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ドバイ日航機ハイジャック事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

日本航空 404便 
概要
日付 1973年7月20日
原因 日本赤軍PFLPによるハイジャック
場所 ドバイ国際空港ベンガジ空港
死者 0
負傷者 0
航空機
機体 ボーイング747-246B
航空会社 日本航空
機体記号 JA8109
乗客数 123
乗員数 22
生存者 145
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ドバイ日航機ハイジャック事件(ドバイにっこうきハイジャックじけん)は、1973年に発生した日本航空機に対するハイジャック事件

目次

概要

日本赤軍とPFLP

ファイル:MyPhotoJal-05.jpg
日本航空のボーイング747型機

1973年7月20日テルアビブ空港乱射事件に対する関与等で国際指名手配を受け逃亡していた日本赤軍丸岡修ら5人の「被占領地の息子たち」と自称するパレスチナ解放人民戦線(PFLP)と日本赤軍の混成部隊が、爆弾などの武器を持ちフランスパリアムステルダムアンカレジ経由東京羽田)行きの日本航空404便(ボーイング747-246B型機、機体記号JA8109)に搭乗。客を装っていた犯人の一人の女性がアムステルダム離陸後ファーストクラス2階ラウンジで誤爆し死亡。その際接客にあたっていたチーフパーサは顔面に被爆し重傷を負った。また犯人誤爆時ラウンジのトイレで着物に着替えていたキャビンアテンダントは誤爆した犯人女性の飛び散った肉片を片付けさせられたと言われている。犯人女性の誤爆を機にハイジャックが発生、飛行中乗務員、乗客は全員両手を頭の上にかざした状態で犯人から監視され続け、飛行機はアラブ首長国連邦ドバイ国際空港に着陸した。

ベンガジへ

ドバイには3日間駐機し、その間に犯人グループから、40億円の身代金の支払いと逮捕されていた日本赤軍メンバー2名の釈放を要求する旨の脅迫状が日本航空の東京支店に届いた。これらを受けてドバイ首長の弟であるモハメッド・ラシッド国防大臣(当時。現在のドバイ首長)や佐藤孝行運輸政務次官らが犯人グループとの交渉に当たったが解決出来ず、その後ドバイ国際空港を離陸し、シリアダマスカス国際空港で燃料の補給を行い、リビアベンガジにあるベニナ空港に着陸させた。

爆破

その後犯人グループは、乗員乗客145人の人質を解放後、同機を爆破しリビア当局に投降した。機体爆破に際し犯人グループは事前に乗務員に爆破を通知。着陸後乗務員は脱出用シュートを使って乗客を退避させた。犯人グループは投降後、ムアンマル・アル=カッザーフィー大佐率いるリビア政府の黙認(積極的な援助)の元、リビアの友好国経由で国外逃亡した。なお、飛行機が爆破され滑走路が利用不可能となったことから救援機の着陸ができず、着の身着のままで解放された乗客、乗務員は陸路を使った救援物資が届くまでの間、リビア政府が用意したTシャツなどの着替えを分けあって急場をしのいだ。

撃墜指令

2004年に公開されたイギリス外務省の当時の機密文書によって、この事件の発生時に、ハイジャック機が領空の近辺を通過したイスラエルサウジアラビアの両政府が、当該機が両国の石油関連施設や市街地に突入する行動を取った場合、乗客乗員もろとも撃墜する方針であったことが明らかになった。

その後

犯人グループ

リビア政府の手引きで逃亡に成功した丸岡は、その後、1977年9月に発生したダッカ日航機ハイジャック事件にも、坂東國男ら日本赤軍のメンバーとともに主犯格として関与し、当時の福田赳夫首相に、「超法規的措置」としてメンバーなどの引き渡しと身代金の支払いを決断させた。

丸岡はその後も逃亡生活を送ったものの、1987年東京で潜伏していたところを逮捕され、無期懲役判決を受けて服役していたが、2011年5月28日に八王子医療刑務所にて病死した。その後日本赤軍は相次ぐメンバーの逮捕を受けて壊滅した。なお、日本赤軍と一緒にハイジャックを行いその後逃亡したパレスチナ解放人民戦線のメンバーについての動向は伝えられていない。

当該機

爆破された日本航空機はその後炎上したものの、焼け残った尾翼の一部部品はその後売却されKLMの同型機(ボーイング747-206B、登録記号:PH-BUF)に装着された。しかしその後、同機は1977年スペインカナリア諸島テネリフェ島にあるロス・ロデオス空港滑走路上で2機のボーイング747型機同士が衝突した事故(テネリフェ空港ジャンボ機衝突事故)に遭うこととなった。

関連項目