国家社会主義ドイツ労働者党
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| 国家社会主義ドイツ労働者党 Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei | |
|---|---|
|
ファイル:Flag of Germany 1933.svg 党旗 | |
| 指導者 | アドルフ・ヒトラー |
| 成立年月日 | 1920年2月24日(前身の政党は1919年1月) |
| 解散年月日 | 1945年 |
| 解散理由 | 第二次世界大戦敗戦 |
| 後継政党 | なし |
| 本部所在地 | ミュンヘン |
| 党員・党友数 |
850万人(1945年) |
| 政治的思想・立場 | ナショナリズム国家社会主義反ユダヤ主義 |
| 機関紙 | フェルキッシャー・ベオバハター |
| シンボル |
ファイル:NSDAP-Logo.svg 党章:ハーケンクロイツ(鉤十字)、党歌:旗を高く掲げよ |
| ナチズム |
|---|
| ファイル:Flag of the NSDAP (1920–1945).svg |
国家社会主義ドイツ労働者党(こっかしゃかいしゅぎドイツろうどうしゃとう、独: Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei 、略称: NSDAP)は、かつて存在したドイツの政党。一般にナチス、ナチ党などと呼ばれる(詳細は#名称を参照)。1919年1月に前身のドイツ労働者党が設立され、1920年に国家社会主義ドイツ労働者党に改称した。アドルフ・ヒトラーが指導者として率い、1933年に政権を獲得後、独裁体制を敷いた。1945年のドイツ敗戦により解党した。
目次 |
名称
前身の党は「ドイツ労働者党」である。1920年、党の実力者となったヒトラーが改名を主張し、ルドルフ・ユングがオーストリアの「ドイツ国家社会主義労働者党」(Deutsche Nationalsozialistische Arbeiterpartei)の命名パターンに従うことを要求した。討議の結果、 「国家社会主義ドイツ労働党」(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei 、ナツィオナールゾツィアリスティシェ・ドイチェ・アルバイターパルタイ)の党名が採用された。正式に党名が変更されたのは1920年2月末であるが、2月22日付のビラでドレクスラーがこの党名を用いている。一方で党書記がこの党名を使用し始めたのは4月18日になってからであった[1]。
正式党名の和訳は「National」の解釈の違いにより「国家社会主義ドイツ労働党[2]」、「国民社会主義ドイツ労働者党[3]」、「民族社会主義ドイツ労働者党」[4]などと訳される。また「国家社会主義」はフェルディナント・ラッサールなどの社会主義思想である state socialism の訳語、またはナチズムの訳語としても用いられる[5]。略して呼ぶ場合は後述の「ナチス」の他、同時代には「国粋社会党[6]」「国民社会党[7]」の表記も使われた。
各国語では下記の通り翻訳されている。
- 英語:The National Socialist German Workers' Party
- 仏語:Le Parti national-socialiste des travailleurs allemands
- 西語:El Partido Nacionalsocialista Obrero Alemán
- 中語:民族社會主義德意志工人黨、國家社會主義德意志勞工黨
通称の「ナチ(独: Nazi (ナーツィ))」は Nationalsozialist の初め2音節を同音異字につづり変えた物で、当時の対抗勢力がナチ党員および国家社会主義者に付けた蔑称であり、本来はいわゆる「ナチ公」に相当する言葉である。また「ナチス(Nazis (ナーツィス))」はその2格(属格)および複数形であり、集合的にナチ党の意味でも用いる。ちなみにドイツ社会民主党員および社会主義者も同様に Sozialist を短縮して「ゾチ(Sozi (ゾーツィ))」と蔑称されていた。
したがって、映画などでナチ党員が「ナチス」と言うのは本来は誤りであり、自分たちにナチおよびナチスという呼称を用いる事は無かった。自称としては党名のイニシャルを略して NSDAP (エンエスデーアーペー) 或いは NS (エンエス) と呼んでいた。 しかし、ナチという呼称は広まっており、日本でもナチおよびナチスの呼称が当時から使用されている[8]。
現在は他の非ドイツ語圏でも Nazi Party や Nazi Germany のようにドイツ語の Nazi がそのまま使用されている。ドイツ語にも同様の Nazi-Deutschland などの言い方はあるが、現在は Nazi よりも中立的な Nationalsozialismus (英: National Socialism)の略号である NS (エンエス) を接頭語にして、例えば NS-Deutschland (エンエス・ドイチュラント) のように造語される。
思想
詳細は「ナチズム」を参照
党の思想として一貫して存在しているのは「アーリア人至上主義」、「反ユダヤ主義」、「反共」、「指導者による独裁」等であり、ヒトラーの著書「我が闘争」が党に聖典視された。しかし党の実際の行動においてはこれらの思想と矛盾する事態もしばしば起こった。しかし指導者に対する忠誠と服従が優先され(指導者原理)、党員は疑問をさしはさむことは許されなかった。
歴史
黎明期
1918年初頭に「ドイツ労働者の平和に関する自由委員会(Freier Ausschuss für einen deutschen Arbeiterfrieden)」がブレーメンで結成された。錠前師で自称詩人でもあったアントン・ドレクスラーは同党の支部を1918年3月7日にミュンヘンで結成した。10月2日にはカール・ハラーとドレクスラーは「政治的労働者サークル」を結成し、ドイツ労働者党の結成準備を行った。1919年1月5日、ハラーを第一議長とするドイツ労働者党(DAP)」が成立した。当時の党綱領はドレクスラーの手によるものであり、民族主義と中産階級の成立が強調されていた[9]。
創設当初の党はわずか40人ほどの小さな政治的サークルに過ぎなかった。しかし党は右派組織全ドイツ連盟(de)やゴットフリート・フェーダー、ディートリヒ・エッカートを会員とするトゥーレ協会といった右派組織の支援を受けており、エルンスト・レームのような軍とドイツ義勇軍の関係者も党員であった。第一議長ハラーやその背後にいた全ドイツ連盟の指導者は「フリーメーソンやユダヤ資本らの陰謀」を防ぐため、閉鎖的なサークルの状態から政治運動に間接的な影響を与えることが望ましいと考えていた[10]。党の集会は盛況であり、毎週300人ほどの聴衆を集めていた[11]。
ヒトラーの台頭
当時アドルフ・ヒトラーは、ドイツ国軍が非合法に行っていた政治情勢を調査する仕事をしていた。上官であるカール・マイヤー大尉に命ぜられて同党が1919年9月12日に開いた集会に参加し[12]、数日後に入党した。ヒトラーは自分が7番目の党創設メンバーであると主張していたが、彼の党員番号は555番であり(番号は501番から始まる。)、この番号も1920年にアルファベット順で作成された名簿に基づくものであった。ヒトラーが7番目の幹部であったという説もあるが、名簿作成以前の正式な記録が無いため明確にはなっていない[12]。
ヒトラーはドレクスラーに見込まれ、たちまち党に不可欠な巧みな演説者となった。ヒトラーは軍の仕事から離れ、党務に専念するようになった。1919年12月、ドレクスラーとヒトラーは党規則を改定することで議長(党首)であったハラーを追放し、ドレクスラーが新議長となった。1920年1月5日、ヒトラーはドレクスラーと共に党綱領の整備に取り組み、反ブルジョワ・反ユダヤ・国粋主義、企業の国有化、利子制度打破などを訴える25カ条綱領を作成した。綱領は2月24日ミュンヘンのビアホール「ホフブロイハウス」で開かれた集会で正式採択された。2月末には党名が正式に変更され、6月にハーケンクロイツの党章を採用、12月には売りに出されていた週刊紙『フェルキッシャー・ベオバハター』を買い取り、党の機関紙とした。
ヒトラーは軍とのパイプを持つエルンスト・レーム大尉やエッカートらの支持もあって党内で勢力を拡大した。ヒトラーは党内一番の人気弁士であり、数千人の聴衆を集めることが出来た。党財政においてもヒトラーは欠かせない存在になっていた。1921年7月、ヒトラー色を薄めようとする党内の動きに対して自らを唯一絶対の指導者とする独裁権(指導者原理)を要求するに至る。党内には反発もあったが、離党をちらつかせたヒトラーに屈し、7月29日に開かれた幹部会議で認められた。ドレクスラーは名誉議長に棚上げされ、ヒトラーが議長となった。このころからヒトラーはエッカートやヘスといった支持者から指導者を意味する「Führer」(フューラー)と呼ばれるようになり[12]、党内に定着した。この「Führer」はヒトラーの終生の肩書きとなった(総統を参照)。
同年8月には党内組織「体育スポーツ局(Sportabteilung)」がレームによって設立された。同組織は10月に「突撃隊」と改称し、他党の同種団体との市街戦の主力となった。突撃隊の幹部は禁止されたドイツ義勇軍(フライコール)エアハルト海兵旅団から派遣されており、やがて一定の独立性を持った突撃隊を形成していくことになる。
またこの頃から党勢の拡大を見た実業家からの寄付も相次ぎ、党勢はさらに拡大した。1921年に3千人だった党員が1922年1月には党員6千人となった。この年の3月8日にヒトラー・ユーゲントの前身となるナチ党青年同盟が設立された。8月16日にはハーケンクロイツの党旗が公の場ではじめて用いられた。10月にはユリウス・シュトライヒャー率いるニュルンベルクのドイツ社会党が合流し、ますます党勢が拡大した。しかし11月18日にはプロイセン州においてナチ党が禁止され、ザクセン州、テューリンゲン州等でも禁止されたため、ナチ党の発展はバイエルン州に限られることになった。しかしドイツの不景気とインフレはナチ党を含む右派への支持をさらに高めた。
1923年には党員数3万5千人を数え、バイエルン州でも有数の政党になっていた。2月には国防軍が主導する極右派政党・義勇軍の連合「祖国的闘争同盟共働団」に参加し、有力な構成団体となった。このころから突撃隊の軍隊化が進められ始めた。
ミュンヘン一揆
詳細は「ミュンヘン一揆」を参照
1923年1月にヴェルサイユ条約の賠償金の支払い遅延を理由にフランス軍がドイツの工業地帯であるルール地方を占領した(ルール問題)。ヴィルヘルム・クーノ首相の政府はサボタージュによる抵抗を呼びかけ、工業の停止と、占領によって生じた損害への補償のためインフレーションがさらに激化した(en)。ナチ党は消極的な抵抗しか行えない政府を批判するとともに、突撃隊を拡充してフランス占領軍に対抗しようとした。2月に第一次世界大戦の英雄ヘルマン・ゲーリングが突撃隊司令官となったのはその流れの一つで、3月からは本格的な軍事訓練が行われた。
5月26日には党員の一人アルベルト・レオ・シュラゲター(Albert Leo Schlageter)がフランス軍に捕らえられ、軍法会議にかけられた上で処刑された。このシュラゲターの死をナチスが喧伝したことにより、ドイツ国内はもとより世界でも英雄視された[13]。これらのことが有利に働き、集団入党や献金が相次ぎ、ナチ党は更に勢力を拡大した。
しかし5月3日にはレームが参謀将校から左遷され、軍のドイツ義勇軍援助はエーリヒ・ルーデンドルフ将軍の影響下にある、ヘルマン・クリーベル大尉の指揮下に置かれることになった。このため元軍人が多い突撃隊へのヒトラーの影響力は弱まった。9月には突撃隊と共働団参加団体が連合し、「ドイツ闘争連盟」が組織された。クリーベルが議長であり、ヒトラーも指導者の一人になった。
不穏な空気は9月26日のフリードリヒ・エーベルト大統領による非常事態宣言によって表面化し、反ベルリンであったバイエルン州政府と中央政府の対立の構図が生まれた。しかしバイエルン州の実権を握ったグスタフ・フォン・カール主導のベルリン進軍は、ヒトラーにとって受け入れがたいものであった。ドイツ闘争連盟は州政府を掌握し、その上でベルリンに進軍するという中央政権打倒計画を立案した。11月8日、ビアホールビュルガーブロイケラーにおいてヒトラー自らカールらを軟禁し、州政府の建物を占拠した。ヒトラーはルーデンドルフにカールらの説得を依頼し、一時は進軍への協力を承諾させた。しかしカールらは逃亡し、ドイツ闘争連盟の鎮圧に乗りだした。11月9日、ドイツ闘争連盟は市の中心部にあるオデオン広場に向けてデモを行い、2000~3000人がこれに従ったが、同広場の入口で警察隊に銃撃されて、デモは壊滅した。
首謀者ヒトラーを初め、党員らは逮捕され、国内に残った幹部はローゼンベルクなどわずかなものになった。ナチ党と突撃隊は非合法化され、一時解散することになった。しかしその後の裁判はヒトラーの独演会と化し、かえってヒトラーと党の知名度は高まることとなった。ヒトラーはランツベルク刑務所で城塞禁固刑を受けることになるが、彼のもとには差し入れが相次いだ。その後も反ワイマール共和国の気運の高まりは衰えることはなく、ナチス党のいくつかのダミー団体が活動を続けた。
ヒトラーが指名した運動の指導者はローゼンベルクであったが、彼の政治力は乏しく、分派争いがひどくなった。党内左派の中心人物であるグレゴール・シュトラッサーはヒトラー無き党内で勢力を拡大した。ルーデンドルフを担ぐ「ドイツ民族自由党」と共同して「国家社会主義自由運動」を結成し、1924年5月の選挙で32議席を獲得した。シュトラッサーは共産主義に対抗するためには統制経済が必要と考えており、合法的な政権交代に路線転換し、既存勢力(産業界・軍部・貴族階級)との融和を考えたヒトラーとの間に溝を深めることになる。ヨーゼフ・ゲッベルスはこの頃にシュトラッサーの秘書として党活動を始め、シュトラッサーの有力な腹心となった。同年12月の選挙では国家社会主義自由運動の議席は14議席に低下し、これまでナチ党と密接な関係を持っていたルーデンドルフとの関係も悪化した。
また突撃隊も禁止されたが、レームがドイツ闘争連盟の隊員を結集してフロントリング(Frontring)という組織を結成した。1924年8月28日に同組織はフロントバン(de:Frontbann)と改称された。
党勢の拡大
1924年12月20日、ヒトラーが監獄から釈放され、投獄を免れた幹部も恩赦を受け帰国していた。1925年1月4日にはバイエルン州首相ハインリヒ・ヘルトとヒトラーの会見が行われ、2月16日には再結成が許可された。ヘルトはヒトラーの恭順姿勢に「この野獣は飼いならされた。もう鎖を解いてやっても心配ないだろう」と感じた[14]。フロントバンの大半もナチ党に合流し、再結成後のナチ党は合法活動による政権獲得を主軸として行うこととなる。しかし2月27日に行われた再結成党集会には四千人が集まるなど影響力は強いことが明らかとなり、州政府から一年間の演説禁止措置を受けた。4月、レームがフロントバンの指揮権を確認する手紙をヒトラーに送ったが、ヒトラーは指揮権が自分にあることを表明した。レームは失脚し、政界から引退した。
7月18日にはヒトラーの初の著書「我が闘争」が発売された。高い値段設定にもかかわらず1万部を売るなど順調な売り上げであった。すでにヒトラーとナチ党はドイツ全体に知られた存在であり、バイエルン州以外でも支持が広がりつつあった。しかしレンテンマルクの導入によるインフレの沈静化と、ドーズ案受け入れによる好景気は極右勢力全体への支持を減少させていった。一方で北部を管轄していたシュトラッサーは労働者に対して呼びかけることで党員を増やし、勢力を拡大していった。8月21日にはシュトラッサーらが「国民社会主義通信」という独自の新聞の発刊を行い、独自活動を始めていた。9月21日、再結成された突撃隊の下部組織として「親衛隊」が設立された。当初はヒトラーのボディーガードであったが、次第に党内警察としての立場を固めていくことになる。
1926年、シュトラッサーは当時問題となっていた旧ドイツ帝国諸邦王室の財産没収を支持し、企業の国営化を進める、領土回復のためのソ連との連携など、左派色の強い綱領改定案を呈示した。しかし、富裕層からの政治献金が無視できない額となっており、またソ連と組む案はヒトラーにとって受け入れられる案ではなかった。ヒトラーは2月14日にバンベルクで招集されたバンベルク会議において、25ヶ条綱領を不変の綱領とし、「指導者原理」による指導者への絶対服従を認めさせた。シュトラッサーは屈服したが、全国組織指導者に任じられ、独自の出版社運営を認める懐柔も行われた。しかしシュトラッサーの右腕であったゲッベルスがヒトラーに懐柔され、シュトラッサーの勢力は縮小した。7月3日にはヴァイマールで党大会が開かれた。この大会でヒトラー・ユーゲントの成立と、各種等団体の成立、そして突撃隊の再結成が行われた。この年の暮れには党員が5万名に達していたとされるが、フランツ・クサーヴァー・シュヴァルツが党員番号を通し番号にして脱退者数をわからなくしたために、実際の党員がどの程度であったかはわかっていない[15]。
1927年も好景気の影響でナチ党の活動は停滞し、資金難で党大会や集会が中止される事もあった。1928年5月20日、ナチス党として初めての国政選挙に挑んだが、12人の当選に留まった。しかしその後のドイツ経済の悪化と、ヴェルサイユ条約の賠償金支払い方法としてヤング案が合意されるとドイツ国民の反発を呼び、極右と極左、特にナチス党は支持を集めていく事になる。1930年、ナチス党の伸長を恐れたブリューニング内閣は政治団体構成員が公の場で制服を着用することを禁じた。これは事実上の突撃隊禁止命令であったが、同年9月の選挙では107議席を獲得し、第二党に躍進した。政府側からはナチ党の取り込みを図る動きもあったが、ヒトラーの首相就任を求めるナチ党は協力しなかった。この後ナチ党は中央党、ドイツ国家人民党とともにハルツブルク戦線(en)という連合を組み、ブリューニング内閣への攻撃を強めた。
しかし躍進はしても末端の突撃隊員には恩恵が及ばず、1931年3月には東部ベルリン突撃隊指導者ヴァルター・シュテンネス(de:Walter Stennes)大尉が公然と党中央を批判し、突撃隊と親衛隊の間で衝突が起こるようになった。ヒトラーは南米からレームを召還して突撃隊の鎮撫に当たらせたが、突撃隊の独自傾向は強まるばかりであった。
1932年4月には大統領選挙が行われ、ヒトラーが大統領候補として出馬した。現大統領のパウル・フォン・ヒンデンブルクが圧倒的な票を集めて勝利したものの、ヒトラーも30%以上の票を集めた。ブリューニング内閣は倒れ、大統領の側近であったシュライヒャー中将の策謀によりパーペン内閣が成立した。7月の選挙でナチ党は全584議席中230議席[16]を獲得し、ついに第一党の座を占めた。パーペンはナチス党と協力して議会運営を行おうとするが、首相の座にこだわるヒトラーは拒絶した。しかもヒトラーは首相の座に加え、全権委任を要求したから(のちに全権委任法として現実の物となる)、ヒンデンブルクやパーペンにとって、とうてい呑める要求ではなかった。さらにナチス党提出による内閣不信任案が可決され、進退窮まったパーペン首相は11月に再度選挙を行った。選挙の結果、ナチ党は34議席を失ったが、引き続き第一党の座を占め続けた。
| 投票年月日 | 得票数 | 得票率 | 当選数 |
|---|---|---|---|
| 1928年5月20日 | 810,000 | 2.6% | 12人 |
| 1930年9月14日 | 6,410,000 | 18.3% | 107人 |
| 1932年7月31日 | 13,750,000 | 37.3% | 230人 |
| 1932年11月6日 | 11,740,000 | 33.1% | 196人 |
| 1933年3月5日 | 17,280,000 | 43.9% | 288人 |
| 1933年11月12日 | 39,655,288 | 92.2% | 661人 |
| ドイツ国会選挙の当選者数(1920 - 1933) | |||||||||
| 国会の政党 | 1920年6月6日 | 1924年5月4日 | 1924年12月7日 | 1928年5月20日 | 1930年9月14日 | 1932年7月31日 | 1932年11月6日 | 1933年3月5日 | 1933年11月12日 |
| 共産党 (KPD) | 4 | 62 | 45 | 54 | 77 | 89 | 100 | 81 (*2) | 解散 |
| ドイツ社会民主党 (SPD) | 102 | 100 | 131 | 153 | 143 | 133 | 121 | 120 | 解散 |
| カトリック中央党 (*1) | 65 | 81 | 88 | 78 | 87 | 97 | 90 | 93 | 解散 |
| ドイツ国家人民党 (DNVP) | 71 | 95 | 103 | 73 | 41 | 37 | 52 | 52(*3) | 解散 |
| 国家社会主義ドイツ労働者党 (NSDAP) | - | - | - | 12 | 107 | 230 | 196 | 288(*3) | 661 |
| その他の政党 | 98 | 92 | 73 | 121 | 122 | 22 | 35 | 23 | 0 |
| |||||||||
ナチス党内閣成立
11月の選挙の結果をうけてパーペン内閣は倒れた。しかしナチ党も絶対多数を確保出来ず、指名権を持つヒンデンブルク大統領がヒトラーを個人的に嫌っていたため、ヒトラー組閣は困難であった。その政治的空白を縫って、シュライヒャーが新首相となった。シュライヒャー首相は入閣を餌に組織局長シュトラッサーの切り崩しを図ったが失敗し、ヒンデンブルク大統領の信任も失った。
この間に、ヒトラーはヒンデンブルクの息子オスカーと大統領官房長オットー・マイスナーを味方に引き入れた。彼らの説得を受けてヒンデンブルクはついにヒトラーを首相に任命し、1933年1月30日にヒトラー内閣が発足した。発足当時、入閣したナチス党員はヒトラーを含めて3名であり、副首相パーペンを代表とする保守派はヒトラーを制御出来ると考えていた。しかしプロイセン州内相に就任したゲーリングが国土の過半数以上を占めるプロイセン州の警察権力を握り、突撃隊や親衛隊が警察権力に浸透していった。
独裁権力確立
詳細は「ナチ党の権力掌握」を参照
組閣後まもなく議会は解散され、選挙運動が始まった。しかし2月に国会議事堂放火事件が起こり、これを共産党の陰謀と見なして緊急大統領令を布告、共産党幹部を逮捕した。当時の法律では国会議員の逮捕は禁じられていたが、緊急大統領令がこれを許した。
選挙の結果、ナチス党が勝利したことが明らかになると、「党がドイツ民族を指導する体制が承認された」として、党による独裁を強化した。プロイセン州国家代理官のゲーリングを始めとする地各方の党員は鉤十字の党旗を地方官公庁の建物に掲揚させた。さらにヒトラーは3月23日に全権委任法を国会承認させ、立法権を国会からヒトラー政権に委譲させた。この法律はどんな法律も議会の審議を経ないで政府が制定できることを意味していた。既存の政党は次々と解散し、7月には政党禁止法によりナチ党以外の政党は禁止された。また、これに前後してヴァイマル憲法に定められた基本的人権や労働者の権利のほとんどは停止された。11月には最後の国会選挙が行われ、国会議員はナチス党員のみとなった。12月には国家と党の不可分な一体化が定められたが、1942年にこの条文は削除されている[17]。
1934年6月30日、第二革命を主張する突撃隊参謀長レームや党内左派など党内外のヒトラー反対派を一斉に粛清(長いナイフの夜事件)し、独裁権力は確実なものとなった。ドイツ国防軍や資本家とも連携し、国内の反対派は息を潜めた。8月にはヒンデンブルク大統領死亡にともなって発効した国家元首法により、首相のヒトラーに大統領権限が委譲され、ヒトラーは国家元首となった。1938年11月9日夜から10日未明にかけてナチス党員・突撃隊がドイツ全土のユダヤ人住宅・商店・シナゴーグなどを襲撃・放火している(水晶の夜)。
党による全国支配
1933年4月7日、州政府にナチ党幹部が国家代理官(Reichsstatthalter)として送り込み、民主主義的な地方自治を停止させた。 党の組織上の単位である大管区、管区、支部、細胞、班 はそのまま国民支配の行政単位になった。党の組織は生活の大部分に浸透し、労働組合に代わる「ドイツ労働戦線」や、下部組織の「歓喜力行団」などによって、労働・教育・余暇など私生活の隅々まで党によって支配されていた。また青少年はヒトラー・ユーゲントへの加入が義務づけられた。これらの組織は第二次世界大戦では防空や治安維持なども担当し、大戦末期には本土防衛のために老人・子供から成る非正規軍の「国民突撃隊」の母体にもなっている。
敗戦後
1945年4月30日にヒトラーが総統地下壕で自殺した後、遺言によってマルティン・ボルマンが「党担当大臣」に任命された。しかし遺書は広く知られなかった上に、まもなくボルマンは消息を絶った。ヒトラー亡きナチ党は統制能力を失い、事実上解散状態となった。この間にヒムラーら一部の幹部は逃亡を図っている。1945年5月8日にドイツが連合国軍に降伏し、軍政下に置かれた9月10日には党の存在自体が法律によって禁止され、「ニュルンベルク裁判」により「犯罪的な組織」と認定された。15万人もの党員が逮捕されたが、実際に裁判を受けたのは3万人である。
幹部
指導者
党の組織は階層化されており、それぞれの階層の指導者がその階層以下を支配し、党首にあたる指導者(総統)アドルフ・ヒトラーは、党のすべてにわたる独裁権を握っていた。
全国指導者
全国指導部(Reichsleitung)は、職能別に党務を分担して指導者ヒトラーを補佐する17〜20人の全国指導者(de:Reichsleiter)から構成された(1934年時点の党組織図では18名が挙げられている)。全国指導者には、1933年の政権奪取後のヒトラー内閣で国務大臣を兼務する者が多く含まれていた。
- ルドルフ・ヘス - 指導者代理(副総統や総統代理という訳もある。以下同じ)(de:Stab des Stellvertreters des Führers)。無任所大臣兼務。
- ヘルマン・ゲーリング - 指導者後継者(総統後継者)。空軍総司令官・航空大臣兼務。
- マルティン・ボルマン -党官房長(Leiter der Parteikanzlei)。 無任所大臣待遇(1941-)、ヒトラーの遺言によってナチ党担当大臣に指名。
- フランツ・クサーヴァー・シュヴァルツ-財政全国指導者(Reichsschatzmeister der NSDAP )。
- フィリップ・ボウラー -指導者官房長(Chef der Kanzlei des Führers und Vorsitzender)。 ナチス文芸保護審査委員会会長を兼務。T4作戦の責任者。
- ヴァルター・ブーフ(Walter Buch)-党最高裁判所長(Oberstes Parteigericht der NSDAP)。
- ヴィルヘルム・グリム(Wilhelm Grimm)-党第2最高裁判所長(Der Stellvertretende Vorsitzender des Obersten Parteigerichts / Der Vorsitzende der 2.)。
- グレゴール・シュトラッサー - 宣伝全国指導者(Reichspropagandaleiter)(党宣伝部長)(1926 - 1929)。
- ヨーゼフ・ゲッベルス - 宣伝全国指導者(Reichspropagandaleiter)(党宣伝部長)(1929 - )。国民啓蒙宣伝大臣・ベルリン大管区指導者・ 国家文化院総裁兼務。
- マックス・アマン -出版全国指導者(Reichsleiter für die Presse)兼 党機関紙指導者(Der Leiter der Parteipresse der NSDAP)。 国家出版院総裁兼務
- オットー・ディートリヒ -新聞全国指導者(Reichspressechef)。
- リヒャルト・ヴァルター・ダレ - 農政全国指導者(Dar Leiter des Amtes für Agrarpolitik)(党農業政策局長)、後に全国農民指導者(Reichsbauernführer)に改称(1933 - 1943)。食糧大臣兼務。
- ヘルベルト・バッケ -全国農民指導者(Reichsbauernführer)(1943 - 1945)。食糧大臣兼務。
- リッター・フォン・エップ -国防政策全国指導者(Leiter des Wehrpolitischen Amtes)・植民政策全国指導者( Leiter desKolonialpolitisches Amt der NSDAP)。
- ヴィルヘルム・フリック - 国会議員団長(Fraktionsführer )。内務大臣兼務、次いでベーメン・メーレン保護領総督兼務。
- カール・フィーラー(Karl Fiehler) -書記全国指導者(Schriftführer der NSDAP)後に地方行政本部長(Leiter des Hauptamts für Kommunalpolitik)。
- グレゴール・シュトラッサー - 組織全国指導者(Reichsorganisationsleiter)(党組織局長)(1929 - 1932)。ナチス左派の幹部、1932年に離党
- ロベルト・ライ - 組織全国指導者(Reichsorganisationsleiter)(党組織局)(1932 -1945)。ドイツ労働戦線指導者・無任所大臣兼務。
- ハンス・フランク -司法全国指導者(Der Leiter des Reichsrechtsamtes)。 無任所大臣兼務、ポーランド総督兼務
- アルフレート・ローゼンベルク -対外政策全国指導者(Der Leiter des Außenpolitisches Amt der NSDAP)。 東方占領大臣兼務。
- エルンスト・レーム -突撃隊幕僚長(Der Stabschef der SA)(1930 -1934)。無任所大臣兼務、長いナイフの夜で粛清。
- ヴィクトール・ルッツェ - 突撃隊幕僚長(1934 - 1943)。
- ヴィルヘルム・シェップマン - 突撃隊幕僚長(1943 -1945)。
- ヨーゼフ・ベルヒトルト-親衛隊全国指導者(Reichsführer des SS)(1926-1927)。
- エアハルト・ハイデン-親衛隊全国指導者(1927-1929)。
- ハインリヒ・ヒムラー -親衛隊全国指導者(1929 - 1945)。1936年から全ドイツ警察長官、1943年より内務大臣兼務。
- カール・ハンケ -親衛隊全国指導者(1945)(ヒトラーの遺言による指名)。
- バルドゥール・フォン・シーラッハ-青少年全国指導者(Reichsjugendführer)(1930 - 1940)。
- アルトゥール・アクスマン-青少年全国指導者(1940 - 1945)。
- コンスタンティン・ヒールル(Konstantin Hierl) - 国家社会主義義勇労働奉仕団団長。労働次官と労働問題国家弁務官(Reichskommissar für den Arbeitsdienst)を兼務。
機構
指導者代理幕僚部・党官房
指導者代理幕僚部は1941年までのナチ党の支配機構。指導者代理のルドルフ・ヘスは党のあらゆる事項について、指導者ヒトラーの名によって決定する権限を持っていた。ただし、実務能力に疎いヘスはこの巨大な権力を使いこなすことができず、実権は「指導者代理幕僚長」兼「指導者代理秘書」のマルティン・ボルマンに移っていった。
- 指導者代理(副総統、総統代理):ルドルフ・ヘス
1941年5月に指導者代理ルドルフ・ヘスがイギリスに飛行したことによって失脚し、ヘスに附設していた指導者代理幕僚部は廃止された。その後継機関として指導者ヒトラーが直接に党を支配するための機構である党官房が設置された。政権末期のナチ党の実務は官房長マルティン・ボルマンが差配しており、事実上、彼が党の実権を握るにいたった。
- 党官房長(Leiter der Parteikanzlei): マルティン・ボルマン。
出納局
- 財政全国指導者(Reichsschatzmeister der NSDAP ): フランツ・クサーヴァー・シュヴァルツ
指導者官房
- 指導者官房長(Chef der Kanzlei des Führers und Vorsitzender): フィリップ・ボウラー
党裁判所
- 党最高裁判所長(Oberstes Parteigericht der NSDAP):ヴァルター・ブーフ(Walter Buch)
- 党第2最高裁判所長(Der Stellvertretende Vorsitzender des Obersten Parteigerichts / Der Vorsitzende der 2.): ヴィルヘルム・グリム(Wilhelm Grimm)
宣伝局
宣伝を重視したヒトラーは、初期には宣伝全国指導者を自ら兼任していた。後、この職は「プロパガンダの天才」と呼ばれたヨーゼフ・ゲッベルスの就任するところとなり、ナチ党の政権奪取とその後の世論誘導に決定的な役割を果たすことになる。
- 宣伝全国指導者(Reichspropagandaleiter)(党宣伝部長):アドルフ・ヒトラー(-1926)、グレゴール・シュトラッサー (1926 - 1929)、 ヨーゼフ・ゲッベルス (1929 -1945)。
出版局
- 統括組織: フランツ・エーア・フェルラーグ(de:Franz Eher Nachfolger)
- 出版全国指導者(Reichsleiter für die Presse)兼 党機関紙指導者(Der Leiter der Parteipresse der NSDAP): マックス・アマン
新聞局
- 新聞全国指導者(Reichspressechef): オットー・ディートリヒ
農業政策局
都市を基盤にしていたナチスにとって、農業政策に関する部局が置かれたのは比較的遅かった。後に農民局に名称変更されている。
- 農政全国指導者(Dar Leiter des Amtes für Agrarpolitik)(党農業政策局長)後に全国農民指導者(Reichsbauernführer)に改称: リヒャルト・ヴァルター・ダレ (1933 - 1943)、 ヘルベルト・バッケ (1943 - )
国防政策局
第二次世界大戦の勃発後に東方占領地を獲得すると、植民政策局に改められた。
- 国防政策全国指導者(Leiter des Wehrpolitischen Amtes)・植民政策全国指導者( Leiter desKolonialpolitischen Amtes der NSDAP): リッター・フォン・エップ
国会議員団
ナチス党が選挙に出馬して以降、国会議員の数も増加した。しかしヒトラーが独裁権力を握ると、ほとんど名誉職に過ぎなくなった。
- 国会議員団長(Fraktionsführer ):ヴィルヘルム・フリック
書記局
- 書記全国指導者(Schriftführer der NSDAP)後に地方行政本部長(Leiter des Hauptamts für Kommunalpolitik): カール・フィーラー(de:Karl Fiehler)
組織局
ナチ党の初期には、組織局はナチ党の最も重要な組織であり、その長である組織全国指導者は名実共にナチ党のNo.2であった。しかし、グレゴール・シュトラッサーが党から追放されるとともに、組織局の重要性は薄れていった。
- 組織全国指導者(Reichsorganisationsleiter)(党組織局長): グレゴール・シュトラッサー (1929 - 1932)、 ロベルト・ライ (1932 -1945)
司法局
- 司法全国指導者(Der Leiter des Reichsrechtsamtes): ハンス・フランク
対外政策局
- 対外政策全国指導者: アルフレート・ローゼンベルク(Der Leiter des de:Außenpolitisches Amt der NSDAP)。
突撃隊
詳細は「突撃隊」を参照
当時のドイツの政党は、ドイツ社会民主党の「国旗団」、ドイツ国家人民党の友好団体鉄兜団、ドイツ共産党の赤色戦線戦士同盟といった、統一された制服を着、旗を掲げて街頭を行進する集団を抱えていた。エルンスト・レームの設立した党内組織の「体育スポーツ局」が改称されて生まれた突撃隊はそのような性格の組織であり、街頭行進や他党の活動妨害を行った。突撃隊はナチス党の知名度を上げるのに役立ったが、後に粗暴なならず者の集団であるという評判が立った。この事が後の長いナイフの夜事件による突撃隊幹部粛清の一因となった。しかしその後も国内最大の組織として存続した。
- 突撃隊指導者: フランツ・プフェファー・フォン・ザロモン - 突撃隊司令官[18]
- 突撃隊幕僚長(Der Stabschef der SA)[19]: エルンスト・レーム (1930 -1934)、 ヴィクトール・ルッツェ (1934 - 1943)、 ヴィルヘルム・シェップマン (1943 -1945)
地方組織
地方組織は規模ごとに大管区、管区、地区、細胞、街区、班と分けられており、それぞれに指導者がいた。大管区の範囲は州レベルであり、最小単位の班の構成は40~50世帯である。また、政権獲得後にドイツの占領区域が増加すると帝国大管区が設置されている。
大管区はナチ党の地方組織としての最大の単位で、そこには大管区指導者(1935年には33人)が置かれた。ベルリン=ブランデンブルク大管区指導者は宣伝全国指導者(宣伝大臣兼務)のゲッベルスであり、彼は全国指導者と大管区指導者を兼任していた唯一の人物であった。また、南ハノーファー・ブラウンシュヴァイク大管区指導者ベルンハルト・ルストは1934年以降、国の文部大臣でもあった。また、国外大管区(de:NSDAP/AO)は外国のナチ党員を統括する大管区という扱いであった。
下位の指導者の人数は1935年時点でそれぞれ管区指導者(Kreisleiter)は827人、地区指導者(Ortsgruppenleiter)は20,724人、細胞指導者(Zellenleiter)は976人、街区指導者(Blockleiter)は204,359人となっている。
親衛隊
詳細は「親衛隊 (ナチス)」を参照
1925年、ヒトラー警護のために突撃隊の下部組織として「親衛隊」が結成される。ハインリヒ・ヒムラーが親衛隊全国指導者となって以降で親衛隊は拡大を続け、党内最重要組織の一つとなった。
- 親衛隊上級指導者(Oberleiter-SS): ユリウス・シュレック(1925年-1926年)
- 親衛隊全国指導者(Reichsführer des SS): ヨーゼフ・ベルヒトルト(1926年-1927年)、 エアハルト・ハイデン(1927年-1929年)、 ハインリヒ・ヒムラー (1929 - 1945)、 カール・ハンケ (1945)(ヒトラーの遺言による指名)
1935年には国防軍にも警察にも所属しない軍事組織「親衛隊特務部隊」が設けられた。ここに志願すれば、国防軍と同様義務兵役年限に算入された。1940年には武装親衛隊と改名されて、陸軍・海軍・空軍と並ぶ第四の軍隊と認知された。
詳細は「武装親衛隊」を参照
青少年組織
政権獲得後、18歳以下の青少年は青少年全国指導者が支配する組織への入隊を義務付けられた。
- 統括組織
- ヒトラーユーゲント Hitlerjugend(HJ) - 14~18歳の青年の「よきナチ党員になる」ための教育組織。
- 青少年全国指導者(Reichsjugendführer): バルドゥール・フォン・シーラッハ(1930 - 1940)、 アルトゥール・アクスマン(1940 -1945 )
- ドイツ女子同盟
国家社会主義義勇労働奉仕団
1933年、ナチ党は失業対策に「国家社会主義義勇労働奉仕団」(Erziehung im Nationalsozialismus)を設置し、失業者を雇用した。1935年には他の類似組織と合流し、国家機関である国家労働奉仕団となった。
- 団長: コンスタンティン・ヒールル(Konstantin Hierl)
その他の組織
パートタイム的に招集される一般党員のほか、下記の組織に入ることも出来た。
- 国家社会主義女性同盟 NSF
- 国家社会主義航空軍団 NSFK
- 国家社会主義自動車軍団 NSKK - 当時運転技術は貴重であった。
- ナチス学生同盟 NSDStB
党員
ナチ党の一般的な党員は主として田舎や都市部の中流階級から構成されていた。7%は上流階級に属し、7%は農民であった。35%は産業労働者であり、51%は中流階級に所属した。最大の単一職業集団は小学校教師であった。党が結成された1920年には党員数は約2000人に過ぎなかったが、1933年の政権奪取時に党員数は250万人まで膨れあがっていた。1945年に党が解散した時、公式名簿に掲載された党員は合計850万人に上った。
党員の階級
党員の階級は30以上に分けられていた。1938年当時のものを党員服の階級章で示す。
ドイツ国防軍におけるナチ党員
国防軍は外部からの政治的な影響を恐れ、国防軍の兵士は非政治的であることを要求したため、国防軍に入隊しようとするナチ党員は離党を要求されることがあった[要出典]。政権獲得後はヴァルター・フォン・ライヒェナウなど入党する将官も現れ、高位の将兵には親衛隊名誉指導者などの名誉党員としての待遇を受けるものも現れた。
党のシンボル
詳細は「ハーケンクロイツ」、「ドイツの国旗」、および「ドイツの国章」を参照
党のシンボルであるハーケンクロイツ(鉤十字)は1920年に採用された。歯科医フリードリヒ・クローンが募集に応じてデザインしたもので、義勇軍「エアハルト旅団」(de)(「コンスル」の前身)が使用していた鉤十字を下地にデザインしたものに修正を加えたものである。党旗の赤と黒は「血と大地」を表すとされる。
赤・黒・白の組み合わせは旧ドイツ帝国旗に使用されたもので、現在の国旗に無い白はプロイセンの旗を表している。ヒトラーは、赤は社会的理念、白は国家主義的理念、ハーケンクロイツ(鉤十字)は古代ヒンズーの印を増幅したものであり、これはアーリア民族の勝利のために戦う使命を表しているとした。またナチ党は円や背景のないハーケンクロイツも使用した。また円で囲ったハーケンクロイツの上に、ローマ帝国や神聖ローマ帝国、オーストリア帝国、プロイセンなどでシンボルとされた鷲を配した紋章も使われた。
ナチ党は複数の党歌を採用したが、その中で最もよく知られているのが『旗を高く掲げよ』(ホルスト・ヴェッセル・リート)である。1930年に共産党員により命を落とした突撃隊員ホルスト・ヴェッセルが作詞したもので、当時流行していた歌謡曲(原曲はオペラの曲)がつけられ、党員の間で大流行した。やがては対立政党が揶揄するために替え歌を作るなど、ナチ党の象徴として扱われた。ヒトラーが政権の座に就くと第二の国歌的に扱われた。また、イギリスファシスト連合やファランヘ党等海外のファシスト政党の間でも歌詞を変えて歌われている。
関連施設
党の発祥の地であるミュンヘンには通称褐色館(de:Braunes Haus)と呼ばれる本部が置かれた。隣接してミュンヘンの総統官邸も置かれた。戦後、党本部は破壊されたが、総統官邸はミュンヘン音楽・演劇大学の校舎として残っている。
党大会が開かれる場所であったニュルンベルクのツェッペリン広場(en)には党大会用の施設が建設され、現在も競技場として使用されている。
また創設当時の党が大会を開き、ミュンヘン一揆の舞台となったビアホールビュルガーブロイケラーは党の聖地視され、毎年ミュンヘン一揆の記念日にはヒトラーが古参党員を前に演説した。ビュルガーブロイケラーは1979年まで存在していたが、現在は案内板が残るのみとなっている。
ベルヒテスガーデン近郊オーバーザルツベルクにはヒトラーの別荘ベルクホーフが存在し、後にはオーバーザルツベルク一帯が党の所有となった。ヒトラーはベルクホーフでの生活を好み、長い期間をそこで過ごした。オーバーザルツベルクには党幹部達の別荘も置かれたが、大半が終戦間際の空襲と親衛隊員による破壊で焼失した。しかしヒトラーのもう一つの別荘であったケールシュタインハウスは現存している。
プロパガンダ
党は機関紙としてフェルキッシャー・ベオバハターを発刊し、選挙戦術や国内統制に利用した。また、党幹部の一人であったユリウス・シュトライヒャーが発行した雑誌シュテュルマーは反ユダヤ主義を広める手段となった。
しかしナチス党のプロパガンディストとして最も知られているのがヨーゼフ・ゲッベルスである。ゲッベルス「ボリシェヴィキどもからは、とくにそのプロパガンダにおいて、多くを学ぶことができる。」と日記に記しており、政敵の共産党の手法を利用し、かつそれを凌駕する規模で行った。
戸別訪問[20]、党専属の楽団、膨大な量のビラ・ポスターの配布や、対立する政治家に対する猛烈なネガティブ・キャンペーン、ラジオを利用した政見放送、航空機を利用した遊説旅行、町の壁を埋め尽くすポスター等は他党のそれを上まわる強烈なインパクトを与えた。また娯楽の中にさりげなく党の宣伝を織り交ぜる手法で宣伝効果を浸透させる手法を用いている。
宣伝全国指導者であったゲッベルスは1927年に首都ベルリンで新聞『デア・アングリフ』紙を発刊した。新聞は他の新聞や他の政党を大きな活字で口汚く罵るもので、攻撃された新聞が反論の記事を書けば書くほど、ナチスの宣伝になってしまう効果もあったため、わざと讒言で他紙を「釣る」ことすらあった。また、時にはテロに訴えることもあった。1930年2月23日、党員ホルスト・ヴェッセルが共産党員ヘラーに暗殺されるが、ゲッベルスはヴェッセルを殉教者に祭り上げ、盛大な葬儀を行って共産党に対する憎悪を煽り立てた。
党による全国支配確立後にもプロパガンダは続けられ、政府の権力を用いた言論統制や、退廃芸術等に見られるような価値観統一政策にも乗りだしている。ヒトラー政権成立後の1933年3月、ヒトラーは国民啓蒙・宣伝省を組織し、ゲッベルスが国民啓蒙・宣伝大臣に任命された。宣伝省は敗戦にいたるまで強力なプロパガンダによって国民を統制した。
類似政党
「ファシズム#一覧」も参照
ドイツ本国だけでなく、国外にもナチズムに近い思想を持った政党が存在した。第二次世界大戦時、これらの政党はナチス・ドイツによる傀儡政権の支持政党としても活動したりした。オーストリア・ナチスとズデーテン・ドイツ人党は後にナチス党に合流している。
ヨーロッパ
- オーストリア・ナチス(en:Austrian National Socialism)
- ドイツ国家社会主義労働者党(オーストリア、チェコスロバキア)
- ズデーテン・ドイツ人党(チェコスロバキア)
- 矢十字党(ハンガリー)
- 国家社会主義ブロック(en:National Socialist Bloc)(スウェーデン)
- 国家社会主義労働者党(en:National Socialist Workers' Party (Sweden))(スウェーデン)
- 国家社会主義デンマーク労働者党(en:National Socialist Workers' Party of Denmark)
- 国民連合(en:http://en.wikipedia.org/wiki/Nasjonal_Samling)(ノルウェー)
- 国家社会主義同盟(en:National Socialist League)(イギリス)
- オランダ国家社会主義運動(en:National Socialist Movement in the Netherlands)
- 国家社会主義オランダ労働者党(en:National Socialist Dutch Workers Party)
- 国家社会主義運動(en:National Social Movement (Bulgaria))(ブルガリア)
- ギリシャ国家社会主義党(en:Greek National Socialist Party)
南北アメリカ
- ドイツ系アメリカ人協会
- 新生ドイツ友の会(アメリカ合衆国)
- 国家統一党(カナダ)
- チリ国家社会主義運動(en:National Socialist Movement of Chile)
アフリカ
戦後
非ナチ化
詳細は「非ナチ化」を参照
ドイツ国内では刑法第86条でナチズムのプロパガンダ及びそれに類する行為が、民衆扇動罪で特定民族に対し憎悪を煽る行為が禁じられており、ドイツ社会主義帝国党など後継政党と見なされた党は即座に禁止されている。また、オーストリア、ハンガリー、ポーランド、チェコ、フランス、ブラジル等でも同様にナチス関連のプロパガンダを禁じる法律が存在している。
日本では一時期「ドイツではナチス犯罪に時効はない」という報道が行われた事があったが、実際にはドイツ刑法はナチスとは関わりなく「謀殺罪(計画的殺人)」の時効が無いということである。その罪に該当しないナチス時代の犯罪は全て時効が成立している。また、ドイツのEU加盟後は同様の法律をEU圏内に広めることについての論議も行われている。
また、イスラエルはホロコーストに関するナチス党戦犯を国家として訴追しており、現在でもナチ・ハンターによる戦犯捜索が続けられている。
ネオナチ
詳細は「ネオナチ」を参照
ナチス党が崩壊した後も、世界各地にはナチズムを受け継ぐと称した団体が多く存在している。また、ホロコースト否定など、ナチス・ドイツにおける犯罪を否定する動きも根強く残っている。
アメリカにおいては1953年に海軍大佐ジョージ・リンカーン・ロックウェルが「アメリカ・ナチ党」を結成した。これは1960年代にその党勢が最高潮に達し、多くの法的機関が党の危険性を警告したが、言論の自由を重視する世論によって、党の解散を免れその存在の継続が認められた。しかし、ロックウェルが暗殺されると国家社会主義白人党と改称し、その会員の大部分と財源の多くを失った。また分派としてアメリカ国家社会党などが存在した。
脚注
- ^ 村瀬、ナチズム、78p
- ^ 広辞苑、大辞林、大辞泉
- ^ 世界大百科事典、林健太郎、村瀬興雄、内務省警保局『外事警察報126号』・『外事警察研究資料・国民社会主義独逸労働者党の綱領と其の世界観的根本思想』など。
- ^ マルクス経済学の研究者岩田弘は、「民族社会主義」の呼称がナチスの主張に即しているとの意見を発表している岩田弘『河村シナリオと宇野段階論によせる』
- ^ 広辞苑、大辞林、大辞泉など
- ^ 『東京朝日新聞』1933年1月31日号「惑星ヒトラー氏 遂に政權を掌握す」の文中「國粹社會黨首領アドルフ・ヒトラー氏」など
- ^ 米国産業協議会著、大原社会問題研究所訳『国民社会党下における独逸の労働及経済』
- ^ 一例としてTemplate:Safesubst:11月12日付で永井松三駐独大使が外務省に打電した電報には「ヒットラー及びナヂ」要人』と表記されているほか、11月18日の電報では「ナチ議員」という表記もある。(外務省記録独国内政関係雑纂第二巻、アジア歴史資料センター Ref.B02032288600)
- ^ 村瀬、ナチズム、43-46p
- ^ 村瀬、アドルフ・ヒトラー、180p
- ^ 村瀬、ナチズム、53p
- ^ a b c 村瀬興雄 『アドルフ・ヒトラー 「独裁者」出現の歴史的背景』(中公新書) ISBN 978-4121004789
- ^ ソビエト連邦共産党の幹部であり、コミンテルンのカール・ラデックもシュラゲターを「共産主義者はこの反革命の良き兵士を革命の兵士として尊敬しなければならぬ」と賞賛した。これはドイツを反西欧陣営に迎えようとするナショナル・ボリシェヴィズムの立場によるものである。林健太郎『ワイマル共和国―ヒトラーを出現させたもの』(中公新書)ISBN 978-4121000279
- ^ トーランド、1巻、407p
- ^ トーランド、1巻、435p
- ^ これまでのヴァイマル共和政における最大議席数はドイツ社会民主党が得た153議席。
- ^ 南、指導者-国家-憲法体制の構成、7-11p
- ^ 1930年以降はヒトラーが司令官を兼務
- ^ 突撃隊幕僚長は全国指導者扱い
- ^ ヴァイマル共和政期には戸別訪問は禁じられておらず、多くの政党が同じ行動を行った。
文献
- 四宮恭二(1932年から1934年までナチスの政権奪取を身近に観察した留学生)『ナチス』 政経書院、1934年
- 森川覚三 『ナチス独逸の解剖』 コロナ社、1940年
- Milton Mayer 『彼らは自由だと思っていた:元ナチ党員十人の思想と行動』田中浩・金井和子(訳)、未來社、1983年、ISBN 4-624-11068-4
- Alexander Drozdynski 『ヒトラー・ジョーク:ジョークでつづる第三帝国史』 関楠生(編訳)、河出書房新社、1980年
- Ian Kershaw 『ヒトラー 権力の本質』 石田勇治(訳)、白水社、1998年
- 加瀬俊一(ヒトラーと会談したことのある外交官) 『ワイマールの落日』 光人社、1998年
- 宮田光雄・柳父圀近編 『ナチ・ドイツの政治思想』 創文社、2002年、ISBN 4-423-71052-8
- 佐野誠 『近代啓蒙批判とナチズムの病理』 創文社、2003年、ISBN 4-423-71057-9
- 『健康帝国ナチス』草思社、2003年9月、ISBN 978-4-7942-1226-9
- ウィリアム・L・シャイラー 『第三帝国の興亡』全5巻 (松浦伶訳 東京創元社 2008-09年)
- 飯田道子 『ナチスと映画 ヒトラーとナチスはどう描かれてきたか』(中公新書 2009年)
- 村瀬興雄 『ナチズム―ドイツ保守主義の一系譜』(中公新書、1968年) ISBN 978-4121001542
- ジョン・トーランド 『アドルフ・ヒトラー』(集英社文庫) 全4巻
関連項目
- ナチス・ドイツ
- ナチズム
- 独裁政治
- アドルフ・ヒトラー・シューレ
- ナチス左派
- ネオナチ
- コンスル (テロ組織)
- 我が闘争
- ゲルマン民族
- 源泉徴収
- 退廃芸術
- 宥和政策
- 電撃戦
- インターポール
- フォルクスワーゲン
- ダイムラー・ベンツ
- アーリアン学説
- サイモン・ヴィーゼンタール
- 保守革命
- ナショナル・ボルシェヴィズム
- 非ナチ化
- ハーケンクロイツ
- 卍(まんじ(万字);ハーケンクロイツと密接な関係がある)
外部リンク
- 「わが闘争」(英語)
- Die Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei (NSDAP) 1920–1933 (ドイツ語)
- Die Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei (NSDAP) 1933–1945 (ドイツ語)
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