ニコラエ・チャウシェスク
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ニコラエ・チャウシェスク
Nicolae Ceauşescu | |
| ファイル:Crop-Nicolae Ceaucescu 1978.jpg ニコラエ・チャウシェスク(1978年) | |
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| 任期 1965年3月22日 – 1989年12月22日 | |
| 前任者 | ゲオルゲ・ゲオルギュ=デジ |
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| 任期 1967年12月9日 – 1989年12月22日 | |
| 前任者 | キヴ・ストイカ(en:Chivu Stoica) |
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| 任期 1974年3月28日 – 1989年12月22日 | |
| 後任者 | イオン・イリエスク |
| 出生 | 1918年1月26日Template:Safesubst:ファイル:Flag of Romania.svgルーマニア王国・オルト県スコルニチェシュティTemplate:Safesubst: |
| 死亡 | 1989年12月25日(71歳)Template:Safesubst:ファイル:Romania flag 1989 revolution.svgルーマニア・ドゥンボヴィツァ県トゥルゴヴィシュテTemplate:Safesubst: |
| 国籍 | ルーマニア |
| 政党 | ルーマニア共産党 |
| 配偶者 | エレナ・チャウシェスク(1946年~1989年) |
| 子女 | ヴァレンチン(en:Valentin Ceauşescu) ニク(en:Nicu Ceauşescu) ゾヤ(en:Zoia Ceauşescu) |
| 信仰 | 無神論 |
| 署名 | ファイル:Nicolae Ceauşescu signature.svg |
ニコラエ・チャウシェスク(ルーマニア語: Nicolae Ceauşescu、1918年1月26日 - 1989年12月25日)は、共産党時代のルーマニアの政治家。ルーマニア社会主義共和国初代大統領(1974年~1989年)、国家評議会議長(1967年~1989年)、ルーマニア共産党書記長(1965年~1989年)を歴任。共産党時代のルーマニアを象徴する独裁者として有名である。
目次 |
概要
1958年にソビエト連邦の軍隊をルーマニアから撤退させたゲオルゲ・ゲオルギュ=デジの後任として政権を確立した[1]。
北朝鮮の政治体制と主体思想(チュチェ思想)に影響され、政権後期にはソ連のスターリン政権を凌ぐ恐怖政治(秘密警察「セクリタテア」による国民生活の徹底的な監視・盗聴など)や、チャウシェスク自身への常軌を逸した個人崇拝、国家主義などによって、西側諸国ならびにソビエト連邦との関係を悪化させた。妻のエレナ・チャウシェスクとともに縁故主義による独裁政治を敷き、「王朝」と呼ばれるほど権勢を欲しいままにし、誇大妄想的な社会建設計画によってルーマニア国民の福祉と人権は無視された。
1970年代に発生したエネルギー危機ではソ連の石油に頼らざるをえなくなり、工業政策によって累積された対外債務は膨れ上がり、債務返済のために飢餓輸出政策を強行。債務は10年間で完済したが、国民の生活は飢えと寒さで東欧でも最低のレベルにまで転落した。1989年12月にティミショアラで勃発した反政府デモに対して武力弾圧を行い、多数の犠牲者を出した。
その後まもなく勃発したルーマニア革命によって政権は倒され、裁判を経て最期は妻・エレナとともに公開処刑(銃殺刑)された。死刑執行人の1人は、後に以下のように述べている。「あれは裁判ではなく、革命の最中の政治的暗殺であった」[2]。
生涯
生い立ち
1918年、ルーマニア王国・オルト県スコルニチェシュティ村にて、農民の息子として生まれる(チャウシェスクの家族についてはen:Ceauşescu familyを参照)。11歳のとき、工場で働くために首都のブカレストに移住する。1932年、当時は非合法組織であったルーマニア共産党に入党し、1933年に最初の逮捕を経験する。
投獄
1934年、鉄道職員試験に嘆願抗議する署名運動の扇動(2度目)を理由に再び逮捕された。警察によるチャウシェスクの逮捕記録には「危険な共産主義の扇動者」「共産主義の配布者」「反ファシストのプロパガンダ」という記述がある。チャウシェスクは地下に潜伏するが、「反ファシスト」活動の罪により1936年にドフタナ刑務所に投獄された[3]。獄中でエレナ・ペトレスクと出会い、1946年に結婚。チャウシェスクは彼女を終生の伴侶とし、以後、彼女はチャウシェスクの政治家生活を長きに亘って支えることになる。
1940年、チャウシェスクは再び逮捕され、投獄される。1943年にトゥルグ・ジウの強制収容所に移された。この時に出会ったゲオルゲ・ゲオルギュ=デジと収容所での生活を共にする。
権力の掌握
1945年5月8日、第二次世界大戦の敗戦によってルーマニア王国は崩壊し、ルーマニアはソビエト連邦に占領された。この頃、チャウシェスクは共産主義青年同盟(en:Union of Communist Youth)の秘書を務めていた(1944年~1945年)[3]。1947年、ルーマニア共産党が権力を握ると、チャウシェスクは農業省の大臣を、そしてゲオルグ・ゲオルギュ=デジの下で国防副大臣を務める。1952年、アナ・パウケル(en:Ana Pauker)によるモスクワ派共産主義者が追放されると、チャウシェスクは中央委員会の委員となった。1954年、正式に政治局の一員となり、党内の序列では2番目に高い地位にまで昇り詰めた[3]。
外交
1965年3月のゲオルゲ・ゲオルギュ=デジの死を受けて、チャウシェスクはルーマニア労働者党の第一書記に就任する。1967年には国家評議会議長および同国の元首となる。1974年に大統領制が導入されると初代大統領に就任した。チャウシェスクの最初の仕事は、政党名をルーマニア共産党へ変更することと、「ルーマニア人民共和国」から「ルーマニア社会主義共和国」への転換宣言であった。1967年、チャウシェスクは国務院の議長となり、自身の権力を強化した。政権を獲得してからしばらくの間、外交政策においてはソ連と距離を置く親西欧路線を取り、ルーマニア国内および西側諸国で人気を得た。1960年代、ルーマニアはワルシャワ条約機構へ積極的に干渉し、1968年のチェコ事件に対しては、チェコスロバキアへのルーマニア軍の派遣を拒否してソ連を公然と非難した。ソ連は、共産主義ブロック内で独自路線をゆくルーマニアのモスクワからの独立(チャウシェスクの反抗)を「うわべだけのもの」と大目に見ていた。
チャウシェスクは、アメリカ合衆国および西側諸国から包括予定保険契約の推進を持ちかけられた。ルーマニア社会主義共和国は、西ドイツが承認した最初の共産主義国であり、IMF(国際通貨基金)に加盟し、アメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンも真っ先に迎え入れた[4]。1971年、GATT(関税および貿易に関する一般協定)に加盟。ルーマニアとユーゴスラビアは、東ヨーロッパでは共産主義ブロック崩壊前の欧州経済共同体で貿易協定を結ぶ唯一の国でもあった[5]。
チャウシェスクは東側諸国の国家元首だったが、前述のように西側諸国へのアプローチを積極的に行った。アメリカ、フランス、イギリス、スペイン、日本など西側諸国への公式訪問は、改革を達成した共産主義の絶好のアピールとなった。また、チャウシェスクは自身を「見識ある国際的な政治家」とみなされたがっていた[6]。アメリカとの関係を開いたように、1969年には中ソ対立の最中の中華人民共和国を訪問した。1975年4月4日から4月9日にかけては日本を訪問し、昭和天皇(4月4日)や三木武夫首相(4月5日)と会談した[7][8]。1977年にはイスラエルを訪問したエジプトのアンワル・アッ=サーダート大統領と会談し、国際情勢に関して協議した。ルーマニアは、イスラエルとPLO(パレスチナ解放機構)の両方と正常な外交関係を維持した唯一の国だった[9]。
ルーマニアは、西側諸国によるモスクワオリンピックの大規模なボイコットの報復として、東側諸国が軒並みボイコットした1984年のロサンゼルスオリンピックにも参加した。こうした姿勢は西側諸国からは賞賛されたものの、ソ連や東ドイツなどの東側諸国から顰蹙を買った。
堕胎と離婚の禁止
1966年、チャウシェスク政権は国の人口を増やすため、妊娠中絶を法律で禁止した。妊娠中絶は42歳以上の女性、もしくはすでに4人(のちに5人に変更)以上子どもを持つ母親のみ例外的に許された。ルーマニアでは5人以上子どもを産んだ女性は公的に優遇され、10人以上の子持ちともなると「英雄の母」の称号を与えられた。しかし、殆どの女性は興味を示さず、せいぜい子ども2~3人程度がルーマニアの平均的な家庭であった(ルーマニアの人口統計(en:Demographics of Romania)を参照)[10]。さらに、秘密裏に妊娠中絶を行って不具となってしまったり、死亡する女性も少なくなかった[11]。チャウシェスクは上昇傾向にあった離婚率にも目を付け、離婚に大きな制約を設け、一部の例外を除いて離婚を禁止した。1960年代後半までにルーマニアの人口は増加に転じたが、今度は育児放棄によって孤児院に引き取られる子供が増えるという新たな問題が生じた。これらの子供は十分な栄養も与えられず病気がちとなり、さらに子供を死なせた場合にはその孤児院の職員の給与が減らされるため、無理な病気治療のひとつとして大人の血液を輸血され、エイズに感染する子どもが激増した。
共産主義体制の影響
1971年、中国、北朝鮮、北ベトナムを訪問したチャウシェスクは、それらの国々の強硬な共産主義体制の影響を受けた。彼は北朝鮮の朝鮮労働党、中国の文化大革命のような政治綱領の具現化と国家の大変革を志向するようになる。
ルーマニアに帰国後まもなく、金日成のチュチェ思想の影響により北朝鮮の政治体制を模倣し始めた。北朝鮮のチュチェ思想の書物はルーマニア語に翻訳され、国中に広く配布された。1971年7月6日、チャウシェスクはルーマニア共産党政治局の執行委員会で演説を行った。この演説は7月の論文(en:July Theses)と呼ばれている。
部下の亡命
1978年、ルーマニアの秘密警察セクリタテアの上級幹部であるイオン・ミハイ・パチェパ(en:Ion Mihai Pacepa)がアメリカに亡命した。陸軍少将でもあったパチェパの離反・亡命は、チャウシェスク政権にとって大きな痛手となり、チャウシェスクは秘密警察の組織・運営の見直しを余儀なくされる。パチェパは1986年に出版した著書『Red Horizon : Chronicles of a Communist Spy Chief 』(邦題:『赤い王朝 -チャウシェスク独裁政権の内幕-』 ISBN 978-4770407702)にて、チャウシェスク政権の内情(アメリカの産業に対する大々的な工作活動や、西側から支持を得るための取り組みなど)を暴露している。パチェパ亡命後のルーマニアはより孤立を深め、経済は停滞した。チャウシェスクの諜報機関は外国の諜報機関によって逆に侵入を受けるようになり、チャウシェスクによる支配は徐々に弱まっていった。かつてのパチェパの協力者を一掃するためセクリタテアの再編成を試みるも効果は無かった。
対外債務
1968年のチェコスロバキアのソ連からの政治的独立、ならびにソ連による同国への軍事侵攻(チェコ事件)に対するチャウシェスクによる抗議は西側主要国の関心を呼んだ。西側主要国はチャウシェスクについて「反ソ連の一匹狼」と考えており、チャウシェスクに資金援助を行うことでワルシャワ条約機構の内部分裂を狙った。チャウシェスクは経済開発のために西側から130億ドル以上の融資を受けたが、この融資が最終的にルーマニアの国家財政を破綻させた。チャウシェスクは、莫大な対外債務を返済するために憲法を改正し、将来的にルーマニアが外国から融資を受けることを禁止した。1980年代、チャウシェスクは対外債務返済のため、あらゆる農産物や工業品の大量輸出を行い、国内では食糧の配給制が実施された。一連の強引な飢餓輸出により、ルーマニア国民は日々の食糧や冬の暖房用の燃料にも事欠くようになり、停電は当たり前になるなど、国民生活は次第に困窮の度合いを深めていった。しかし、1980年代のルーマニア国民の生活水準は着実に下がっていったにも関わらず、国民には「対外債務返済のための一時的なものであり、最終的には利益になる」と説明された。1989年夏までに対外債務を完済したが、大規模な輸出政策は同年12月に革命が勃発するまで続いた。
緊迫
政権獲得当初こそ国民からの高い支持を得ていたチャウシェスクであったが、1980年代にはその人気は低下していった。1980年代終盤、市民がろくに商品が無い商店の前に長い列を作って苦しい思いをしている間、チャウシェスクは商品でいっぱいの店に入り、大量の食ベ物を抱えて芸術祭を訪問する姿が国営テレビで放送され、チャウシェスク政権下で達成された「高い生活水準」が称えられた。軍の食糧配給のための派遣部隊は、チャウシェスクが訪問する店へ先回りして品物を補充し、「高い生活水準」を演出した。またある時には、チャウシェスクが訪問する農場に国中から手配した栄養十分の畜牛を放ったりもした。1989年当時、ルーマニア国内のテレビでは「記録的豊作である」と宣伝されたが、当時の平均的なルーマニア国民が経験した窮乏との格差・矛盾はどうやっても説明がつくものではなかった。国民の中には、国内の窮乏をチャウシェスクが知らないのではないかと考え、チャウシェスクが各地を訪問する際に嘆願書や不満を訴えた手紙を手渡す者もいた。しかしチャウシェスクは、そういった手紙を受け取るとすぐにそれを秘密警察の人間に渡した。このように嘆願書を渡すことは非常にリスクが大きく、国民は次第にそれを思いとどまるようになった。チャウシェスクは、ルーマニア経済の実情については側近から良い報告しか受けておらず、本当の国内事情を把握していなかったとされている。
チャウシェスクは、ブカレスト市内に「国民の館」と呼ばれる巨大な宮殿を建設し、またチャウシェスクの家族・親族30人以上が党や国家の要職を独占した。こうした一般庶民の生活を無視した政治姿勢に国民は失望し、人気も支持も低下していった。
ソ連でミハイル・ゴルバチョフが政権を握り、ペレストロイカが推進されると、なおも独裁に固執するチャウシェスクは国際社会で一層孤立することになった。東西両陣営から欧州統合の障害とみなされ、史上初となるKCBの剥奪にまで至っている[12]。
革命と最期
1989年にポーランドで民主的な政権が成立した際、ルーマニアにもこのような動きが波及することを恐れたチャウシェスクは、チェコ事件の時とは反対にワルシャワ条約機構軍による軍事介入をソ連に要請した。しかしソ連のゴルバチョフはこの要求を一蹴し、チャウシェスクは事実上ソ連に見限られる形となった。チャウシェスクはなおも権力の維持を図ろうとするが、首都ブカレストを含めて全国規模で暴動が勃発。ソ連の介入がないことが確定的となったため、ルーマニア国軍もチャウシェスク政権に反旗を翻した。同年12月に起きたルーマニア革命でチャウシェスクは完全に失脚し政権は崩壊、12月25日、逃亡先のトゥルゴヴィシュテにおいて、革命軍の手によって妻エレナとともに公開処刑(銃殺刑)された。
ルーマニア革命
詳細は「ルーマニア革命 (1989年)」を参照
国民の困窮
実際に革命が起こる1年前、国外では既に反チャウシェスク機運は高まっていたとされる。しかし肝心のルーマニア国内では、政府がアメリカからの借款を断っていたためにますます国民生活は窮乏を強いられていたにも関わらず、まだその機運はなかった。
1989年当時、莫大な対外債務を返済するために食糧や灯油といった生活必需品までも輸出する飢餓輸出政策のため、ルーマニア国民の生活水準は極端に低下していた。チャウシェスクは、秘密警察セクリタテアの監視などによる言論統制を行って不満分子を抑圧していたが、徐々に西側諸国の情報が入ってくるにつれ、ついに民衆の不満が爆発したと伝えられている。また、国内のハンガリー系少数民族と西側諸国の協力、自由ヨーロッパ放送のプロパガンダ、ハンガリーとCIA、フランス情報機関の連携も革命の原動力となった。
反政府デモ弾圧
1989年11月の第14回ルーマニア共産党大会では、当時71歳のチャウシェスクがルーマニア共産党政治局の指導者として再選される見通しだった。
12月16日、ハンガリー系少数民族の牧師で、政府批判を展開していたテーケーシュ・ラースロー(en:László Tőkés)への国外退去処分に抗議するハンガリー系住民のデモがティミショアラで発生。12月17日、チャウシェスクはイラン訪問のためにルーマニアを出発、妻エレナと部下たちにデモ鎮圧を命じ、デモは同日中に国軍、警察、セクリタテアによって武力鎮圧された。
帰国したチャウシェスクは12月20日の夕方、中央委員会の建物内にあるテレビスタジオから演説し、ティミショアラでの出来事について、「ルーマニア国内の外国勢力による内政干渉」「ルーマニアの主権に対する外部からの侵略」と述べた。国営メディアはティミショアラでの出来事を報道しなかったが、国民はボイス・オブ・アメリカやラジオ・フリー・ヨーロッパといった西側のラジオ局、そして口伝でこの事件を知ることとなる。
革命・逃亡
12月21日に首都ブカレストの党広場で「チャウシェスクを称賛する集会」が開かれたが、ティミショアラ事件に抗議する参加者が爆弾騒ぎを起こしたことで集会はパニックとなり解散となる。このとき一部の参加者が反政府集会を行うが、これも武力鎮圧されて流血の惨事となり、国民の怒りはいよいよ頂点に達する。
「チャウシェスクを称賛する集会」とその後のテレビ放送は中断されたが、デモに対するチャウシェスクの対応は国民の記憶に刻まれることになる。12月22日の朝までに既に反政府デモはすべての主要都市に広がり、国民の自由を求める暴動が全国各地で起こった。チャウシェスクは国防大臣のワシーリ・ミリャに暴動の武力鎮圧を命じたが、ミリャはこれを拒否した。翌日、ミリャは射殺体で発見された。メディアがこのことを発表すると、チャウシェスクは政治執行委員会を取り仕切り、軍の指揮権を握る。公式には自殺とされたミリャの死だったが、誰もがチャウシェスクによる粛清と信じて疑わず、軍の首脳はチャウシェスクに反旗を翻すことを決め、革命を支援する側に立った。一方でなおチャウシェスクに忠誠を誓うセクリタテアは市民や国軍に対し戦闘行為を行い、ルーマニア国内は混乱状態に陥った。
チャウシェスクは中央委員会の建物の前に集まった群衆に対して必死の演説を試みるも、彼らによって建物のドアをこじ開けられたため、無防備なままヘリコプターに乗って逃亡した。革命の最中、西側の報道機関は、チャウシェスクを支持して反乱を鎮めようとしたセクリタテアによって殺害された人々の数の推計を発表した。その数は最終的に64,000人にまで膨れ上がった[13]。
これらの様子は国営テレビを通じて全国に放送された。12月22日、ルーマニア全土に戒厳令が敷かれる。チャウシェスクは妻エレナとともにヘリで飛行場へ逃走したのち、リビアへの亡命を計画した。22日13時、イオン・イリエスク率いる救国戦線は国営テレビ、ラジオ局を掌握。同17時、救国戦線が政権を掌握した。
処刑
チャウシェスク夫妻は、エーミール・ボブ、マネア・マネスク(en:Manea Mănescu)とともに、首都ブカレストの北40km先にあるイルフォヴ県のスナゴフ(en:Snagov)にある住居に向けて逃亡、そこからさらにトゥルゴヴィシュテへと向かった。トゥルゴヴィシュテの近くでヘリを捨てた彼らは、その頃にはルーマニアの空域の飛行を制限した軍に対して着陸を命じた。
12月23日、チャウシェスク夫妻はトゥルゴヴィシュテにおいて一般市民の車を強奪しようとしたところを救国戦線に逮捕された。12月25日、救国戦線はチャウシェスク夫妻を64,000人の大量虐殺と10億ドルの不正蓄財などの罪で起訴、形だけの軍事裁判で即刻銃殺刑の判決を下した(裁判は夫妻を連行した学校の教室に机を並べて行われた)。夫妻は両手を背中で縛られ、建物の外に連行された。数百人の人間が申し出る中、落下傘部隊の連隊兵士からなる銃殺隊(大佐のイオネル・ボエル、少佐のゲオルギーン・オクタヴィアン、ドラン・マリアン・サーラン[14]ら)が、壁を背にしたチャウシェスク夫妻に対して発砲した。発砲は撮影隊のために即座に実行[15]。銃殺後、遺体はキャンバスで覆われた。
チャウシェスク夫妻の処刑の様子はビデオで撮影され、フランスを含む西側諸国でただちに放送された。日本でも各テレビ局が一斉に放送した。中でもフジテレビは深夜時間帯に報道特別番組「チャウシェスク処刑」を組み、数時間にわたるビデオの映像に日本語の字幕をつけて全て放送した。
翌12月26日、ルーマニア国内でも処刑の様子が公開された[16][17][18]。裁判の様子から死刑判決を下され怯える夫妻、そして銃殺から処刑後の死体の様子まで克明に撮影・公開されたのは、非公開の場合、ヒトラー等のように後から生存説を唱えられる可能性があるためである。
チャウシェスクは、ルーマニアで死刑が廃止(1990年1月7日)される前に同国で死刑となった(en:Capital punishment in Romania)最後の人物である[19]。夫妻の墓は首都のブカレストにあり、彼らは細道の両側に葬られている。2007年4月、チャウシェスクの長男バレンチンにより起こされた、問題の調査を求める訴訟が棄却された。次男ニクは1996年に亡くなり、夫妻の墓の近くに葬られた。
埋葬後、遺体がすり替えられた可能性が指摘され、2005年には埋葬された遺体が本物であるかどうか鑑定するよう遺族が訴訟を起こした。2010年7月21日、DNA鑑定を行うために墓から遺体が掘り起こされ、法医学の専門家による鑑定が行われた[20][21]。11月3日にはチャウシェスク本人であることが確認され[22]、ニコラエとエレナの遺体の残骸であることが確定した[23]。
死後
チャウシェスクの死後、ルーマニア全土の病院は革命の犠牲者数について、「64,000人」という数字よりもはるかに低い「1,000人未満」という数字を報告した[24]。
1990年、自由選挙による国会が開かれると、野党側は与党救国戦線を激しく追及した。これはのちに救国戦線が右派(ペトレ・ロマン)と左派(イオン・イリエスク、後の社会民主党)に分裂する遠因にもなった。
末期のチャウシェスク政権は他の長期政権同様、チャウシェスク本人ではなく高級官僚化した党幹部らが実質的な権力を握っていたとされる。当時の党幹部らは革命の際に国外に脱出しており、真相は明らかにされていない。実際の革命の現場でも、集会の場にルーマニア人のジャーナリストがおらず外国の報道機関しかいなかったこと、国軍・大統領親衛隊の能力を超える武力が行使された形跡があることなど、未だ解明されていない点が多い。
1999年12月、革命10周年に当たってルーマニア国内で行なわれた世論調査によると、6割を超える国民が「チャウシェスク政権下の方が現在よりも生活が楽だった」と答え、同国政府を驚かせた。市場経済の停滞と失業者の増加により生活が悪化したことなどから国民の不満が高まり、各地の工場や炭坑ではストライキが頻発した。現在もチャウシェスクの負の遺産として残されている国民の館は観光地化され、世界中から多くの人々が訪れている。
家族
妻との間に2男1女がいる。
- ヴァレンティン・チャウシェスク(1948年2月17日 - ) - 長男。ただし実子ではなく、チャウシェスク夫妻が孤児院から引き取った養子。核物理学者となり、政治には関わっていなかったことから、革命の際にも身柄拘束はされなかった。その後、横領などの容疑で逮捕されたものの不起訴処分となり釈放。現在は核物理学者として復帰している。革命時に新政権によって没収された財産の返還を求める裁判を起こした。
- ゾヤ・チャウシェスク(1949年3月1日 - 2006年11月20日) - 長女。数学者。党の役職についていた。革命前は贅沢三昧の暮らしをしていたといわれ、「飼い犬に牛肉を与えていた」等と報じられる。革命の際に身柄を拘束される。間もなく横領などの容疑で改めて逮捕されたが、不起訴処分となり釈放。その後革命時に新政権によって没収された財産の返還を求める裁判を起こした。最終的にその訴えの一部が認められ、一定の財産がゾヤに返還された。2006年、肺がんのため死去。
- ニク・チャウシェスク(1951年9月1日 - 1996年9月25日) - 次男。政治に関与しており、革命時はセクリタテアの幹部で、党政治執行委員候補。父の後継者と目されていた。革命の際には愛人とともに車で逃走中に逮捕された。間もなくブカレスト市内の国営テレビ局に連行され、押しかけた人々に罵られながら、救国戦線の関係者らに詰問される。その一部始終がテレビで放映された。その後横領など複数の罪で起訴されたが、裁判中の1996年、肝硬変のため死去。
脚注
- ^ Johanna Granville, "Dej-a-Vu: Early Roots of Romania's Independence," East European Quarterly, vol. XLII, no. 4 (Winter 2008), pp. 365-404.
- ^ http://www.timesonline.co.uk/tol/news/world/europe/article6967099.ece
- ^ a b c Ceausescu.org
- ^ “RUMANIA: Enfant Terrible”. TIME Magazine. (Monday, Apr. 02, 1973) 2010-05-20閲覧。
- ^ European Union enlargement: background, developments, facts. Transaction Publishers, NJ, USA, 2008, p. 10.
- ^ David Phinnemore. The EU and Romania: accession and beyond. Federal Trust for Education and Research,London, UK, 2006, p. 13.
- ^ 中野文庫「1975年の天皇の勅語」
- ^ 東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室「ニコラエ・チャウシェスク・ルーマニア社会主義共和国大統領夫妻の訪日に際しての共同コミュニケ」
- ^ Romania versus the United States: diplomacy of the absurd, 1985-1989. Institute for the Study of Diplomacy, Georgetown University, 1994, p. 81.
- ^ Communist Romania's Demographic Policy, U.S. Library of Congress country study for details see Gail Kligman. 1998. The Politics of Duplicity. Controlling Reproduction in Ceausescu's Romania. Berkeley: University of California Press.
- ^ Ceausescu's Longest-Lasting Legacy - the Cohort of '67
- ^ ナイトの称号が剥奪された例は過去に2例あり、もう1例はジンバブエの独裁者ロバート・ムガベのナイト爵位である
- ^ ハンガリー軍は、短期間でそのような規模の殺戮は実行不可能であると指摘している。
- ^ Boyes, Roger (24 December 2009). “Ceausescu looked in my eyes and he knew that he was going to die”. The Times (London) 20 May 2010閲覧。
- ^ George Galloway and Bob Wylie, Downfall: The Ceausescus and the Romanian Revolution p. 198-199. Futura Publications, 1991
- ^ ダン・チョバヌ、智片 通博 『この目で見た政権の崩壊-ルーマニア「革命」の7日間』 日本放送出版協会、1990年6月発行(p167,171)
- ^ Daniel Simpson, "Ghosts of Christmas past still haunt Romanians"
- ^ The dictator and his henchman
- ^ http://www.cdep.ro/pls/legis/legis_pck.htp_act_text?idt=11033
- ^ http://news.yahoo.com/s/ap/20100721/ap_on_re_eu/eu_romania_ceausescu_exhumed
- ^ Nicolae Ceausescu's remains exhumed
- ^ チャウシェスク氏の遺体と確認=DNA鑑定結果判明
- ^ [1]
- ^ Aubin, Stephen P (1998). Distorting defense: network news and national security. Greenwood Publishing Group, p. 158. ISBN 9780275963033. 28/June/2008..閲覧。
外部リンク
関連項目
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