1. TOP
  2. Kiraku辞典
  3. メインページ

ブーヘンヴァルト強制収容所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ファイル:Bundesarchiv Bild 183-1983-0825-303, Gedenkstätte Buchenwald, Wachturm, Stacheldrahtzaun.jpg
記念碑として残されているブーヘンヴァルトの監視塔の一つ

ブーヘンヴァルト強制収容所(ブーヘンヴァルトきょうせいしゅうようじょ、Konzentrationslager Buchenwald)は、ナチス・ドイツテューリンゲン地方エッテルベルク(de:Ettersberg)の森の丘の麓に設置した強制収容所ヴァイマル市のやや北西7キロメートルほどの位置にあった。1937年7月に設置されてから1945年4月のアメリカ軍による解放を迎えるまでの間にブーヘンヴァルトには総計で23万3800人の人間が囚人として送られ、そのうち5万5000人以上の人間がここで死亡したと見られている[1][2]。「ブッヘンヴァルト」「ブッヒェンヴァルト」とも表記される。

目次

収容所の歴史

ファイル:Buchenwald-bei-Weimar-am-24-April-1945.jpg
解放後の1945年4月23日のブーヘンヴァルト。やせ細った囚人の遺体を前に立ち尽くすアルバン・W・バークリー米国上院議員

1936年秋にアドルフ・ヒトラーが立ち上げた四カ年計画においてブーヘンヴァルトに強制収容所を建設することが予定されている。そこには収容者は土地から産出される粘土を使って煉瓦製造作業に従事すると定められていた[3]。1936年末からリヒテンブルク強制収容所(KZ Lichtenburg)やザクセンハウゼン強制収容所から最初の囚人が移動されてきてブーヘンヴァルト強制収容所の建設工事が開始された。この時期はちょうど刑事犯が次々と強制収容所に移送されていた時期で囚人数が増加したため、ザクセンハウゼンに続く新しい強制収容所としてこのブーヘンヴァルトが建設されることとなったのである[4]。1937年7月に開設された。

最初の所長はコロンビアハウス強制収容所(KZ Columbiahaus)で悪名を馳せたカール・オットー・コッホ親衛隊大佐、所長の下で囚人の監督を直接行う収容所指導者(Lagerführer)の職には血盟勲章(ミュンヘン一揆参加者に贈られる)の叙勲者でザクセンハウゼン強制収容所から赴任してきたアルトゥール・レードル親衛隊少佐de:Arthur Rödl)が就任した[5]。1941年12月にヘルマン・ピスター(de:Hermann Pister)が新所長として赴任してきた。

1941年1月2日に国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒが定めた政令ではブーヘンヴァルトには「重い罪科を犯しつつも改心の見込みがある者」を収容する収容所と規定されたが、実際には釈放された者はほとんどいなかった。

アメリカ軍の接近に伴い、1945年4月3日には親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーがブーヘンヴァルトの撤収を決定。囚人たちはテレージエンシュタット強制収容所へ移送することとなったが、あまりの数に移送しきれず、囚人2万1000人を収容所に残した状態で4月11日のアメリカ軍第80歩兵師団による解放を迎えたのであった。

ここに到着するまで激しい戦闘をくぐりぬけ、死体もたくさん見てきたはずのアメリカ兵たちもブーヘンヴァルトの惨状には思わず言葉を失った。腐乱した囚人の死体があちこちに転がり、生き残っていた囚人たちも肉がほとんどなくなり骨だけになったかのようにやせ細っていたのだった。中庭には裸にされた老若男女様々な死体が山積みにされていた。この光景を見たジョージ・パットン将軍は激怒した。ドイツ人達に自国政府のしたことをしっかりと目に焼き付けさせるため、ワイマール市民をここへ連れてくるよう命じた。パットンの命令を受けた米軍憲兵隊が2000人ほどの市民を連行してきたが、連れてこられたドイツ人たちはほとんどがその光景から目をそらすか気を失ったかのどちらかだったという。

囚人について

ファイル:Buchenwald Slave Laborers Liberation.jpg
解放直後1945年4月16日のブーヘンヴァルト。下から2段目、左から7番目はエリ・ヴィーゼル[6]

1937年7月の開設の際の収容者は政治犯を中心に929人であったが、刑事犯や浮浪者、労働忌避者などの収容で数を増し[4]、1938年1月1日の時点でブーヘンヴァルトには2557人が収容されていた。さらに1939年1月1日には1万1028人になっている[7]

1938年11月の水晶の夜事件の直後、逮捕されたユダヤ人が大量にブーヘンヴァルトに送られてきたため、一時的に収容者数1万8000人を超えているが、この事件で逮捕されたユダヤ人はほとんどが数週間で釈放されたため、ブーヘンヴァルトの収容者数もまもなく1万人前後に戻っている[8]

第二次大戦開戦後は1943年1月まではブーヘンヴァルトの収容者数は大体1万人を下回るぐらいで推移している[7]

総力戦体制が強まった1943年以降、一度に1000人単位で収容者が移送されてくるようになり、1944年1月1日には収容者数3万7319人を数えている。さらに各地の閉鎖された収容所からの移送も相次ぎ、1945年1月1日には6万3048人を超え、1945年4月1日には収容者数8万人を超えてしまった[7]。その後、収容所の撤収決定があり、最後の囚人移送が開始され、アメリカ軍が到着した際には2万1000人の囚人が残っていた[9]

囚人たちはブーヘンヴァルトに送られてきてからしばらくは一時隔離用の小収容区で収容されたが、やがて大収容区に移されて強制労働分隊に編成された。ブーヘンヴァルトの外部労働分隊は1940年12月の時点では2個労働分隊(7400人が配属されていた)あったにすぎなかったが、1945年3月には107個労働分隊になっていた[10]

囚人は当初ドイツ人しかいなかったが、1938年のオーストリア併合後には旧オーストリア人(彼らの国籍はドイツ国籍に移行している)、1939年のチェコスロバキア併合後にはチェコ人も送られてくるようになった。1939年の第二次大戦の開戦とともにドイツ占領下にあるヨーロッパの様々な国の人々が送られてきた。1941年10月に最初のソ連兵捕虜の囚人が到着し、その後、ソ連捕虜の囚人がどんどん増えて、最終的に強制収容所に残っていた囚人の中で一番多かったのもロシア人収容者であった[11]

収容所の構造

ブーヘンヴァルトには5つの区域が存在した。I区には囚人用の住居スペース、II区には収容所全体の司令部、III区は看守である親衛隊員の兵舎、IV区は親衛隊の経済管理本部長オズヴァルト・ポールが経営していたドイツ軍需産業社(DAW)の作業場、V区はグストロッフ兵器工場の作業場があった。このうち囚人の生活するI区、囚人の作業場となるIV区やV区の周りには高電圧鉄条網で囲まれていた。さらに一定間隔で建てられたサーチライト機銃付きの監視塔が常に囚人たちに睨みを利かせていた。

収容所の正門には「各人に各人のものを」をという標語が掲げられていた[3]

その他

関係人物

所長

著名な看守

著名な囚人

関連項目

参考文献

  • マイケル・ベーレンバウム著、芝健介訳『ホロコースト全史』(創元社)ISBN 978-4422300320
  • オイゲン・コーゴン著『SS国家 ドイツ強制収容所のシステム』(ミネルヴァ書房)ISBN 4-623-03320-1
  • マルセル・リュビー著『ナチ強制・絶滅収容所 18施設内の生と死』(筑摩書房)ISBN 978-4480857507

脚注

  1. ^ 収容所研究の権威ウォルムセール・ミゴーは、ブーヘンヴァルトでは1937年7月から1945年3月までに5万6545人が命を落としたとしている。(マルセル・リュビー著『ナチ強制・絶滅収容所 18施設内の生と死』90ページ)
  2. ^ オイゲン・コーゴン著『SS国家 ドイツ強制収容所のシステム』177ページ
  3. ^ a b マルセル・リュビー著『ナチ強制・絶滅収容所 18施設内の生と死』65ページ
  4. ^ a b 長谷川公昭著『ナチ強制収容所 その誕生から解放まで』79ページ
  5. ^ オイゲン・コーゴン著『SS国家 ドイツ強制収容所のシステム』62ページ
  6. ^ Jewish Virtual Library[1]
  7. ^ a b c マルセル・リュビー著『ナチ強制・絶滅収容所 18施設内の生と死』78ページ
  8. ^ 長谷川公昭著『ナチ強制収容所 その誕生から解放まで』81ページ
  9. ^ マルセル・リュビー著『ナチ強制・絶滅収容所 18施設内の生と死』90ページ
  10. ^ マルセル・リュビー著『ナチ強制・絶滅収容所 18施設内の生と死』79ページ
  11. ^ マルセル・リュビー著『ナチ強制・絶滅収容所 18施設内の生と死』69ページ・90ページ

外部リンク