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フィリピンの歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

フィリピンの歴史

この記事はシリーズの一部です。
先史時代(以前-900)
ネグリト渡来
古代 (900-1521)
トンド
マジャ・アス
マニラ
バトゥアン
セブ
マギンダナオ王国
スールー王国
植民地時代 (1565-1946)
スペイン領東インド
フィリピン独立革命 (1896-1898)
カティプナン
フィリピン第一共和国
米比戦争
フィリピン自治領
日本占領下 (1942–1944)
フィリピン第二共和国
現代 (1946-現在)
第三共和国 (1946–1965)
マルコス政権 (1965–1986)
第五共和国 (1986–現在)

フィリピン ポータル
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フィリピンの歴史(フィリピンのれきし)では、フィリピン共和国歴史を述べる。フィリピン史は先スペイン期、スペイン植民地時代(1565年-1898年)、アメリカ合衆国植民地時代(1898年-1946年)、独立以後の時代(1946年-現在)に大別される。

目次

先史時代

フィリピンに残る古代の遺跡

フィリピン群島で見つかった最初期の考古学的遺物は、パラワン州タボン洞穴英語で見つかった約1万6500年前のものと見られるタボンマン英語の人骨と石器、コウモリや小哺乳類の骨などである[1]:23。人骨は甕棺に納められており、これを中国の風習の影響と見る人もいる[2]:10。また、リサール州のビナンゴナンでは紀元前3000年前のアンゴノ・ペトログリフ英語が見つかった。これらの遺物を残したのはネグリト人オーストロネシア人よりも前にフィリピンに住んでいた人によるものと考える人もいる[3]

これらの住民との関連性は不明だが、これら住民を除けばフィリピンの初期の住民はネグリト人と考えられている。ネグリト人もいつから住んでいたかは不明である[4]。2万年前ぐらいと考える人もいる[5]:31。ネグリト人は従来オーストラロイドと考えられていたが、遺伝子研究によりオーストラロイドの要素を含む新モンゴロイドであるとする説もある[6]:15。それに続いてオーストロネシア語族の支族マレー・ポリネシア語派が紀元前4000年頃に到来した[7] [8]。当初はネグリト人は沿岸に住んでいたが、マレー系住民に追われて山岳地帯に住むようになった。マレー系住民は製鉄灌漑の技術を持っていた[5]:31

西暦300年から700年頃には、東南アジアの島々では海洋民族が活躍しており、インド文化圏仏教ヒンドゥー教の影響を受けていたと見られる[9][10]。特にスマトラ島シュリーヴィジャヤ王国ジャワ島マジャパヒト王国(いずれも現インドネシア)は交易を通じて文化の発信源となっており、フィリピンにももたらされた。現代フィリピンのタガログ語にもサンスクリット語を語源とする単語が多い[5]:33

古代

都市国家とその衰退

古代のフィリピンに関する情報は、東南アジア諸地方の中でも非常に少ない。これは、フィリピンがユーラシア大陸から見て遠隔地なため、フィリピンの歴史を目撃する他民族にあまり恵まれなかったという事情もある。また、フィリピンは熱帯のため、考古学的遺物が腐って残りにくかったという事情もある。そのため、歴史研究家の中には「フィリピンにはスペイン時代以前に誇るべき歴史が無い」と断定する人もいる[11]:102

ファイル:Laguna Copperplate Inscription.gif
ラグナ銅版碑文。真偽は確定していないが、西暦900年に当たる日付が記された裁判記録。
ファイル:Kinari.jpg
ブトゥアンで発掘された仏像とみられる像

ただし、この時代の様子を伺う資料が全く無いわけではない。1990年、ルソン島のバエ湖で、シャカ暦822年(西暦900年)の日付が入ったラグナ銅版碑文英語と呼ばれる金属板が見つかった。これは早期カウィ文字英語に属する文字で書かれた一種の裁判記録であり、この時代にフィリピンにある程度の文明社会があったことを証明するのに十分なものだった。ただし、出自があまり明確ではなく、真贋は確定していない。[2]:7[6]:59

また、使用開始時期は不明確だが、1603年のスペインの報告書によると、当時のフィリピンの一部ではバイバインと呼ばれる文字が存在していた[6]:59

代の史書『文献通考』によると、982年にフィリピンと思われる摩逸国の商人が交易品を積んで広州を訪れている[12]。また、1225年の著書『諸蕃志中国語』では、この時代のフィリピン(麻逸)の人は木綿の布で体全体または下部を隠しており、青銅の神像を草原に置いており、中国やアラブ諸国とバーター貿易していると解説されている[2]:9。フィリピンの言語には中国語由来と見られる経済用語も多い[5]:33。14世紀の島夷誌略中国語にもマニラを意味する麻里の地名が見られる[5]:241

14世紀後半にはイスラム教がフィリピンの一部に到達し始めた。スールー諸島にはスマトラから来たラジャ・バギンダ・アリがもたらし、さらに1450年頃にパレンバンから来たアブ・バクルがスールー王国を建国した。また、フィリピン南部のミンダナオ島にはジョホールからセリフ・カプンスワン英語がやってきて、マギンダナオ王国を建国した。いずれもスマトラからの有力移住者が地元の有力者と婚姻を結んでできた王朝である[13]:72

15世紀頃の地図混一疆理歴代国都之図にはフィリピンの辺りに多くの島が描かれており、中に麻里魯と読める箇所がある[6]:9

1433年にはネグロス島の首長カランチアオ英語が刑法を制定したとされているが、疑わしいと考える人もいる[14]:89

15世紀後半にはマラッカを中心とした貿易が盛んになった。インドのマラバール英語コロマンデル英語グジャラートやジャワと共に、ルソンからも多数の商人がマラッカを訪れて貿易した[15]:35

16世紀のスペインが到来する直前、ルソン島はブルネイの影響にある都市が多く存在した。その首長の何人かはブルネイのスルタンの娘を妻としていた。最大都市マニラには6000人規模の集落があり、その他にも南西部沿岸に都市があった。主な交易品は、輸出品として金、蜜蝋蜂蜜蘇木であった。輸入品としては陶磁器、織物、金属製品、日用雑貨などだった。輸入された鉄製品は新たに鋳物として作り直された[16]:123。陶磁器は宋胡禄など中国や東南アジア各地のものが確認されている[1]:23

また、フィリピンにはバランガイと呼ばれる数十戸を単位とする集落が数多くあった。バランガイの語は船を意味するマレー語に由来しており、元はマレーからの同一の漂流集団と見られている。バランガイは相互に交易も行っていたが、特定の国家に支配されているものではなかった[5]:34

スペイン植民地時代 (1565-1898)

スペインによる植民地化

フィリピンに到達した初のスペイン人は1521年マゼランであるが、これ自体は支配の開始ではなく、あくまでも到達である。スペインは1529年にフィリピンの領有をサラゴサ条約をもってポルトガルに認めさせ、1543年にはルイ・ロペス・デ・ビリャロボスがフィリピンに到達してこの島々に「ラス・イスラス・フェリピナス (Las Islas Felipinas) 」と命名し「フィリピン」の国名の由来を作った。しかし実際に植民が始まったのは、ミゲル・ロペス・デ・レガスピセブ島に植民基地を作った1565年である。スペイン人はこの帰路にフィリピンからメキシコに向かう航路を発見し(当時は帆船なので来た航路をそのまま引き返すことができなかった)、メキシコとフィリピンの間でガレオン貿易を始めた[2]:36。ただしポルトガルやフィリピン原住民に最初の拠点セブを追われ、本格的な支配を開始できたのはフアン・デ・サルセードらによる1570年のマニラ征服と1571年のマニラ市の設置からだった[16]:126。当時のマニラには日本人も20人ほど住んでいた[5]:39。征服されたフィリピン原住民は植民地時代の初期にはエンコミエンダ制の下でスペイン人の征服者によって分配され、分配された徴税権や労働徴発権と引き換えにスペイン人はフィリピン原住民に対してカトリックの布教を行うことを義務付けられたが、エンコミエンダ制は原住民組織への打撃が大きかったため、17世紀前半に廃止された[17]

広大なスペイン帝国の中で、フィリピン総督領はメキシコ市を首府とするヌエバ・エスパーニャ副王領の一部となり、ヌエバ・エスパーニャ副王の下で総督を頭とする行政組織が体系化され、州(アルカルデ)、町(プエブロ)、村(バリオ、バランガイ)が行政区画として再編され、総督の権力を監視するためにアウディエンシアが置かれた。

スペインは当初、トルデシリャス条約に抵触せずに香料を産出する地を求めてフィリピンを征服したが、フィリピンでは期待された香料は発見されなかったため、交易中継地として扱われることになった[18]。1573年には初めて中国産品がメキシコにまで運ばれ、ガレオン貿易が始まった[19]季節風を利用して年に一隻のガレオン船がマニラからアカプルコまで太平洋を横断したガレオン貿易により、アカプルコから山を超えたカリブ海岸のベラクルスを中継してヨーロッパにまでアジアの産物が送られた[20]。さらに、マニラからは1581年と1582年に南米ペルー副王領のカヤオにまでガレオン船が送られたが、ペルーとマニラの貿易は1631年に禁止された[21]。ガレオン貿易のスペイン側からの決済にはメキシコ銀が用いられた。

スペインのフアン・ゴンサーレス・デ・メンドーサ英語1585年出版のシナ大王国誌(Historia de las cosas más notables, ritos y costumbres del gran reyno de la China)で当時のフィリピンについても言及しており、それによると中国からフィリピンに絹や陶磁器などが非常に安くもたらされ、フィリピンから中国へは金製品やスペイン銀貨英語などが支払われていた[22]。また、中国の張燮1617年東西洋考の中で「フィリピンからの品にフィリピン産のものは何も無く、夷人の銀貨ばかりである」と記している[22]

スペイン入植後、浸透した貨幣経済によって原住民はたちまち居住地を借金の代わりに取り上げられ、スペインからの入植者も増えた。1578年には近隣の有力なイスラム国だったブルネイがスペインに破れたことでイスラム勢力の力が弱まり、1587年にマニラ近郊で首長が反乱を計画したものの、翌年発覚して数名が絞首刑後晒し首となっている(トンドの謀議英語[2]:42,61。当時スペインで布教していたカトリック教会は、スペイン本国からの仕送りが少なく、ガレオン貿易の収益を重要な資金源としていたため、貨幣経済の浸透を止めることは無かった。スペインは荒地の開拓を積極的に進めたが、その労働力をフィリピン原住民に頼り、結果としてスペインによる土地支配が進んでいくことになった。また、信者が遺言で土地を教会に寄進することもあり、スペイン占領末期には全耕作地の7%ほどを占めるようになった[2]:49

1570年には20人ほどだった日本人居住者も、17世紀には1500人、最盛期には3000人にもなった。大名の高山右近も日本追放によってマニラを訪れている[5]:391633年から順次施行された日本の鎖国令によって、これらの都市は衰えた。この後、サルセド総督統治時代[23]:8のフィリピンを日本の川淵久左衛門が訪れており、1671年の口述筆記『呂宋覚書』として残されている[5]:241

ガレオン貿易の進展に伴って中国人日本人が移住し、また、黒人がヌエバ・エスパーニャから連行され、マニラ城外に居住区を築いた[24]。特に中国人はガレオン貿易とフィリピン植民地経営に当たって決定的に重要な役割を果たした。1637年には中国人の人口は約2万人に達し[25]、17世紀から18世紀にかけてフィリピン総督による弾圧もあったものの、中国人は現地人女性と通婚してメスティーソ混血)と呼ばれる社会階層を築きあげ、フィリピン社会に同化した。18世紀半ばの三度に及ぶ中国人追放令発令後、中国系メスティーソは地方の商業に進出したが[26]、19世紀のマニラ開港後は総督府の中国人移民奨励の影響もあって新規に移民した中国人商人が在来の中国系メスティーソに代わった[27]

フィリピンには世俗教会よりも修道会の進出が進んだが、修道会もガレオン貿易に積極的に参加し、フィリピン植民地経済を支えた[28]。しかし、全体として高温多湿の過酷な気候条件と地理的な遠隔さ、経済的な魅力の不足から、スペインからフィリピンへの入植は進まなかった[29]

スペイン人はフィリピン植民地化の過程で、フィリピン諸島全土を植民地化できた訳ではなかった。特に南部のホロ島ミンダナオ島ムスリムはスペイン人に対して頑強に抵抗し、300年以上に渡ってモロ戦争と呼ばれるスペインとイスラーム勢力との間の抗争が続けられた。また、スペイン支配地域でもカトリック化した原住民の反乱が相次いだ。

17世紀に入ると、政治的にスペインと対立し、東アジアへの進出が盛んだったオランダ連合東インド会社によるフィリピン攻撃が1610年、1660年と断続的に行われた。ヌエバ・エスパーニャ副王政府はこうしたオランダによるフィリピン攻撃からの防衛費をも負担した[30]

18世紀に入ると、七年戦争の最中の1762年にそれまでフィリピンとの密輸を続けていたイギリス東インド会社によってマニラが占領された。イギリス人は1764年にフィリピンから撤退したが、この事件はスペインによるフィリピン経営のあり方を再考させる一つのきっかけとなり、カルロス3世のボルボーン改革によってフィリピンにもタバコの強制栽培、専売制度の確立(1782)や王立フィリピン会社の設立(1785)など、プランテーション農業を基盤とした開発型植民地への転換を目指した政策が導入された。フィリピンにおける商品作物の栽培や鉱山開発は失敗に終わったが[31]、イギリス海賊の跳梁やメキシコ独立戦争の影響のため1815年にガレオン貿易が廃止され、19世紀初めにフィリピンは重商主義的植民地支配から自由主義的植民地支配に移行した[32]

1834年にマニラが正式に開港されると、自由主義の下で輸出向けの商品作物の栽培が進み、マニラ麻砂糖、タバコなどがアメリカ合衆国イギリスの市場に向けて生産される一方で、商品作物栽培のための土地所有の集中を招き、アシエンダと呼ばれる大土地所有制度が確立されて農民の小作農化が進んだ。

モロ戦争の展開

スペインとイスラーム勢力の間でモロ戦争が継続される中、ホロに都を置いたスールー王国は19世紀に入るとスペイン当局やマカオポルトガル商人、シンガポールとの交易で栄え、1840年代にはアメリカ合衆国、イギリス、フランスと通商条約を結んだ[33]。スペインはスールー王国に対し、1848年から断続的に攻撃をしかけ、1876年のホロ攻略後、1878年に講和を結び、以後はミンダナオ島の攻略に取り掛かった。スペインは1880年代にはミンダナオ島のブアヤン王国との戦争を激化させたが、植民地時代の終焉までスペインがミンダナオ島を完全に支配することはできなかった。

民族運動の展開

貿易の自由化に伴なうアメリカ合衆国やイギリスとの貿易の拡大は、18世紀以来の高等教育の拡充と合わせて19世紀には自由主義思想がフィリピン原住民の間にも流入した。19世紀末になると、フィリピンにおける有産階級が成長したことや、世界各地を結ぶ航路が整備されたことなどを背景として、フィリピンからスペインへ留学する層が形成されることになった。こうした経験を通じてフィリピンにおけるナショナリズム形成の重要性を感じた留学生、知識人は、徐々に本国政府への改革要求を強め、民族運動を展開していった。

運動は当初フィリピン人の神父によって担われたが、1872年1月に勃発したカビテ暴動をきっかけに、総督によって進歩的なフィリピン人の神父や知識人が弾圧されたことは、スペイン当局のフィリピン・ナショナリズムへの弾圧を強化する事態を招いた。続いて1882年にはマルセロ・デル・ピラールによってタガログ語の日刊紙『タガログ毎日』が創刊され、フィリピン本土とスペインに留学したフィリピン人留学生によってプロパガンダ運動と呼ばれるナショナリズム運動が開始された。とりわけ、ホセ・リサールがスペインで発表した『ノリ・メ・タンヘレ』(我に触るな,1887)は植民地支配下のフィリピンにおける諸問題を厳しく告発するものであり、民族運動に影響を与えた。1888年にはバルセロナでフィリピン人によって結社「団結」が結成された。1892年にはホセ・リサールがフィリピンに帰国して「ラ・リガ・フィリピナ(フィリピン民族同盟)」を結成するが、結成間もなくスペインに対する反逆罪で逮捕されるなど弾圧も強化されていった。

フィリピン独立革命

ファイル:Aguinaldo.jpg
フィリピン共和国初代大統領、エミリオ・アギナルド
ファイル:Bandera 03.jpg
フィリピン革命軍の旗。

1892年にホセ・リサールが逮捕されたことを機に、アンドレス・ボニファシオらによって秘密結社カティプナンが結成された。より本国政府に対して急進的な姿勢をとるカティプナンは1896年に武力蜂起を決行した。しかし、スペイン政府はホセ・リサールを処刑し、本国から軍隊を派遣して革命鎮圧を図った。一方、革命勢力側はボニファシオとエミリオ・アギナルドの間の主導権争いが発生するなど、革命運動の統一を図ることができなかった。結局、実権を握ったアギナルドがボニファシオを処刑してスペインとの戦闘に臨んだが、革命勢力、スペインともに疲弊する中で1897年12月にビアックナバト和約が成立し、アギナルドは香港へ亡命することになった。しかし、ボニファシオの処刑にみられるように革命勢力は一枚岩ではなかったため、和約の成立後も各地で反スペイン闘争は継続された。

1898年にハバナで起きた戦艦メイン号の謎の爆沈事件をきっかけに、アメリカ合衆国がキューバ独立戦争に介入し、4月に米西戦争が勃発すると事態は急展開を迎えた。香港に亡命していたアギナルドはフィリピン独立への支持を条件にアメリカ合衆国に協力を確約し、5月にアメリカ艦隊と共にフィリピンに帰還。6月12日に独立を宣言した。しかし、キューバプエルトリコを電撃的に攻略されたスペインは12月のパリ条約で講和を結んだ際に、フィリピンをアメリカ合衆国に譲渡することを確約し、これを機にアメリカ軍とフィリピン革命軍は敵対を始め、フィリピン・アメリカ戦争が勃発した。翌1899年1月21日エミリオ・アギナルドを中心としてフィリピン第一共和国が建国されたが、1902年までにアメリカ軍がフィリピン主要部を占領し、アメリカ合衆国の植民地となった。

アメリカ統治時代 (1898-1946)

米比戦争には12万人のアメリカ兵が投入され、4500人のアメリカ兵の戦死者と20万人の一般のフィリピン人の死亡者を出した[34]末にゲリラ化した革命軍を制圧し、スペイン主権下に入っていなかった南部のムスリムに対しても戦争を続け、1915年にはスールー王国とカーペンター=キラム協定を結んでアメリカ合衆国の主権を認めさせ、フィリピン全土を平定した。1901年7月にはアメリカ軍の軍政から民政移管が実現し、1902年7月に合衆国議会で成立したフィリピン組織法を法的根拠に、ウィリアム・タフトの主導によってフィリピンの植民地化が進んだ。1907年には同法の下でフィリピン議会が選出された。1916年に採択されたフィリピン自治法では将来の独立が宣言され、上下二院の立法権を持つ議会の整備や、総督以外の行政機構、閣僚のフィリピン人化が進んだ。

こうしてフィリピン人のエリートを味方につけた合衆国は、経済的には米比二国間の相互関税免除を旨とした自由貿易体制を確立し、サトウキビとマニラ麻を中心としたフィリピンにおける輸出作物モノカルチャー化が進み、マニラ麻栽培のためにダバオ周辺には日本人移民が導入された。また、公教育の拡充を通して英語の普及が進んだ。

1916年のフィリピン自治法採択時から独立に関する議論は盛んになっていたこともあり、1934年に民主党フランクリン・ルーズヴェルト政権下で将来の独立を認めるフィリピン独立法が成立し、1935年5月には憲法が批准され、同年9月に行われた選挙によってマヌエル・ケソンを大統領としたフィリピン・コモンウェルスが成立した。ケソン政権下ではアメリカ軍のダグラス・マッカーサー元参謀総長によってフィリピン軍が創設されたが、機能するには程遠かったために、1938年2月にケソンは日本に対してフィリピンの中立化を布告した[35]

一方、親米的なコモンウェルス成立の影で、合衆国統治下でモノカルチャー化が進んだため、1920年代から1930年代にかけて窮乏化した小作農や都市労働者達によって労働運動の組織化が進められ、フィリピン全国農民組合や労働者総同盟などの労働組合が作られた他、1929年にはフィリピン社会党、1930年にはフィリピン共産党が結成され、両党は人民戦線戦術の下で1938年に合併してフィリピン共産党 (PKP)が成立した。

第二次世界大戦下のフィリピン(1941-1945)

ファイル:Anti-Japan2.png
いわゆる「バターン死の行進」を通じて米軍は日本軍の残虐性・非人道性を強調した。その際のプロパガンダ用ポスター。

1941年12月8日に日本が米英に宣戦布告し太平洋戦争が勃発すると、南方作戦の一環として第14軍がフィリピンに上陸し、1942年1月2日に日本軍マニラを占領した。その後、4月にバターン半島、5月にコレヒドール島の米比軍を降伏させ、翌5月7日にアメリカ極東陸軍(ユサフェ)の全軍が降伏を宣言した。

既にダグラス・マッカーサーと共にオーストラリアに逃亡していたマヌエル・ケソン大統領は、その後アメリカ合衆国に渡ってワシントンにて亡命政府を建てた。日本は従来までの統治機構を出来る限り活用しようとしたが[36]、政治的決定の多くは日本に委ねられていた。

アメリカ軍降伏後、合衆国はマッカーサーに直属するフィリピン人のユサフェ・ゲリラを組織して日本への抵抗を続けた。また、1942年3月には農民運動を母胎にルイス・タルクらによってフクバラハップ(フク団、抗日人民軍、のち人民解放軍)が結成され、中国人民解放軍を範としたゲリラ部隊を組織して、農村に支持を広げつつ抗日運動を展開した。ユサフェ・ゲリラは地主支配の打倒を掲げるフクバラハップを敵視し、双方の間で戦闘が繰り広げられた。日本の軍政は抗日ゲリラ討伐のために隣組制度(DANAS)を組織し、1942年末には既存の政治組織を解散させて新たに新生フィリピン奉仕団(KALIBAPI)が再編された。しかし、ゲリラ運動と経済政策の失敗に起因する飢餓が起こり[37]、物資調達のための軍票乱発に起因するインフレーションは食糧不足を加速させ、食糧不足に伴ってフィリピン人の窮乏化と日本からの離反も進んだ[38]。日本は民心を回復するために、1943年10月14日、ホセ・ラウレルを大統領とするフィリピン第二共和国の独立を認めた。日本はラウレル政権と同盟条約を締結し、形式面では日本の軍政期が終わったが、ラウレル政権はフィリピン民衆の広範な支持を得ることができなかった。さらに、ラウレル政権は戦前からの地主支配の継続を認めたためにフィリピン親日勢力の離反を招き[39]、ラウレル政権側も日本との協力を拒否する姿勢をとったため[40]、日本は1944年12月にベニグノ・ラモスアルテミオ・リカルテをはじめとするフィリピン独立運動家達によって設立されたフィリピン愛国連盟(マカピリ)を新たな協力者とした。

1944年10月20日にアメリカ軍がレイテ島に上陸し、続くレイテ沖海戦でも日本軍を破った。1945年2月3日にはマニラを奪回し、さらにルソン島北部に敗走する日本軍を追いつめ、9月3日に日本軍は降伏した。この過程で、多くのフィリピン市民が巻き込まれて犠牲になった。日本軍と共に戦ったマカピリは戦闘によって壊滅した。第二次世界大戦によるフィリピン人の犠牲者は110万人に達した[41]

戦時中のレイテ作戦でアメリカ軍と共にフィリピン帰還を果たしたフィリピン・コモンウェルスのセルヒオ・オスメニャ大統領に権力が戻り、コモンウェルスが再建された。また、抗日運動で活躍したフクバラハップは、マニラ奪回後には共産党勢力を警戒したダグラス・マッカーサーの意図によって武装解除を余儀なくされた。第二次世界大戦後も徹底的な迫害が続けられ、親米政権が維持されることになった。

独立以後(1946-現在)

第二次世界大戦後、1946年4月の選挙で地主を母胎にした国民党、労働運動とフクバラハップを母胎にした民主同盟との選挙戦を制した対日協力者を母胎とする保守派の民主党が勝利し、マヌエル・ロハスが新たに大統領に選出された。同年7月4日、フィリピンは主権を獲得し、第三共和国が成立した。

しかし、第三共和国は経済的に合衆国に依存する構造は変わらず、軍事的にも1947年に締結された比米軍事基地協定によって冷戦構造の中で合衆国の反共主義の前線基地として位置づけられ、実質的な独立を達成できなかった[42]。また、戦後共和国政府は徹底してフクバラハップを敵対視し、1948年3月にはロハス政権によってフクバラハップと全国農民同盟は非合法化され、ルソン島では政府軍と地主の私兵とフクバラハップとの間で戦闘が繰り広げられた。ロハスの死後、政権を継いだエルピディオ・キリノ政権はフクバラハップとの和平交渉を行ったが、交渉は決裂した。フクバラハップは首都攻略を噂されるほどの大勢力となっていたが[43]、これに脅威を抱いた合衆国はフィリピン政府への軍事援助を強化し、ラモン・マグサイサイ国防相による討伐作戦によって1950年10月には共産ゲリラの司令塔だったフィリピン共産党 (PKP)が壊滅し、翌1951年にはフクバラハップそのものも実質的に壊滅に追い込まれた。

1953年11月にフクバラハップ討伐の功績が評価されたことにより、国民党のマグサイサイが大統領に当選した。マグサイサイ政権はフクバラハップへの支持の源泉が大土地所有制にあることを見抜き、農地改革を推進したが、1955年に制定された農地改革法は抜け道の多い不徹底なものに留まり、1960年のセンサスでは1948年よりも小作農の数が増加した[44]。このため、1963年にディオスダド・マカパガル大統領も農地改革法を制定したが、この改革法も実効性に乏しく、却って農村部での階級対立を激化させる作用をもたらした[45]。1950年代から1960年代にかけてナショナリズムが盛り上がり、1966年から民族主義青年同盟(KM)によって文化大革命に影響を受けた第二次プロパガンダ運動が展開され、文化や教育のフィリピン化が目指された。

1965年に国民党から大統領に就任したフェルディナンド・マルコスは、強権政治の下でフィリピンを統治した。1968年には毛沢東主義に基づくフィリピン共産党 (CPP) が再建され、翌1969年3月には軍事部門の新人民軍を結成してゲリラ戦を開始し、南部でもムスリムが1970年にモロ民族解放戦線を結成し、ミンダナオ島で反乱を開始した。1969年に腐敗選挙で再選された[46]マルコスは両組織の反乱を理由に1972年に全土に戒厳令を敷き、新社会建設を掲げて議会の閉鎖、既存支配層の排除を行った。マルコス政権による農地改革は実効性を持ち、自作農が創設され、の自給もある程度可能になる[47]などの成果もあり、外国資本の積極導入を柱とした経済政策により1970年代を通して年率6-7%のGNP成長を達成したが[48]、マルコスとイメルダ・マルコス夫人をはじめとした取り巻きによる政治の私物化と腐敗政治が進み、対外債務の膨張が財政を逼迫させるなど徐々に政権は危機的な様相を帯びてきた。1981年に戒厳令は解除されたが、1983年に政敵のベニグノ・アキノが暗殺されたことは反体制派の怒りを増した。こうした国民の不満の爆発を受け、1986年2月の選挙をきっかけにエドゥサ革命が勃発し、マルコスはハワイに亡命した。

新たに大統領に就任したコラソン・アキノは7度のクーデター未遂に見舞われ、アキノ政権はアメリカ軍の助力を得てクーデターを鎮圧した。1991年にはピナトゥボ火山が噴火し、この事件をきっかけにフィリピンからアメリカ軍は基地を撤収した。

1992年に大統領に就任したフィデル・ラモス新自由主義的な民営化政策と規制緩和を徹底し、経済成長率の上昇を実現したが、他方でこの経済成長は雇用を拡大せず、出稼ぎに依存するフィリピン経済の性格は維持された[49]

略年表

  • 紀元前2万5千年~3万年前にネグリト族がフィリピンに移住
  • 原始マレー人が新石器文化を持って移住
  • 古マレー人が水田農耕を持って移住、紀元前2000年~前1500年、ルソン島カガヤン渓谷ソラナ東遺跡からイネの出土。
  • 紀元前500年~13世紀にかけて新マレー人が移住。
  • 3世紀 扶南国の交易相手として巨延洲(フィリピン諸島)の記述がみられる。交易品目はイモ・シャコ貝。
  • 14世紀後半 中国~東南アジア~インド~中東を繋ぐ航路上で海上交易を行っていたイスラム商人の影響でフィリピン諸島にもイスラム教が広まる。スールー諸島ではイスラム国家・スールー王国が建国される。
  • 1521年 マゼラン率いるスペイン船団、セブ島に到着し、キリスト教を伝える。マクタン島の戦いで首長のラプ・ラプがマゼランを討つ。
  • 1543年 ルイ・ロペス・デ・ビリャロボス率いるスペイン船団、サマール島レイテ島に到着、これら諸島をフェリペ皇太子(後のフェリペ2世)にちなみラス・イスラス・フェリピナス(Las Islas Felipinas,フェリペナス諸島)と命名。
  • 1565年 ミゲル・ロペス・デ・レガスピの遠征隊、メキシコからセブ島に到着し占領、スペイン植民地確立。ヌエバ・エスパーニャ(新スペイン)副王領の一部となる。
  • 1571年 レガスピ隊マニラ占領。
  • 1603年 マニラで最初の華人反乱。
  • 1762年 七年戦争で英軍がマニラ占領(~64年)。
  • 1809年 イギリス、マニラに商館設立。
  • 1892年 ホセ・リサール、独立政治組織ラ・リガ・フィリピナ結成。鎮圧される
  • 1896年 武闘派独立組織カティプナンの蜂起。ホセ・リサール処刑される。
  • 1898年 米西戦争勃発、米軍マニラ占領。エミリオ・アギナルド、フィリピン独立を宣言。パリ条約でスペイン、フィリピンを米国に売却。
  • 1899年 フィリピン第一共和国(マロロス共和国)発足、大統領エミリオ・アギナルド。対米反乱(米比戦争)。
  • 1901年 米軍、アギナルド逮捕。フィリピンはアメリカの主権の下におかれる。
  • 1902年 フィリピン組織法。
  • 1907年 第1回フィリピン議会開催。
  • 1916年 米国議会ジョーンズ法を可決。
  • 1934年 米国議会タイディングス・マクダフィー法で10年後のフィリピン独立を承認。
  • 1935年 米自治領政府(独立準備政府、フィリピン・コモンウェルス)発足、大統領マニュエル・ケソン
  • 1942年 日本軍マニラ占領(1月)、コレヒドール島陥落(5月)。
  • 1943年 フィリピン共和国(第二共和国)成立(10月)。大統領ラウレル、東京の大東亜会議出席(11月)。
  • 1944年 レイテ沖海戦。米軍レイテ島へ上陸。
  • 1945年 マニラ大虐殺(1月)。米軍マニラ占領、米自治領政府復活。
  • 1946年 米国から独立(第三共和国)、大統領マニュエル・ロハス。
  • 1946年 フィリピン航空が民間としてアジアで初めて太平洋横断する運航を開始。
  • 1948年 ロハス死去、エルピディオ・キリノが大統領に。
  • 1953年 ラモン・マグサイサイ、大統領に当選。ABS(現在のABS-CBN)がテレビ本放送を開始。
  • 1956年 日比賠償協定調印、日比国交回復。
  • 1957年 マグサイサイ大統領事故死、後継カルロス・ガルシア。
  • 1961年 ディオスダド・マカパガル、大統領に当選。独立記念日をそれまでの7月4日から6月12日に変更。
  • 1965年 フェルディナンド・マルコス大統領に当選(~1986年迄)。
  • 1966年 ABS-CBNがカラーテレビの本放送を開始。
  • 1968年 フィリピン共産党(中国派)創設。
  • 1969年 新人民軍発足(通称NPA,New Peoples Army)
  • 1972年 戒厳令布告。軍隊が政府機能を掌握。
  • 1975年 マルコス訪中、国交樹立。
  • 1976年 ソ連と国交樹立。モロ人民解放戦線と暫定和平協定。
  • 1983年 ベニグノ・アキノ元上院議員、マニラ空港(現在のニノイ・アキノ国際空港)で暗殺される。
  • 1986年 エドゥサ革命コラソン・アキノが大統領に就任。マルコス夫妻ハワイに亡命。
  • 1989年 マルコス、ハワイで死去。軍反乱事件。
  • 1990年 ルソン島北部の都市、バギオで大地震発生し、多数の死傷者。
  • 1991年 ピナトゥボ火山噴火。米軍基地撤廃を決議。
  • 1992年 フィデル・ラモス、大統領に就任。米軍撤退完了。
  • 1995年 各地の軍事反乱終息。
  • 1996年 モロ人民解放戦線と和平協定。
  • 1997年 ディオスダド・マカパガル死去。
  • 1998年 ジョセフ・エストラーダ大統領就任。
  • 2000年 下院、エストラーダ大統領を弾劾。市民デモ(ピープルパワー)
  • 2001年 第二人民革命。副大統領アロヨ、大統領に就任。
  • 2004年 グロリア・アロヨ、大統領選挙で当選。しかし、その後アロヨは選挙の不正を認め国民に謝罪。
  • 2005年 スビク湾の婦女暴行事件で、駐留米兵4人逮捕。付加価値税の引き上げ。
  • 2006年 日本との2国間自由貿易協定(FTA)が締結される。日比友好50周年。
  • 2010年 ベニグノ・アキノ3世大統領就任

参考文献

  • 桐山昇・栗原浩英・根元敬 『東南アジアの歴史』 有斐閣、2003年。ISBN 4-641-12192-3
  • デイビッド・J・スタインバーグ 『フィリピンの歴史・文化・社会』 明石書店、2000年。ISBN 4-7503-1352-1
  • 弘末雅士 『東南アジアの建国神話』 山川出版社、2003年。ISBN 4-634-34720-2
  • 鈴木静夫 『物語 フィリピンの歴史』 中公新書、1997年。ISBN 4-12-101367-0
  • 大野拓司、寺田勇文 『現代フィリピンを知るための61章 第2版』 明石書店、2009年。ISBN 978-4-7503-3056-3
  • 歴史教育者協議会編 『知っておきたいフィリピンと太平洋の国々』 青木書店、2004年。ISBN 4-250-94039-X
  • 川淵久左衛門 『呂宋覚書』 成山堂書店、1985年。ISBN 4-425-30106-4
  • 湯澤誠 『先史時代のフィリピン諸島について(1)』 うらべ書房、2004年 非売品(国会図書館蔵)。
  • 池端雪浦生田滋 『世界現代史6──東南アジア現代史II』 山川出版社、1977年12月。
  • 池端雪浦編 『新版世界各国史6──東南アジア史II』 山川出版社、1999年5月。
  • 立岩礼子「ガレオン貿易の重要性についての一考察──17世紀ヌエバ・エスパーニャによるフィリピン援助をめぐって」『ラテンアメリカの諸相と展望』南山大学ラテンアメリカ研究センター編、行路社、2004年12月。

脚註

注釈

出典

  1. ^ a b 大野拓司『現代フィリピンを知るための61章』
  2. ^ a b c d e f 鈴木静夫『物語 フィリピンの歴史』
  3. ^ The Utrecht Faculty of Education. “The Philippines - The Philippines in earlier times - The First Inhabitants 40,000 years ago”. 2009-11-07閲覧。
  4. ^ Scott 1984, p. 138
  5. ^ a b c d e f g h i 『知っておきたいフィリピンと太平洋の国々』
  6. ^ a b c d 湯澤誠『先史時代のフィリピン諸島について(1)』
  7. ^ Scott 1984, p. 52.
  8. ^ Solheim II, Wilhelm G. “The Filipinos and their Languages”. 2009-08-27閲覧。
  9. ^ The Philippines and India – Dhirendra Nath Roy, Manila 1929 and India and The World – By Buddha Prakash p. 119–120.
  10. ^ Cembrano, Margarita R . Patterns of the Past: The Ethno Archaeology of Butuan.. August 18, 2009..閲覧。 
  11. ^ デイビッド・スタインバーグ『フィリピンの歴史・文化・社会』
  12. ^ 文献通考/卷三百三十二·四裔考九に「又有摩逸太平興国七年 載宝貨至広州海岸」とある。
  13. ^ 桐山昇ら『東南アジアの歴史』
  14. ^ 荻野芳夫『フィリピンの社会・歴史・政治制度』
  15. ^ 弘末雅士『東南アジアの建国神話』
  16. ^ a b 『東南アジア史 3』より菅谷成子「スペイン領フィリピンの成立」
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関連項目

外部リンク