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ハリー・S・トルーマン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ハリー・S・トルーマン
ファイル:Harry S Truman, bw half-length photo portrait, facing front, 1945.jpg


任期
1945年4月12日 – 1953年1月20日
副大統領 空席 (1945-1949)
アルバン・バークリー (1949-1953)
前任者 フランクリン・ルーズベルト
後任者 ドワイト・D・アイゼンハワー

任期
1945年1月20日 – 1945年4月12日
大統領 フランクリン・ルーズベルト
前任者 ヘンリー・A・ウォレス
後任者 アルバン・W・バークリー

アメリカ合衆国上院議員
ミズーリ州選出
任期
1935年1月3日 – 1945年1月17日
前任者 ロスコー・C・パターソン
後任者 フランク・P・ブリッグス

出生 1884年5月8日Template:Safesubst:ミズーリ州ラマーTemplate:Safesubst:
死亡 1972年12月26日(88歳)Template:Safesubst:ミズーリ州カンザスシティTemplate:Safesubst:
政党 民主党
配偶者 ベス・ウォレス・トルーマン
子女 メアリー・マーガレット・トルーマン
職業 実業家(洋品店), 農家
信仰 南部バプテスト連盟[1]
署名 ファイル:Harry S Truman Signature.svg
兵役経験
部門 ミズーリ州兵
アメリカ陸軍
陸軍予備役 (1920-1953)
軍歴 1905-1911
1917-1919
最終階級 少佐第一次世界大戦
大佐(陸軍予備役)
指揮 第35歩兵師団第60旅団第129野砲部隊
戦闘 第一次世界大戦

ハリー・S・トルーマン: Harry S. Truman, 1884年5月8日 - 1972年12月26日)は、アメリカ合衆国の第34代副大統領および第33代大統領フランクリン・ルーズベルト大統領の死を受けて1945年副大統領から大統領に昇格。公民権革命を行った初めての大統領である。日本への原子爆弾投下については、彼が投下書類(投下命令書)を承認した[2]

第二次世界大戦の終了、冷戦の始まり、国連の創成および朝鮮戦争など、トルーマンの大統領職は非常に多事だった。トルーマンは「the buck stops here」(直訳すると「ここで止まる」、すなわち「責任はホワイトハウスの机で止まる」、意訳すると「責任は私が取る」となる)など多くの有名な句を創り出した打ち解けた大統領だった。

目次

生い立ち

ハリー・S・トルーマンは1884年5月8日にミズーリ州ラマーでジョン・アンダーソン・トルーマンとマーサ・エレン・ヤングの息子として生まれた。トルーマンが6歳の時、彼の親はミズーリ州インディペンデンスに引っ越した。そこで人格形成の時期の大部分を費やした。1901年に高校を卒業し、その後銀行の事務職に就いたが、1906年に父親を手伝うために就農した。彼は大学卒業以上の学歴を持たない最後の大統領だった。

第一次世界大戦へのアメリカの参戦に際して、トルーマンは州兵に参加し士官となり、フランスで連隊を指揮した。戦争終結後インデペンデンスに戻り長年の恋人ベス・ウォーレスと1919年に結婚した。間もなく一人娘のマーガレットをもうけた。

トルーマンは最初の選挙戦に於いてクー・クラックス・クランの支援を得るため同団体に加入した。しかしクー・クラックス・クランのローマ・カトリックに対するスタンスを知り、その考えを変更した。クー・クラックス・クランへの加入と、衣類販売業を共同で行った戦友でありユダヤ人のエディ・ヤコブセンとの友情を保つことは、トルーマンとユダヤ人との複雑な関係のスタートだった。近年発見された彼の日記には、「ユダヤ人は実に利己的」といった記述があり、彼がユダヤ人に対する嫌悪感を持っていたことを証明している。

政治経歴

1922年にトルーマンは、カンザスシティの民主党員トム・ペンダーガストの支援を受けジャクソン郡の裁判官に選任された。1924年の再選には失敗したが、1926年には再び選任された。郡裁判官としての主な業績の一つは、道路の改良であった。彼は計画案を作成し、資金提供のための債券発行を承認した。彼が離任するまでにジャクソン郡には200マイル以上の新しいコンクリートの道路が完成していた。

1934年にトム・ペンダーガストはトルーマンをミズーリの上院議員として選出するために支援した。選挙戦は激烈で、トルーマンは40,000票を得て予備選挙を勝ち抜いた。ミズーリで民主党の予備選挙を勝ち抜くことは本選挙で勝つことよりも困難なことであった。上院議員に当選したトルーマンは、ルーズベルト大統領のニューディール政策を支持して活動した。その後1940年には再選に挑んだが、すでにペンダーガスト機械は倒産し、その支援なしで選挙を戦わなければならなかった。

再選の後1941年には、軍事費の不正使用に関して調査報告を行い「トルーマン委員会」が設立された。その後の委員会の調査報告で150億ドル近い浪費が押さえられ、第二次世界大戦に突入したアメリカにおいて、トルーマンの知名度は全国的に上昇した。1944年の大統領選が近づくと共に、トルーマンは副大統領候補としてその名が浮上した。当初彼は副大統領としての指名を望まなかったが、ルーズベルトからの電話で指名を受諾することにした。ルーズベルトは先例のない4選を果たしそれに伴いトルーマンは副大統領に就任したが、ルーズベルトが1945年4月12日に急死しトルーマンは大統領に昇格した。副大統領としての任期は82日間であった。

大統領職

ファイル:Toru111.jpg
朝鮮戦争時、極東情勢について演説・マッカーサー解任の必要を述べるトルーマン、世界通信より

大統領就任後、トルーマンは外交政策に没頭した。1945年7月にはポツダム会談に参加した。26日にはアメリカ・イギリス中華民国の3国による「ポツダム宣言」が発表されたが、三カ国代表のサインはトルーマンによって書き上げられた物であった。それには太平洋戦争の勝利をソ連抜きで行おうという意図があった。

戦争に勝てないと判断した日本政府は、7月12日、ソ連にいる日本大使宛に、ソ連に和平の仲介を頼むよう打電した。その暗号電報は即座に解読され、トルーマンに知らされた。トルーマンは、日本政府が和平の動きに出たことを知っていたことになる。 ポツダム入りした米陸海空軍参謀本部は、首脳会談の前に合同会議を持ち、「ソ連が参戦する予定であることと、天皇制存続を認めれば、日本の降伏は今日にでもありうる。日本はすでに壊滅状態で、原爆を使う必要はなく、警告すれば十分。」との結論を出した。しかしトルーマンはそれを無視した。トルーマンは、7月17日にソ連のスターリンと事前打ち合わせをした際、かねてより頼んでいた通り、ソ連が8月15日に対日参戦することを確認し、スターリンに感謝を述べた。その日トルーマンが妻に書いた手紙にも、「これで戦争が早く終わる」と安堵の気持ちを述べていた。ところがトルーマンは、7月21日に原爆実験成功の詳しい報告を受け取り、その威力のすさまじさを知ると態度を一変した。東欧問題などで、ソ連に対し断固とした態度を示すようになった。

1945年4月の時点で原子爆弾の完成予定を知っていたトルーマンは、核の力でソ連を抑止できるという考えがあった。日本への原子爆弾投下命令はポツダム宣言発表の一日前の7月25日に行われ、日本の返事を待つどころか降伏勧告を出す前に投下命令を出した事になる。共和党の大物の面々が日本への原爆使用に反対していたこともあって、トルーマンは投下決定を共和党側には伏せたまま、先にスターリンに知らせた。共和党や共和党系と見なされていた将軍たちに原爆投下決定が伝えられたのは投下の2日前であり、これは「反対を怖れるあまり自国の議員よりも先にソ連に知らせた」と共和党側をさらに激怒させた。この原爆の日本への使用については、後に共和党大統領となるアイゼンハワーなどが猛反対しており、共和党支持者の米陸海軍の将軍たち(マッカーサーも含む)は全員が反対意見を具申している。アイゼンハワーに至ってはスティムソン陸軍長官に対し「米国が世界で最初にそんなにも恐ろしく破壊的な新兵器を使用する国になるのを、私は見たくない」(1963年の回想録)と何度も激しく抗議していた。日本がソ連への仲介を依頼していた事を無視し[3]、異議を認めず強引に原爆投下を命令したトルーマンはアメリカ国内でも対日和平派・共和党側に強硬な批判を受けた。

トルーマンが原爆投下を決定した背景として、その開発に当たって使用したアメリカ史上でも最高の、国家予算の20%(日本の国家予算の3倍)にも及ぶ、当時で19億ドルもの予算を議会に事後承諾させ、更に今後も核開発に予算を計上させるための成果が必要だった事、実戦での評価(実験)、戦後の覇権争いでソ連に対して優位に立つという目的があったとするほか、人種的偏見があったとする説もある。

陸軍の完全な機密保持下に行われた原爆開発は戦後見直しを計られ、トルーマンは1945年10月に議会に対し原子力に関する教書を送った。それは原子力開発に関する管理体制についての物であった。翌年の8月には原子力法案が成立し、原子力委員会(AEC, United States Atomic Energy Commission)が作られた。1953年1月7日にトルーマンは、水素爆弾の開発を発表した。こうしてトルーマン自身は生涯、原爆投下を正当化し、アメリカでは未だに「戦争を早期終結に導き兵士の命を救った大統領」という評価が定着している。 トルーマンは原爆投下について1958年のCBSのインタビューで「まったく心が痛まなかった」と語っている。 トルーマンは公式的な場でも原爆投下を正当化し続けていた。またトルーマンが日本へ計18発もの原爆投下を承認していた事実がワシントン.ポスト紙にスクープされている。ただしトルーマンは長崎の原爆投下後に「オッペンハイマーはここにいる間中、いつも”自分の手は血まみれだ”と私に言い続けてきた。」「これ以上日本の子ども達を殺すなど、恐ろしいことだ!・・・頭痛がする。肉体的にか、それとも精神的にか?・・・両方だ」と述べ、2発目の長崎投下後「さらに10万人も抹殺するのは、あまりにも恐ろしい」として、3発目以降の使用停止命令を出していた事から、彼の原爆正当発言は必ずしも真相とは限らない。

第二次世界大戦終結後の共通の敵の不在が、米ソの利害の対立につながると悟ったトルーマンは、ソ連に対して強硬路線をとることを明確にした。また、ウッドロウ・ウィルソンの意を継ぎ国際連合の設立を強く支援し、前ファーストレディ、エレノア・ルーズベルトを含む代表団を最初の国連総会に派遣した。彼の外交知識を疑う者もいたが、マーシャル・プランに対する広い支援の獲得と、トルーマン・ドクトリンによってヨーロッパにおけるソ連の軍事力を牽制し、外交面での成果を上げた。また、アメリカ軍の統合に関する大統領令を出した。

1948年の大統領選でトルーマンは自身の政策を「フェアディール政策」と呼び、民主党員としてルーズベルトのニューディール政策を受け継ぐ立場であることを強調した。その政策は社会保障、公民権、タフト・ハートレー法の撤廃などを内容とするものであった。トルーマンの敗北が広く予想されたが、彼は猛烈にキャンペーンを行い共和党候補トマス・E・デューイを破り、真の大統領としての任期を得、大統領選挙史上で最も大きな混乱のうちの一つを切り抜けた。シカゴ・トリビューン紙は混乱した大統領選の結果を「デューイ、トルーマンを破る」との見出しで誤報した。その見出しをトルーマン本人が掲げて笑うスナップは有名である。

トルーマンはルーズベルトが大きな支持を与え親密な関係を保っていた中華民国蒋介石との折り合いが悪く、後に蒋介石率いる中国国民党への支援を事実上断ち切った。その結果、ソ連の支持を受けていた毛沢東率いる中国共産党国共内戦に勝利し、1949年に中華人民共和国が設立され、蒋介石は台湾に遷都することとなった。

二期目の就任直後にトルーマンはフェアディールの諸政策を議会に提示したが、議会多数を占める共和党や民主党保守派には受け入れられなかった。その後の朝鮮戦争の勃発で、再び外交政策へ注力せざるを得なかった。戦況は停滞し、1950年11月国連軍総司令官のダグラス・マッカーサーは中華人民共和国本土への核攻撃を主張したが、トルーマンは戦争の拡大を恐れマッカーサーを解任した。それはトルーマンの支持率に大きく影響した。朝鮮戦争の行き詰まり、中華人民共和国の存在、ベトナムのフランスからの独立運動などによる人気の低下で、再選の可能性がわずかになったことを悟ったトルーマンは次の大統領選不出馬を決定した。民主党の大統領候補はアドレー・スティーブンソンに決定した。

他の大統領と異なり、トルーマンはその任期中のほとんどをホワイトハウスで過ごさなかった。ホワイトハウスはその構造分析で19世紀前半の英軍による火災が原因で崩落の危険が示され、改築を行うことになり、コンクリートと鋼材を使用して基礎部分から再建された。再建で造られた新しいバルコニーは現在トルーマン・バルコニーとして知られている。ホワイトハウスの改築中、近くのブレア・ハウスがトルーマンにとってのホワイトハウスとなった。

トルーマンがブレア・ハウスに滞在中の1950年11月1日午後2時過ぎに、プエルトリコの国家主義者グリセリオ・トレソーラとオスカー・コラッツオが大統領の暗殺を試みた。 しかし、警察官とシークレット・サービスによって阻まれ未遂に終わった。トレソーラは警官三名を銃撃したが射殺された。銃撃を受けた警官の一名は病院で死亡した。コラッツオは負傷したが身柄を確保され、裁判後に服役した。

内閣

ファイル:Truman initiating Korean involvement.jpg
朝鮮戦争への介入を宣言する宣誓書へのサイン
職名氏名任期
アメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマン1945 - 1953
副大統領無し1945 - 1949
 アルバン・W・バークリー1949 - 1953
国務長官エドワード・ステティニアス1945
 ジェームズ・F・バーンズ1945 - 1947
 ジョージ・C・マーシャル1947 - 1949
 ディーン・アチソン1949 - 1953
財務長官ヘンリー・モーゲンソウ・ジュニア1945
 フレデリック・ヴィンソン1945 - 1946
 ジョン・スナイダー1946 - 1953
陸軍長官ヘンリー・スティムソン1945
 ロバート・ポーター・パターソン1945-1947
 ケネス・クレイボーン・ロイヤル1947
国防長官ジェームズ・V・フォレスタル1947-1949
 ルイス・A・ジョンソン1949 - 1950
 ジョージ・C・マーシャル1950 - 1951
 ロバート・A・ラヴット1951 - 1953
司法長官フランシス・ビドル1945
 トム・C・クラーク1945 - 1949
 J・ハワード・マクグラース1949 - 1952
 ジェームズ・P・マクグラネリー1952 - 1953
郵政公社総裁フランク・C・ウォーカー1945
 ロバート・E・ヘネガン1945 - 1947
 ジェシー・M・ドナルドソン1947 - 1953
海軍長官ジェームズ・V・フォレスタル1945 - 1947
内務長官ハロルド・L・アイクス1945 - 1946
 ジュリウス・A・クルーグ1946 - 1949
 オスカー・L・チャップマン1949 - 1953
農務長官クロード・レイモンド・ウィッカード1945
 クリントン・プレスバ・アンダーソン1945 - 1948
 チャールズ・フランクリン・ブラナン1948 - 1953
商務長官ヘンリー・A・ウォレス1945 - 1946
 W・アヴェレル・ハリマン1946 - 1948
 チャールズ・W・ソウヤー1948 - 1953
労働長官フランシス・パーキンス1945
 ルイス・B・シュウェレンバック1945 - 1948
 モーリス・J・トービン1948 - 1953


大統領職後

ファイル:Lyndon Johnson signing Medicare bill, with Harry Truman, July 30, 1965.jpg
ジョンソン大統領と共にメディケア・ビルの署名を行うトルーマン夫妻、1965年7月30日

トルーマンはワシントンD.C.からミズーリ州インデペンデンスの自宅に戻った後、数多くの講演を行い、回想録を執筆した。だが1964年、自宅バスルームでの転倒事故で半身不随になり、大統領図書館で毎日の仕事を継続することが困難となった。1972年12月26日午前7時50分(日本時間午後10時50分)ミズーリ州カンザスシティにて死去(88歳没)した。遺体は28日に大統領図書館の庭に埋葬された。当時アメリカはベトナム戦争ウォーターゲート事件で揺れ動いていたが、トルーマンは偉大な元大統領としての評判を受けた。ポップ・グループの「シカゴ」は死を悼み、トルーマンに関する歌を書いた。

ニミッツ級航空母艦の8番艦ハリー・S・トルーマン(USS Harry S. Truman, CVN-75) は彼にちなんで命名された。

いとしのベス

ファイル:TrumanWedding.PNG
結婚式にて(1919年6月28日撮影)

トルーマンは6歳の時、教会で一人の少女に出会った。後に夫人となるエリザベス(ベス)・バージニア・ウォーレスである。彼は会ったとたんに一目惚れをしてしまい「将来結婚する」と心に誓った。しかし「生い立ち」にある如く、家は大変貧しく結婚にこぎつけたのは1919年のことだった。結婚の9年前である1910年から1959年までの49年間、2人は結婚をはさんで「いとしのベス」「いとしのハリー」で始まる手紙をやりとりしていた。その手紙を収録した書簡集『Dear Bess』は、576ページの厚さに及ぶ。

  • Robert H. Ferrell(ed.), Dear Bess: the Letters from Harry to Bess Truman, 1910-1959. (Norton, 1983).

ミドルネームについて

トルーマンはミドルネームではなくイニシャルだけを持っていた。フル・スペルのミドルネームの代わりにイニシャルだけを付けることはミズーリを含む南部の州でしばしば行われていたという。トルーマンは、イニシャルが彼の祖父アンダーソン・シップ・トルーマンとソロモン・ヤングの名前の折衷であると語った。彼は「S」はイニシャルではなく「エス」というミドルネームだとジョークを言い、それにはピリオドを付けないのだとしたが、すべての公文書、彼の大統領図書館もピリオドの付いた名前を使用している。ハリー・S・トルーマン図書館は、トルーマンの生涯を通じての様々な場面で、彼が「S」の後にピリオドを付けた署名を行った多数の明白な例が存在すると公に述べている。

著作

  • 『トルーマン回顧録』1・2(堀江芳孝訳、恒文社、1966年/新装版、1992年)

脚注・参考資料

  1. ^ About Us”. First Baptist Church of Grandview. 2010-03-16閲覧。
  2. ^ NHK総合 「模擬原爆パンプキン~秘められた原爆投下訓練~」2008年8月27日放映
  3. ^ 日本は7月7日になって近衛文麿を特使としてソ連に派遣する方針がやっと決まり、モスクワでは佐藤駐ソ大使がやっとモロトフ外務委員(外相)との会談にこぎつけていた。「満洲を差し上げるから日本とアメリカとの終戦の仲介をして欲しい」と述べたが、モロトフは「検討した上で…」と相変わらず日本を馬鹿にした返事であった。

文献情報

  • 「冷戦レトリックの形成過程-トルーマン大統領のレトリック戦略を中心に-」西川秀和(早稲田大学モノグラフ14)[1][2]

関連項目

外部リンク

官職
先代:
フランクリン・ルーズベルト
アメリカ合衆国大統領
1945年4月12日 - 1953年1月20日
次代:
ドワイト・D・アイゼンハワー
先代:
ヘンリー・A・ウォレス
アメリカ合衆国副大統領
1945年1月20日 - 1945年4月12日
空位
次代の在位者
アルバン・W・バークリー
議会
先代:
ロスコー・C・パターソン
ミズーリ州選出上院議員(第1部)
1935年1月3日 - 1945年1月3日
同職:ベネット・チャンプ・クラーク, フォレスト・C・ドネル
次代:
フランク・P・ブリッグス
党職
先代:
フランクリン・ルーズベルト
民主党大統領候補
1948年
次代:
アドレー・スティーブンソン
先代:
ヘンリー・A・ウォレス
民主党副大統領候補
1944年
次代:
アルバン・W・バークリー
名誉職
先代:
ハーバート・フーヴァー
最長寿のアメリカ合衆国大統領
1964年10月20日 - 1972年12月26日
次代:
リンドン・ジョンソン