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トラック島空襲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

トラック島空襲
ファイル:HailstoneTorpedo.jpg
トラック環礁で空母エンタープライズ第10雷撃隊(VT-10)のTBF アベンジャーに攻撃される輸送船
戦争太平洋戦争 / 大東亜戦争
年月日1944年2月17日-2月18日
場所トラック島
結果:連合軍の勝利
交戦勢力
ファイル:Merchant flag of Japan (1870).svg 大日本帝国 ファイル:US flag 48 stars.svg アメリカ合衆国
指揮官
小林仁 マーク・ミッチャー
戦力
巡洋艦3
駆逐艦8
航空機159(練成隊含)、保管機約200
空母9
戦艦,巡洋艦など45
航空機589
損害
巡洋艦3
駆逐艦4
輸送船5
小型艇3
商船32
航空機270
地上での戦死400
陸兵の海没による戦死7,000他
トラック島全施設の壊滅
空母イントレピッド大破
戦死40
航空機25

ファイル:Navy bombers attack Japanese warships during raid on Truk.jpg
艦載機の攻撃を受けるトラック島の港

トラック島空襲とは、太平洋戦争中の1944年2月17日、18日になされたアメリカ軍による日本軍の拠点トラック島への攻撃である。この攻撃により日本軍は多数の艦船と航空機を失った。トラック島は無力化されたが、アメリカ軍は攻略にかかる手間を避けて進攻を行ったため、敵中で孤立したまま終戦まで日本軍の拠点として残った。アメリカ軍の作戦名はヘイルストーン作戦(Operation Hailstone)で、位置付けとしてはエニウェトク環礁攻略を目的としたキャッチポール作戦(Operation Catchpole)の支作戦であった。

目次

概要

1944年2月アメリカ軍はマーシャル諸島へ侵攻し、これを占領した。そして次の作戦目標をエニウェトク環礁とした。2月4日、トラックがアメリカ軍の偵察を受けたことで、攻撃の危険が高まったと判断し、10日、トラックにあった連合艦隊主力は日本本土、空母部隊はパラオへ退避した。

一方、アメリカ軍はエニウェトク環礁攻略支援のためトラックの日本軍基地に対する攻撃を計画した。この空襲を担当するのは第50任務部隊とされ、戦闘序列は下記の通りとなっている[1]

米軍戦闘序列

第50任務部隊

トラック空襲任務部隊 司令官:レイモンド・スプルーアンス

空母9隻、戦艦7隻、巡洋艦10隻、駆逐艦28隻(詳細は下記)[2]

第2群

第58任務部隊

高速空母任務部隊 司令官:マーク・ミッチャー

第1群

司令官:ジョン・リーブス少将

第2群

司令官:モントゴメリー(A.E.Montgomery)少将

第3群

司令官:フォレスト・シャーマン少将

また、アメリカ軍はトラックを包囲するため9隻の潜水艦を派遣している。

作戦計画

攻撃に際しての問題は、トラックに関する地形情報を殆ど持っていないことであった。そのため、米軍は2月4日から航空機、潜水艦によりトラック周辺の偵察を実施している。

そして、艦隊による作戦計画は次のように決められた[1]

行動要領
TF50は2月12日、13日の両日、メジュロ環礁を出撃し、15日エニィタニック島北側海面で補給部隊と会合し、補給を実施する。16日午後から、30ノットにて目標への接近を開始、出来るだけ日本軍の航空哨戒圏を避けつつ17日払暁に攻撃隊発進点であるトラック諸島東部200海里の地点に到達する。
航空・水上攻撃要領
最初の攻撃目標を航空基地、航空機とし、破砕性集束爆弾(Fragmentation Cluster)と焼痍性集束爆弾(Incendiary Cluster)を使用し、攻撃効果の拡大を図る。
日本軍の航空邀撃能力破壊後、対艦船、対地上施設、設備を攻撃目標とする本格攻撃に移行する。攻撃は、17日、18日の2日間に渡って徹底して実施する。このため、空母群は攻撃目標の100海里圏内に止まるように行動する。
TG58.3の戦艦群は、本格攻撃開始後、TG50.6となり(指揮官、ウィリス・A・リー少将)、トラック環礁水道を制圧し日本艦船の脱出を阻止するよう分離行動する。

なお、作戦に際しての制約条件として、トラックの破壊は徹底して実施しなければならないが、損害は極限しなければならないと言うものがあった。これは、太平洋方面での本格的な侵攻が始まって間もなく、攻略すべき拠点を多数抱えていた事情による。吉田昭彦によれば、上述の高速での接近(実際には30ノットで航行したのは16時間)などはそうした条件を満たすための行動であり、ガダルカナル、ソロモンの戦いにて日本軍が実施した東京急行(駆逐艦による夜間高速輸送)のひそみに倣ったものだと言う。

また、トーマス・B・ブュエルによれば、スプールアンスがこの戦いの際旗艦を戦艦に変更した理由は、環礁を攻撃すれば、在泊している(筈の)大型艦艇多数を捕捉し、一戦交えることが出来ると考えたからであった。他に、戦艦を環礁至近に接近させ、直接的に優越の誇示を行って戦意喪失を図る旨を語っていたとされ、また、スプルーアンスの戦艦砲撃戦に対する執着などが指摘されている。

スプルーアンスは通常は艦隊の指揮を隷下の指揮官に任すようにしていたが、この時はそれをせず、14日のTF58との合流後は自分で指揮を執り、ミッチャーに指揮を任せたのは17日朝の攻撃隊発進直前であった。なお、航空戦に関する助言者としてボールディ・パウノールが旗艦に乗艦していた。その助言は非常に役に立ったとスプルーアンスは語っている。

日本側の警戒体制

1943年、連合軍の中部太平洋侵攻作戦カートホイールが進捗してきた。日本側はろ号作戦などでこれらの攻勢阻止を図ったものの失敗した。そのような状況下、1943年の末に連合艦隊司令部はトラック島についても防備作戦を立て、T作戦警戒を発令した。しかし、発令当時、移動中の部隊や在泊艦艇こそ多数を数えたものの、トラック固有の防備兵力としては内南洋部隊に軍隊区分された第四艦隊所属の航空隊(七七五空、陸攻1個中隊9機、水上偵察隊等)が所在する程度であった。

基地防備についても強化の努力が図られていたが、米潜水艦の活動は1943年半ばを過ぎると急速に活発になり、トラックに向かう船も次々と沈められた。最も典型的なケースは1943年11月23日に横須賀を出港した3123船団である。この船団の積荷は殆どがトラックの基地強化の為の建設資材やセメント、分解された航空機や対空火器、及びその弾薬等計7000トンであった。しかし、途中マリアナ西方沖にて待ち伏せに遭い、4隻が沈められ、12月4日、1隻だけがトラックに到着した。揚げることの出来た積荷は10%に過ぎなかったと言う。こうした損害は基地の拡充や防備強化を直接的に遅らせた[5]。空襲時、多数の船舶が在泊していた理由の一つは、揚陸した陸軍部隊に対する兵器や弾薬の荷役作業の為でもあった。トラックには本土の港湾や真珠湾のような整った荷役設備は無かった[6]

1944年1月26日から28日にかけて、ラバウルから第十一航空艦隊所属部隊(二〇四空二〇一空)が撤収してきたものの、大きく消耗した状態で再編成と練成の状態にあった。そのため、テニアンの七五五空から陸攻1個中隊が移駐した。これらの代わりに第二航空戦隊の艦載機98機がラバウルに進出していたが、連日の迎撃戦闘で急速に消耗しており、トラックに在泊する空母は搭載機も無く、戦力価値を持っていなかったのである[7]

1944年2月頃、航空機による偵察・哨戒はこの七五五空と七五三空がテニアン、トラックの両基地を使用して実施している状況であった。航空哨戒のパターンは3 - 5機程度の陸攻による1日2回(黎明薄暮)が通例であった。米軍の攻撃直前の動きは下記のようになっている[1]

  • 2月13日:黎明哨戒:トラックより陸攻5機。状況を得ず。薄暮哨戒:テニアンから陸攻3機。状況を得ず。
  • 2月14日:黎明、薄暮共前日と同内容同機数。状況を得ず。
  • 2月15日:黎明哨戒:トラックより陸攻5機、2機未帰還。同時刻、トラック所在の第4通信隊は米空母艦載機の無線電話を傍受[8]。薄暮哨戒は翌日の黎明索敵を実施することから不要として実施せず。
  • 2月16日:黎明哨戒:トラックから天山艦攻9機、陸攻2機。状況を得ず。
:0430(J時)内南洋部隊、第一警戒配備発令。
:0900同部隊、第二警戒配備へ移行。
:1130トラック方面、第三警戒配備(平常配備)へ移行。薄暮哨戒は翌日の黎明索敵を実施することから不要として実施せず[9]
  • 2月17日:黎明索敵:トラックから天山艦攻8機、99艦爆3機。
:7 - 9時にかけ、トラック島北東80 - 100海里に米空母群を発見。天山2機、99艦爆1機未帰還。

警戒体制が緩められた事情の一つとして、陸軍参謀本部と海軍軍令部の次長一行が南方視察行の帰路トラックに立寄っており、16日の晩に宴を催し、司令部が接待をしているのに部隊だけ警戒配備でもあるまいという事情があったと五五一空の肥田真幸飛行隊長(67期)や整備長の某大尉が回顧している。佐藤清夫がこの話を知り、存命だった瀬島に手紙で問い質したところ、陸軍単独の視察であったが、料亭に泊まった士官は居り、空襲に対する警戒心が弛緩している傾向は見られた旨の答えが返信されたと言う[10]

戦闘の経過

2月16日、「スケートUSS Skate, SS-305 )」が軽巡洋艦阿賀野」を撃沈した。

2月17日

17日未明、第58任務部隊は高速を発揮しつつ日本軍の哨戒ルーチンを避けて、トラックの東北東約90海里の位置に到達した[11]。数度にわたる空襲をトラックに対し実施した。日本軍はレーダーにより午前4時20分頃には最初の大編隊を捉えていたが南東方面の基地からマーシャル諸島に向かう米軍大型機の編隊と即断し、内南洋部隊には第一警戒配備を命じたものの、トラック地区は平常配備のままとした。

攻撃隊は計画通り事実上の奇襲に成功した。第1波は5隻の大型空母(CV)から発進した戦闘機72機を主力としており、46分でトラック上空に到達、迎撃に上がってくる可能性がある航空兵力の掃討を図った。一方、二〇一空や二〇四空のような練成部隊は機銃弾の積み込みから始めなければならなかったが、それでも両航空隊は初動で35機を迎撃に上げ、五〇一空が攻撃隊として爆装零戦を25機、他に水上機17機が退避の為離陸した。ただし、基地の整備員の動きはラバウルなどに比較すると手馴れず緩慢であったと言う[12]。米軍は計画通り、空襲はまず航空施設に対して実施し、その後、日本軍の基地施設および在泊艦船に対する攻撃を実施した。攻撃隊の往復は2時間、トラックでの滞空は40分ほどのルーチンであった。第2波は戦闘機に護衛された急降下爆撃機が主体で、6隻の空母から発進している。

さらに、9時23分、計画に沿って第58任務部隊から戦艦2隻を中心とする水上部隊[13]を分派しTG50.9とした。この部隊の上空にはカウペンスの直援機18機が護衛していた。17日昼前の艦載機からは、日本側が艦船の脱出を図っている旨報告された。分派された部隊は西進し、11時47分にはトラック島北水道北方10数マイルの地点に到達した。

封鎖部隊は脱出にかかった艦船を発見し、攻撃した。攻撃の間も、スプルーアンスは戦闘の指揮を委譲しないで自ら直接指示を出し続けた。これにより「赤城丸」を護衛しつつ4205船団を編成し脱出しつつあった練習巡洋艦「香取」、駆逐艦舞風」、「野分」が遭遇し、「赤城丸」は空襲で沈没、「香取」、「舞風」もアメリカ艦隊の攻撃で撃沈された。ただし、前述の野分他の小艦隊の攻撃に気を取られた為、その1時間後に出港した駆逐艦「時雨」、「春雨」、工作艦「明石」のように空襲の中脱出に成功したケース、標的艦波勝」、測量艦宗谷」、駆逐艦「秋風」、「松風」、潜水艦「伊一〇」、海軍病院船「天応丸」等のように沈没を免れたケースもある。

既に述べたもの以外ではトラック北方から同島へ向かっていた3206船団が空襲を受け、輸送船辰羽丸、瑞海丸が撃沈された。この他潜水艦による雷撃の被害もあった。この船団には第五十二師団第六十九連隊(富山連隊)の将兵9000名余が乗船しており、陸軍兵員7000名が死亡したという。那珂は礁外に居たところを撃沈された。

柳田によれば17日の空襲は9波に達し、一方で迎撃機は急速に消耗して薄暮時に帰還したのは1機に過ぎなかった。

2月17日深夜

17日の晩の月齢は23日だったが、雲のある海域だと下弦の月は隠れてしまっていた。日本軍はこの夜、アメリカ艦隊攻撃のため空襲を生き延びた九七艦攻4機を春島より出撃させ、また、テニアンから七五三空より陸攻2機、七五五空より陸攻3機の攻撃隊を出撃させた。各隊は敵を求めばらばらに行動したが、この内七五五空の陸攻1機が空母「イントレピッド」に魚雷1本を命中させた。同艦は右舷艦尾を破壊されて舵が停止したため、6隻の護衛をつけられエニウェトクに後退した。これはこの作戦におけるアメリカ軍最大の損害である。一方、アメリカ軍もエンタープライズからアベンジャー12機[14]が夜間雷撃の為に発進し、艦船に夜間攻撃を加えた。

翌日の迎撃に備えて二〇四空では機体の修理・整備を実施し零戦6機が使用可能となったが、機体の側に落ちていた不発弾が突然爆発した為に全機飛行不能となってしまった。このようにして、18日には日本軍は迎撃機を上げることが出来なくなった。

2月18日

18日午前中もTF58は空襲を継続し、引き上げた。吉田によれば両日繰り出した攻撃隊は計12波、延べ1200機であった。佐藤清夫によれば艦船に投下された爆弾、魚雷は400トン、地上に投下した爆弾は90トンになると言う。

損害

一連の攻撃で受けた損害は次のとおりである。艦隊支援のための船舶の他、防備強化のための陸軍部隊の糧秣弾薬、兵器等を陸揚げしていた輸送船がいたことが大被害に繋がった。

艦船

沈没艦艇

軽巡洋艦
練習巡洋艦
駆逐艦
駆潜艇
  • 第24号、第29号
魚雷艇
  • 第10号

沈没船舶

海軍運送船
  • 愛国丸 清澄丸 りおでじゃねろ丸 瑞海丸 国永丸 伯耆丸 花川丸 桃川丸 松丹丸 麗洋丸 大邦丸 四江丸 北洋丸 乾祥丸 桑港丸 五星丸 山霧丸 第六雲海丸 山鬼山丸
特設潜水母艦
特設巡洋艦
  • 赤城丸
特設油槽船、給油船
海軍航空機運搬船
  • 富士川丸
海軍給水船
  • 日豊丸
特設駆潜艇
  • 第十五昭南丸
陸軍軍用船
  • 暁天丸 辰羽丸 夕映丸 長野丸

損傷艦艇

水上機母艦
駆逐艦
工作艦
測量艦
  • 宗谷(小破の後に座礁)
特務艦
  • 羽衣丸(中破)
潜水艦
  • 伊10(小破)
  • 呂42(小破)
航空機(空襲当時駐機していたもの)。
春島第一飛行場
第二空襲部隊
第一練成部隊
  • 五八二空(九七艦攻9機) 九〇二空派遣隊(水偵5機以上) 第二航空戦隊残留隊(艦攻9機)他合計約50機
竹島飛行場
第一練成部隊
楓島飛行場[15]
第二空襲部隊
第一練成部隊
春島第二飛行場
  • 九〇二空派遣隊(2座水偵5機)
夏島水上飛行場
  • 九〇二空本隊(3座水偵約11機 2座水偵2機 水戦約10機その他) 六艦隊偵察隊(小型水偵7機)
航空廠支所所管(竹島中央部に所在)
  • 保管機98機
一〇一航空基地隊
  • 保管機78機

これらの機体の内合計約270機が失われた(撃墜約70、地上撃破約200)。二〇一空派遣隊のように全機喪失した部隊もある。これに対して米軍の損失航空機は戦闘機12機、急降下爆撃機6機、雷撃機7機であった。柳田によれば、破壊された保管機の内100機は当時の新鋭機の一つである零戦52型で、ラバウル再進出のため二〇四空等の為に準備されていたものだったと言う。

その他地上施設

タンク3基焼失
上記を含め、燃料、物資等補給品の内75%を喪失。

その後

アメリカ軍の目論見通り、エニウェトク環礁攻略作戦は日本軍機の妨害を受けずに実施可能となった。そして、2月18日にエニウェトク環礁への攻撃が開始された。

また、この攻撃で艦隊随行用の輸送船舶を大量に喪失したため、以後の連合艦隊の作戦展開は従来にも増して大きな制約を受けることとなった。

T事件調査

トラック島におけるこの出来事は海軍丁事件(もしくは海軍T事件)と呼ばれ、当時水雷学校長だった大森仙太郎少将を団長とする調査団が派遣され、調査が行われた。頭文字はトラック島(Truk Island )のTをとったとされる(戦史叢書71巻『聯合艦隊(5)』参照)。なお海軍乙事件という別の事件もある。

調査団は3月に調査を実施した後「大局的に見て、この少ない兵力をもってあの攻撃に対処するには、誰が作戦指導をしても大同小異の結果であったろう」との結論を出している[18]

なお、T事件調査とは異なるが、戦後、海上自衛隊幹部学校教官を務めた竹下高見が、本空襲についてのセッションで、事前警戒の不備問題について次のような証言をしている。

竹下:(前略)トラックとか、テニアンとか、サイパン辺りは、意識の問題もあると思うんですね。同時にやっぱり、さっきいったように防備施設というようなものは、中央の問題もあると思うんです。

 私は、戦史部におります時に、小林中将に二回ほどなんとか聞きだそうと思いまして、お話伺いましたけれども、トラック空襲については一言もしゃべられませんでした。そのことから『太平洋方面の海戦』[19]の中では「専任防空戦闘機隊の不在、所在航空機部隊の不明確な指揮関係、多数商船隊の在泊など、むしろ連合艦隊司令部あるいは大本営海軍部が事前に適切に処置すべき問題が多かったように思われる。」という表現になったわけです。(笑)

「太平洋戦史研究部会報告第3回セッション トラック空襲(その1)」『太平洋学会誌』1987年4月P56 

報道発表

ここでは、日米の報道発表について記す。

サミュエル・E・モリソンによれば東京のラジオ放送では「戦局はかつて見ない重大性、否峻烈さを加えた。敵作戦の速度より判ずるに、敵の攻撃威力はすでにわが本土に迫りつつある」と警鐘を鳴らしたと言う[20]

本件に関して大本営発表は下記のような内容であった。

トラック諸島に来襲せる敵機動部隊は、同方面帝国陸海軍部隊の奮戦により之を撃退せり。本戦闘において敵巡洋艦二隻(内一隻戦艦なるやも知れず)撃沈、航空母艦一隻及び軍艦(艦種未詳)一隻撃破、飛行機五四機以上を撃墜せしも、我方も亦巡洋艦二隻、駆逐艦三隻、輸送船一三隻、飛行機一二〇機を失いたる他、地上施設にも若干の損害あり。

大本営発表昭和十九年二月二十一日

これは報道発表であり、海軍が本当に把握していた戦果判定ではない[21]。なお、当時の大本営報道部は陸軍部と海軍部より成り、それぞれの軍から派遣された人員で独立的に運営されており、相互の交流の機会は少なかった。戦局が悪化しているにも係らず上記のような強気の発表を続ける海軍側に陸軍側は反発の念を強めていたが、陸軍側で「海軍の発表は嘘」と報道する訳にもいかず、具体的な行動を起こすことは無かった。陸軍参謀本部では「あれほどいってやっていたのに、今になって何たるざまだ」と海軍誹謗の声が満ち満ちたと言う[22]

ファイル:Stubico.svg この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています

空襲によるトラックの価値判断

なお、当時の米軍の戦果判定と報道内容については日本側の文献で触れたものは余り無いが、トラック島空襲の直前、海軍作戦本部長アーネスト・キングマリアナペリリューに加えてカロリン諸島の占領を提言していた。キングは島伝いに制海権を確立していく飛び石戦略の支持者であった。これに対して、第5艦隊参謀長ムーア大佐はトラック島空襲が完了して艦隊がクェゼリン環礁へ帰還した後、自分の考えを覚書にしてスプルーアンスに提出している。それによれば、日本は今後トラックを中枢の海軍基地として使用する意図は無く、アメリカにとっても脅威ではなくなっており、両国とも戦略的価値を見出していない、という内容であった。また、同島は多数の守備隊により厳重に防備されており、上陸作戦には非常な損害が予想されると見積もっている。なお、ムーアはマッカーサーの取るニューギニアからフィリピンを経る進攻コースを支持しており、最終的に中国本土への上陸を考えていたため、マリアナへの進攻についてもリソースの分散につながると考えていた[23]

結局、基地機能を喪失したトラック島はアメリカ軍の戦略目標から外されることになる。日本軍も1944年4月末の陸海軍作戦連絡にてトラックを絶対国防圏から外した[24]

責任者の処分と戦力補充

日本側ではこの失態の責任問題について、一定の処分が実施された。2月21日、陸軍参謀総長杉山元海軍軍令部総長永野修身は共に更迭され、陸軍大臣を兼務していた東条英機海軍大臣嶋田繁太郎が兼務するものとされた。また、現地指揮官である第4艦隊司令長官小林仁も2月19日に更迭され原忠一に交代し、31日には予備役編入された。

サイパンより下記の兵力が増援に急派され、18日の空襲完了直後にトラックに到着した。

また、この空襲をきっかけに連合艦隊司令部は航空拠点としてのラバウルの放棄を決定し、兵力のトラック引き上げを実施した。南東方面艦隊参謀長草鹿龍之介はこの決定に反対した。トラックに撤収した部隊は下記の通り。

  • 2月19日:艦攻6機、艦爆14機
  • 2月20日:陸攻4機、彗星3機、零戦37機
  • 2月21日 - 28日:陸攻5機、艦攻2機、零戦14機、彗星1機

なお、20日に撤収した機体の多くは消耗した第二航空戦隊の生き残りであった[25]

その後の推移

その後、連合軍の上陸は無く、トラックは日本本土と補給線が隔絶され、孤立したまま終戦を迎えた。ただし、上陸作戦が実施されなかっただけで、空襲は続けられた。1944年3月16日以降9月末まで、B-24など大型機の来襲は延べ3700機に達した。1944年4月30日にはTF58がホーランジア攻撃の帰途再度トラックに対して空襲を実施し、2日間の攻撃で95機を撃破した[24]。これらの空襲により、二十二航戦は壊滅状態に陥った。

また、2月の空襲が実施された時点で、環礁には第52師団をはじめとする1万5000名以上の兵力が上陸していた。孤立後のトラック環礁の島々では、備蓄物資の倹約と自給自足に努めたが、小さな島では多くの兵士の胃袋を満たすだけの量を生産するのは物理的に難しかった。具体的には1944年守備隊の糧食は定量の6割に落とされ、10月には5割、11月には4割、12月には3割となり、1945年3月には糧食全てが現地生産のサツマイモなどに切り替えられた。このため、ニューギニア戦線程ではないにせよ、多くの兵士が終戦まで栄養失調に陥った [17]

戦後、モエン島(春島)に慰霊碑が建立され、そこには「和」の文字が刻まれていると言う。沈船はダイビングスポットにもなっているが、欧米人観光客相手の見世物にしようとする動きがあり、産経新聞などで批判されている[26]

脚注

  1. ^ a b c 米側編成および行動要領、日本側哨戒態勢については吉田昭彦「トラック島大空襲」『波濤』1994年5月
  2. ^ 全体の数は下記を参照した。数的整合性はとらず原文のまま
    トーマス・B・ブュエル『提督スプルーアンス』P358 学研 2000年
    佐藤清夫『駆逐艦「野分」物語』P122 光人社NF文庫
  3. ^ 吉田によれば駆逐艦6隻
  4. ^ 吉田によれば重巡は軽巡、駆逐艦は5隻
  5. ^ 大内健二「トラック島輸送船団消える」『悲劇の輸送船』P87-96 光人社NF文庫
  6. ^ 船舶の在泊目的については佐藤清夫『駆逐艦「野分」物語』P118 光人社NF文庫
  7. ^ なお、第一航空戦隊ろ号作戦で受けた打撃を回復する為日本本土などに下げられていた。
  8. ^ 吉田によれば未帰還機の発生と通信は補給部隊と会合したTF58のCAP機による迎撃によるもの。
  9. ^ 21日までは攻撃は無いと推定された。
  10. ^ 佐藤清夫「T事件 調査結果」『駆逐艦「野分」物語 若き航海長の太平洋海戦記』P176 光人社NF文庫
  11. ^ 橋本以行は低気圧があって哨戒機が半分しか飛ばずに戻ってきた旨を語っている。
    「第2部 敗勢に苦闘する潜水艦」『伊58潜帰役せり』P192-193 学研M文庫版
  12. ^ 柳田邦男「猛襲、ウィーブ戦法」『零戦燃ゆ』4巻P46-49 文春文庫
  13. ^ 戦艦:「アイオワ」、「ニュージャージー
    重巡洋艦:「ミネアポリスニューオリンズ
    駆逐艦:「ブラッドフォード」「イザード」「チャーレッティ」「バーンズ」
    佐藤清夫『駆逐艦「野分」物語』P153 光人社NF文庫
  14. ^ レーダーを試験的に装備したTBF-1C
  15. ^ 当時造成されたばかりの新設飛行場で駐機スペースに余裕は無かった。
  16. ^ 天山はスマトラ島より海鷹で移送され11日に到着したばかりで完全には展開していなかった。
  17. ^ a b 『歴史群像 太平洋戦史シリーズ(28) 日VS米 徹底分析陸海軍基地』P20-21 学研 2000年10月
  18. ^ 柳田邦男「真珠湾の"再現"」『零戦燃ゆ』4巻P63-64 文春文庫 1993年7月(単行本1985年)
  19. ^ 注:『世界海戦史概説第四巻』内の「太平洋方面の海戦」のこと。幹部学校の依頼により竹下が執筆した。
  20. ^ 柳田邦男「真珠湾の"再現"」『零戦燃ゆ』4巻P63-64 文春文庫 1993年7月(単行本1985年)
  21. ^ 実際には戦時の戦果判定は困難な作業で、日本陸海軍はもとより米軍でも誤認が多発している。
  22. ^ 平櫛孝「報道部のスタッフ」「大本営発表さまがわり」『大本営報道部 言論統制と戦意高揚の実際』P46,P185-186 光人社NF文庫 2006年(初出、1980年)
  23. ^ 谷光太郎「第11章 マリアナ攻略」『アーネスト・キング』P330-333 白桃書房
  24. ^ a b 4月末の空襲とトラックの絶対国防圏からの除外については
    外山三郎「第九章 マリアナ沖海戦」『図説 太平洋海戦史3』P99-100 光人社 1995年
  25. ^ 淵田美津雄、奥宮正武「第二部 第2章 航空戦力続かず」『機動部隊』P218 学研M文庫版
  26. ^ 「日本兵遺骨が見世物に トラック環礁」『産經新聞』 2007/09/15 22:07配信

文献

  • 防衛研修所戦史室『戦史叢書大本営海軍部・聯合艦隊(5)第三段作戦中期』朝雲新聞社(1974年)
  • トラック島海軍戦記編集委員会、四十七警備隊会編『トラック島海軍戦記』
  • 吉村朝之(写真・文)『トラック大空襲 海底写真に見る連合艦隊泊地の悲劇 』光人社 ISBN 4-7698-0337-0 (1987年)
  • 柳田邦男「猛襲、ウィーブ戦法」「真珠湾の"再現"」『零戦燃ゆ』4巻 文春文庫 1993年7月(単行本1985年)
  • 吉田昭彦「トラック島大空襲」『波濤』1994年5月
  • 佐藤清夫『駆逐艦「野分」物語 若き航海長の太平洋海戦記 』光人社 ISBN 4-7698-2408-4 (2004年、初出1997年)
  • 三神國隆「第4章 日赤第五〇八救護班」『海軍病院船はなぜ沈められたか 第二氷川丸の航跡』光人社 ISBN 4-7698-2443-2 (2005年、初出2001年)
  • Klaus Lindermann 『Hailstorm Over Truk Lagoon』 Pacific Press ISBN 1-59752-347-X (2005)

関連項目

  • 真珠湾攻撃 - アメリカではトラック島空襲によりその復讐を果たしたと言われた。
  • 服部卓四郎 - 視察の帰路トラックに滞在し空襲に遭う。
  • 瀬島龍三 - 視察の帰路トラックに滞在し空襲に遭う。

外部リンク