽放送 - 滝沢忠孝、中尾俊直、石田好伸、鍋島昭茂
- RCC中国放送 - 牧野睦夫、田中俊雄、橋本裕之、木下和恵
- TYSテレビ山口 - 杉山裕子
- KUTVテレビ高知 - 池知学、谷沿圭子
- RKBアール・ケー・ビー毎日放送 - 林幹雄、葉山さつき、山下奈緒美、安田瑞代
- NBC長崎放送 - 川瀬隆史
- RKK熊本放送 - 原武博之、福島絵美
- OBS大分放送 - 中野公児、 海原みどり
- MRT宮崎放送 - 樫元洋、長田新、遠藤玲子
- MBC南日本放送 - 二見いすず、古川廣生、采野吉洋、井川千也、山崎典子
- RBC琉球放送 - 箕田和男、橋本邦彦、柳卓、垣花章、東江八十郎
- 他、JNN系列各局アナウンサー
- また、系列外(番組未ネット)の秋田放送と南海放送も中継に協力した。南海放送は戒田節子アナと宇都宮基師アナが担当。秋田放送は丹内百子アナと男性アナ(誰が担当だったかは不明)が担当。[19]
- ラジオ・テレビ兼営局の追っかけアナは、ラジオの歌謡ランキング番組で司会を担当するケースが多かった(例外あり)。
- ラジオ・テレビ兼営局における「ラジオの歌謡ランキング番組」でのランキングが当番組の「ラジオ総合ベストテン」のデータを構成する要素となっていた。
- テレビ単営局の追っかけアナの中には、TBS系朝の情報番組でのリポーターも担当するケースがみられた。当番組のレギュラー放送期間中に放送されたTBS系朝の情報番組は、おはよう700→テレビ列島7時→朝のワイドX→朝のホットライン。
- 特別番組(ザ・ベストテン2001 - 2004)の追っかけマンおよび追っかけウーマン
- ドリーム・プレス社コーナー「復活!ザ・ベストテン」の追っかけマンおよび追っかけウーマン
- 川田亜子(元TBSアナウンサー)
代役司会
代役司会として多くのタレント・文化人が様々な形で登板した。特に1985年の久米降板から小西博之決定までの間は、黒柳のパートナー不在のため代打司会を多く起用している。久米宏は、2代目の司会に番組初期からいた松宮一彦の起用を望んでいたが、久米の後釜というプレッシャーから松宮が辞退したため、1985年5月〜9月までなかなか正式な司会が決まらなかった。
松下賢次はTBSの労働組合のストライキのため番組を欠席したことがあるが、このときは代理司会を置かず、スタジオには松下の等身大パネルが置かれた(1987年4月23日放送)。
一貫して司会を務めた黒柳も、1984年にユニセフ国際親善大使に任命されてから会議や視察のため年に1 - 2回ほど番組を欠席しており、その際は男性司会者が単独で司会をすることが多かったが、特別に代理司会を立てることもあった。
- 代役司会の最初とも言うべきはタモリで、1981年2月5日に久米宏の代打として登場。久米明とのコンビ登場(1983年8月25日)などその後もさまざまな形でベストテンに登場した。
- 1984年2月16日、久米の代役でおすぎとピーコが登場した。あまりの毒舌ぶりに、翌週TBSの電話が苦情でパンクした、というエピソードを残している。
- 1984年8月16日、黒柳が夏休みのため所ジョージが登場。1位の中森明菜に自作の「お祝いの歌」を贈っていた。所は1998年 - 2000年にフジテレビ系列で放送された『MUSIC HAMMER』でも同様に1位の歌手に「お祝いの歌」を贈っていた。
- 1984年8月30日、久米の休みのため桂文珍が登場。
- 1985年5月16日、久米退任後のお助け司会者として武田鉄矢が登場。サポートは松下賢次。
- 1985年5月30日、渡辺徹が登場。
- 1985年6月13日、近藤真彦が登場。
- 1985年6月20日、木内みどりが登場。サポートは松下賢次。
- 1985年7月25日、草野仁・森本毅郎といった当時TBS(JNN)系列の平日の顔となった2人も黒柳と3人体制で司会を勤めたことがあった。後に草野・黒柳は1986年から放送している『世界・ふしぎ発見!』でも共演している。サポートは生島ヒロシ。
- 1985年8月8日、中村雅俊が登場。
- 1985年8月15日は終戦の日にちなみ小沢昭一が登場。スポットライトに歌手としても登場し「ハーモニカ ブルース」を披露。
- 1985年9月19日、カール・ルイスの「スポットライト」登場時にケント・ギルバートとチャック・ウィルソンが登場。
- 1987年6月11日、黒柳がソビエト連邦出張のため田中裕子が登場。
- 1987年12月10日、松下が読売ジャイアンツの優勝旅行に同行取材のため板東英二が登場。
- 1988年4月7日、松下がマスターズゴルフ実況による海外出張のため高田純次が登場。その後黒柳・高田コンビは後番組『音楽派トゥギャザー』でコンビを組む。1位の歌の後に兵藤ゆきと「CHANCE!心ときめいて」を披露。スポットライトが、1位の後に歌う異例な措置。
- 1988年9月1日、松下が出張のため森末慎二が登場。
- 1988年9月8日、松下が全米オープンテニスのため井上順が登場。
- 1988年12月1日、黒柳がユニセフ会議のため楠田枝里子・諸星和己が司会を担当し、松下が補助に回った。この回がタレントや歌手が代理司会した実質最後の回である。
1989年からは、柄沢晃弘アナが欠席の時は、ベストテン特派員の吉本多江アナが代理出席する程度。1月5日放送のみ歴代の司会者の一部が登場した以外は通常の司会者がつとめた。最終回直前になると、黒柳・渡辺・柄沢・吉本の4人で司会進行する回がしばしばあった。
番組担当の歴代オーケストラ
- 原信夫とシャープス&フラッツ - 1978年のみ数回担当。
- 宮間利之&ニューハード - 前夜祭・初回から演奏を担当。1993年・94年ベストテン同窓会も担当。
- 高橋達也と東京ユニオン - 1984年6月28日・1986年よりニューハードと毎週交互で担当
- 岡本章生とゲイスターズ - 1984年7月5日・2006年の復活版担当。
- GTサウンド 弦楽器担当
- クリエイトサウンド 弦楽器担当
- 指揮:長洲忠彦 前夜祭〜最終回まで 1995年7月のザ・ベストテン復活版以降は出演をしなくなった。
- 長洲忠彦欠席時は、高橋達也・宮間利之が担当
- 2000年からの恒例のザ・ベストテンからは小野寺忠和に交代
- 2006年の復活版は岡本章生が担当
番組専属のオーケストラが設置されなかった回
300回目(IN長崎)・350回目(IN岡山)・400回目(IN静岡)・450回目(IN松本)・500回目(IN仙台)・1988年4月21日・1988年6月23日・1988年7月28日・1988年8月4日・1988年8月18日・552回目(IN鹿児島)・1989年1月5日・1989年4月20日・5月4日・5月18日・6月8日・6月15日・7月20日・1989年8月3日・1989年8月10日・1989年8月17日・1989年9月14日
ランキング・出演データ
年間ベストテン第1位獲得曲
| 年度 | 曲名 | 歌手名 |
| 1978年(昭和53年) | 銃爪(ひきがね) | 世良公則&ツイスト |
| 1979年(昭和54年) | おもいで酒 | 小林幸子 |
| 1980年(昭和55年) | 倖せさがして | 五木ひろし |
| 1981年(昭和56年) | ルビーの指環 | 寺尾聰 |
| 1982年(昭和57年) | 北酒場 | 細川たかし |
| 1983年(昭和58年) | 矢切の渡し | 細川たかし |
| 1984年(昭和59年) | 長良川艶歌 | 五木ひろし |
| 1985年(昭和60年) | 悲しみにさよなら | 安全地帯 |
| 1986年(昭和61年) | BAN BAN BAN | KUWATA BAND |
| 1987年(昭和62年) | 追憶 | 五木ひろし |
| 1988年(昭和63年) | 抱きしめてTONIGHT | 田原俊彦 |
第1位に関するデータ
- 第1回(1978年1月19日放送)に第1位になった曲 - UFO(ピンクレディー)
- 最高得点を獲得して第1位になった曲 - YOUNG MAN (Y.M.C.A.)(西城秀樹、2週連続の9999点)
- 最少得点で第1位になった曲 - 「最後のHoly Night」(杉山清貴、7559点)
- 最多連続第1位になった曲 - ルビーの指環(寺尾聰、12週連続)
- 最年長歌手で第1位を獲得した曲 - 雪國(吉幾三)
- 12年間を通じて第1位になった曲 - 長良川艶歌(五木ひろし)
- 第1位を最多獲得した歌手 - 中森明菜(69回)
- 最終回(1989年9月28日放送)に第1位になった曲 - 黄砂に吹かれて(工藤静香)
1988年の月間ベストテンで第1位になった曲
- 1月 - ガラスの十代(光GENJI)
- 2月 - ガラスの十代(光GENJI)
- 3月 - 乾杯(長渕剛)
- 4月 - パラダイス銀河(光GENJI)
- 5月 - パラダイス銀河(光GENJI)
- 6月 - 抱きしめてTONIGHT(田原俊彦)
- 7月 - Diamondハリケーン(光GENJI)
- 8月 - Diamondハリケーン(光GENJI)
- 9月 - 人魚姫(中山美穂)
- 10月 - MUGO・ん…色っぽい(工藤静香)
- 11月 - 剣の舞(光GENJI)
- 12月 - とんぼ(長渕剛)
16週以上ベストテン入りした曲
- 第1位(24週) - みちのくひとり旅(山本譲二)
- 第2位(19週) - 倖せさがして(五木ひろし)・ルビーの指環(寺尾聰)
- 第4位(18週) - いとしのエリー(サザンオールスターズ)・長良川艶歌(五木ひろし)
- 第6位(17週) - おまえとふたり(五木ひろし)・ダンシング・オールナイト(もんた&ブラザーズ)・長い夜(松山千春)・恋におちて(小林明子)・愛が止まらない(Wink)
- 第11位(16週) - 銃爪(世良公則&ツイスト)・細雪(五木ひろし)
8週以上第1位を獲得した曲
- 第1位(12週) - ルビーの指環(寺尾聰)
- 第2位(10週) - 銃爪(世良公則&ツイスト)
- 第3位(9週)- YOUNG MAN (Y.M.C.A.)(西城秀樹)・ギンギラギンにさりげなく(近藤真彦)
- 第5位(8週)- 大都会(クリスタルキング)・ハイスクールララバイ(イモ欽トリオ)・セカンド・ラブ(中森明菜)・瞳はダイアモンド(松田聖子)・ジュリアに傷心(チェッカーズ)・ガラスの十代(光GENJI)
9800点以上で第1位を獲得した曲
- 第1位(9999点)- YOUNG MAN (Y.M.C.A.)(西城秀樹)
- 第2位(9966点)- UFO(ピンク・レディー)・星屑のステージ(チェッカーズ)
- 第4位(9965点)- パラダイス銀河(光GENJI)
- 第5位(9922点)- ハイスクールララバイ(イモ欽トリオ)
- 第6位(9898点)- ガラスの十代(光GENJI)
- 第7位(9882点)- ギンギラギンにさりげなく(近藤真彦)
- 第8位(9864点)- 太陽がいっぱい(光GENJI)
- 第9位(9862点)- 季節の中で(松山千春)
- 第10位(9849点)- 長い夜(松山千春)
- 第11位(9846点)- ルビーの指環(寺尾聰)
- 第12位(9839点)- セカンド・ラブ(中森明菜)
- 第13位(9832点)- Strawberry Time(松田聖子)・ジュリアに傷心(チェッカーズ)
- 第15位(9822点)- あの娘とスキャンダル(チェッカーズ)
100週以上ベストテン入りした歌手
2曲以上がベストテン入りとなった週も1週としてカウントする。
- 第1位(245週)- 田原俊彦
- 第2位(221週)- 中森明菜
- 第3位(218週)- 松田聖子
- 第4位(208週)- 近藤真彦
- 第5位(154週)- 西城秀樹
- 第6位(148週)- チェッカーズ
- 第7位(137週)- 沢田研二
- 第8位(122週)- 山口百恵
- 第9位(120週)- サザンオールスターズ・小泉今日子
- 第11位(117週)- 郷ひろみ
- 第12位(104週)- 中山美穂
10曲以上ベストテン入りした歌手
- 第1位(35曲)- 田原俊彦
- 第2位(28曲)- 近藤真彦
- 第3位(25曲)- 松田聖子
- 第4位(23曲)- 中森明菜・河合奈保子
- 第6位(22曲)- 西城秀樹・シブがき隊
- 第8位(21曲)- 小泉今日子
- 第9位(20曲)- チェッカーズ
- 第10位(17曲)- アルフィー
- 第11位(15曲)- 沢田研二・郷ひろみ
- 第13位(14曲)- 柏原芳恵・中山美穂・サザンオールスターズ
- 第16位(12曲)- 山口百恵・南野陽子・荻野目洋子
- 第19位(11曲)- 少年隊・とんねるず
- 第21位(10曲)- C-C-B・吉川晃司・安全地帯・斎藤由貴・菊池桃子・浅香唯・西村知美
10週以上第1位を獲得した歌手
- 第1位(69週)- 中森明菜
- 第2位(51週)- チェッカーズ
- 第3位(44週)- 松田聖子
- 第4位(40週)- 近藤真彦・光GENJI
- 第6位(25週)- 田原俊彦
- 第7位(24週)- 少年隊
- 第8位(18週)- 世良公則&ツイスト
- 第9位(14週)- サザンオールスターズ・工藤静香
- 第11位(13週)- 西城秀樹
- 第12位(12週)- 沢田研二・クリスタルキング・寺尾聰・安全地帯
- 第16位(11週)- 松山千春・長渕剛・Kuwata Band
3曲以上第1位を獲得した歌手
- 第1位(17曲)- 中森明菜
- 第2位(15曲)- 松田聖子
- 第3位(13曲)- 近藤真彦
- 第4位(11曲)- チェッカーズ
- 第5位(10曲)- 田原俊彦・少年隊
- 第7位(7曲)- 光GENJI
- 第8位(4曲)- 山口百恵・世良公則&ツイスト・サザンオールスターズ・小泉今日子・工藤静香
- 第13位(3曲)- 沢田研二・西城秀樹・安全地帯・アルフィー・長渕剛・杉山清貴&オメガトライブ・男闘呼組・Wink
初登場で第1位を獲得した歌手
- 松田聖子:白いパラソル(1981.8.13)
- 中森明菜:北ウイング(1984.1.19)、十戒 (1984)(1984.8.16)、Desire(1986.2.20)、TANGO NOIR(1987.2.19)
- チェッカーズ:ジュリアに傷心(1984.12.6)
- 少年隊:デカメロン伝説(1986.4.9)、ダイヤモンド・アイズ(1986.7.24)、バラードのように眠れ(1986.12.11)
- 菊池桃子:Say Yes!(1986.9.18)
- 光GENJI:Diamondハリケーン(1988.7.7)、剣の舞(1988.10.27)
- 男闘呼組:秋(1989.1.19)
- 田原俊彦: ごめんよ涙(1989.5.4)
ベストテン入りしながらも一度も出演しなかった歌手
- 中島みゆき 「わかれうた」(1978年)「ひとり上手」(1980年)「悪女」(1981年)「誘惑」(1982年)「横恋慕」(1982年)- 出演拒否の理由は、アーティストとしての活動方針と共に「かつて新人時代にTBSの別の音楽番組に出演した際に良くない扱いを受けた」ことが大きな原因とされている[20]。但し1988年の豪華版で、中島自身作詞の「MUGO・ん…色っぽい」で年間ベスト10入りした工藤静香に対し、祝福の電話を入れた時が自身唯一の同番組出演となった。
- 矢沢永吉 「時間よ止まれ」(1978年)
- 南こうせつ 「夢一夜」(1978年)
- チューリップ 「虹とスニーカーの頃」(1979年)
- オフコース 「さよなら」(1980年)(後に「YES-YES-YES」がランクインした時に、小田和正のみがレコーディングスタジオから中継でコメントを寄せた。)
- EPO 「う、ふ、ふ、ふ」(1983年)
- 村下孝蔵 「初恋」(1983年)- 出演しなかったのは本人ではなくレコード会社の意向だったとされているが、実はランクイン当時重い肝臓病を患っていた事を後年公表。1983年の豪華版で年間ベスト10入りした際に、喜びの音声メッセージが流された。一方でディレクターの山田は、出演拒否の理由を「ベストテンのようなメジャー番組に出演することでファンが離れる」ことを本人が危惧したためとしている[21]。
- 小林麻美 「雨音はショパンの調べ」(1984年)- 当時女優としてのテレビ出演はするが歌手としてのテレビ出演をしない方針だったため。
- 大沢誉志幸 「そして僕は途方に暮れる」(1985年)非ランキング番組には出演。
- 松任谷由実 & 小田和正 & 財津和夫 「今だから」(1985年)テレビ出演の意向がなかったため。
- ビーバップ少年少女合唱団(清水宏次朗、仲村トオル、宮崎ますみ)「ビーバップパラダイス」(1986年)- 当初このユニットでの歌番組出演はしない方針と説明されていたが、『ミュージックステーション』・『歌のトップテン』には出演している。清水はソロ歌手としては「Summer of 1985」スポットライトへの出演経験がある。
- BOØWY 「B・BLUE」(1986年)
- 内海和子 「蒼いメモリーズ」(1986年)- TBSとフジテレビ(石田班)の関係が悪化し[22]、おニャン子クラブが出演拒否をしていた為、ソロでの出演は無かった。『歌のトップテン』には出演。
- 尾崎豊 「核"CORE"」(1987年)- 1988年7月7日に出演しない理由のVTRを放送した。
- 仲村トオル 「IT'S ALL RIGHT」(1988年)- 一条寺美奈とのデュエット「新宿純愛物語」で『歌のトップテン』には出演している。
- 山下達郎 「GET BACK IN LOVE」(1988年)- 山下本人より「(意向により)出演はしないが、ランクインされたことに感謝したい」との手紙が番組宛に送られた。山下はランクインした週には番組宛に必ず手紙を送り、その都度番組内で紹介された。
- 氷室京介 「ANGEL」(1988年)- 1988年8月4日の初ランクイン時に番組に出演できない内容の手紙を送る。
- 米米CLUB 「KOME KOME WAR」(1988年)
- 藤井郁弥 「Mother's Touch」(1988年)- チェッカーズとしてはもちろん何度も出演しているが、グループ在籍中はソロでのテレビ出演はしない方針だったため、他の歌番組でも一切披露されなかった。
- THE BLUE HEARTS 「TRAIN-TRAIN」(1989年)
- COMPLEX 「BE MY BABY」(1989年)- 吉川晃司はソロで頻繁に出演していた。
- 宮沢りえ 「DREAM RUSH」(1989年)- 最終回に、最後の初ベストテン入りとなったが欠席。『歌のトップテン』にも1度も出演は無かった。しかし、中山美穂出演の際にゲスト扱いで1度だけ出演した経験が有る。
レベッカ、山下久美子は『夜のヒットスタジオ』には1度も出演しなかったが、この番組には数度出演した。
ベストテン欠席の理由
- レコーディングのため
- レコーディングへの準備期間のため
- アルバム制作のため
- 映画撮影中のため
- 移動中
- 各方面との折り合いがつかず - 特におニャン子クラブ欠席時にほとんど毎回使用した言葉(フジテレビの意向があったためと思われる)。1986年10月9日から1987年4月2日まで使用された。
- 休暇のため
- 試験中のため
- コンサート中
- コンサートのリハーサル中
- 体調を崩したため(診断書がよく出てきた)
- メンバー間のスケジュールが合わず
- バンドのメンバーの都合が悪く
- 海外旅行のため - 海外に行くとベストテンの順位が落ちるというジンクスがあった。
- 年内はテレビ出演の意思がないので
- 出演意思が固まらないため
- 裏番組のレギュラーを持っているため
- 労働基準法により(伊藤つかさが15歳未満の時の欠席理由。1987年4月の「ザ・ベストテン延長戦」では、11位に後藤久美子がランクインした際も同じ理由で欠席となった)
- ドラゴンクエストII、IIIが発売された時、一部のゲーム好きの歌手がこれにハマり、ベストテンを欠席したという噂もある。
- 石井明美が「CHA-CHA-CHA」でランクインした際、「もうベストテンではこの曲を歌いたくない。「CHA-CHA-CHA」のイメージを払拭したい」と発言したことがあり、石井がデビューしたばかりの歌手であったことも影響して一部から酷評を受けた。
- 金輪際一切出演する気はない - TBSとフジテレビ『夕やけニャンニャン』のおニャン子クラブのわだかまりが正式に解消されたが、既に夕やけニャンニャンの番組放送が終了し、おニャン子クラブとしての活動が代々木での解散コンサートを残すのみとなった時に、おニャン子クラブの曲がランクインされた際に使用された言葉。
出演状況に変化のあった歌手
番組初期によく出演したが、後半になると出演拒否に近かった歌手。1980年代後半になると出演拒否が目立つようになる。この番組だけに限らず、同じランキング形式の番組である『ザ・トップテン』やその他歌番組などでも似た現象が見られた。
- 山口百恵
- 1980年2月21日の「愛染橋」まではランクインすればほぼ毎回登場していた。しかし、1980年3月7日に三浦友和との婚約と同時に芸能界引退を発表、次の「謝肉祭」のランクイン辺りから、休暇や映画ロケ等の理由で出演辞退が多くなる(欠席時にはVTR放映の対応などもあった)。その後「ロックンロール・ウィドウ」の時は中継で数回出演しただけで、スタジオ入りはしなかった。そして最後のランクイン曲となる「さよならの向う側」では、10位だった1980年9月25日の一度のみスタジオ出演してフルコーラスを歌ったが、これが山口の最後の『ザ・ベストテン』登場となった(その同日の1位は当時「ポスト百恵」と言われた松田聖子の『青い珊瑚礁』)。それから山口は同番組に一切出演せず、1980年10月15日を以て完全引退。なお、1980年11月19日リリースの「一恵」は最高位13位に留まり、ベストテン入りは成らなかった。
- 郷ひろみ
- 1982年「哀愁のカサブランカ」が10週連続『ザ・ベストテン』入りしたが、「愛する自分の曲に順位付けをされたくない」という理由でランキング番組への出演辞退を宣言。この曲以降、1983年の「素敵にシンデレラ・コンプレックス」と1984年の「2億4千万の瞳」の2曲がオリコンでベストテン入りし最高位が9位と7位であったが、『ザ・ベストテン』にはランキングされなかった。 この出演辞退の件については、後日放送された『中居正広の金曜日のスマたちへ』でのベストテン企画における本人への直接インタビューにおいて、本人の口から語られた。ただし後年の復活特番には出演している。
- 出演拒否を表明した当時、郷が所属するバーニングプロダクション関係者や同事務所と関連の深いフジテレビ系の『夜のヒットスタジオ』のスタッフの意向に従って出演拒否を表明したとする説も囁かれていたが、同じ系列の『8時だョ!全員集合』や『ミュージックフェア』(フジテレビ)など他の非ランキング形式の音楽番組では、いかにバラエティーの色が強い番組であっても率先して出演し、新曲を披露し続けていることから、純粋に郷自身や彼に近い関係者らの音楽に対する考え方の変化の現われとして出た発言と見る向きが現在では一般的となっている。
- 郷の出演拒否は1980年代前半のことで、当時は大きな話題になった。
- 竹内まりや
- 1980年「不思議なピーチパイ」がランクインされた時には、毎週ベストテンのスタジオに出演していた。しかし、1982年に山下達郎との結婚後は、家庭と育児に専念するという本人の意向により、ベストテン以外の音楽番組も含めて、テレビ出演は一切行なっていなかった。同番組の最終回放送となった1989年9月28日、竹内自身9年ぶりに「シングル・アゲイン」で8位にランキングされた際も、スタジオへの生出演はしなかった。但し、黒柳徹子との電話インタビューには応じており、自身の近況を報告していた。
- サザンオールスターズ
- 1978年〜1984年(80年〜81年はランクインなし)まではランクインすればほぼ毎回出演していたが、1985年頃からランクインされても徐々に出演回数は少なくなった(約3回程度披露したらあとは登場なし)。KUWATA BAND時代も同様であったが、「スキップ・ビート」「MERRY X'MAS IN SUMMER」を同時期にヒットさせた時には、ツアー時期と重なった事からスタジオ出演こそ1週のみだったが、中継には積極的に出演し計6週出演した。また、年末の豪華版(年間ランキング発表時)にもスタジオ出演している。 1989年にランキングされた最後のランクイン曲「さよならベイビー」は1度も披露されず、1988年8月25日にランクインした「みんなのうた」のVTR出演が最後になった。尚、最後の出演より約10年後となる1998年7月31日に『金曜テレビの星!サザン20周年緊急特番 バカさわぎの腰つき!!』にてサザンオールスターズのみが出演する「ザ・ベストテン」を再現。司会は久米宏と黒柳徹子を起用し、番組出演時の名迷場面集やトーク、当時を再現した番組セットをバックに「PARADISE」を披露した。
- 松田聖子
- 1985年4月18日の「天使のウィンク」まではほぼ毎回出演していたが、その後「ボーイの季節」のランクイン時は、神田正輝との結婚を機に歌手活動を休業しており、一度も登場しなかった。結婚・出産後に歌手活動を復帰してからも、家庭やコンサートを優先した為に出演拒否に近い状態となる。1987年5月に「Strawberry Time」のランクイン時には数回スタジオ出演したが、それ以降は1988年4月28日に「Marrakech〜マラケッシュ〜」で1回のみ登場したのが、レギュラー放送のラスト出演になった。ただし、1989年10月5日放送の『さよならザ・ベストテン』に久々の生出演を果たし、その場で松田自ら同番組の放送終了を惜しむコメントを述べている。また後年の復活特番にもほぼ毎年出演しており、実娘のSAYAKA(神田沙也加)と登場したこともあった。
- おニャン子クラブ
- 1986年春頃から当時ブームのおニャン子クラブやそのメンバーは毎回3組ほどランキングされていたが徐々に出演辞退(拒否)が増え、1986年7月31日から1987年4月2日まではメンバー(グループ卒業後の出身者も含む)が一切出演しなくなった。一方で同じランキング番組の『歌のトップテン』にはスケジュールが許すかぎり、積極的に出演していた。
- これは『ザ・ベストテン』側とおニャン子クラブを抱えるフジテレビ側とのランキングに関しての見解の相違が原因。おニャン子クラブと「夕やけニャンニャン」が重視していたオリコンチャートでは、1986年にシングル1位を獲得した計46曲中、おニャン子クラブ関係が計30曲・全52週中の36週にも及んでいたが、同年中の番組では新田恵利の「恋のロープをほどかないで」が二週連続で最高位3位を獲得した以外は4位からその下のランキングがほとんどであった(『歌のトップテン』では2位まで行った曲が多く、全般的にベストテンよりも上位の傾向)。
- 一方、『ザ・ベストテン』では、順位を決定する点数計算が前述の通り、レコードの売り上げ枚数やオンエア回数、リクエスト数に比例した点数ではなく、各項目の順位を基に点数をつけていたため、特にレコード売り上げのみに特化し他の項目で下位に甘んじることが多かったおニャン子クラブは、この点数計算方法によりレコード売り上げ枚数で他に差をつけて点数を稼ぐといったことができず不利であった。当時、おニャン子クラブのマネージメントはフジテレビの番組スタッフが行なっていたが、このような不利な状況で他局の番組にわざわざ出演させるのはスタッフの負担・コスト面から見ても馬鹿馬鹿しいとフジテレビプロデューサー・石田弘が判断したことから、このような事態になった。
- また、フジテレビの裏番組『木曜ドラマストリート』の視聴率が伸び悩んだことに加え、視聴者層が重なるとおニャン子クラブ関連を担当していたプロデューサー・石田弘を中心としたグループが判断したことが要因とされる。こういったことが相次いだことから、『ザ・ベストテン』では「今日も河田町の変なマークの陰謀で、おニャン子は出演できません」と揶揄したが、対するフジテレビも『夕やけニャンニャン』の中で、TBSのプロデューサーは東大出身、石田は日大出身だったことから「東大・日大戦争勃発!」と笑いを取っていた。また、松下賢次アナが「フジテレビのニュースは大嫌い!」と発言し、週刊誌に書かれるほどの反響を集めた。
- ただ、フジテレビはおニャン子クラブ系以外の歌手への追っかけ中継の立ち入りをその後も受け入れる等、石田が関与していない部分(特に石田と確執のあった横澤彪を中心としたグループ等)では友好関係を継続していた。
- 一切の出演辞退が解禁された1987年4月2日以降もたびたび出演辞退は起こり、1987年5月28日にうしろ髪ひかれ隊の「時の河を越えて」が第9位にランクインされたときにの出演が決定し、歌に合わせたセットやダンサーも用意されていたが、放送2日前に土壇場でキャンセルという事態が起こった。仕方なく、ザ・ベストテン側は、若手女性スタッフたちによる代役(番組内では「ベストテンリハーサルガールズ」と呼称)による歌唱という異常な措置を敢行し、松下アナは憤慨したコメントを出した。
- おニャン子クラブ関連の曲が1位になるのはグループ解散から一年後の1988年9月に工藤静香によって達成され、同番組最終回の1位も工藤静香によって達成される。
- 長渕剛
- 1987年「ろくなもんじゃねえ」以降は、1988年2月18日に「乾杯」が第8位に初ランクインしたときに登場し3月3日にも出演したがそれ以降は1988年12月1日の「とんぼ」まで出演拒否を続けた。この間に1曲ランクインしたが1度も披露されることはなく、最後のランクイン曲「激愛」も披露されなかった。長渕側は「乾杯」以降は、「ランキングされた曲が1位になったら、一度だけ出演する」という意向を示していたため、1位を獲得した「とんぼ」の時は、最初の一回だけ出演した(長渕が主演したTBSのドラマ『とんぼ』の主題歌でもあった)。その後復活特番には一切出演していない。
- 杉山清貴、1986オメガトライブ、菊池桃子
- 1987年の半ばに当時の所属事務所(トライアングルプロダクション)が提携関係だったバップ・日本テレビとの関係を優先したため、この時期は全く出演がなかった(同時期の日本テレビ『歌のトップテン』には出演していた)。1988年になると杉山は出演するようになり、菊池はラ・ムー、1986オメガトライブは改名したカルロス・トシキ&オメガトライブとして出演した。
ベストテンで1位を獲得しながらも番組では一度も歌われなかった曲
- ボーイの季節(松田聖子) - 生放送での披露はなかったが、違う番組で歌った映像を代わりに流した。
- MARIONETTE -マリオネット-(BOØWY) - 他の歌番組でも出演を拒否した。
- ANGEL(氷室京介) - 唯一、生放送では『第30回日本レコード大賞』において披露された。
他界後に初のベストテン入り
ベストテン入りし出演が一度のみの歌手
- 清水健太郎(1978年1月26日、「泣き虫」)
- 甲斐バンド(1979年3月15日、「HERO」)※NHK-FMで当時甲斐よしひろが担当していた『サウンドストリート』の公開収録会場(東芝EMI第1スタジオ)からの生中継。インタビューは行われず、ランキングされた順位(3位)の放送時間に合わせ、会場から「HERO」が歌われた。なお、会場では生中継されていることは告知されなかったが、曲に入る前に甲斐が観衆に向かって「TBSの連中が〜」という旨の発言をしている。
- 南佳孝(1981年4月2日、「スローなブギにしてくれ」)
- 松任谷由実(1981年10月8日、「守ってあげたい」)
- 忌野清志郎+坂本龍一(1982年3月25日、「い・け・な・いルージュマジック」)
- RCサクセション(1982年8月5日、「サマーツアー」)
- 一世風靡セピア(1985年8月22日、「風の唄」)※ランクインしていた時期はすべて欠席。
- 池田政典(1986年9月25日、「ハートブレイカーは踊れない」)※「FORMULA WIND」で初のランクインも「月間ベストテン」の日で生出演できず(先述)
- 渡辺満里奈(1987年4月23日、「マリーナの夏」)
- 守谷香(1987年6月18日、「予告編」)
- 久保田利伸(1988年4月28日、「You Were Mine」)※スタジオでの出演ではなく、コンサートをビデオ収録したものを放送した。尚、初登場のサインは行なっている。
- 小川範子(1989年3月23日、「桜桃記(ひとひら)」)※「永遠のうたたね」では"スポットライト"で出演している
- BE∀T BOYS(1989年6月15日、「誰よりもLady Jane」)※THE ALFEEとしては頻繁に出演している。
オリコンで1位を獲得しながらもベストテンでは10位以内に入らなかった曲
- ダンシング・シスター(1978年)ノーランズ-(洋楽のためベストテンでは対象外)
- DANCING SHOES(1985年)SEIKO-(ベストテン11位)
- あじさい橋(1986年)城之内早苗-(ベストテン11位)
- 技ありっ!(1986年)うしろゆびさされ組-(ベストテン12位)
- かたつむりサンバ(1987年)おニャン子クラブ-(ベストテン12位)
- 夏休みだけのサイドシート(1987年)渡辺満里奈-(ベストテン12位)
オリコンで10位以内(1位除く)を獲得しながらもベストテンでは10位以内に入らなかった曲
- 夕暮れ物語(1981年)伊藤つかさ (オリコン9位)
- 鳥の詩(1981年)杉田かおる (オリコン10位)
- 恋はサマー・フィーリング(1983年)石川秀美 (オリコン10位)
- 春風の誘惑(1983年)小泉今日子 (オリコン10位)
- バイ・バイ・サマー(1983年)石川秀美 (オリコン10位)
- 夏のフォトグラフ(1984年)石川秀美 (オリコン8位)
- 悪戯 NIGHT DOLL(1984年)柏原芳恵 (オリコン10位)
- Me★セーラーマン(1984年)早見優 (オリコン9位)
- 少年ケニヤ(1984年)渡辺典子 (オリコン9位)
- 風の谷のナウシカ(1984年)安田成美 (オリコン10位)
- SUMMER EYES(1984年)菊池桃子 (オリコン7位)
- 哀愁情句(1984年)早見優 (オリコン8位)
- Tonight(1985年)早見優 (オリコン9位)
- もっと接近しましょ(1985年)石川秀美 (オリコン4位)
- Deadend STREET GIRL(1985年)堀ちえみ (オリコン9位)
- 太陽は知っている(1985年)柏原芳恵 (オリコン10位)
- 早春物語(1985年)原田知世 (オリコン4位)
- Stand Up(1985年)早見優 (オリコン10位)
- Wa・ショイ!(1985年)堀ちえみ (オリコン9位)
- Love Fair(1985年)岡田有希子 (オリコン5位)
- Temptation(誘惑)(1985年)本田美奈子 (オリコン10位)
- PASSION(1985年)早見優 (オリコン10位)
- 生意気(1985年)中山美穂 (オリコン8位)
- なぜ?の嵐(1985年)吉沢秋絵 with おニャン子クラブ-(オリコン8位)
- し・の・び・愛(1985年)柏原芳恵 (オリコン9位)
- 落ち葉のクレッシェンド(1985年)河合その子-(オリコン2位)
- サイレンの少年(1985年)石川秀美 (オリコン10位)
- A BOY(1985年)中村あゆみ (オリコン7位)
- ボトムライン(1985年)レベッカ (オリコン6位)
- どうしてますか(1986年)原田知世 (オリコン7位)
- 春ごころ(1986年)柏原芳恵 (オリコン10位)
- モーター・ドライヴ(1986年)レベッカ (オリコン3位)
- LONELY BUTTERFLY(1986年)レベッカ (オリコン6位)
- 悲しいな(1986年)杉浦幸 (オリコン4位)
- 4月列車(1986年)杉浦幸 (オリコン8位)
- NEWSにならない恋(1986年)早見優 (オリコン9位)
- 涙のハリウッド(1986年)河合奈保子-(オリコン7位)
- 風のマドリガル(1986年)南野陽子-(オリコン5位)
- Teenage Walk(1986年)渡辺美里-(オリコン5位)
- 横顔のフィナーレ(1986年)芳本美代子-(オリコン8位)
- 流氷の手紙(1986年)城之内早苗-(オリコン10位)
- 流星のマリオネット(1986年)吉沢秋絵-(オリコン5位)
- 十六夜物語(1987年)河合奈保子-(オリコン10位)
- 悲しき恋人たち(1987年)長山洋子-(オリコン10位)
- ハートに火をつけて(1987年)長山洋子-(オリコン10位)
- 胸の振子(1987年)薬師丸ひろ子-(オリコン8位)
- CRAZY NIGHTS(1987年)本田美奈子 (オリコン10位)
- Hold On Me(1987年)小比類巻かほる (オリコン9位)
- City Hunter〜愛よ消えないで〜(1987年)小比類巻かほる (オリコン8位)
- ナーバス・バット・グラマラス(1987年)レベッカ (オリコン7位)
- ヴァニティ・ナイト(1987年)芳本美代子-(オリコン5位)
- 東京Sickness(1987年)芳本美代子-(オリコン7位)
- 僕達のRUNAWAY(1987年)福永恵規-(オリコン2位)
- 星屑の狙撃手(1987年)国生さゆり-(オリコン2位)
- ソレ以上、アレ未満(1987年)国生さゆり-(オリコン2位)
- サーカス・ロマンス(1987年)新田恵利-(オリコン8位)
- 恋は遠くから(1987年)国生さゆり-(オリコン9位)
- 25セントの満月(1987年)ゆうゆ-(オリコン6位)
- メビウスの恋人(1987年)うしろ髪ひかれ隊-(オリコン4位)
- ちいさなBreakin' my heart(1987年)渡辺満里奈-(オリコン5位)
- ガールズ・オン・ザ・ルーフ(1987年)渡辺美奈代-(オリコン2位)
- プライベートはデンジャラス(1987年)我妻佳代-(オリコン9位)
- 反逆のヒーロー(1988年)長山洋子-(オリコン10位)
- センチメンタルカンガルー(1988年)渡辺美里-(オリコン9位)
- 君の弱さ(1988年)渡辺美里-(オリコン4位)
- 終楽章(1988年)薬師丸ひろ子-(オリコン10位)
- 鏡の中のアクトレス(1988年)中原めいこ-(オリコン8位)
- ついて行けない(1988年)ゆうゆ-(オリコン6位)
- GUAMBARE(1988年)酒井法子-(オリコン7位)
- 刹那主義(1988年)立花理佐-(オリコン8位)
- リサの妖精伝説(1988年)立花理佐-(オリコン8位)
- 麦わらでダンス(1988年)生稲晃子-(オリコン8位)
- 夏の短編(1988年)渡辺満里奈-(オリコン9位)
- 抱いてあげる(1988年)渡辺美奈代-(オリコン6位)
- Virgin少年に接吻を(1988年)生稲晃子-(オリコン9位)
- もう夢からさめないで(1988年)渡辺満里奈-(オリコン9位)
- Blueberry Jam(1988年)西村知美-(オリコン9位)
- きゃきゃきゃのきゃ(1988年)西村知美-(オリコン10位)
- おとぎの国のBirthday(1989年)酒井法子-(オリコン6位)
- Love Letter(1989年)酒井法子-(オリコン5位)
- さよならを過ぎて(1989年)酒井法子-(オリコン8位)
- ロコモーション・ドリーム(1989年)田村英里子-(オリコン9位)
- 好きよ(1989年)田村英里子-(オリコン10位)
- すき(1989年)渡辺美里-(オリコン8位)
オリコンで5位以内に入らなかったがベストテンでは1位を獲得した曲
- ブーツをぬいで朝食を(1978年)西城秀樹-(オリコン7位-ベストテン2週連続1位)
- 林檎殺人事件(1978年)郷ひろみ.樹木希林-(オリコン6位-ベストテン4週連続1位)
- マイレディー(1979年)郷ひろみ-(オリコン8位-ベストテン5週連続1位)
- しなやかに歌って(1979年)山口百恵-(オリコン8位-ベストテン1週1位)
オリコンで20位以内に入らなかったがベストテンでは10位以内に入った曲
ベスト3から翌週圏外へ
- しなやかに歌って(山口百恵) - 1979年11月22日で2位が翌週には12位に。
- 疑問符(河合奈保子) - 1984年1月12日で3位が翌週には12位に。
- 最後のHollyNight(杉山清貴) - 1987年1月15日で2位が翌週には15位に。
- 渚のファンタシィ(酒井法子) - 1987年6月11日で初の3位を獲得したが翌週には15位に。
- 2 Much, I Love U.(C-C-B) - 1987年6月25日で3位が翌週には11位に。
2週以上ランクインしたが、1度しか披露されなかった曲
スポットライトでの披露は除く。
- 季節の中で(松山千春)
- 長い夜(松山千春)
- 守ってあげたい(松任谷由実)
- 翼の折れたエンジェル(中村あゆみ)
- My Revolution(渡辺美里)
- あッ(田原俊彦)
- Marrakech〜マラケッシュ〜(松田聖子)
- みんなのうた(サザンオールスターズ)
- とんぼ(長渕剛)
- Get Wild(TM NETWORK)
- COME ON EVERYBODY(TM NETWORK)
2週以上ランクインしたが、1度も披露されなかった曲
- ムーンライト・キッス(河合奈保子)- 当時ランクイン時の河合は転落事故による腰椎骨折の重傷を負い、入院加療中のため出演出来なかった。
- 激愛(長渕剛)
- NEVER CHANGE(長渕剛)
- 恋したっていいじゃない(渡辺美里)
- ヴァージ・オブ・ラブ(荻野目洋子)
- 水の中のAnswer(杉山清貴)
- Shade”-夏の翳り-(杉山清貴)
- Nile in Blue(菊池桃子)
- ガラスの草原(菊池桃子)
- Pearl-White Eve(松田聖子)
- 旅立ちはフリージア(松田聖子)
- 微笑みに乾杯(安全地帯)
- 出演拒否期間中のおニャン子クラブ関連楽曲多数
レコードが発売されていないのにスポットライト出演した曲
いずれもジャニーズ事務所所属タレントで、レコードデビューはしていないが、ビデオという形で楽曲が発表されていたため、「スポットライト」として出演。『ザ・ベストテン』ではレコードデビューしていなくてもランクインできたため、少年隊が出演した翌週、少年隊の楽曲がはがきのランキングで10位になったことがある。
フルコーラスで披露された曲
「10位から1位まで発表し、ランク入りした出演歌手はすべて歌を披露」という大前提があったため、フルコーラスを披露させるという措置はなかなか行われなかった(歌唱時間は原則2分30秒〜3分であった)。
- 絶体絶命(山口百恵)
- セクシャルバイオレットNo.1(桑名正博)
- さよならの向う側(山口百恵)
- 天使のウィンク(松田聖子)
- セーラー服を脱がさないで(おニャン子クラブ)
- 元気なブロークン・ハート(C-C-B)
- 乾杯(長渕剛)
- とんぼ(長渕剛)
- 悲しいね(渡辺美里)
- 真剣(田村英里子)
- 夢の中へ(斉藤由貴)
- 嵐の素顔(工藤静香)
- 黄砂に吹かれて(工藤静香)
10組フル出場した回
1982年7月22日・1987年4月23日・1987年10月8日
ネット及び中継担当局
※系列は放送当時のもの
| 放送対象地域 | 放送局 | 系列 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 関東広域圏 | 東京放送 | TBS系列 | 制作局 現:TBSテレビ |
| 北海道 | 北海道放送 | ||
| 青森県 | 青森テレビ | ||
| 岩手県 | 岩手放送 | 現:IBC岩手放送 | |
| 宮城県 | 東北放送 | 放送当時TBS系列局のなかった山形県の中継も担当 | |
| 福島県 | 福島テレビ | フジテレビ系列 | 1983年9月22日打ち切り 1983年3月まではTBS系列とののクロスネット局[23] |
| テレビユー福島 | TBS系列 | 1983年12月8日よりネット開始 | |
| 山梨県 | テレビ山梨 | ||
| 長野県 | 信越放送 | ||
| 新潟県 | 新潟放送 | ||
| 静岡県 | 静岡放送 | ||
| 中京広域圏 | 中部日本放送 | ||
| 石川県 | 北陸放送 | 放送当時TBS系列局のなかった富山県の中継も担当 | |
| 近畿広域圏 | 毎日放送 | ||
| 岡山県 →岡山県 香川県 | 山陽放送 | 1983年3月までの放送エリアは岡山県のみ 1983年4月より相互乗り入れに伴い香川県でも放送[24] | |
| 鳥取県 島根県 | 山陰放送 | ||
| 広島県 | 中国放送 | ||
| 山口県 | テレビ山口 | 1979年4月5日からネット開始 1987年9月まではフジテレビ系列とのクロスネット局[25] | |
| 高知県 | テレビ高知 | ||
| 福岡県 | RKB毎日放送 | ||
| 長崎県 | 長崎放送 | ||
| 熊本県 | 熊本放送 | ||
| 大分県 | 大分放送 | ||
| 宮崎県 | 宮崎放送 | ||
| 鹿児島県 | 南日本放送 | ||
| 沖縄県 | 琉球放送 |
ネットに関する備考
- 1979年3月までのテレビ山口と、当時JNNに番販で参加していた日本テレビ系列の秋田放送・南海放送[26]は技術協力(裏送り)扱いだった。
- 南海放送は、日本テレビ系列にも関わらず木曜19時〜21時はTBS同時ネット枠だったため、1982年末と1983年末の豪華版と1983年4月と10月の5周年記念スペシャルだけネットした(但し21時前に飛び降り)。
- テレビユー山形は1989年10月1日開局だったため、1989年10月5日の「さよならザ・ベストテン」のみ放送された。「さよならザ・ベストテン」以外ではサービス放送のみ放送された。
スタッフ
- 構成:長束利博、秋元康、吉田秀穂、下尾雅美、まあくまさこ、森脇直樹
- テーマ曲:服部克久「ザ・ベストテンのテーマ」[27] 長洲忠彦「前夜祭のテーマ」(前夜祭の1回限り披露された)
- 音楽:服部克久・長洲忠彦
- 企画協力:鬼沢慶一
- 美術デザイン:三原康博、飯田稔、橘野永、浦上憲司、西條実、根本真一
- 美術制作:澤井義雄、佐藤隆男、大倉文広、土屋佳宏
- タイムキーパー:小南みどり
- フロアディレクター:吉羽美弘
- アシスタントディレクター:田代誠、石川眞実、小野寺廉、海部正樹、阿部龍二郎、吉田裕二/野村正浩、吉羽美弘
- ディレクター:山田修爾、滝本裕生、久保嶋教生、五十嵐衛、田代誠、石川眞実、遠藤環、宇都宮荘太郎、斎藤薫、高田卓哉、大崎幹、小野寺廉、塩川和則
- アシスタントプロデューサー:久保嶋教生、宇都宮荘太郎
- プロデューサー:渡辺正文、今里照彦、弟子丸千一郎、久保嶋教生、山田修爾、斎藤薫
- 演出:石川眞実、山田修爾、斎藤薫、五十嵐衛、小野寺廉、宇都宮荘太郎、大崎幹、村上研介、三田村泰宏
同時期に放送された他局の音楽番組
- 全国歌謡ベストテン(文化放送)- 1962年から35年間に渡って放送された邦楽専門音楽番組。電話リクエスト、はがきリクエスト、レコード売上、選定委員会順位の4要素で決定されるランキング形式は、『ザ・ベストテン』に大きな影響を与えた。
- トップテンシリーズ (日本テレビ)- 1969年〜1990年まで日本テレビの月曜20時枠で放送された音楽番組シリーズ。
- NTV紅白歌のベストテン - 『NHK紅白歌合戦』の雰囲気をそのまま毎週茶の間に届けるとのコンセプトでスタート。日本テレビでその後続く『トップテン』シリーズの礎を築いた。
- ザ・トップテン - 1969年より12年近く続いた『紅白歌のベストテン』が『ザ・ベストテン』人気を背景として完全チャート形式番組にリニューアルする形で1981年にスタート。5年間続いた後、1986年春に『歌のトップテン』に改称。『ザ・ベストテン』とはランキング決定方式が若干異なる。
- 歌のトップテン - 『ザ・トップテン』に続き放送。『ザ・ベストテン』終了から半年後に終了し、これによりトップテンシリーズの歴史は幕を閉じた。
- 夜のヒットスタジオ(フジテレビ)- 1970年代末〜1980年代にかけて『ザ・ベストテン』と共に音楽番組の「両雄」として君臨。ランキング形式ではなく、歌や歌手の個性に焦点を当て、海外アーティストや女優・男優などをも網羅する総合音楽番組としてベストテン番組主流の中でも異なるカラーを打ち出した。歌のないインストルメンタルのFUSIONバンドも出演している。
- ビッグベストテン(フジテレビ)- 『夜のヒットスタジオ』のスタッフを中心として金曜20時枠で放送。しかし、二番煎じの線が否めず半年で終了した。
- 夢のビッグスタジオ(テレビ朝日) - 『ザ・ベストテン』後の木曜22時枠で放送した、『夜のヒットスタジオ』形式の歌番組。司会は、『ザ・ベストテン』で久米の代理司会を担当した事が有るタモリと西田敏行となった。ところが、第1回終了直後に西田が「スケジュールが合わない」のを理由に降板を表明(西田は過去、『ザ・ベストテン』の代理司会を「スケジュール」を理由に辞退した事が有る)。仕方なく西田のコーナーは別撮りとし、2・3週女優を西田の代理にした後、当時局アナだった古舘伊知郎を後任にさせたが、かえって視聴率を悪くさせてしまい、遂に6回で皇達也プロデューサーが降板し、タモリ・古舘・西田も後追い降板して、番組は8回で打ち切りとなってしまった(ラスト2回は、佐々木正洋と南美希子両アナ<南は当時>が代行した)。皮肉にもその後、古舘はフリー後に『夜のヒットスタジオ』の司会を担当、タモリも『ミュージックステーション』の司会を担当し、双方とも人気となる。また西田はしばらく歌番組の司会をしなかったが、2008年に『誰も知らない泣ける歌』の司会を担当した。
- ザ・ベストヒット'83(テレビ朝日)- 『ビッグベストテン』と同じく模倣番組の一つ。ホテルの広間を会場とした公開生中継で、全体の雰囲気をディナーショー風に仕立てていた。
- ザ・ヤングベストテン(テレビ東京)- アイドル系の楽曲のみランクインした。
パロディ
- オレたちひょうきん族(「ひょうきんベストテン」があった)
- めちゃ×2イケてるッ!(「ザ・ヤマモトテン」というコーナーがあった)
- とんねるずのみなさんのおかげでした(企画「ムダ・ベストテン」を放送している。黒柳徹子は「水中ヨガ」で1位にランクされ、出演した)
- ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!(「ハイテンション ザ・ベストテン」という不定期コーナーがある)
- リチャードホール(下衆ヤバ夫で、「ザ・ゲストテン」をやったらしい)
- AKBINGO!(企画「ザ・AKBEST10」を放送している)
- おねだりマスカットDX!「織井・ベストテン」
- '80アニメーション ザ・ベストテン(1980年に東映系で公開された映画。本家で久米宏の代理を担当したタモリと、黒柳徹子の扮装をした児島美ゆきが司会役)
12年間の番組データ
- 黒柳徹子が番組で着用した衣裳の数:627枚
- 番組に寄せられた変わったプレゼント:現金(総額43万円)、パスポート、給与明細、学生証、グローブ、学生服など
- 番組に寄せられたリクエストはがきの数:1億枚(金額に換算すると40億円)
- 仕出し弁当の総数:10万1000人分(首都圏のみ)
- 警察に始末書を書いた枚数:18枚(首都圏のみ)
- 印刷した台本の総数:約20万390冊
その他
- 週刊誌のテレビ番組案内では出演者が判らず、当日の新聞テレビ欄で初めて出演者が判明した。
- 当時の人気やゴシップなどの影響から、松田聖子と田原俊彦の関係には非常に注意が払われ、番組セットの待機席でも二人が隣り合わないように席を決めたほか、新聞でも二人の名前を並べて掲載しないよう配慮が行われていた[28]。
- 番組制作費はだいたい年間で約1億円の赤字だった。番組自体は非常に高視聴率であり、スタッフの間では社長賞を期待する意見も多かったが、当時の社長から「年間いくら赤字を出しているのか考えてから言え」と一喝されてしまったという。結局社長賞は番組10周年の際に「10年間お疲れ様」の名目で出されたのみであったとのこと[29]。
- 日本人が曲(特にシングル)の順位を「初登場○位」というように枚数よりも注目するようになったのはベストテンの影響が大きい(アメリカ等では順位よりも総売上が重視される)。
- 当番組終了後、後番組はドラマが2009年3月まで続いた。バラエティ番組枠になったのは『ザ・イロモネア』からで、2010年10月からは再度ドラマ枠となっている。
脚注・出典
- ^ http://www.videor.co.jp/data/ratedata/junre/02music.htm
- ^ 『ザ・ベストテン』(山田修爾著、ソニー・マガジンズ、2008年)pp.21 - 22
- ^ 山田 pp.18 - 19
- ^ 「上半期ベストテン」が意味としては正しいが、番組ではこのように表現
- ^ 田中敦の著書「こんなテレビ界を知っているか」より
- ^ 山田 pp.13 - 16
- ^ NBonlineプレミアム : 【大里洋吉・アミューズ会長】
- ^ 山田 pp.46 - 47
- ^ 山田 p.239
- ^ 山田 p.12
- ^ 山田 p.235
- ^ 「ザ・ベストテン2003」の番組を振り返るVTRより(松田聖子と山口百恵の共演シーンのみ)
- ^ 山田 p.205 - 208
- ^ 山田 pp.116 - 120
- ^ その映像
- ^ 連続ドラマ枠は2009年4月からは水曜21時台へ移行。
- ^ 山田 pp.52 - 56
- ^ 山田 pp.85 - 94
- ^ 但し、田沢湖からのチェッカーズの中継は岩手放送が中継し、水越かおるアナが中継リポーターを担当した。
- ^ 山田 pp.165 - 166
- ^ 山田 pp.172 - 174
- ^ 石田が関与しない部分では良好な関係を維持していた。
- ^ 1983年4月に福島テレビはフジテレビ単独系列になったが、1983年4月 - 9月の間は視聴者保護のため番販扱いで放送した。1983年10月 - 11月の間は福島県では未放送だったが、1983年12月1日にテレビユー福島の開局に伴うサービス放送開始により福島県での放送が再開した(正式には開局後の12月8日)。
- ^ ただし、香川県では相互乗り入れ前から山陽放送・毎日放送(1975年3月までは朝日放送)で視聴可能だった。
- ^ テレビ山口のテレビ朝日系列脱退後も同時ネットしていた『ナショナルゴールデン劇場』(テレビ朝日)を打ち切ってネットを開始した。
- ^ 秋田放送と南海放送のJNNへの番販参加は1992年9月30日で終了。愛媛県には同年10月1日にTBS系列局である伊予テレビ(現・あいテレビ)が開局したものの、秋田県には現在もTBS系列局はない。
- ^ 服部自身による、CX系放映ドラマ・「兄弟刑事」のメインテーマのアレンジである。
- ^ 山田 p.103、p.255。また黒柳も番組内で新聞片手に言及したことがある。
- ^ 山田 pp.183 - 184
関連項目
- ザ・ベストテン登場歌手一覧
- TBS歌謡曲ベストテン
- キラリ☆熱熱CLUB
- アイラブバンド
- 音楽派トゥギャザー
- 突然バラエティー速報!!COUNT DOWN100
- COUNT DOWN TV(現在、TBSが放送している音楽番組)
- うたばん
- ザ・ミュージックアワー(「うたばん」の後継番組)
- サウンド・イン"S"
- サカスさん(木曜日に「サカス・ザ・ベストテン」というコーナーが実施されていた)
- カックラキン大放送!!(番組収録が木曜日であったため、収録スタジオからの中継が多かった)
ラジオ総合ベスト10にデータを提供していた番組(記事化されているもののみ)
- ベストテンほっかいどう (HBC) ○
- IBC TOP40 (IBC) ○
- CBC歌謡ベストテン (CBC) ○
- MBSヤングタウン (MBS)
- RKBベスト歌謡50 (RKB) ○
- 城山スズメ (MBC) ○
○印は、担当DJが追っかけマンも兼任していた番組。
関連書籍・CD・DVD
書籍
- ザ・ベストテン A photographic record of our days(東京放送、1989年発行)
- 別冊ザテレビジョン ザ・ベストテン〜蘇る!80'sポップスHITヒストリー〜(角川インタラクティブ・メディア、2004年発行、980円。ISBN 4048944533)
- 山田修爾『ザ・ベストテン(ソニー・マガジンズ、2008年発行、1,680円。ISBN 9784789733724)
CD(ザ・ベストテン (コンピレーションCD)も参照のこと)
- ザ・ベストテン 1978-79(ソニー・ミュージックダイレクト 2009年4月22日発売 2,500円 MHCL 1500)
- ザ・ベストテン 1980-81(ユニバーサル ミュージック 2009年4月22日発売 2,500円 UICZ-8052)
- ザ・ベストテン 1982-83(ビクターエンタテインメント 2009年4月22日発売 2,500円 VICL-63297)
- ザ・ベストテン 1984-85(ポニーキャニオン 2009年4月22日発売 2,500円 POCA-02894)
- ザ・ベストテン 1986-87(ポニーキャニオン 2010年6月23日発売 2,500円 POCA-03049)
- ザ・ベストテン 1988-89(ユニバーサル ミュージック 2010年6月23日発売 2,500円 UICZ-8071)
- ザ・ベストテン 歌謡曲編 1978-85(コロムビアミュージックエンタテインメント 2009年4月22日発売 2,500円 COCP-35547)
- ザ・ベストテン 歌謡曲編2 1978-89(コロムビアミュージックエンタテインメント 2010年6月23日発売 2,500円 COCP-36227)
- ザ・ベストテン スポットライト編(ソニー・ミュージックダイレクト 2009年4月22日発売 2,500円 MHCL 1501)
- ザ・ベストテン スポットライト編2(ソニー・ミュージックダイレクト 2010年6月23日発売 2,500円 MHCL 1619)
- ザ・ベストテン リクエスト編(ビクターエンタテインメント 2010年6月23日発売 2,500円 VICL-63405)
DVD
- ザ・ベストテン&「ある日ィ突然」complete edition 2000(THE ALFEE、2000年12月21日発売)
- アルフィーの出演した映像を収録。VHSもある。
- ザ・ベストテン 山口百恵 完全保存版 DVD BOX(山口百恵、2009年12月16日発売)
- 山口百恵のランクイン・出演した全122回からミラーゲートの登場シーン、トーク、歌の映像を7時間収録。
- ザ・ベストテン チェッカーズ -永久保存版-(チェッカーズ、2011年3月16日発売)
- 1984年〜1989年にランクインした全20曲、トーク等を収録した5枚組。
外部リンク
| TBS系列 木曜21時台 | ||
|---|---|---|
| 前番組 | 番組名 | 次番組 |
ザ・ベストテン
|
||
| TBS 木曜21:54 - 21:55枠 | ||
トップスターショー・歌ある限り
(21:00 - 21:55) |
ザ・ベストテン
(1978年1月~1982年9月) 【1分縮小して継続】 |
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