ヒ87船団
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| ヒ87船団 | |
|---|---|
| 戦争:太平洋戦争 | |
| 年月日:1944年12月31日 - 1945年1月26日 | |
| 場所:門司=シンガポール間の洋上。 | |
| 結果:アメリカの勝利。 | |
| 交戦勢力 | |
| ファイル:Merchant flag of Japan (1870).svg 大日本帝国 | ファイル:US flag 48 stars.svg アメリカ合衆国 |
| 指揮官 | |
| 駒沢克己 | ジョン・S・マケイン・シニア チャールズ・E・ローリン[1] |
| 戦力 | |
| 輸送船 10 空母 1, 駆逐艦 4 海防艦 11 | 空母 11, 潜水艦 5 航空機 800以上 |
| 損害 | |
| 全損: 輸送船 5, 駆逐艦 1 損傷: 輸送船 3, 海防艦 5 | 航空機 25 |
ヒ87船団(ヒ87せんだん)とは、太平洋戦争後期の1944年12月-1945年1月に門司からシンガポールへ航海した、日本の護送船団である。貴重な大型タンカーを中心に編成され、石油の積み取りを任務とした。フィリピン反攻作戦のため行動中のアメリカ海軍機動部隊により空襲され、壊滅的損害を被った。
目次 |
背景
「ヒ船団」も参照
太平洋戦争後半の日本は、占領下にあるオランダ領東インドから石油を日本本土に運ぶため、シンガポール(当時の日本側呼称は昭南)と門司の間で、ヒ船団と称する高速タンカー船団を運航していた。ヒ87船団もそのひとつで、船団名は通算87番目(往路44番目)のヒ船団を意味する[注釈 1]。
日本海軍は、1944年(昭和19年)4月頃から潜水艦対策のため護送船団を大規模化する大船団主義を採用していた。ヒ87船団も大船団主義に基づいた編制で、貴重な1万トン級大型タンカー6隻を主体に編成され、給油艦「神威」と中型タンカー・貨物船各1隻も加入した。護衛部隊は、第7護衛船団司令部(司令官:駒沢克己少将)の指揮する第一護衛艦隊所属の海防艦4隻を主力とした。また、フィリピンへ特攻兵器の桜花を輸送する連合艦隊所属の軽空母「龍鳳」と護衛の駆逐艦3隻も同行することになり、異例の強力な布陣となった。なお、「龍鳳」は輸送物資の桜花58機を搭載していたが、それ以外に護衛作戦用の航空機を搭載していたかは不明である[2]。
一方、アメリカ軍は、1945年(昭和20年)1月9日のルソン島への上陸作戦に向けて事前攻撃を本格化させていた。高速空母機動部隊である第38任務部隊(司令官:ジョン・S・マケイン・シニア中将[1])は、1944年12月末にウルシー泊地を出撃し、台湾周辺の日本側反撃戦力の破壊を狙っていた。このときの第38任務部隊は正規空母8隻と軽空母3隻を主力とし、搭載航空機800機以上の圧倒的な戦力を有していた。そのほか、東シナ海から南シナ海まで、多数のアメリカ潜水艦が作戦行動中であった。
航海の経過
門司から高雄まで
1944年12月30日、ヒ87船団は、門司から寄港予定地の基隆に向けて出航した。駒沢少将座乗の旗艦「神威」を基準船として陣形を組み、原速12ノットで航行した。対潜防御のため、潜水艦の行動が困難な沿岸海域に針路を執り、朝鮮半島西岸から黄海を経て大陸沿岸を南下した[3]。機関や舵の故障が相次ぎ、一時脱落する輸送船が出た。
1945年1月3日には第38任務部隊が台湾への空襲を開始したため、ヒ87船団は舟山群島北方泊地へと一時避難した。特に空母「龍鳳」は、駆逐艦3隻の護衛で分離し、嵊泗列島の泗礁山泊地へと移った[4]。
1月5日に船団は航行再開したが、7日に大陸沿岸を離れて台湾北西端へ渡ろうとしているところを、アメリカ潜水艦「クイーンフィッシュ」以下3隻から成るウルフパック第17.21任務群(指揮官:チャールズ・E・ローリン中佐)により発見されてしまった。そのうちの「ピクーダ」が攻撃を仕掛け、11時27分にタンカー「宗像丸」(昭和タンカー:10045総トン)が魚雷を受け損傷した[1]。「宗像丸」は海防艦「倉橋」護衛で同日夜に基隆へ到着した。「龍鳳」も分離され、駆逐艦3隻の護衛の下で基隆へと送り届けられた[5]。船団主力は、濃霧で旗りゅう信号を読み違えて一時分裂、駆逐艦「浜風」とタンカー「海邦丸」(飯野海運:10238総トン)の衝突事故、「海邦丸」の故障脱落とトラブルが続いたものの、8日夜に高雄へ入泊した。
翌1月9日、第38任務部隊が高雄を含む台湾一帯を空襲し、碇泊中のヒ87船団は攻撃を受けた。タンカー「黒潮丸」(中外海運:10384総トン)が大きく損傷したほか、「神威」や第13号海防艦なども損害を受けた[6]。本船団から故障落伍していた「海邦丸」も、護衛に残った海防艦2隻とともに追及中のところをアメリカ軍機に捕捉され、直撃弾6発を受けて炎上沈没した。「海邦丸」には陸軍将兵ら約1000人が便乗中で、うち約200名が戦死した。護衛の海防艦「屋代」も損傷し、艦長が戦死した。なお、この日の台湾への空襲では、本船団以外に5隻の艦船が沈没している[1]。
高雄滞在中に船団の編制替えが行われた。台湾止まりの貨物船「辰和丸」(辰馬汽船:6333総トン)と損傷した「黒潮丸」は除外され、代わりにヒ82船団から途中離脱したタンカー「橋立丸」(日本海洋漁業:10023総トン)が加入した。空母「龍鳳」はフィリピン行きを断念し、基隆で桜花を降ろすと、高雄発・門司行きのタモ35船団に編入されて帰路に就いた[注釈 2]。護衛部隊も大幅な入れ替えがされ、駒沢少将の旗艦が給油艦「神威」から海防艦「干珠」へと変更されている[9]。
高雄から香港まで
1月10日、タンカー6隻(「神威」含む)と護衛の海防艦9隻・駆逐艦1隻の態勢になったヒ87船団は、高雄を出発した。出発からまもなくタンカー「光島丸」(三菱汽船:10045総トン)が機関故障を起こし、高雄へと引き返した。12日午前にはタンカー「天栄丸」(日東汽船:10241総トン)も舵が故障したため、海防艦3隻の護衛で香港に向かった[10]。
1月12日、南シナ海に侵入したアメリカ海軍第38任務部隊は、主たる目標であった日本海軍第二遊撃部隊(第5艦隊基幹)を発見できなかったため、代わりにフランス領インドシナ方面で通商破壊を開始した。第38任務部隊の空襲によりヒ86船団などが壊滅したのを受けて、海上護衛総司令部は同日正午過ぎ、ヒ87船団に香港への退避を命じた。香港に引き返したヒ87船団は、被害の極限を図るため、ヒ87A船団とヒ87B船団の2個梯団に分かれて行動することになった[11]。
しかし、ヒ87船団が再出発する前に、北上してきた第38任務部隊が香港への空襲を開始した。15日の空襲では、タンカー2隻が至近弾で損傷した。16日にも空襲が続き、タンカー「天栄丸」が沈没、同「松島丸」(日本海洋漁業:10240総トン)が大破炎上の後に擱座、給油艦「神威」も直撃弾4発で大破航行不能に陥った[12][注釈 3]。護衛部隊も海防艦「能美」など3隻が小破した。一方、日本側の記録によると、15日の戦闘では3機、16日の戦闘では22機のアメリカ軍機を船団の対空砲火で撃墜している[14]。
香港からシンガポールまで
香港で大損害を受けたヒ87船団は、沈没・大破した輸送船3隻を除外して航海を続けることになった。タンカー「さらわく丸」と護衛艦4隻がヒ87A船団、タンカー「橋立丸」と護衛艦2隻がヒ87B船団へと分割された[15]。また、海防艦4隻は、シンガポール発のヒ船団の護衛に急ぐため、先遣部隊として分離されている[11]。
ヒ87A船団は、17日夜出港、瓊州海峡(海南海峡)を抜ける接岸航路で南下した。19日に海南島の楡林港で第7護衛船団司令部が下船し[16]、以後は「干珠」艦長の指揮で航海を続けた。楡林では「さらわく丸」に兵員440人が便乗している。船団は、22日に敵飛行艇などに発見された。24日未明、「時雨」が22号電探で敵潜水艦を探知して対潜戦闘に移ったが[17]、アメリカ潜水艦「ブラックフィン」の雷撃で撃沈された。「さらわく丸」も、アメリカ潜水艦「ベスゴ」に雷撃されて損傷したが[1]、なんとか26日にシンガポールにたどり着くことができた。
ヒ87B船団は、「橋立丸」のガス爆発による損傷が香港で修理可能な範囲を超えていたため、運航取りやめとなった。「橋立丸」は修理のため日本へ回航された[18]。
なお、ヒ87船団から途中で脱落したタンカーのうち、「光島丸」は、高雄での修理を経てヒ91船団に合流し、2月8日にシンガポールへ到着している[19]。「宗像丸」と「黒潮丸」は、それぞれ基隆と高雄で修理中の1月21日に、またも第38任務部隊の空襲を受けて全損となった[1]。「神威」も香港で修理未了のうち4月に再度の空襲を受け着底、復旧されないままとなった[1]。
結果
有力な大型船団として運航されたヒ87船団であったが、シンガポールまで到着できたのは参加タンカー9隻のうち、落伍して後続船団での到着となった「光島丸」を含めても2隻だけという失敗に終わった。たとえ空荷の状態であっても、貴重な大型タンカー多数が撃沈破されたことは日本にとって大きな痛手となった[20]。
本船団の失敗は、ヒ86船団の全滅と並び、大船団主義では機動部隊による攻撃には対抗不可能なことを明らかにした[19]。根本的な戦術見直しの結果、本船団で2個梯団への分割が行われたように、以後の日本の護送船団は、一転して小規模船団方式へと変更されることになった[20]。数少なくなった輸送船の稼働効率を高めつつ、分散して被害を極限するねらいであった[21]。
本船団の壊滅後、南方航路は石油輸送に限って維持されることになり、南号作戦と称する強行輸送が開始された。本船団加入タンカーでシンガポールにたどり着けた2隻も参加することになり、「光島丸」はヒ96船団に加入して3月27日に門司へ帰着、戦時中最後の日本への南方石油輸送成功例となった[19]。「さらわく丸」は、南方発最終便となったヒ88J船団に加入したが、機雷に接触して沈没した。結局、本船団参加タンカー9隻のうち、石油輸送に成功したのは1隻のみという結果に終わったのである。
編制
門司出港時の編制
- 輸送船
- タンカー - 「天栄丸」、「さらわく丸」、「松島丸」、「光島丸」、「黒潮丸」、「宗像丸」、「海邦丸」、「神威」(海軍給油艦・旗艦)
- 貨物船 - 「辰和丸」
- 護衛艦
高雄出港時の編制
- 輸送船
- タンカー - 「天栄丸」、「さらわく丸」、「松島丸」、「光島丸」、「神威」(海軍給油艦)、「橋立丸」
- 護衛艦
香港出港時の編制
- ヒ87A船団
- 輸送船 - タンカー「さらわく丸」
- 護衛艦 - 駆逐艦「時雨」、海防艦「干珠」(旗艦)、同「三宅」、第13号海防艦
- ヒ87B船団(中止)[15]
- 輸送船 - タンカー「橋立丸」
- 護衛艦 - 海防艦「新南」(旗艦)、同「倉橋」
- 先遣隊[15]
- 海防艦「能美」(旗艦)、第41号海防艦、第60号海防艦、第205号海防艦
注釈
- ^ ヒ船団は、シンガポールへの往路には奇数、門司へ帰る復路には偶数の船団番号が付されていた。ただし、ヒ20船団など欠航となった便があるため、実際の運航順は通算87番目や往路44番目ではない。
- ^ 「龍鳳」の護衛として駆逐艦「磯風」と海防艦「御蔵」が本船団から分離[7]。「屋代」も同行予定だったが、損傷のため断念[8]。
- ^ 大井篤は「はりま丸」と「山幸丸」も被害船に挙げるが[13]、他の資料では本船団の参加船には数えられていない。アメリカ海軍公式年表によれば、「はりま丸」の沈没地点は香港ではなく楡林となっている[1]。
出典
- ^ a b c d e f g h The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II
- ^ 岩重(2011年)、95頁。
- ^ 駒宮(1987年)、316頁。
- ^ 『第七護衛船団司令部戦時日誌』、画像28枚目。
- ^ 『第七護衛船団司令部戦時日誌』、画像32枚目。
- ^ 『第一護衛艦隊戦時日誌抜粋』、画像7枚目。
- ^ 『第一護衛艦隊戦時日誌抜粋』、画像53枚目。
- ^ 『第十七駆逐隊(磯風)戦時日誌』、画像5-6・20-22枚目。
- ^ 『第七護衛船団司令部戦時日誌』、画像34枚目。
- ^ 『第七護衛船団司令部戦時日誌』、画像36-37枚目。
- ^ a b 『駆逐艦時雨戦闘詳報』、画像44-46枚目。
- ^ 『特務艦神威戦闘詳報第十一号』、画像16-17枚目。
- ^ 大井(2001年)、369頁。
- ^ 『第七護衛船団司令部戦時日誌』、画像39枚目。
- ^ a b c 『駆逐艦時雨戦闘詳報』、画像47-48枚目。
- ^ 『第七護衛船団司令部戦時日誌』、画像41枚目。
- ^ 『駆逐艦時雨戦闘詳報』、画像34-35枚目。
- ^ 駒宮(1987年)、318-319頁。
- ^ a b c 岩重(2011年)、96-97頁。
- ^ a b 大井(2001年)、379頁。
- ^ 『第一護衛艦隊戦時日誌抜粋』、画像14-15枚目。
参考文献
- 岩重多四郎 『戦時輸送船ビジュアルガイド2‐日の丸船隊ギャラリー』 大日本絵画、2011年。
- 大井篤 『海上護衛戦』 学習研究社〈学研M文庫〉、2001年。
- 駒宮真七郎 『戦時輸送船団史』 出版協同社、1987年。
- 駆逐艦 磯風 『自昭和二十年一月一日 至昭和二十年一月三十一日 第十七駆逐隊(磯風)戦時日誌』 防衛省防衛研究所図書館蔵、アジア歴史資料センター(JACAR) Ref.C08030147500
- 駆逐艦 時雨 『駆逐艦時雨戦闘詳報―昭和二十年一月二十四日「グレートレダン」島沖対潜戦闘』 同上、JACAR Ref.C08030148700
- 第一護衛艦隊司令部 『自昭和二十年一月一日 至昭和二十年三月三十一日 第一護衛艦隊戦時日誌抜粋』 同上、JACAR Ref.C08030142000
- 第七護衛船団司令部 『自昭和十九年十二月三十日 至昭和二十年一月十九日 第七護衛船団司令部戦時日誌』 同上、JACAR Ref.C08030707700
- 特務艦 神威 『特務艦神威戦闘詳報第十一号―昭和二十年一月十五日十六日香港に於ける対空戦闘』 同上、JACAR Ref.C08030588000




