ノーベル賞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| ノーベル賞 the Nobel Prize | |
|---|---|
| 受賞対象 |
物理学 化学 生理学・医学 文学 平和 経済学 |
| 主催 |
スウェーデン・アカデミー スウェーデン王立科学アカデミー カロリンスカ研究所 ノルウェー・ノーベル委員会 |
| 国 | スウェーデン、ノルウェー |
| 初回 | 1901年 |
| 公式サイト | http://nobelprize.org/ |
ノーベル賞(ノーベルしょう)は、ダイナマイトの発明者として知られるアルフレッド・ノーベルの遺言に従って1901年から始まった世界的な賞のことである。物理学、化学など六種類の分野で顕著な功績を残した人物に贈られる。
目次 |
沿革
ノーベル賞は、スウェーデン語ではNobelpriset、ノルウェー語ではNobelprisen、英語ではNobel Prize(英語発音: /ˈnoubel ˈpraiz/ ノウベル・プライズ)と言う。1895年に創設され、1901年に初めて授与式が行われた。一方、ノーベル経済学賞と一般に言われているアルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞は、1968年に設立され、1969年に初めての授与が行われた。
ノーベルは遺言に、「私のすべての換金可能な財は、次の方法で処理されなくてはならない。私の遺言執行者が安全な有価証券に投資し継続される基金を設立し、その毎年の利子について、前年に人類のために最大たる貢献をした人々に分配されるものとする。」と残している。
彼自身がこの賞を設立したわけではなく、またノーベル賞という名称を考案したわけでもないが、後に「ノーベル賞」として知られるようになる。
部門
以下の6部門から構成される。
特に自然科学部門のノーベル物理学賞、化学賞、生理学・医学賞の3部門における受賞は科学分野における最大級の栄誉であると考えられている。近年は医学・生理学賞と化学賞、物理学賞との境界が曖昧な分野が増えてきている。
複数人による共同研究や、共同ではないが複数人による業績が受賞理由になる場合は、一度に3人まで同時受賞することができる。ただし性質上「複数人による業績」が考えづらい文学賞は例外で、定数は一度に1人と定められている。また、基本的に個人にのみ与えられる賞であるが、平和賞のみ団体の受賞が認められており、過去に国境なき医師団などが受賞している。
選考
選考は「物理学賞」、「化学賞」、「経済学賞」の3部門についてはスウェーデン王立科学アカデミーが、「生理学・医学賞」はカロリンスカ研究所が、「平和賞」はノルウェー・ノーベル委員会[1]が、「文学賞」はスウェーデン・アカデミーがそれぞれ行う。
ノーベル賞の選考は秘密裏に行われ、その過程は受賞の50年後に公表される。よって「ノーベル賞の候補」というものは公的には存在しないことになるが、「いつか受賞するだろう」と目される人物が各分野に存在するのも事実である。トムソン・ロイターは旧トムソン時代から毎年独自にノーベル賞候補を選定発表しているが、これは近年の論文の引用数などから算出したものである。ただしノーベル賞はアカデミズムにおいて業績の評価がある程度定着してから決定されることが多いので、必ずしもこの基準で賞が決まるわけではない。最終選考は発表日当日に行われることが慣例になっており、マスコミの事前予想が難しい所以である。
資格
1973年までは、受賞者の候補に挙げられた時点で本人が生存していれば、故人に対して授賞が行われることもあった。例としては、1931年の文学賞を受賞したエリク・アクセル・カールフェルト、1961年の平和賞を受賞したダグ・ハマーショルドが授賞決定発表時に故人であった。
1974年以降は、授賞決定発表の時点で本人が生存していることが授賞の条件とされている。しかし、2011年には、生理学・医学賞に選ばれたラルフ・スタインマンが授賞決定発表の3日前に死去していたことが後に判明し、問題となったことがある[2]。
ただし、授賞決定発表の後に本人が死去した場合には、その授賞が取り消されることはない。上記のスタインマンの場合はこの規定に準ずる扱いを受けることになり、特別に故人でありながらも正式な受賞者として認定されることが決まった。
授賞式
授賞式は、ノーベルの命日である12月10日に、「平和賞」を除く5部門はストックホルム(スウェーデン)のコンサートホール、「平和賞」はオスロ(ノルウェー)の市庁舎で行われ(古くはオスロ大学の講堂で行われた)、受賞者には、賞金の小切手、賞状、メダルがそれぞれ贈られる。
ノーベル賞受賞者は受賞後にノーベル・レクチャーと呼ばれる記念講演を行うのが通例になっている。
その後、ノーベル賞受賞者はストックホルム大学やストックホルム経済大学などの大学の学生有志団体が毎年持ち回りで行うパーティーに出席し、そこで大学生らと希望する受賞者はさらなる躍進を願っていっせいに「蛙跳び」をするのが慣例となっている。
授与
受賞者へは賞状とメダルと賞金が与えられる。受賞者に与えられる賞金の原資は、ノーベルの遺産をその遺言に基づいてノーベル財団が運営している。しかし、「経済学賞」は1968年に設立され(1969年から授賞)、その原資はスウェーデン国立銀行の基金による。そのため、この賞は正式名称を「アルフレッド・ノーベルを記念した経済学におけるスウェーデン国立銀行賞」としており、厳密にはノーベル賞には含めない場合も多い。
2001年から現在まで賞金額は1,000万スウェーデン・クローナ(約1億円)である。賞金の配分については、受賞者が2人(団体)の場合は全賞金を折半する。受賞者が3人(団体)の場合は、「1人ずつが単独の研究による受賞」「3人の共同研究による受賞」であれば1/3ずつ分けられ、「1人が単独、2人が共同研究による受賞」であれば単独受賞の人物が1/2、共同受賞の2人が残りの1/2(1人あたり1/4)を得る形になる。
メダル
受賞時に渡されるメダルは1902年から使用され、ノーベル財団によって商標登録されている。1901年の第1回受賞時にはメダルが間に合わなかったため、第2回目からの授与となっている。
メダルには表面にアルフレッド・ノーベルの肖像(横顔)と生没年が記されている。表面のデザインは物理学賞・化学賞・医学生理学賞・文学賞では同じであるが、平和賞と経済学賞では若干異なる。裏面のデザインは賞によって異なるが、物理学賞と化学賞では共通のデザインで、自然の女神のベールを科学の女神がそっと外して横顔を覗いているデザインとなっている。1980年以前のメダルは24Kの純金であったが、落としただけで曲がってしまったり、傷がつきやすいということもあって、現在では18Kを基材として、24Kでメッキした金メダルが使用されている。重量は約200g、直径約6.6cm。
メダルのレプリカは、受賞者本人が上限を3個として作成することが許可されている。
科学史としてのノーベル賞
ノーベル賞、特に自然科学部門の賞はその性質として必然的に19世紀末以降の科学史をなぞるようになっている。その歴史は基本的には輝かしいものであるが、後に誤っていたことが判明した業績への授与、あるいは人種差別の関与を指摘される事例が存在していることから負の側面も多く存在している。
前述のようにノーベル賞の自然科学分野における受賞者は欧米の研究者を中心としており、1920年代に日本人の山極勝三郎がノミネートされた際には、選考委員会で「東洋人にはノーベル賞は早すぎる」との発言があったことも明らかになっている[3]。欧米以外の国で研究活動を行った非欧米人では、1930年にインド人のチャンドラセカール・ラマンが物理学賞を受賞したのが最初である。日本人である湯川秀樹、朝永振一郎らがやはり物理学賞で受賞している。
日本人の受賞
詳細は「日本人のノーベル賞受賞者」を参照
経済学賞は未だ受賞者がいない。
日本人としては、第1回から北里柴三郎や野口英世などが候補としてエントリーされていたが、受賞はしなかった。北里にいたっては、共同研究者であったベーリングが受賞したにも関わらず、抗毒素という研究内容を主導していた北里が受賞できないという逆転現象が起こっていた。
山極勝三郎と市川厚一は、ウサギの耳にコールタールを塗布し続け、1915年に世界初の人工癌発生に成功したが、1926年のノーベル賞は癌・寄生虫起源説のヨハネス・フィビゲルに授与された。
世界初のビタミンB1単離に成功した鈴木梅太郎は、ドイツ語への翻訳で「世界初」が誤って記されなかったため注目されず、1929年のノーベル賞を逃した。
1970年に大澤映二・豊橋技術科学大学教授はフラーレン (fullerene C60) の存在を理論的に予言したものの、英語論文にせず邦文でのみ発表したため、1996年のノーベル賞を逃し、この顛末は当時のネイチャー(第384号、96年12月26日発売)にも掲載された。
1998年、スーパーカミオカンデでニュートリノ振動を確認し、ニュートリノの質量がゼロでないことを世界で初めて示した戸塚洋二も有力なノーベル賞候補と目されていたが、2008年に死去した。日本人の受賞確率が低くなっている要因として、一次選考でノーベル委員会が研究者や過去受賞者に呼びかける推薦状の返信率が、他国と比べて非常に低いことが指摘されている。ノーベル委員会委員が来日した際、この点に苦言を呈している。
日本人の受賞は戦後の湯川秀樹が初めてである。2009年現在、日本は非欧米諸国の中で最も多くの受賞者を輩出している。現時点での受賞者は、帝国大学とそれを前身とする大学の出身者が多数を占めている。白川英樹(東京工業大学)、下村脩(現長崎大学・旧制長崎医科大学)も居るが、全てが国立大学の卒業生となる。
なお、日本居住者がノーベル賞受賞に際して受け取った賞金は、日本では所得税法9条13号ホに基づき非課税となる(ただし、経済学賞の賞金については課税される)。これは湯川秀樹がノーベル賞を受賞した時、賞金に課税されることに世論の反発が起こり、1949年11月24日に、「贈与(個人からの贈与及び個人以外のものからの贈与のうち、学術、技芸、慈善その他文化的又は社会的貢献を表彰するものとして交付する報奨金品)を非課税とする」と所得税法が改正された結果である。
| 氏名 | 出身大学 | 受賞年 | 部門 | 理由等 |
|---|---|---|---|---|
| 湯川秀樹 | 京都大学 | 1949年 | 物理学賞 | 中間子の存在の予想。 |
| 朝永振一郎 | 京都大学 | 1965年 | 物理学賞 | 量子電気力学分野での基礎的研究。 |
| 川端康成 | 東京大学 | 1968年 | 文学賞 | 『雪国』『千羽鶴』『古都』等の作品。 |
| 江崎玲於奈 | 東京大学 | 1973年 | 物理学賞 | 半導体におけるトンネル効果の実験的発見。 |
| 佐藤栄作 | 東京大学 | 1974年 | 平和賞 | 非核三原則の提唱。 |
| 福井謙一 | 京都大学 | 1981年 | 化学賞 | 化学反応過程の理論的研究。 |
| 利根川進 | 京都大学 | 1987年 | 生理学・医学賞 | 多様な抗体を生成する遺伝的原理の解明。 |
| 大江健三郎 | 東京大学 | 1994年 | 文学賞 | 『万延元年のフットボール』『燃え上がる緑の木』三部作等の作品。 |
| 白川英樹 | 東京工業大学 | 2000年 | 化学賞 | 導電性高分子の発見と発展。 |
| 野依良治 | 京都大学 | 2001年 | 化学賞 | キラル触媒による不斉合成反応の研究。 |
| 小柴昌俊 | 東京大学 | 2002年 | 物理学賞 | 天体物理学、特に宇宙ニュートリノの検出に対するパイオニア的貢献。 |
| 田中耕一 | 東北大学 | 2002年 | 化学賞 | 生体高分子の同定および構造解析のための手法の開発。 |
| 小林誠 | 名古屋大学 | 2008年 | 物理学賞 | 対称性の破れによるクォーク世代の予言(小林・益川理論) |
| 益川敏英 | 名古屋大学 | 2008年 | 物理学賞 | 対称性の破れによるクォーク世代の予言(小林・益川理論) |
| 南部陽一郎 [4] | 東京大学 | 2008年 | 物理学賞 | 自発的対称性の破れ。量子色力学。 |
| 下村脩 | 長崎医科大学 | 2008年 | 化学賞 | 緑色蛍光タンパク質(GFP)の発見とその開発。 |
| 鈴木章 | 北海道大学 | 2010年 | 化学賞 | クロスカップリングの共同開発。 |
| 根岸英一 | 東京大学 | 2010年 | 化学賞 | クロスカップリングの共同開発。 |
大学別(学部卒時点)受賞者数。
- 自然科学系 - 15人
- なお、受賞時の博士号取得者は2010年時点で受賞者中14人である。内3人が米国の大学で博士号を取得している。また、3人が日本国外の研究機関在籍中の受賞である。
- 人文・社会科学系 - 3人
受賞条件と辞退
ノーベル賞は受賞者が自然人の場合、「本人が生存中」が受賞条件だが、かつてはノミネート時点で生存していれば受賞決定時に死亡していてもよいこととされており、そのケースに当てはまる受賞者には、1931年文学賞のエリク・アクセル・カールフェルトと、1961年平和賞のダグ・ハマーショルドがいる。1973年から、10月の各賞受賞者発表時点で生存している必要があるが、その後死亡しても取り消されないことになり、その規定により1996年経済学賞のウィリアム・ヴィックリーは授賞式前に亡くなっても受賞が取り消されなかった。2011年生理学・医学賞のラルフ・スタインマンは受賞者発表の直後に当人がほんの3日前に死亡していたことが判明したが、これには受賞決定後に本人が死去した場合と同様の扱いをし、変更なく賞が贈られることになった。
これまでにノーベル賞の受賞を辞退した人は、ジャン=ポール・サルトル、レ・ドゥク・ト、ゲルハルト・ドーマクの3人である。
エピソードと評価
ノーベルの遺言により、平和賞の選定はスウェーデンの機関ではなくノルウェー国会に委任されている。理由は諸説ありはっきりしないが、当時のスウェーデンとノルウェーは同君連合を組んでいたこと、またノルウェーは平和を探求する方針を国際的に表明していたこと、などが理由と考えられている。[5]
数学にノーベル賞が存在しないのは、ノーベルが知人の数学者を嫌っていたためなど諸説ある。また、文学以外の芸術に対する賞がないのは、ノーベルの関心が向けられなかったからといわれている。経済学賞が創設されたのは、ノーベルの経営者としての才覚を評価したゆえであった。
設立当初は受賞者が欧米人が主だったので批判があった。またスウェーデンから受賞者が多かったので批判があったが、現在のようなグローバルな賞ではなく、当初はローカルな賞としてスタートしたことから、やむを得ないとも言える。
毎年1賞あたりの受賞者が3人に制限されていること、ノーベル賞も時代の制約を免れないことなどから、今から考えれば明らかに不適切な賞の選考や、選考に対する激しい議論も後を絶たない。
クリスティアーン・エイクマンがビタミンB1の発見によって生理学・医学賞を受賞しているが、エイクマンは米ぬかの中に脚気の治癒に効果のある栄養素(ビタミン)の存在を示唆したにすぎず、実際にその栄養素をオリザニン(ビタミンB1)として分離・抽出し発見したのは鈴木梅太郎である。
ヨハネス・フィビゲルが寄生虫によるガン発生を唱えて生理学・医学賞を受賞しているが、同時期に刺激説を唱えていた山極勝三郎が受賞を逃している。後年、フィビゲルの説は限定的なものであるとして覆され、今日のガン研究はすべて山極の研究に拠っている。
アントニオ・エガス・モニスはロボトミー手術で受賞し、その手法はアメリカと日本では広く普及した。だが、効果が限定的であるにも関わらず、副作用や事故も多く、向精神薬が発達したこともあり、現在では臨床で使われることはない。モニス自身も実験的な手術を行っただけで、臨床に導入してはいない。
文学賞は西側の文化や主張を取り入れた作品が多く受賞したので批判があった(近年是正されたが「大陸持ち回り」との批判が出ている)。文学賞は歴史書や哲学書も受賞したことがあったが、イギリス元首相ウィンストン・チャーチルの「第二次世界大戦回顧録」の受賞が選考対象の定義をめぐって論争になり、これ以降純文学に限るとした。
平和賞は戦争を起こした当事者が受賞して批判になった。ヘンリー・アルフレッド・キッシンジャー元米国務長官と北ベトナムのレ・ドゥク・ト元共産党書記がベトナム戦争終結を約したパリ協定の功労による平和賞を受賞したが、レ・ドゥク・トは受賞拒否して戦争は結局アメリカの撤退と南ベトナムの併合で終わった。佐藤栄作の非核三原則についても核を持ち込ませずについて、核の持ち込みを容認していたのではないか(日米核持ち込み問題)との説がある。
平和賞は受賞した人の国から反発されることがよくある。その例として、ドイツのカール・フォン・オシエツキー、ソ連のアンドレイ・サハロフ、チベットのダライ・ラマ14世、ミャンマーのアウンサンスーチー、中国の劉暁波などが挙げられる。
1958年にノーベル文学賞を受賞したボリス・パステルナークは、当時のソビエト連邦政府の圧力により授賞辞退を余儀なくされた。ただし委員会側が彼に一方的に賞を贈っている。
1957年の物理学賞を、楊振寧(男性)・李政道(男性)が受賞し、呉健雄(女性)が受賞しなかったことについてノーベル賞選考委員会の性差別主義によるものとする批判があった。なお、ノーベル賞の自然科学系受賞者には、8人の中国・台湾系の人物がいる(中華民国国籍、中華人民共和国乃至中華民国から米国乃至英国へ帰化、及び米国出生の中国系米国人)。
日本の一部の保守派の論客からは、ノーベル賞を日本人が過大評価すべきでは無いとの意見も存在する。西部邁はフリーメイソン主義の横行だとし、その他評論家の富岡幸一郎、水島総は「戦後日本の左翼的・グローバリズム的なイデオロギーを含むものであり、無国籍な民主主義の象徴である」として、日本の堕落及び脱ナショナリズムを助長するものであるとしている[6]。また、本多勝一は、佐藤栄作、大江健三郎の受賞がノーベル賞の問題点を表していると主張している。
2010年に行われた劉暁波の授与式は、中国政府の外交圧力により中国、ロシア、カザフスタン、キューバ、モロッコ、イラク、コロンビア、チュニジア、サウジアラビア、パキスタン、セルビア、イラン、ベトナム、アフガニスタン、ベネズエラ、フィリピン、エジプト、スーダン、ウクライナが参加を拒否し、異例の開催となった。
候補者の予想
トムソン・ロイターは、同社が運営する代表的なサイテーションインデックス(学術文献引用データベース)のWeb of Scienceの情報に基づいて、ノーベル賞の有力候補者の予想を行っている。2011年の受賞者9人は、全て過去に候補に挙げている[7]。
備考
- ノーベル賞を二度受賞した人・団体
- マリ・キュリー(1903年に物理学賞、1911年に化学賞)
- ジョン・バーディーン(1956年と1972年に物理学賞)
- フレデリック・サンガー(1958年と1980年に化学賞)
- ライナス・ポーリング(1954年に化学賞、1962年に平和賞)
- 国際連合難民高等弁務官事務所(1954年と1981年)
- ノーベル平和賞を三度受賞した団体
- 赤十字国際委員会(1917年と1944年と1963年)
- 親子でノーベル賞を受賞した組
- 兄弟でのノーベル賞を受賞した組
- 叔父-甥の関係でノーベル賞受賞
- 夫婦で共同受賞した組
- ピエール・キュリーとマリ・キュリー(1903年物理学賞)
- フレデリック・ジョリオ=キュリーとイレーヌ・ジョリオ=キュリー(1935年化学賞)
- カール・コリとゲルティー・コリ(1947年生理学・医学賞)
- 親子で共同受賞した組
- ヘンリー・ブラッグとローレンス・ブラッグ(1915年物理学賞)
- 最年少ノーベル賞受賞者
- ローレンス・ブラッグ1915年25歳で物理学賞受賞
- 最年長ノーベル賞受賞者
- レオニード・ハーヴィッツ(2007年に90歳で経済学賞受賞)
- レイモンド・デービス(2002年に88歳で物理学賞受賞)
- ドリス・レッシング(2007年に88歳で文学賞受賞)
- ペイトン・ラウス(1966年に87歳で生理・医学賞受賞)
- カール・フォン・フリッシュ(1973年に87歳で生理・医学賞受賞)
- ジョセフ・ロートブラット(1995年に87歳で平和賞受賞)
- (受賞の決め手となる功績から)最短記録
- (受賞の決め手となる功績から)最長記録
脚注
- ^ ノーベル平和賞 (Norway - the official site in Japan)
- ^ “ノーベル賞受賞のスタインマン氏、死去していた”. 読売新聞. (2011-10-03) 2011-10-03閲覧。
- ^ 朝日新聞社編 『100人の20世紀(上)』 朝日文庫 p237-「山極勝三郎」。ただし、科学ジャーナリストの馬場錬成はその著書『ノーベル賞の100年』(中公新書)の中で、3回にわたるノーベル財団への取材経験から、ノーベル賞選考における日本人差別は「100パーセントないだろう。」と指摘している。また、2004年に(山極が候補となった)1926年の生理学・医学賞の選考書類を再調査した文献でもそのような指摘はない(山極の項目を参照)。
- ^ 出身は日本であるが、受賞時はアメリカ合衆国の国籍を取得しており、日本は二重国籍を認めていないため、正確には日系アメリカ人である。
- ^ ノーベル平和賞(Norway - The official site in Japan)
- ^ 日本よ、今...「闘論!倒論!討論!2009」5月30日 日本文化チャンネル桜
- ^ トムソン・ロイターのノーベル賞予測:今年のノーベル賞受賞者9名すべてを過去に予測、2011年10月]
関連項目
- ノーベル賞受賞者の一覧
- 国別のノーベル賞受賞者
- 日本人のノーベル賞受賞者
- 国道41号 - 日本人ノーベル賞者に縁のある場所が沿線に多いことから、「ノーベル街道」の異名あり。
- ハンガリー人のノーベル賞受賞者
- 日本人のノーベル賞受賞者
- ノーベル財団
- アーベル賞(数学)
- フィールズ賞 (数学)
- チューリング賞(計算機科学)
- ゲーデル賞(理論計算機科学)
- ダーウィン・メダル(生物学)
- プリツカー賞(建築)
- クラフォード賞(数学、地球科学、生物科学、天文学) - ノーベル賞が扱わない科学領域
- アルバート・ラスカー医学研究賞
- ベンジャミン・フランクリン・メダル (フランクリン協会)
- ストックホルム国際青年科学セミナー
- イグノーベル賞 - ノーベル賞のパロディ版
- ルードヴィ・ノーベル賞 - ロシア版ノーベル賞
- en:Nobel laureates by university affiliation
- 孔子平和賞 - 劉暁波への授与に猛反発する中国がノーベル賞に対抗して設立した独自の賞。
外部リンク
- Nobelprize.org(ノーベル賞の公式サイト)(英語)
- ノーベル賞 - A guide to the Nobel Prizes[リンク切れ]
| ||||||||||||||




