セルジオ越後
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| 名前 | ||||
| 愛称 | セル爺(セルジイ) | |||
| カタカナ | セルジオ エチゴ | |||
| ラテン文字 | Sergio | |||
| スペイン語 | ||||
| 基本情報 | ||||
| 国籍 | ファイル:Flag of Brazil.svg ブラジル | |||
| 生年月日 | 1945年7月28日(66歳) | |||
| 出身地 | サンパウロ | |||
| 身長 | 173cm | |||
| 体重 | 68kg | |||
| 選手情報 | ||||
| ポジション | MF(OH)、FW(WG) | |||
| 利き足 | 右 | |||
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セルジオ越後(セルジオ えちご、Sergio 、1945年7月28日 - )は、ブラジル・サンパウロ出身の元プロサッカー選手。ポジションは右ウイング。日系二世。ブラジル一部リーグでプレーした選手である。ブラジル代表候補にも選出されるが、一身上の都合で23歳の時一度引退。その後1972年に来日。現在はサッカー評論家・指導者。株式会社栃木ユナイテッド(HC日光アイスバックスの運営会社)代表取締役。ネルソン吉村や与那城ジョージと同じく、日系二世である。娘はタレントである。娘の芸名はエチゴ由衣。
目次 |
略歴
サンパウロで日本からの移民の両親の元に生まれ、18歳でブラジル・サンパウロの名門コリンチャンスと契約。本人によれば、テストを受けた際に皆がフォワードやミッドフィルダーに手を挙げたため、気圧されてつい手を挙げそびれたところ、あまったウイングを押し付けられた。あまりライバルがいなかったのが功を奏したとのことである。同期は元ブラジル代表のロベルト・リベリーノで、今でもブラジルに帰った際は旧交を暖めている。
東京オリンピックの時、ブラジル代表候補にも選出されるが、日系人ということもあって当時のオーナーが代表にならせたくないばかりにプロ契約を申し出てきた[1]。しかし、五輪代表よりもプロ契約の方がはるかに魅力的であった本人は渡りに船とその申し出を受けた(本人談)。
しかし、プロといってもまともに食べていけるのは代表クラスのトップ選手だけで、それも今とは比べ物にならないほど少ない金額しかもらえなかった当時、チームスタッフからの「いいか、お前たちは売春婦と同じだ。若い内はちやほやされるが、年を取ってしまえばお払い箱になるだけのことだ。今のうちに将来のことを考えておけ」との言葉にその後の人生を考えると若いうちに仕事をおぼえておいた方がいいと考えて、23歳の若さで引退を決意。
その後、日本の社会人チームからサッカー選手としてのオファーが彼の元へ届いた。当時の職場の上司に相談したところ、「お前は馬鹿か。仕事をおぼえられてサッカーができる上に金までもらえる。もしお前が断るなら代わりに俺の息子を行かせる。」と言われ、日本へ渡ることを決意した。
1972年に来日後、日本リーグの藤和不動産サッカー部(湘南ベルマーレの前身)で1974年までプレー。その後、永大産業サッカー部の指導者を経て「さわやかサッカー教室」(後の「アクエリアス・サッカークリニック」)を開き、北は北海道から南は沖縄まで全国津々浦々を回り少年サッカーの指導普及に努めセルジオ越後杯を開催。延べ50万人以上の少年少女を直接指導する。これが評価され文部科学省の2006年生涯スポーツ功労者に表彰された。
現役当時、他のブラジル人選手同様、帰化して日本代表になってくれるよう頼まれたが、「自分は中身はブラジル人だから」と取り合わなかった。
FCバルセロナのブラジル人スター選手ロナウジーニョや前出のリベリーノがドリブル時に使い有名な「エラシコ(Elastico)」という、外に行く振りをして内に進み相手を置き去りにする(ボールを素早く外に叩く振りをし、内に叩き進む)フェイントをリベリーノに伝授したといわれている。本人によれば、ペレやガリンシャの技を真似して、自分流にアレンジしてやっていたところ、当時のチームメートであったリベリーノが面白がって自分でもやるようになったということである。
現役当時のポジションはフォワード・ミッドフィールダー。ファルカン監督時代にスタッフの一員となっている。
サッカー日本代表のレベルを上げるための施策として、Jリーグの外国人枠の撤廃もしくは拡大、アジア人枠の設置、海外組ブランド選手の見直しを提唱している。
2006年8月よりアジアリーグアイスホッケーチーム日光神戸アイスバックスのシニアディレクターに就任。まったく畑違いの競技であるが、「選手たちにプロの心構えを教えてやってほしい」の一言がきっかけだった。試合では自身もベンチに入り、ハーフタイムに選手たちを鼓舞するほか、TV出演の際にはアイスバックスの宣伝を欠かさないなど精力的に活動している。
イビチャ・オシム、フィリップ・トルシエ同様に日本のマスメディアのありかたには苦言を呈している一人である。日本のサッカーが世界の強豪に名を連ねるには、マスコミの追及能力が高まらないと不可能だと指摘している。
エピソード
戸籍には含まれていないが、親からは「ヨシオ」という日本名で呼ばれていた。
ブラジル出身のため、「ロナウド」が「ロナルド(ホナウド)」、「リバウド」が「リバルド(「ヒバウド」)」と、ブラジルの公用語であるブラジルポルトガル語読みになるのが"セルジオ流"である。また、日本代表(A代表・フル代表)のことをかつて一般的に呼ばれていた「全日本」と今でも呼んでいる(同郷のラモス瑠偉も同じ呼び方をする)。
山下大輔と親交があり、山下が監督だった時代の横浜ベイスターズの打線を「大ちゃんス打線」と命名した。
サッカー解説者として
最近はテレビ朝日でフル代表の試合の解説をしたり、サッカー週刊誌のコラムを受け持っている。日刊スポーツでは辛口ジャッジ というタイトルで批評を行っている。他の評論家が無条件に日本選手を褒める一方で、セルジオは選手をほめることが少なく、ほとんどが辛口評論である。選手が点を取ったり試合に勝っても辛口にコメントすることがある。最近の日本代表に対しては、チーム自体を辛口にコメントし、活躍した選手は高く評価している。その一方でヨーロッパのクラブチームや選手に対しては批判的なコメントは少ない。ちなみに2010 FIFAワールドカップにおける日本代表については日刊スポーツ紙上で「決勝トーナメント進出確率は0%」[2]と断言したものの、日本が決勝T進出を果たすと手放しでこれを褒め称えた。日本代表を叱咤激励し、更なる上を目指してほしいという意図をもって批判している。
親友のリベリーノが清水エスパルスの監督になったとき(セルジオが仲介したと言われる)、サッカーダイジェストに書いていた連載コラムに「たとえ親友といえども、きっちり批評するからね」と断言しつつも、リベリーノに関しては得意の辛口コメントはほとんど無かった。清水の成績が下降してリベリーノは解任されたが、それについても一切コメントは無かった。
前日本代表監督のオシムに対しても辛口の批判を行っている(例としては、『ビッグクラブになぜ呼ばれないんだ?」とか「当時(1990年のイタリアW杯)のユーゴスラビアなら優勝できたのに、優勝できなかったのは監督として才能がないんじゃないのか?」など)。
基本的には激辛の解説であるが、日本が優勝した2011年のAFCアジアカップでは決勝の豪州戦で李忠成(サンフレッチェ広島)が決勝ゴールを挙げると、「やったやったやった!!ほーら、李だろ!」とコメント、松木安太郎とともに喜んだ。同じく延長後半ロスタイムの日本のピンチにピッチ解説を務めた名波浩に対し、「名波さん、気持ちだけ壁に入って」との発言を残すなど日本代表の試合解説については純粋に応援する部分も見受けられる。興奮するあまり『おい名波アッ名波さん』と言ってしまい、思わず名波も苦笑いしていた!!
過去3回ほど放映されたテレビ朝日の深夜番組「朝まで日本サッカー応援宣言」の番組のゲストの一人でもあるが、日本代表の現状に活をいれる最右翼としてのスタンスで存在感を見せている。特に、北澤豪や松木安太郎とよく対立する。同番組では「Jリーグ人気回復には?」の設問に対しアメリカのNFLを見習って外国人助っ人をリーグが一括して買い集め全チームの戦力が平均化される様に分配すべきだと主張していたが、少数のビッグクラブが優勝を分け合うようになるのがリーグの発展にはベストとの意見も持っている。
高校サッカーの解説をする場合もあるが、この場合辛口なコメントはあまりしない。これは高校生はアマチュアであり、辛口コメントの対象はプロのみであるということである。
アイスバックスSDとして
2006年、セルジオは日本のプロアイスホッケーチームの日光神戸アイスバックスのシニアディレクター(SD)に就任した。この人事はファンのみならず関係者でさえ「お飾り」「名前貸し」と考えていたが、シーズンが深まるにつれその認識が誤りであることをセルジオ自身が証明していく。セルジオは2006-7シーズンからの殆どの試合に帯同、ベンチ入りし選手を叱咤激励し続けた。セルジオは「近々日光に住む」と公言し、また雑誌のインタビューで「(サッカー)日本代表より先に結果を出す」「人気で浦和レッズを越える」と自らにプレッシャーをかけている。
慢性的な資金難に苦しむバックスにおいてセルジオは文字通り「大黒柱」として広報に営業に奔走している。 2006-7シーズン、ファンの募金によって辛くも参戦にこぎつけたプレーオフで、バックスは強豪王子製紙を3勝1敗で破り、チーム創設以来初のベスト4へ進出する。 日本のアイスホッケー史上、前身の古河電工アイスホッケー部時代を含めシーズン成績で王子製紙を上回ったことは一度としてなく、まさに「歴史的な」アップセットであったのだが、セルジオはその立役者の1人と言える。その際の勝利インタビューで「あるプロ野球の監督が『信ジラレナ~イ』と言いましたが、私は選手のみんなを信じています!」という、日本ハム・ヒルマン監督を引き合いに出したコメントで会場を大いに沸かせた。
アイスホッケーに関しては全くの門外漢でありながら老かいなベンチワークを見せ、選手心理を巧みにコントロールし、負けの続くバックスに勝利への執念を粘り強く植えつけていった。
2007年-8シーズンより、新たなる運営会社(株)栃木ユナイテッドの代表取締役として経営に携わっている。2007年7月1日には、公約通り大阪府豊中市から栃木県日光市に移住。引っ越し第一声で「次に引っ越すのはお墓」と不退転の覚悟を披露した。
2009年、日光市内にオープンしたチームの公式カフェにおいて、セルジオさん家のカレーという、セルジオ家のレシピによるカレーが食べられる。
個人成績
日本サッカーリーグ成績 利用者:Bcjp/t/fbp国内表 top !colspan="4"|日本!!colspan="2"|リーグ戦!!colspan="2"|JSL杯!!colspan="2"|天皇杯!!colspan="2"|期間通算 |- |1972||藤和||||JSL1部||||||colspan="2"|-|||||||| |- |1973||藤和||||JSL1部|||||||||||||||| |- |1974||藤和||||JSL1部||||||colspan="2"|-|||||||| 利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算始40||6|||||||||||| 利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算終40||6|||||||||||| |}
脚注
関連項目
- サッカー解説者一覧
- 日系ブラジル人
- 在日ブラジル人
- テレビ朝日
- 日刊スポーツ
- 全国高等学校サッカー選手権大会
- 凛として時雨(『Sergio Echigo』(自主製作盤では『セルジオ越後』)という曲を製作している)




