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ベトナム戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ベトナム戦争
ファイル:VietnamMural.jpg
戦争冷戦、第二次インドシナ戦争
年月日:1960年12月 - 1975年4月30日
場所インドシナ半島
結果:南ベトナム崩壊、北ベトナムによる赤化統一
交戦勢力
ファイル:Flag of South Vietnam.svg 南ベトナム
ファイル:Flag of the United States.svg アメリカ合衆国
ファイル:Flag of South Korea.svg 韓国
ファイル:Flag of the Republic of China.svg 中華民国
ファイル:Flag of Australia.svg オーストラリア
ファイル:Flag of the Philippines.svg フィリピン
ファイル:Flag of Thailand.svg タイ
ファイル:Flag of New Zealand.svg ニュージーランド
ファイル:Flag of the Khmer Republic.svg クメール共和国
ファイル:Flag of Laos (1952-1975).svg ラオス王国
ファイル:Flag of Vietnam.svg 北ベトナム
ファイル:FNL Flag.svg南ベトナム解放民族戦線
ファイル:Flag of Democratic Kampuchea.svg 民主カンプチア
ファイル:Flag of Laos.svgパテート・ラーオ
ファイル:Flag of the Soviet Union.svg ソビエト連邦
ファイル:Flag of the People's Republic of China.svg 中華人民共和国
ファイル:Flag of North Korea.svg 北朝鮮
指揮官
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ファイル:Flag of South Vietnam.svgグエン・カオ・キ
ファイル:Flag of South Vietnam.svgグエン・カーン
ファイル:Flag of South Vietnam.svgゴー・クァン・チュロン
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ファイル:Flag of the United States.svgジョン・F・ケネディ
ファイル:Flag of the United States.svgリンドン・ジョンソン
ファイル:Flag of the United States.svgロバート・マクナマラ
ファイル:Flag of the United States.svgウィリアム・ウェストモーランド
ファイル:Flag of the United States.svgクレイトン・エイブラムス
ファイル:Flag of the United States.svgフレデリック・ウェイアンド
ファイル:Flag of the United States.svgエルモ・ズムウォルト・ジュニア
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ファイル:Flag of the Philippines.svgフェルディナンド・マルコス
ファイル:Flag of Vietnam.svgホー・チ・ミン
ファイル:Flag of Vietnam.svgレ・ズアン
ファイル:Flag of Vietnam.svgレ・ドゥク・ト
ファイル:Flag of Vietnam.svgグエン・チー・タイン
ファイル:Flag of Vietnam.svgファム・フン
ファイル:Flag of Vietnam.svgヴォー・グエン・ザップ
ファイル:Flag of Vietnam.svgヴァン・ティエン・ズン
ファイル:Flag of Vietnam.svgレ・ドゥック・アイン
ファイル:FNL Flag.svgグエン・フー・ト
ファイル:FNL Flag.svgフイン・タン・ファト
ファイル:FNL Flag.svgチャン・ヴァン・チャ
ファイル:Flag of the People's Republic of China.svg周恩来
ファイル:Flag of the People's Republic of China.svg林彪
ファイル:Flag of the Soviet Union.svgニキータ・フルシチョフ
ファイル:Flag of the Soviet Union.svgアレクセイ・コスイギン
ファイル:Flag of the Soviet Union.svgレオニード・ブレジネフ
ファイル:Flag of North Korea.svg金日成
戦力
延べ1,200,000(1968)
南ベトナム軍
650,000
アメリカ軍
553,000
韓国軍
312,853
タイ軍
12,000
フィリピン軍
10,000
オーストラリア軍
49,968
ニュージーランド軍
500
延べ520,000(1968)
北ベトナム軍
340,000
南ベトナム解放民族戦線
170.000
ソ連軍
3,000
北朝鮮軍
300
損害
推定戦死者 285,000
行方不明者 1,490,000
民間人死者 1,581,000
推定戦死者 1,177,000
行方不明者 604,000
民間人死者 3,000,000

ベトナム戦争

ベトナム戦争(ベトナムせんそう、英語: Vietnam Warベトナム語: Chiến tranh Việt Nam漢字戰爭越南 )は、インドシナ戦争後に、ベトナムの南北統一を巡って起こった戦争である。

目次

概要

ベトナム戦争は、第一次インドシナ戦争の延長上にある戦争のため、第二次インドシナ戦争とも言われる。宣戦布告なき戦争であるため、ベトナム戦争がいつ開始されたかについては諸説あり、ベトナム人同士の統一戦争という観点からは、南ベトナム解放民族戦線が南ベトナム政府軍に対する武力攻撃を開始した1960年12月という説が一般的であるが、アメリカ合衆国北ベトナムの戦争という観点からは1965年2月7日北爆開戦とする説もある。1975年4月30日サイゴン陥落時が終戦である。

ベトナム戦争の本質として、独立戦争の終結時にフランスとアメリカ合衆国がベトナム全土の共産化を抑止するために、傀儡国家の南ベトナムを建国し、ジュネーヴ協定が定めた統一選挙が行われず、分断国家状態が継続されていたので、アメリカ合衆国の傀儡国家である南ベトナムを打倒してベトナム人によるベトナム統一国家の建国を求める戦争という観点と、アメリカ合衆国を盟主とする資本主義陣営とソビエト連邦を盟主とする共産主義陣営との対立(冷戦)を背景とした「代理戦争」という観点もあり、二つの本質を合わせ持った戦争だった。

第一次インドシナ戦争終結後も北ベトナムが南ベトナムを執拗に攻撃し続けたため、アメリカのドワイト・D・アイゼンハワー政権は少数のアメリカ軍人からなる「軍事顧問団」を南ベトナムに派遣していた。ジョン・F・ケネディはベトナムからの早期撤退を計画するが、その計画はケネディ暗殺で頓挫した。ジョンソン大統領は逆にベトナム戦争介入を積極的に行い、ベトナム戦争介入を泥沼化させた。

なおアメリカの他には、SEATO(東南アジア条約機構)の主要構成国である大韓民国タイフィリピンオーストラリアニュージーランドが南ベトナムを支援して派兵している他、スペインは医師を含む兵士13名を派遣し、パラグアイニカラグアが同盟国であるアメリカを支援するための派兵を申し出ている。

ソビエト連邦や中華人民共和国は北ベトナムに対して膨大な軍事物資支援を行うとともに、正規軍人からなる多数の軍事顧問団を派遣したが、アメリカやSEATO諸国のように前面に出る形での参戦は行わなかった。さらにソビエト連邦は西側諸国で行われた反戦運動に様々な形での支援を行っていた。また、北朝鮮が北ベトナム側で飛行大隊を派遣し、ハノイの防空を支援した。

年表

開戦の背景

冷戦と独立運動

1945年8月15日に日本軍が連合国に対して降伏すると、アジアアフリカにある多くの植民地で、支配国である連合国の疲弊を好機と見て、軍事行動を伴う激しい独立運動が発生した。この動きは、植民地の維持を目論む連合国と、植民地からの解放を欲する植民地国民の間で紛争が頻発した。

アジアやアフリカ、特にアジアの独立運動は、戦勝国であるソビエト連邦政府アメリカ政府のいずれかによって指導・支援されている例が多かった。ヨシフ・スターリン政権のソビエト連邦は、ハリー・トルーマン政権のアメリカに対抗する為に、世界中を共産化するため、共産主義労働者階級・革命勢力を支援した。そして、米ソ共に核兵器を保有していることから、直接戦争を起こすことを避けて、「冷戦」と呼ばれる構造が成立した。

この米ソの対立は、ベルリン封鎖朝鮮戦争キューバ危機に見られるように、「代理戦争」という形で表面化した。資本主義の盟主を自認するアメリカ政府は、中華人民共和国の成立や、東ヨーロッパでの共産主義政権の成立を「ドミノ倒し」に例え、一国の共産化が周辺国にまで波及するという「ドミノ理論」を唱え、アジアや中南米諸国の反共主義勢力を支援して、各地の紛争に深く介入するようになった。

インドシナ共産党、コミンテルンの指示による総蜂起

ファイル:JACQUESLECLERC.JPG
フィリップ・ルクレール将軍


1940年8月に、日本軍フランスの植民地であるフランス領インドシナに進駐すると(仏印進駐)、第二次世界大戦が終わるまで、フランス領インドシナはフランス軍と日本軍による領有権戦争の最中にあった(→ヴィシー政権)。その後、1945年8月9日長崎に原子爆弾が投下されると、その4日後の8月13日にはベトナム八月革命が勃発し、コミンテルンの構成員で、ベトナム独立同盟の指導者の地位にあったホー・チ・ミンは、日本軍政下で独立していたベトナム帝国(元首:阮朝皇帝バオ・ダイ。首班:チャン・チョン・キム)を倒し、日本軍が手放した保安隊や警察署など政府機関の接収に成功した。

その後、ホー・チ・ミンが率いる革命軍は、ポツダム宣言が調印された9月2日に、ハノイを首都とするベトナム民主共和国(北ベトナム)を樹立し、国民からの支持が高かったバオ・ダイ帝を「最高顧問」に迎えつつ、共産主義を基礎にした国家建設を目指した。

分離独立

太平洋戦争終結後、アメリカのルーズベルトはアジアの独立を主張したが、イギリスのチャーチルと宗主国であったフランスのド・ゴールは植民地時代の復帰を求めた。そして、1945年7月26日連合国によって開かれたポツダム会議で、インドシナの処理は決まっていた。北緯16度線を境に、北は中華民国軍、南はイギリス軍が進駐して、約6万のインドシナ駐留日本軍を武装解除してフランス軍に引き継ぎ、インドシナの独立を認めないという内容である。これを受けて、9月6日には駐英領インド軍の部隊がサイゴンに入り、9月9日には盧漢将軍率いる中華民国軍がハノイに入った。これらの連合国軍は、日本軍の収容所に入れられていたフランス軍将兵を解放し、9月21日にはイギリス海軍艦艇に乗った最初のフランス軍部隊がサイゴンに上陸した。

その後も、連合国の一員であり、インドシナを日本軍から奪還して植民地支配を続けようとするフランス政府は、ホー・チ・ミンら共産主義政権の強引な独立を認めず、会談の結果、1946年3月6日にベトナム民主共和国を「フランス連合」の一員として認める合意に達した。

この協定によりフィリップ・ルクレール将軍指揮下のフランス軍部隊がハノイに入り、5月までにラオスにも兵力を配置するなどインドシナ一帯に再進駐すると、ベトナム民主共和国からコーチシナを分離する目的で、1946年3月にインドシナ南部に傀儡国家であるコーチシナ共和国を成立させ、グエン・バン・ティンを首班に置いた。

第一次インドシナ戦争

更にフランス軍は、1946年12月19日にベトナム民主共和国へ武力攻撃を開始し、ここに第一次インドシナ戦争が勃発した。またフランスは、1948年に「ベトナム臨時中央政府」を発足させ、1949年6月にはサイゴン市(現ホーチミン市)を首都とするベトナム国を成立させて首班に国民の人気が高かったバオ・ダイ帝を据え、ベトナム人民の支持を得ようとしたが失敗した。

なお、バオ・ダイ帝は上記のように、ベトナム国の成立以前にホー・チ・ミンによりベトナム民主共和国政府の「最高顧問」に任命されたが、その後思想や意見の対立からフランスに亡命した。

フランス連合下における独立の模索と共産勢力の台頭

その後フランスは、インドシナ全土に影響力を残しつつも、フランス連合の統治下から外交と交渉による手段で同じインドシナのラオスを1949年7月に、カンボジアを1949年11月に独立させ、いずれは緩やかな方式によって徐々にベトナム国家の自主独立の正当性を示唆した。しかし、翌1950年1月にスターリンソ連と、成立直後で自らも国家国際承認を受けてすらいない毛沢東による中華人民共和国が、ベトナム民主共和国を正統政権と認証し、武器援助・資金援助を開始した。

南ベトナム・アメリカからの軍事援助

ファイル:2eBEP en Indo.jpg
ベトナムに展開するフランス軍兵士。後方にアメリカから貸与されたグラマンF8F戦闘機が写っている

ハリー・S・トルーマン政権下のアメリカはこれに対抗し、1950年12月にはサイゴンにてフランスのジャン・ルトルノー海外担当大臣とアメリカのヒース公使、ベトナム国のチャン・バン・フー首相の三者会談により軍事援助協定が結ばれ、アメリカはフランス軍とインドシナ三国に軍事援助を開始した。

アメリカからの援助は1952年度までに年額約3億ドルに及び、ドワイト・D・アイゼンハワーが大統領に就任した1953年には約4億ドルに上った。4年間の援助総量は航空機約130機、戦車'約850輌、舟艇約280隻、車両16,000台、弾薬1億7千万発以上、医薬品、無線機などが送られている。また、アメリカ軍事顧問団は約400人程度が派遣され、ベトナム国軍など現地部隊の教育訓練を開始し、フランス軍の兵力不足を補うべく活動した。

その後もアメリカからの軍事支援を受けたフランス軍は、ソ連中華人民共和国からの軍事支援を受けたホー・チ・ミンが率いるベトナム民主共和国軍と各地で鋭く対立を続け、アンリ・ナヴァール将軍指揮下の精鋭外人部隊など、クリスチャン・ド・カストリ大佐を司令官とする1万6000人の兵力を投入し、ベトナム民主共和国軍との戦闘を続けた。

ディエンビエンフーの戦い

ファイル:French indochina 1953 12 1.png
ディエンビエンフーで戦うフランス兵

しかし、現地兵とモロッコアルジェリアおよびセネガル等の他の植民地人達の士気は低く、敢闘していたのは外人部隊と志願兵からなる落下傘隊員であった。ヴォー・グエン・ザップ将軍指揮下のベトミンによる組織的な反撃を受け、1953年に入るとフランス軍は空母を派遣するなど立て直しを図るものの、劣勢に立たされた。

1953年11月20日には、「カストール作戦」が実施され、ベトミンが展開するラオス国境に近いディエンビエンフーを制圧することで、ベトミンの動きを封じようとしたものの、1954年5月にディエンビエンフーの戦いでフランス軍は敗北し、事実上壊滅状態に陥る。なお、アメリカの統合参謀本部はこれに対し、フィリピンに展開しているボーイングB-29爆撃機による支援爆撃を主張したが、アイゼンハワー大統領はこれを棄却した。

ジュネーヴ会談

これに先立つ4月26日にはスイスジュネーヴに関係国の代表が集まり、インドシナ和平会談(ジュネーヴ会談)が開始された。参加国は当事国のフランスとベトナム国、ベトナム民主共和国、さらに、アンソニー・イーデン外務大臣を議長として送り込んだイギリスとアメリカ、カンボジア、ラオス、ソ連、中華人民共和国であった。

なおディエンビエンフー陥落後も、ベトミンはトンキンデルタに展開するフランス軍にゲリラ攻撃を仕掛け、各地の攻撃を実施した。同年6月にフランス軍はプーリー、ソンタイ、ラクナム、ハイフォンを結ぶ一帯から撤収を開始、7月にハノイ-ハイフォン回廊に撤退し、ここに至りフランス軍の敗北は決定的となる。

南北分離独立

ファイル:HD-SN-99-02044.JPEG
南部ベトナムへ逃れる難民

フランス軍の敗北が避けられないものとなった7月に、インドシナ和平会談において関係国の間で和平協定である「ジュネーヴ協定」が成立した。これにより第一次インドシナ戦争の終結とフランス軍のインドシナ一帯からの完全撤退、並びにベトナム民主共和国の独立が承認されることになった。そして北緯17度を南北の軍事境界線とし、1956年7月に南北全土で自由選挙を行い統一を図ることが決定された。

しかし、アメリカのジョージ・ケナンらが提唱する、冷戦下における共産主義の東南アジア台頭(ドミノ理論)を恐れ、第一次インドシナ戦争中を通じて同盟関係にあるフランスを積極的に支援し続けたアメリカは、フランスの傀儡政権だったベトナム国を17度線の南に存続させた。

また、宗教の存在を否定する共産主義者による統治を嫌う北ベトナムに住むカトリック教徒の多くは、ベトナム民主共和国の独立に伴いベトナム国へ難民として逃れた。

さらに、南北の境界線が確定された際、ベトナム国民が双方の好む体制側に移動することがジュネーブ協定によって認証され、60日間の猶予で行なわれたが、北ベトナムの総人口のうち、1300万のうち、100万もの大衆が南ベトナムへ移動し、それとは逆に南から北へ移動した国民は僅かに9万であったという。

経過

南・アメリカによる支援

ジュネーヴ協定成立の翌年の1955年に南ベトナムで実施された大統領選挙で、元CIA工作員でアメリカ空軍准将のエドワード・ランズデールが支援した反共産主義者のゴ・ディン・ジエム首相が大統領に当選し、アメリカの支援を受けたベトナム共和国(通称南ベトナム)が成立した。これに伴いバオ・ダイ帝は退位し、ベトナム国は消滅した。

ゴ・ディン・ジエムはジュネーヴ協定に基づく南北統一総選挙を拒否した。これは、一党独裁下の共産圏においてまともな『選挙』が実施されるかどうかという保障がなく、また、この選挙には国際的にも監視役もおらず、この状態で選挙を実施すれば、全土が共産化して、周辺諸国にも共産化の波=ドミノ理論が拡散し、東南アジア一帯が共産化するのではないかとの危機感を抱いたのである。隣国のインドネシアインドネシア共産党は中国共産党に匹敵する規模であり、実際1975年ベトナム戦争終結後には、ドミノ理論は本当に実証され、その後のポル・ポトカンボジア、またラオスがそれぞれ共産化した。北ベトナムは南北統一選挙に勝てるという勝算を踏んでいたがこのことでますます南北間の対立が先鋭化することになる。

アイゼンハワー政権下のアメリカは「ドミノ理論」を根拠に、反共的な姿勢を堅持したジエム政権をフランスに代わり軍事、経済両面で支え続け、南ベトナム軍への重火器や航空機の供給をはじめとする軍事支援を開始するなど、本格的な支援を開始した。しかし、ジエム大統領一族による独裁化と圧制が南ベトナム国民を苦しめることとなり、ジエム大統領は国民の信頼を次第に失いつつあった。

南ベトナム解放民族戦線

ジュネーブ協定に基づく南北統一選挙が行なわれなかったことに不満を受け、1959年に北ベトナムは、南ベトナムの武力解放戦争を検討し始めた。この北ベトナムの高圧的ともいえる姿勢や南ベトナムの政情不安・混乱により、1960年12月に、南ベトナム解放民族戦線(ベトコン=越共、正しい略称は「NLF」で「National Liberation Front」の略)が結成された。NLFは「ジュネーブ協定を無視したジエム政権とその庇護者であるアメリカの打倒」との名目を掲げて、南ベトナム軍と政府に対するゲリラ活動テロ活動を活発化させて宣戦布告し、政府軍との内戦状態に陥った。

そして南に存在した「NLF」はわずか2年の間で4000名という雨後のタケノコのごとくにまで拡大した。 後日トナム人民軍のボー・グエン・ザップは、「北はわが軍にとって広大なる後衛」「南は前衛である」と述べている事もわかるとおもうが、「NLF」は、当初は、腐敗・機能不全のジェム政権にたいする抗議・抵抗運動が起点であったが、しだいに北ベトナムの工作員がソ連・中華人民共和国の軍事力を背後に操りあたかも南の愛国的な大衆による決起を意味し、民族独立運動のごとくみせかけていたのではなかったかという説が今では定説である。北側の工作機関に乗っ取られたという事実は、1975年のサイゴン陥落後、「NLF」の要人達が統一政権の政府要人に就任すらされず、ごれどころか逆に『思想キャンプ』という強制収用所に送られたことからもわかる。

前述のように「NLF」はジェム政権と後ろ盾のアメリカにたいする抗議・抵抗運動からはじまった。当初は民族主義者としての顔をもちあわせていた。南ベトナム政府の姿勢に反感を持った仏教徒や学生、自由主義者などの、共産主義者とは縁遠い一般国民も多数参加していた。しかし、戦闘の激化によって次第に北ベトナムの工作機関と化しホーチミンルートを経由して中華人民共和国や北朝鮮、ソビエト連邦などの共産主義国から多くの武器や資金、技術援助を受けていた。

ケネディの早期撤退計画

ケネディはその大統領就任中に、ベトナム戦争からの早期撤退を計画した(フォッグ・オブ・ウォー、マクナマラ元国防長官の告白参照)。ケネディはテレビインタビューに対し、「(南ベトナム)政府がたいへんな努力をして支持されない限り、ベトナムで勝とうとは思わない。最終判断として、ベトナム戦争はベトナム人の戦争であり、勝つのも負けるのも彼らである。[1]」と述べた。しかし、撤退計画はケネディ暗殺によって頓挫し、後任のジョンソン大統領によってベトナム戦争への介入は逆に押し進めらて、ベトナム戦争は泥沼化した。映画 The Fog of Warではジョンソン大統領がマクナマラ国防長官に、ケネディの撤退計画に反対だったことを告げるとともにベトナム戦争への介入を指示している肉声の電話記録が公表されている。ケネディの急進的なベトナム戦争撤退の方針が産軍複合体の利害と対立して、ケネディ暗殺につながったという一説がある。映画JFKはこの可能性を追及して話題となった(南ベトナム建国に関与したランズデールをモデルにした「Y将軍」の暗躍が語られている)。

韓国軍の参戦

1961年11月クーデターにより政権を掌握した朴正熙国家再建最高会議議長はアメリカを訪問するとケネディ大統領に軍事政権の正統性を認めてもらうことやアメリカからの援助が減らされている状況を戦争特需によって打開することを意図してベトナムへの韓国軍の派兵を訴えた[2]。ケネディ大統領は韓国の提案を当初は受け入れなかったが、ジョンソン大統領に代わると1964年から段階的に韓国軍の派兵を受け入れた[2]

1965年から1972年にかけて韓国では「ベトナム行きのバスに乗り遅れるな」をスローガンに官民挙げてのベトナム特需に群がり三星現代韓進大宇などの財閥が誕生した[2]。アメリカはその見返りとして、韓国が導入した外資40億ドルの半分である20億ドルを直接負担し、その他の負担分も斡旋し、日本からは11億ドル、西ドイツなどの西欧諸国からは10億3千万ドル調達した。また、戦争に関わった韓国軍人、技術者、建設者、用役軍納などの貿易外特需(7億4千万ドル)や軍事援助(1960年代後半の5年間で17億ドル)などによって、韓国は漢江の奇跡と呼ばれる高度成長を果たした[3]

1965年8月13日に、韓国国会がベトナム派兵に同意する[4]。1965年10月には、陸戦部隊である大韓民国陸軍陸軍首都師団(通称:猛虎部隊)1万数千を派兵して本格的に参戦、国内の最精鋭部隊を投入し、1966年9月3日には同陸軍第9師団(通称:白馬部隊)もベトナムに上陸する[5]

タイ王国フィリピンオーストラリアニュージーランドなどを含むSEATOの加盟国も、アメリカの要請によりベトナムへ各国の軍隊を派兵したが、韓国軍はSEATO派兵総数の約4倍の規模で、アメリカ以外の国としては最大の兵力を投入した。これは、米韓の協定により、派兵規模に応じた補助金と対米移民枠を得られたこと、軍事統制権をアメリカが持っており自身に権利が無かったこと、さらに韓国自体が、北朝鮮や中華人民共和国などの軍事的脅威を身近に感じていたため、共産主義勢力の伸張に対して強い危機感を持っていたことが理由である。

この派兵の際、各地で韓国軍による戦争犯罪があったとされ、韓国軍兵士は少なくともベトナム人住民9000人を虐殺[2]強姦事件なども起こした。また、30万人を超す犠牲者の数だったとも言われている[6]。 生存者の韓国軍の行為に関する証言で共通な点は、無差別機銃掃射や大量殺戮、女性に対する強姦殺害、家屋への放火などが挙げられている[7]。また韓国人とベトナム人女性との間に多数の韓越混血児が生まれたことが確認されている(「ライタイハン」)。1966年2月、ビンディン省タイビン村では韓国軍猛虎部隊が住民68名を集めて婦女子を含む65名を虐殺している[2]

アメリカ政府による韓国軍への給料支給

ファイル:CongressBuilding SEATO.jpg
1966年にフィリピンマニラで行われたSEATO会議に出席した南ベトナムのキ首相、オーストラリアのホルト首相、韓国の朴大統領、フィリピンのマルコス大統領、ニュージーランドのホロヨーク首相、南ベトナムのチュー大将、タイ王国のキティカチョーン首相、アメリカのジョンソン大統領(左から)
年度 手当支給額(ドル) 韓国への送金額(%) ベトナムでの消費額(%)
総計 235,568,400 195,110,800(82.8%) 40,839,000(17.3%)
1965年 3,059,100 1,797,300(58.8%) 1,261,800(41.2%)
1966年 19,757,600 14,882,200(75.3%) 4,875,400(24.7%)
1967年 33,906,800 27,689,200(81.7%) 6,217,600(18.3%)
1968年 36,599,500 29,409,800(80.4%) 7,189,700(19.6%)
1969年 36,982,700 31625800(85.5%) 5,356,900(14.5%)
1970年 36,128,600 29,372,900(81.3%) 6,755,700(18.7%)
1971年 35,668,000 30,294,600(84.9%) 5,373,400(15.1%)
1972年 29,519,200 25,710,700(87.0%) 3,808,500(13.0%)
1973年 3,946,900 4,328,300(109.6%) -
[8]

仏教徒弾圧

ファイル:Madame Ngô Đình Nhu and Lyndon Baines Johnson.jpg
マダム・ヌーとジョンソン副大統領

1960年代に入ると、自らが熱心なカトリック教徒であり、それ以外の宗教に対して抑圧的な政策を推し進めたジェム政権に対し、南ベトナムの人口の多くを占める仏教徒による抗議行動が活発化した。1963年5月にユエで行われた反政府デモでは警察がデモ隊に発砲し死者が出るなどその規模はエスカレートし、同年6月には、仏教徒に対する抑圧を世界に知らしめるべく、事前にマスコミに対して告知をした上でサイゴン市内のアメリカ大使館前で焼身自殺をしたティック・クアン・ドック師の姿がテレビを通じて全世界に流され、衝撃を与えるとともに、国内の仏教徒の動向にも影響を与えた。

これに対してジェム大統領の実弟のゴ・ディン・ヌー秘密警察長官の妻であるマダム・ヌーが、「あんなものは単なる人間バーベキューだ」とテレビで語り、この発言に対してアメリカのケネディ大統領が激怒したと伝えられた。南ベトナムではその後も僧侶による抗議の焼身自殺が相次ぎ、これに呼応してジェム政権に対する抗議行動も盛んになった。

ジェム大統領暗殺

ファイル:Diem dead.jpg
クーデターで殺されたジェム大統領

この様な混沌とした状況下において、南ベトナム軍内の反ジェム勢力と、アメリカ軍の「軍事顧問団」と近い南ベトナム軍内の親米勢力(この2つの勢力は事実上同一であった)によって反ジェムクーデターが計画され、その状況は南ベトナム軍事援助司令部を経由してケネディ政権にも逐次報告されるようになっていた。

11月2日に発生したクーデターにより、ジェム大統領とヌー秘密警察長官は反乱部隊により政権の座から下ろされ、逃げ込んだサイゴン市内のチョロン地区にあるカトリック教会の前に止めた反乱部隊の装甲兵員輸送車の中で殺害された。これを受けてヌー秘密警察長官の妻であるマダム・ヌーをはじめとするジェム政権の上層部も国外へ逃亡し、ジェム大統領とその一族が南ベトナムから姿を消したその当日には、南ベトナム軍の軍事顧問で将軍でもあり、アメリカ軍と深い関係にあったズオン・バン・ミンを首班とした軍事政権が成立する。

なお当初、「ジェム大統領は自殺した」と伝えられていたため、ジェム大統領が信仰心の篤いカトリック教徒であることを知っていたケネディ大統領は、「『自殺した』との報告に非常に大きな衝撃を受けていた」とマクナマラ国防長官は証言している[9]

ケネディ大統領がどこまで反ジェムクーデターに関与、支持していたのかについては議論が分かれている[10]が、後にマクナマラ国防長官はこの反ジェムクーデターに対して「ケネディ大統領はジェム大統領に対するクーデターの計画があることを知りながら、あえて止めなかった」と、ケネディ大統領が事実上反ジェムクーデターを黙認したことを証言している[11]上に、ケネディ大統領から上記のような訓令を受けたロッジ大使もマクナマラ国防長官と同様の証言を行っている。いずれにしてもクーデターの発生とジェム大統領殺害の報告を受けたケネディ大統領は、「このクーデターにアメリカは関係していない」との声明を出すように指示した。  

南ベトナム情勢の混乱

アメリカ政府はクーデターにより南ベトナム情勢が安定することを期待していたが、その目論見は裏目に出ることになる。 クーデターは、反乱に参加した将校達の権力闘争を容認する結果となったのである。その後も戦時下に関わらず、南ベトナム政府内では13回ものクーデターが発生するという異常事態に陥る。この様な状況下において、親米的なミン大統領の軍事政権はアメリカ政府に歓迎されたものの、南ベトナム解放民族戦線との戦闘に注力しなかったことから南ベトナム軍内部の離反を招くこととなり、1964年1月30日グエン・カーン将軍を中心とした勢力がクーデターを起こし、ミン大統領は隣国のタイ王国へと追放されることとなった。しかしミン元大統領は、追放された直後にカーン将軍の指示を受けて南ベトナムへ戻り2月8日に大統領の座に復帰する。

アメリカはその後もカーン将軍やミン大統領らの一派を全面的に支援したものの、その後大統領に就任したカーン将軍は、南ベトナム解放戦線との和解の可能性を模索し始めたために南ベトナム軍の支持を失いまもなく大統領の座から去った末に、1965年2月25日グエン・バン・チューら南ベトナム軍部強硬派によるクーデターにより失脚させられフランスへの亡命を余儀なくされる。その後同じく親米的な軍人であるグエン・カオ・キが首相に、チューが国家元首に就任(1967年9月の選挙で正式に大統領に就任)する。

カーン将軍の失脚を機に再度亡命したミン元大統領は1968年に帰国するが、強硬派のチュー政権を支持せず、北ベトナム政府及び南ベトナム解放民族戦線に対しては強硬姿勢をとらない穏健派勢力として活動する。なお、ミン元大統領はその穏健派としての姿勢を買われ、最後の停戦交渉を行うことを目的に、ベトナム戦争終結前日の1975年4月29日に、1965年から10年間に渡り国家元首を経て大統領を務めたチューにかわり再び大統領に就任するものの、大統領就任翌日の4月30日にサイゴンが陥落、1日限りの大統領復帰となった上に、南ベトナム最後の大統領となりその後北ベトナムに抑留されることとなった[12]

この様に、南ベトナムの軍や政府の高官が、たとえ国家が戦争状態に置かれている状態にあっても軍事クーデターによる権力獲得競争に力を注ぎ、またアメリカから援助を受けた最新の兵器を装備した自軍の精鋭部隊の多くを、クーデター阻止のためにサイゴンに駐留させた(その場合、多くが次のクーデターの際に反乱側の実行部隊となった)ため、アメリカがいくら軍事援助をしても南ベトナム軍の戦闘力が強化されず、また士官から兵士に至るまで士気も上がらない状態になっており、この様な体たらくはベトナム戦争発生当時からサイゴン陥落まで一貫して続き、結果的に南ベトナム解放戦線と北ベトナムを利する結果となった。

北・中ソからの援助

北ベトナムのベトナム労働党は第15回党大会を行なった際、「南部における革命の基本的な方向は暴力を使用した革命であり、特殊事情、および現下の革命要請によれば、暴力使用路線は、軍事力と連動したかたちで帝国主義者の支配を転覆し、人民による革命的統治を築くため大衆の力を利用し、大衆の政治力に依存する事を意味する」と結んでいたが、その5年後、本格的に南部に対する攻勢を高めていく。1964年、ソ連は軍事顧問団を派遣した上に1965年2月にはアレクセイ・コスイギン首相がハノイ入りした。

また、社会主義の建設方法で対立していた中華人民共和国も北ベトナムの軍事支援の増大のために、同年5月には、秘密裏に中国人民解放軍の軍事顧問団の派遣をおこなった。

トンキン湾事件

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アメリカ海軍のUSS マドックスが1964年8月2日にトンキン湾で撮影した北ベトナム海軍の魚雷艇

その後アメリカ軍は、1964年8月2日8月4日トンキン湾で発生した北ベトナム海軍の魚雷艇によるアメリカ海軍駆逐艦マドックス」への魚雷攻撃事件(トンキン湾事件)への報復を口実に、翌8月5日より北ベトナム軍の魚雷艇基地に対する大規模な軍事行動を行った。

この軍事行動はアメリカ国民からの支持を受け、8月7日には、上下両院で事実上の宣戦布告となる「トンキン湾決議」が可決され、民主党と共和党の議員の多くがこれを支持しジョンソン大統領への戦時大権を承認、本格的介入への道が開かれた。

なお、1971年6月にニューヨーク・タイムズの記者が、ペンタゴン・ペーパーズと呼ばれるアメリカ政府の機密文書を入手し、8月4日の2回目の攻撃については、ベトナム戦争への本格的介入を目論むアメリカが仕組んだ捏造した事件であったことを暴露し、マクナマラ国務長官も1995年に同様の内容を告白している。捏造は8月4日の事件であり、8月2日に行われた最初の攻撃は、アメリカ海軍の駆逐艦を南ベトナム艦艇と間違えた北ベトナム海軍の魚雷艇によるものであることが北ベトナム側も認めている。

ジョンソンの再選

この様にベトナムにおけるアメリカ軍による軍事活動が拡大していく状況下において、同年11月3日にはアメリカ大統領選挙の一般選挙が行われた。なお、一般投票に先立つ予備選挙では、与党の民主党はジョンソン大統領を、野党の共和党はバリー・ゴールドウォーターをそれぞれ大統領候補に指名していた。

ケネディ前大統領の暗殺を受けてわずか1年足らず前に大統領職を継いだジョンソン大統領は、公民権法制定などの実績をアピールしつつ、対立候補である共和党のゴールドウォーターを、「人種差別主義者(ゴールドウォーターは公民権法制定時に反対票を投じていた)」、「1930年代に創られた社会福祉プログラム(例えば社会保障)の廃止を望んでいる」として、「ゴールドウォーターが当選すればこの国をソビエト連邦との核戦争に突入させるかもしれない」と極右と印象付けるネガティブ・キャンペーンを行った。なお、この時点においては南ベトナムに送られたアメリカ軍や軍事顧問団の死傷者数もそれほど大きくなかったこともあり、ベトナム政策が選挙の大きな争点となることはなかった。

ジョンソン大統領はこれらの要素をうまく働かせて、50州のうち44州とコロンビア特別区を制し、一般投票が初めてアメリカ全体に広げられた1824年以降最大の得票率を獲得し破り、改めてアメリカ国民からの信任を得た形となった。ジョンソン大統領は自らが圧勝しただけでなく多くの共和党議員も落選させ、議会で保守派連合に打ち勝つ多数派与党を確保させた。

なお、ジョンソン政権の第二期においても、マクナマラ国防長官やディーン・ラスク国務長官などの、ケネディ政権とジョンソン政権第一期でベトナムへの軍事介入を推し進めた主な閣僚は引き続き留任することとなった。

北ベトナム・中ソからの軍事援助

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ソ連から北ベトナム軍に貸与されたT-54戦車

アメリカによるベトナムにおける軍事活動が拡大を続ける中、1964年にソ連は北ベトナムへの全面的な軍事援助の開始を表明した。なお、これまで北ベトナム軍への軍事援助を行っていた中華人民共和国からは、軽火器の供給は豊富にあったが重火器の供給はほとんどなかったため、ゲリラ的な攻撃しか行うことができなかったものの、これ以降ソビエト連邦から最新式の戦闘機や戦車、対戦車砲などの重火器の供給を受けることが可能になり、軍事力の継続的な増強が実現することとなった。

なお、ソ連と対立していた中華人民共和国も、ソ連による北ベトナム軍への軍事援助の増大に対抗つとめた。

これ以降北ベトナム軍と南ベトナム解放戦線の標的は、南ベトナム軍だけでなく、南ベトナム軍へ「軍事顧問団」の派遣を行っているアメリカ軍へも向くこととなる。コスイギン首相の北ベトナム訪問が行われた1965年2月には、南ベトナム解放戦線がブレイクのアメリカ軍基地を爆破し、多数のアメリカ軍将校を殺害した。

なお、初のアメリカの正規軍との戦闘となったトンキン湾事件でも、北はアメリカ軍側に死者を出している報告がなく、この事件でアメリカ軍に多くの死者を出した。つまり先に北ベトナムが南ベトナムに対して戦争活動を起こした上に、先に北ベトナム軍がアメリカ軍人を殺害したのである。この事が不幸にもアメリカの北爆を始めとする無差別爆撃や、ケネディ政権時代から使用され続けている枯葉剤使用の大義名分となってしまった。

北爆開始

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空母「レンジャー」の艦上に展開するノースアメリカンRA-5偵察機やマクドネル F-4戦闘機
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ソ連から北ベトナム軍に貸与されたミコヤンMiG-21初期型

ブレイクのアメリカ軍基地が攻撃を受け、将校が多数殺害されたことに激怒したジョンソン大統領は即日、既にベトナム近海に派遣していたアメリカ海軍の正規空母の「コーラル・シー」や「レンジャー」、「ハンコック」などを中心としたアメリカ海軍第7艦隊の艦載機を中心とした航空機で、首都のハノイハイフォンドンホイにある兵員集結地などの北ベトナム中枢への報復爆撃、いわゆる「フレイミング・ダート作戦」を命令した。

またその後の3月26日には、初の大規模な組織的爆撃(北爆)である「ローリング・サンダー作戦」を発令し、北ベトナム沿岸部の島々とヴィン・ソンなどにある北ベトナム軍の基地を、空軍のノースアメリカンF-100マクドネルF-105戦闘爆撃機などで爆撃させた。ただし、F-105はリパブリック社主契約という説もある。

当初アメリカ軍による爆撃は、北ベトナムの発電所ダムのみならず、市街地に近い軍需工場や兵器・物資集積所、港湾施設、飛行場、空軍基地に対する攻撃が禁止されていたなど極めて限定的なものであった。これは、当時北ベトナムを支援していたソ連の軍事顧問団の存在がこれらの各施設内および周辺に確認されており、万一誤爆しソ連の軍事顧問団の将官が死傷した場合は、米ソ直接対決やアメリカの国内世論の猛反発を受けるのが必至とされていたからであった。これは防空体制が貧弱な北ベトナム軍にとって極めて有利な状況に働いた。

この様な状況を受けて、北ベトナムはハイフォン、ホンゲイ等の重要港湾施設に必ず外国船を入港させておき、アメリカ軍によるあらゆる攻撃を防ぐ事に成功した。さらにはアメリカ軍による北ベトナム国内の空軍基地や飛行場への攻撃禁止は北ベトナム空軍に「聖域」を与えた。北ベトナム空軍に対してソ連から貸与された、ミコヤンMiG-17MiG-19、ミコヤンMiG-21といったソ連製迎撃戦闘機は発着陸で全く妨害を受けなかったので、アメリカ軍機を相手に存分に暴れても損害は最小限に抑えられた。なお、これらのソ連からの貸与機の一部は、北ベトナム軍パイロットに操縦訓練を施すために派遣されたソ連人パイロットが操縦していたことが確認されている。

これに対して、アメリカ海軍航空隊の最新鋭機であるマクドネルF-4F-105戦闘爆撃機の被撃墜が続出したことから(さらに4月29日には、中華人民共和国の領空を侵犯したアメリカ海軍第96戦闘飛行隊のF-4Bが、中国人民解放軍空軍の戦闘機に撃墜されている)、精密誘導兵器を殆ど運用していなかった当時の海軍航空隊や空軍の現場部隊からは「貴重なパイロットを大勢殺しておきながら何ら効果をあげられていないではないか」と苦情が相次ぎ、アメリカ国防総省も乏しい戦果の割に被害続出というコストパフォーマンスの悪さとパイロットの損失の多さを認め、1967年4月末には殆どの制限が撤廃された。

これは直ちに効果をあげ、その後北ベトナム軍は空軍基地や飛行場がアメリカ軍による大規模な爆撃を受けたために、迎撃戦闘機が不足するほどであった。アメリカ空軍は新鋭のF-111戦闘爆撃機の他、当時、「死の鳥」と言われたボーイングB-52戦略爆撃機(「ビッグベリー」改造を受けたD型が主力)を投入、ハノイやハイフォンなどの大都市のみならず、北ベトナム全土が爆撃と空襲にさらされることとなる。これに対してベトナム民主共和国は、ソビエト連邦や東欧諸国、中華人民共和国の軍事支援を受けて、直接アメリカ軍と戦火を交えるようになった。

なお、グアム島や当時アメリカの統治下であった沖縄本島のアメリカ軍基地から北爆に向かうB-52爆撃機の進路や機数は、グアムや沖縄沖で「操業」していたソ連や中華人民共和国のレーダーを満載した偽装漁船から逐次北ベトナム軍の司令部に報告されていた。その影響もあり、北ベトナム軍のミコヤンMiG-19やミコヤンMiG-21などの戦闘機や対空砲火、地対空ミサイルによるB-52爆撃機の撃墜数はかなりの数にのぼったが、強力な電波妨害装置と100発を超える爆弾搭載能力を持つアメリカ軍のB-52爆撃機による度重なる爆撃で、ハノイやハイフォンをはじめとする北ベトナムの主要都市の橋や道路、電気や水道などのインフラは大きな被害を受け、終戦後も長きにわたり市民生活に大きな影響を残した。

また、これらのアメリカ軍による北ベトナムへの本格的な空爆作戦に対して、ホー・チ・ミンをはじめとする北ベトナム指導部は、影響下にあった西側諸国のマスコミ市民団体を通じ、「アメリカ軍による虐殺行為」だと訴え続け、後の西側諸国における大規模な反戦活動への土台を整えた。

地上軍の投入と戦線拡大

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ダナンに上陸するアメリカ海兵隊
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南ベトナム解放戦線の拠点へ投下されたナパーム弾

ジョンソン大統領は大権を行使し、1965年3月8日海兵隊を南ベトナムのダナンに上陸させた。そしてダナンに大規模な空軍基地を建設した。 アメリカはケネディ政権時代より南ベトナム軍を強化する目的で、アメリカ軍人を「軍事顧問及び作戦支援グループ」として駐屯させており、その数は1960年には685人であったものをケネディが15,000人に増加させ、その後1964年末には計23,300名となったが、ジョンソンはさらに1965年7月28日陸軍の派遣も発表し、ベトナムへ派遣されたアメリカ軍(陸軍と海兵隊)は1965年末までに「第3海兵師団」「第175空挺師団」「第1騎兵師団」「第1歩兵師団」計184,300名に膨れ上がった。なお、地上部隊を派遣したのは南ベトナム国内だけで、北ベトナム領内には中華人民共和国の全面介入をおそれて派遣しなかった。

一方、北ベトナム軍もアメリカ軍が主力を送り込んだことに対抗し、「ホーチミン・ルート」を使ってカンボジア国境から侵入、南ベトナム解放戦線とともに、南ベトナム政府の力が及ばないフォーチュン山地に陣を張った。北ベトナム軍は10月19日にアメリカ軍基地へ攻撃をかけたが、アメリカ軍には多少の被害が出たものの、人的被害は無かった。アメリカ軍は北ベトナム陣地を殲滅させようとするが、険しい山地は道路が無く、車両での部隊展開は不可能であった。ここで初めて実戦に投入されたのがベルエアクラフトUH-1ヘリコプターだった。これは上空からの部隊展開(ヘリボーン)を可能にしたことで、この戦争の事実上の主力兵器として大量生産されることになる。

11月14日に、アメリカ軍はカンボジア国境から東11Kmの地点にあるイア・ドランを中心とした数カ所に、初めてベルエアクラフトUH-1を使って陸戦部隊を展開させた(イア・ドラン渓谷の戦い)。北ベトナム正規軍とアメリカ軍の戦闘はこれが初めてであったが、サイゴンのアメリカ軍司令部は北ベトナムの兵力を把握できていなかった。アメリカ軍基地襲撃の後でだらしなく逃げていく北ベトナム軍の兵士を見て、簡単に攻略できると考えていた。しかし、実際に戦った北ベトナム兵は陣を整え、山地の中を駆け巡り、予想以上の激しい抵抗をした。10月の小競り合いに始まったこの戦闘で、アメリカ軍は3,561人(推定)の北ベトナム兵を殺害したものの、305人の兵士を失った上(内、11月14日から4日間で234人)、この地を占領することができなかった。

アメリカはこの後、最盛期で一度に50万人の地上軍を投入することとなる。村や森に紛れた北ベトナム兵や南ベトナム解放戦線のゲリラを探し出し、殲滅する「サーチ・アンド・デストロイ」作戦は、航空機から放たれたナパーム弾などによる農村部への無差別攻撃や、アメリカ軍兵士による村民への暴行を引き起こすこととなった。その後アメリカは、北から南への補給路(ホーチミン・ルート)を断つため隣国ラオスカンボジアにも攻撃を加え、ラオスのパテート・ラーオやカンボジアのクメール・ルージュといった共産主義勢力とも戦うようになり、戦域はベトナム国外にも拡大した。

アメリカ空軍はこれらの地域を数千回空爆した他、ジャングルに隠れる北ベトナム兵士や南ベトナム解放戦線のゲリラをあぶり出す為に枯れ葉剤を撒布した。ラオスではこのとき投下されたクラスター爆弾が現在も大量に埋まっており、現在に至るまで住民に被害を与えている。

南ベトナム解放民族戦線の攻撃による民間人被害

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サイゴン市内のテロ事件現場

1964年1月のクーデター以来、サイゴンでは度重なるクーデターで政権交代が繰り返されて、南ベトナム政府による都市や村落への支配力はきわめて不安定となった。この頃南ベトナム解放民族戦線により、南ベトナム政府が任命し村落・郡部に派遣した首長・官吏・役人が襲撃・殺害・誘拐されるテロ攻撃が各地で頻発した。南ベトナム軍やアメリカ軍の基地と政府の関連施設は解放戦線のテロ対象となり、時にはアメリカ軍兵士が出入りする映画館レストランホテルディスコへも及んで一般人への被害を出した。

南ベトナム政府の公式発表によると、ベトコンとの戦闘およびテロに巻き込まれて全土で犠牲となった南ベトナム民間人(官吏・役人を含む)は、1962年には1719人、1963年には2073人、1964年には1611人、1965年の1月から5月には539人である[13]。アメリカ国務省の発表では、1964年には官吏や村長が436人と民間人1350人が全土でベトコンによる攻撃の犠牲になったとしている[14]

これらの南ベトナム解放民族戦線のゲリラ兵の多くは通常時は南ベトナムの一般市民として生活しているものも多く、中には、戦争終結まで妻や夫、親にまで自分が南ベトナム解放民族戦線のゲリラ兵であることを隠し通しているものも多数いた。また、南ベトナム解放民族戦線の指導部の中には、南ベトナム電力公社の副総裁や南ベトナム航空の上級幹部、士官学校の校長、南ベトナム軍の情報部将校、省長などの南ベトナム政府軍や政府関連組織の重要人物も多く含まれていた。

チュー大統領就任

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グエン・バン・チュー大統領

戦争の拡大により混沌とする状況下にあった中、1967年9月3日に南ベトナムにおいて大統領選挙が行われ、1965年6月19日に発生した軍事クーデター後に南ベトナムの「国家元首」に就任し、実質的な大統領の座にあったグエン・バン・チューが、全投票数の38パーセントの得票を得て正式に南ベトナムの大統領に就任した。

なお、北ベトナム政府はこの選挙結果に対して「不正選挙である」と反発し、事実上選挙結果を受け入れない意思を示したが、アメリカは、「南ベトナムにおける健全な民主主義の行使」だとこの選挙結果を歓迎した。

以後、強烈な反共主義者であるチュー大統領の下、南北ベトナムの対立は激しさを増してゆく。なおチューは1971年に再選され、1975年4月のサイゴン陥落直前まで南ベトナム大統領を務めた。

反戦運動

南ベトナムにおける反戦運動

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ダラットの基地内を行進する南ベトナム軍の士官候補生
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ホワイトハウスでキング牧師などの公民権運動の指導者と会談するジョンソン大統領
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反戦デモを行うアメリカの大学生
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「反戦パフォーマンス」である「ベッド・イン」を行うジョン・レノン(左奥)

戦争の現場である南ベトナムでは、南ベトナム解放民族戦線の後援(つまり北ベトナム政府の後援)を受けた左翼的志向を持つ市民を中心に反戦運動が行われていた。反対に戦争支援の運動も、南ベトナム政府とアメリカの大掛かりな支援のもと数多く行われていたといわれている。

アメリカ国内における反戦運動

戦地から遠く離れているものの、多くの軍人を戦地に送り、かつテレビ中継により多くの国民が戦闘を目の当たりにしていた「戦争当事国」のアメリカでは反戦運動が高揚していた。

また、1963年奴隷解放100周年を迎え、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師を中心にした黒人アフリカ系アメリカ人)による人種差別撤廃闘争、いわゆる公民権運動が活発化していたこともあり、これらの公民権運動が転じて反戦運動に同化するケースも多くみられた(なお公民権法は、人種差別を嫌い公民権法の制定に精力的であったジョンソン政権時代の1964年7月に制定された)。そのような中で、大学自治を求める白人の学生運動が公民権運動と結びつき、アメリカの若者を既存体制や文化から反発させる風潮が次々に作られた。ベトナム反戦運動はこれらの若者の心を捉え、ヒッピーやフラワーピープルなどと共にブームとして一層盛り上がることとなる。

なお、ベトナム戦争の副産物として、ベトナムで共に戦った黒人と白人の若者がそれまで完全に分け隔てられていた人種間の融和の促進剤となっていった(ベトナム戦争は、1964年にジョンソン政権下で制定された公民権法の施行を受けて、アメリカ史上初めて「黒人部隊」が組織されず、黒人と白人が同じ戦場で同等の立場で戦う戦争でもあった)。この点についてキング牧師は生前「皮肉な結果である」と述べていた。

1967年には最大で50万人を超えるアメリカ兵がベトナムに投入されたが、ソ連や中華人民共和国による軍事支援をバックに、地の利を生かしたゲリラ戦を展開する北ベトナム軍および南ベトナム解放民族戦線と対峙するアメリカ軍および南ベトナム軍にとって戦況の好転は全く見られなかった。さらにアメリカは、莫大な戦費調達と戦場における士気の低下、国内外の組織的、非組織的な反戦運動と、テレビや新聞雑誌などの各種メディアによる反戦的な報道に苦しむことになった。1967年4月にはニューヨークで大規模な反戦デモ行進があり、10月21日に首都のワシントンで最大規模の反戦大会が催された。さらに翌年1月にはテト攻勢(後述)によって反戦運動は大きく盛り上がった。

これらの反戦活動はベトナム戦争で戦うアメリカ軍兵士の士気の低下にも大きく影響し、1970年には在日アメリカ軍岩国基地内で、アフリカ系アメリカ人兵士や反戦志向を持った兵士らによる反乱が起き基地の建物が一時的に占拠された[要出典]ほか、1971年には、ベトナム戦争にも参戦していたアメリカ海軍の正規空母「コーラル・シー」の艦内で乗組員による「Stop Our Ship(SOS)」と名づけられた反戦運動が計画され、少なくとも1000人が参加した[要出典]。さらに同年11月6日には、同艦の乗組員300人がサンフランシスコ市内で反戦デモに参加した[要出典]

除隊した帰還兵による反戦運動も盛り上がりを見せた。1967年にはベトナム反戦帰還兵の会(VVAW)が結成された。VVAWは最盛期には30,000人以上を組織化し、ロン・コーヴィック(『7月4日に生まれて』の著者)やジョン・ケリー(2004年民主党大統領候補者)のような負傷兵が中心となって反戦運動を行った。しかし、12度逮捕されたコーヴィックのように違法なデモなどを行ったこともあり、高い支持を受けることはなかった。

著名人による「反戦運動」

なお、「戦争当事国」のアメリカでは、作家評論家などの文化人や、「流行」に乗り遅れまいとした俳優女優歌手などの芸能人による反戦運動も盛んに行われた。

その代表的な例として、1970年のビートルズ解散後のイギリス人歌手のジョン・レノンも、ビートルズの解散後に活動拠点を置いていたアメリカを中心に「反戦活動」を行った。この際に行われた「ベッド・イン」などの過激なパフォーマンスは、事前告知を入念に行った上、人気歌手によるものであることもありマスコミも大きく取り上げ、単純かつ過激であることから若者への影響力が強かった。アメリカ国内においても人気の高かったレノンの行う「反戦活動」に対して共感するファンも多く、当時レノンがイギリスで大麻所持により逮捕されたためにアメリカへの再入国が許可されなかったことを、「レノンの『反戦活動』による若者への悪影響を嫌うニクソン政権による嫌がらせ」と勝手に解釈する向きもあった(アメリカでは通常、近年内に麻薬での逮捕歴がある人間の入国は拒否される)。

また、1972年に「反戦活動家」のトム・ヘイドンと共に、「アメリカ兵のための反戦運動」と自称して北ベトナムを訪れたアメリカ人女優のジェーン・フォンダは、飛来したアメリカ軍機を撃墜するために設けられた高射砲に座り、北ベトナム軍のヘルメットをかぶり高射砲の照準器を覗き込むポーズをとった。この時の写真は内外のマスコミを通じて世界中に配信され、この後長年に渡りベトナムから帰還したアメリカ軍兵士やその家族を中心に「裏切り者」や「売国奴」、「ハノイ・ジェーン」などと批判する勢力も大きかった。フォンダは1978年には、ベトナム帰還兵の問題をテーマにした主演映画「帰郷」(Coming Home )で、2度目のアカデミー主演女優賞を受賞している。

テト攻勢

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南ベトナム解放民族戦線のゲリラ兵に占拠されたサイゴンのアメリカ大使館
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テト攻勢で南ベトナム解放民族戦線に攻撃され避難する南ベトナム市民
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アメリカ軍特殊部隊による、南ベトナム解放戦線兵士の首狩り記念写真

旧正月(テト)休戦を南ベトナム軍とアメリカ軍に打診したものの、体勢を立て直す時間を与えるだけだとして拒否された北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線は、旧正月下の1968年1月29日の深夜に、南ベトナム軍とアメリカ軍に対して大規模な一斉攻撃(テト攻勢)を開始した。

サイゴン市内やダナンなどの基地に急襲を受けた南ベトナム軍とアメリカ軍は、一時的に混乱状態に陥ったものの、すぐに体勢を立て直し反撃を開始した。物量で圧倒的に劣る南ベトナム解放民族戦線は壊滅状態に陥り、2月1日にジョンソン大統領はテト攻勢の失敗を宣言し間もなく戦闘は終結した。テト攻勢で南ベトナム解放民族戦線が事実上壊滅したことにより、その後のベトナム戦争は、南ベトナム政府軍・アメリカ軍と北ベトナム正規軍中心の戦いとなっていった。

テト攻勢は軍事的には大きな失敗であったが、南ベトナム解放民族戦線のゲリラ兵により南ベトナムの首都のサイゴンにあるアメリカ軍の放送局が占拠され爆破された他、わずか20人の南ベトナム解放民族戦線のゲリラ兵が、「要塞」とも称されたサイゴンのアメリカ大使館を一時占拠し、その一部始終がアメリカ全土で生中継されるなど、北側勢力の政治的効果は高かった。

また、テト攻勢の最中に、南ベトナムのグエン・カオ・キ副大統領の側近であるグエン・ゴク・ロアン警察庁長官が、サイゴン市警によって逮捕された南ベトナム解放民族戦線の将校の、グエン・バン・レムを路上で射殺する瞬間の映像がテレビで全世界に流された。以前レムはロアンの関係者家族を皆殺しにしていたとはいえ、まだ裁判すら受けていないレム容疑者を、南ベトナムの政府高官自らが報道陣のカメラを前にして射殺する様子は、世界中に大きな衝撃を与え、ベトナム戦争(と南ベトナム政府)に対する各国の世論に大きな影響を与えた。この瞬間を撮影したアメリカ人報道カメラマンのエディー・アダムスは、その後ピュリッツァー賞の報道写真部門賞を受賞した。

フエ事件

テト攻勢時に一時的に南ベトナム解放民族戦線の支配下に置かれたフエでは、1月30日から翌月中旬にかけて、南ベトナム解放民族戦線兵士による大規模な政府関係者や市民への虐殺事件「フエ事件」が発生した。この事件はテト攻勢の実施に合わせて半ば計画的に行われたものであり、事前に虐殺相手の優先リストまで用意されていたと言われている[誰によって?]。犠牲者は、南ベトナム政府の役人や軍人・警察官だけでなく、学生キリスト教神父、外国人医師などの一般人にまで及び、アメリカ軍による発表によれば犠牲者全体の総数は2000人以上であると言われている[誰によって?]

テト攻勢の失敗が報じられる中、フエでは述べ25日間にわたってアメリカ軍と解放戦線の攻防戦が続けられていた(なお当時の新聞表記は「ユエ」である)。なおこの事件は、南ベトナム解放民族戦線の組織的な犯行ではないとの説もある(詳細はノート「3.7ベトコンによるテロの増加 3.13フエ事件 について」の項を参照)。

フォンニィ・フォンニャット・ハミ村虐殺事件

韓国軍は南ベトナムで南ベトナム政府・アメリカ軍と友好関係にある村落を問わず襲撃を行った。このため遺族たちが議会に救済を訴えるなどの事態となった。

ソンミ村虐殺事件

一方で、アメリカ軍は解放戦線の非公然戦闘員(ゲリラ)を無力化するため、サーチ・アンド・デストロイ(索敵・殲滅)作戦で、度々村落の焼き討ちと、南ベトナム解放民族戦線ゲリラおよびシンパ「容疑者」への虐殺を繰り返した[要出典]

ジョンソン退陣とアメリカの内政混乱

結果的にベトナムにおけるアメリカ軍による戦闘の拡大を招いてしまったアメリカのジョンソン大統領は、アメリカ国内外のマスコミから連日のようにベトナム戦争への対応のまずさを批判されるようになった。この頃ジョンソンはニューハンプシャー州の予備選でユージーン・マッカーシーに対して勝利したが、ジョン・F・ケネディの弟で、ケネディ政権とジョンソン政権の司法長官を務めていたロバート・ケネディが大統領選への出馬を表明したこともあり、世論調査で最低の支持率を記録した。

また、ケネディ政権においてベトナムへの軍事介入を自らの「分析」を元に積極的に推し進め、ジョンソン政権でもアメリカ軍の増派を推し進めたものの、北爆の中止をめぐってジョンソン大統領と意見が対立したマクナマラ国防長官が1968年2月29日に辞任することとなった。これらの影響を受けて、3月31日にジョンソン大統領は、テレビ放送によって北爆の部分的中止と、この年に行われる民主党大統領候補としての再指名を求めないことを発表した。理由として、ベトナム戦争に対する反戦運動などによるアメリカ国内の世論分裂の拡大を挙げた。

この後も反戦集会は連日全米各地で巻き起こっていたが、この盛り上がりに大きな影響を与えた公民権運動指導者のマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師は、4月4日白人ジェームズ・アール・レイに遊説先のテネシー州メンフィス市内のホテルで暗殺される。さらに、公民権運動団体などを中心とした支持を受けて、民主党の大統領予備選に出馬し優位に選挙戦を進めていたロバート・ケネディが、カリフォルニア州ロサンゼルス市内のホテルで遊説中の6月5日に、パレスチナ系アメリカ人のサーハン・ベシャラ・サーハンに暗殺された。

相次ぐ暗殺事件にその後アメリカ国内の情勢は混乱を極めたが、8月26日から29日にかけて、民主党の大統領候補を指名するための党大会がシカゴ市内のホテルで行われた。これに合わせてシカゴ市内では学生を中心に大規模かつ暴力的な反戦デモが行われたが、ベトナム戦争推進派のデモと衝突した上、リチャード・J ・デイリー市長の指示により、市警官隊がデモ隊に対して暴力的な弾圧を行い多数が逮捕された。なお、ジョンソン大統領は自らが所属する党の大会であるにもかかわらず、会場内外における混乱を避けるため出席することはかなわなかった。この様に国内情勢が混沌とする中、政権末期のジョンソン大統領は10月に北爆を全面停止させる。

ニクソン登場と和平交渉開始

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選挙戦を戦うリチャード・ニクソン

同年に行われた大統領選本戦では、民主党はユージーン・マッカーシーやジョージ・マクガヴァンを破り大統領候補に選出されたヒューバート・ホレイショ・ハンフリーを候補に立て戦ったものの、ベトナムからのアメリカ軍の「名誉ある撤退」と、反戦運動が過激化し違法性を強めていたことに対し「法と秩序の回復」を強く訴えた共和党選出のリチャード・ニクソンに敗北し、1969年1月20日にニクソンが大統領に就任した。

ニクソン大統領は、地上戦が泥沼化(ゲリラ戦化)しつつある中で、人的損害の多い地上軍を削減してアメリカ国内の反戦世論を沈静化させようと、このとき54万人に達していた陸上兵力削減に取り掛かり、公約どおり、8月までに第一陣25,000名を撤退させ、その後も続々と兵力を削減した。

なお、就任以前から段階的撤退を画策し、大統領選挙時には「名誉ある撤退を実現する"秘密の方策"がある」と主張していたニクソン大統領は、就任直後からヘンリー・キッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官に、北ベトナム政府との秘密和平交渉を開始させた。

「サイレント・マジョリティ」

民主党大会の際のシカゴ市内における混乱が象徴するように、反戦運動が過激化し違法性を強めていたことに対して、「法と秩序の回復」を訴え当選したリチャード・ニクソンは、ブームと化した反戦運動に反感をもつ、「沈黙した多数派層(サイレント・マジョリティ)」に対して行動を呼びかけた。

ニクソンの支持母体は、アメリカにおけるマジョリティ(多数派)である、保守的な思想を持つブルーカラーを中心とした白人保守派層が中心であり、軍に徴兵されベトナムに派遣される下級兵士の多くは、彼らそのものや彼らの子供であった。彼らの多くは、徴兵猶予などでベトナムへの派兵を免れることのできる比較的裕福な大学生や、徴兵されることのない都市部のホワイトカラーのリベラル層やインテリ層、既存の概念を否定しつつ自らは巧みに徴兵を逃れようとする反体制的なヒッピー、そしてこれらの「徴兵されることがない人々」を中心に過激化する反戦運動に反感を持っていた。

彼らはニクソンの呼びかけに応えて声を上げ、各地で過激化する反戦団体とぶつかり合った。こうした白人保守派層の巻き返しもあり、反戦運動は、当初中心をになっていた理想主義的なインテリ層や現役大学生の手を離れ、単にブームに乗っただけのヒッピーなどを代表とする理念に欠けるものに変質し次第に弱まっていった。

この年の7月にはアポロ11号が月面に降り立ち、世界の目は泥沼のベトナムから宇宙へと移り、10月には再び反戦デモが発生したが、それはローソクに火を灯しながら行進をおこなう、静かなものに変わりつつあった。

中ソ対立の激化とデタント

ベトナム戦争においては双方ともに北ベトナムを支援していたものの、ソビエト連邦と中華人民共和国の間では関係が悪化していた。中ソ対立により両国間の政治路線の違いや領土論争をめぐって緊張が高まり、中華人民共和国内で文化大革命が先鋭化した1960年代末には、4,380kmの長さの国境線の両側に、658,000人のソ連軍部隊と814,000人の中国人民解放軍部隊が対峙する事態になった。

1969年3月2日に、ウスリー川中州ダマンスキー島(珍宝島)で、ソ連側の警備兵と中国人民解放軍兵士による衝突、いわゆる「ダマンスキー島事件」が起こった。さらに7月8日には中ソ両軍が黒竜江(アムール川)の八岔島(ゴルジンスキー島)で武力衝突し、8月にはウイグルでも衝突が起きるなど、極東及び中央アジアでの更なる交戦の後、両軍は最悪の事態に備え核兵器使用の準備を開始した。

この様な状況を受けて、レオニード・ブレジネフ書記長率いるソ連は、急激に対立の度を増していた中華人民共和国をけん制する意味もあり、アメリカとの間の緊張緩和を目論み、直接交渉に入ることとなる。また、就任以来東西陣営の融和進展を模索していたニクソン大統領もこれを積極的に受け入れ、11月からは米ソ戦略兵器削減交渉の予備会談が行われ、1970年4月からは本会談に入るなど、米ソ間の関係は緊張緩和(デタント)の時代に入る。

ホー・チ・ミン死去

フランスの植民地時代から、ベトナムの独立と南北ベトナム統一の指導者として活発に活動していた北ベトナムの最高指導者であるホー・チ・ミンは、1951年のベトナム労働党主席への就任後は、第一次インドシナ戦争の指導や日常的な党務、政務は総書記(第一書記)及び政府首脳陣、軍部指導者などに任せ、国内外の重要な政治問題に関わる政策指針の策定や、党と国家の顔としての対外的な呼びかけに精力を集中し、東ドイツ中華人民共和国などの友好国を訪問するなど、事実上北ベトナムの精神的指導者となっていた。

戦争指導や政務の第一線の地位からは退いたものの、ベトナム戦争の勃発後も、ソ連や中華人民共和国などの共産圏を中心とした友好国からの軍事的支援や、西側諸国の左派勢力や左派メディアを通じて反戦・反米運動への支援を得るために、北ベトナムを訪れたイタリア共産党エンリコ・ベルリンゲル党首や、中華人民共和国の周恩来首相と会談するなど、内外において積極的に活動して、対外的にも北ベトナムを代表する地位を占めていたが、1969年9月に突然の心臓発作に襲われ、ハノイの病院にて79歳の生涯を閉じた。南北ベトナム統一を説いていた精神的指導者の突然の死は、戦時下の北ベトナム国民をより強く団結させる結果になった[15]

ホーチミンが述べた言葉として『中国人の糞を100年喰らうよりフランス人の糞をしばらく喰らった方がましだ』というのが有名である[16]中ソ対立による国際共産主義運動の分裂を深刻に憂慮していた。中ソ対立の影響により激化していたベトナム労働党内の「中華人民共和国派」と「ソ連派」の路線対立は、ホー・チ・ミンの死去により「ソ連派」の優勢が確定した。以後北ベトナムは、テト攻勢を境とした自軍の戦闘スタイルの変化やアメリカ軍による北爆の強化へ対応するため、ソ連への依存を強めていった。

カンボジア侵攻

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カンボジア戦線に展開するアメリカ軍の戦車
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カンボジア戦線の説明を行うニクソン大統領

南北ベトナムの隣国のカンボジアでは、1970年3月に、北ベトナム政府および南ベトナム解放民族戦線と近い関係にあり「容共的元首」であるとしてアメリカが嫌っていたノロドム・シアヌーク国王の外遊中に、アメリカの援助を受けたロン・ノル国防大臣と、シハヌークの従兄弟のシソワット・シリク・マタク殿下(副首相)率いる反乱軍がクーデターを決行し成功させた。

反乱軍はその後ただちにシアヌーク国王一派を国外追放し、シアヌークの国家元首からの解任と王制廃止、共和制施行を議決し、ロン・ノルを首班とする親米政権の樹立と「クメール共和国」への改名を宣言した。

4月26日には、ロン・ノルの黙認の元、南ベトナム軍とアメリカ軍が、中華人民共和国(とソビエト連邦)からの北ベトナム及び南ベトナム解放民族戦線への物資支援ルートである「ホーチミン・ルート」と「シアヌーク・ルート」の遮断を目的として、カンボジア領内に侵攻した。この侵攻は、アメリカ軍の兵力削減と同時に、中華人民共和国、ソビエト連邦などの共産圏から北ベトナムへの軍事物資支援ルートを遮断することで、泥沼状態の戦況から脱し、アメリカ側に有利な条件下で北ベトナム側を講和に導くための目論見でもあった。

カンボジアに侵攻した南ベトナムとアメリカの連合軍は、圧倒的な兵力を背景にカンボジア領内の北ベトナム軍の拠点を短期間で壊滅させ、同年6月中には早々とカンボジア領内から撤退した。しかし同年末には両ルートとカンボジア領内の北ベトナムの拠点は早速と復旧し、結果的に目的は成功しなかった。また、南ベトナムとアメリカ両軍のカンボジア侵攻前後、アメリカの支援を受けたロン・ノル率いるカンボジア政府軍と、中華人民共和国の支援を受けた毛沢東思想の信奉者であるポル・ポト率いるクメール・ルージュの間でカンボジア内戦が始まった。

なお、クーデターによってカンボジアを追放されたシハヌークは中華人民共和国の首都である北京に留まり、そこで中国共産党政府の庇護の下、亡命政権の「カンボジア王国民族連合政府」を結成し、親米政権であるロン・ノル政権の打倒を訴えた。シハヌークはかつて弾圧したポル・ポト派を嫌っていたが、ポル・ポト派を支持していた中華人民共和国の毛沢東周恩来、かねてより懇意だった北朝鮮金日成らの説得によりクメール・ルージュらと手を結ぶことになり、農村部を中心にクメール・ルージュの支持者を増やすことに貢献した。

北爆再開

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爆弾を投下するアメリカ空軍のボーイングB-52

アメリカ軍は講和条件を有利にする為、カンボジア領内に越境してまで北ベトナム軍の拠点と補給ルートの壊滅を図ったものの、戦況は好転せず、講和を急いだニクソン大統領は1972年5月8日に北爆を再開することを決定した(ラインバッカーI作戦)。

この作戦は、圧倒的な航空戦力を使って「ホーチミン・ルート」(英表記;Ho Chi Minh Trail)を遮断し、アメリカ地上軍の削減と地上兵力の南ベトナム化を進め、また北ベトナム軍の戦力を徹底的に削ぐことにより、北ベトナム政府が和平交渉に応じることを狙った作戦でもあった。

アメリカ空軍は第二次世界大戦における対日戦以来の本格的な戦略爆撃を行う事を決定し、軍民問わない無差別攻撃を採用した。本作戦では従来の垂れ流し的な戦力の逐次投入をやめて戦力の集中投入に切り替えた。特に12月18日に開始されたラインバッカーII作戦では、ボーイングB-52戦略爆撃機150機による700ソーティーにも及ぶ夜間絨毯爆撃で北ベトナムの都市に対して2週間で20,000トンの爆弾が投下され、ハノイやハイフォンを焼け野原にし、軍事施設だけでなく電力や水などの生活インフラストラクチャーにも大きな被害を与えた。

さらに新たに前線に投入された超音速爆撃機のジェネラル・ダイナミクスF-111や、開発に成功したばかりのレーザー誘導爆弾ペイブウェイ、TV誘導爆弾AGM-62 ウォールアイといったハイテク兵器を大量投入して、ポール・ドウマー橋やタンホア鉄橋といった難攻不落の橋梁を次々と破壊、落橋させた。

海上でもハイフォン港等の重要港湾施設に対する大規模な機雷封鎖作戦も行われ、ソ連や中華人民共和国、北朝鮮をはじめとする東側諸国から兵器や物資を満載してきた輸送船が入港不能になった。港内にいた中立国船舶に対しては期限を定めた退去通告が行われた。中越国境地帯にも大規模な空爆が行われ、北ベトナムへの軍事援助の殆どがストップした。中には勇敢にも強行突破を図った北ベトナム艦船もいたが、その殆どは触雷するか優勢なアメリカ海軍駆逐艦や南ベトナム海軍船艇の攻撃を受け、撃沈、阻止されていった。

北爆の成功

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戦時下のハノイ

アメリカ軍による対日戦並の本格的な戦略爆撃や、南ベトナム海軍とアメリカ海軍が共同で行った機雷封鎖は純軍事的にほぼ成功を収め、北ベトナムは軍事施設約1,600棟、鉄道車両約370両、線路10箇所、電力施設の80%、石油備蓄量の25%を喪失するという大損害を被り、北ベトナム軍は弾薬や燃料が払底し、継戦不能な事態に陥った。

この空爆の結果、北ベトナム軍では小規模だった海軍と空軍がほぼ全滅し、絶え間ない北爆とアメリカ陸空軍による物量作戦の結果、ホーチミン・ルートは多くの箇所で不通になっており、前線部隊への補給が滞りがちになった北ベトナム軍は崩壊の一歩手前に追い込まれるまで急激に戦況が悪化した。

アメリカ軍による空爆は、北ベトナム国民に大量の死傷者を出し、併せて只でさえ貧弱な北ベトナムのインフラにも大打撃を与えたことから、北ベトナム軍と国民にも少なからず厭戦気分を植え付けた。北ベトナム軍にとって幸いなことに再度の北爆は国際世論の反発を受け短期間で中止されたが、アメリカ政府の目論見通り、この空爆の成功は北ベトナム軍を戦闘不能な状態に持ち込み、北ベトナム政府をパリ会談に出席させ、停戦に持ち込まざるを得ない立場に追い込む事に成功した。

米中接近とパリ協定調印

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北京を訪問したニクソンと会談する毛沢東
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パリ協定への調印を行うアメリカのロジャー国務長官

上記のように、就任以前から泥沼化していたベトナム戦争からの段階的撤退を画策していたニクソン大統領は、1969年1月の大統領就任直後よりヘンリー・キッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官に北ベトナム政府との秘密和平交渉を開始させたが、1972年の北爆の再開などにより交渉は難航した。

1972年4月に、ニクソン大統領は北ベトナムの主な支援国の1つである中華人民共和国を電撃訪問し、毛沢東国家主席と会談する。なお、ニクソン大統領はかねてからキッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官に中華人民共和国との水面下での交渉を行わせていた。ニクソン大統領が共産圏の大国である中華人民共和国を訪問したことは、当時ソ連と対立していた中華人民共和国に近づくことでソ連をけん制するのみならず、中華人民共和国が、国境を接する北ベトナムや、同じく隣国のカンボジアのポル・ポトを軍事的に支援し深い関係を持ち、影響力を持っている事が関連していると考えられた。

また、中華人民共和国としても、ニクソン政権下でソビエト連邦と友好的な関係を保っていたアメリカと接近することは、文化大革命全盛期の1969年に勃発したダマンスキー島事件以降、関係が極度に悪化していたソビエト連邦を牽制するという意味があった。

なお北ベトナム政府は、米中両国の接近を「自国に対する中華人民共和国の裏切り行為」と受け止めた。以後、北ベトナム政府は中華人民共和国と対立するソビエト連邦との関係を強化し、北ベトナムと中華人民共和国との関係悪化は決定的になった。なお戦争終結後、北ベトナム政府は国内の中国系住民(華僑)への抑圧政策を開始し、1979年に勃発した中越戦争の遠因となった。

この様に、ベトナム戦争のみならず、アジア各国を取り巻く状況が目まぐるしく推移する中、秘密交渉開始から4年8か月経った1973年1月23日に、フランスのパリに滞在する北ベトナムのレ・ドゥク・ト特別顧問とキッシンジャー大統領補佐官の間で、和平協定案の仮調印にこぎつけた。そして4日後の1月27日に、南ベトナムのチャン・バン・ラム外相とアメリカのウィリアム・P・ロジャー国務長官、北ベトナムのグエン・ズイ・チン外相と南ベトナム共和国臨時革命政府のグエン・チ・ビン外相の4者の間でパリ協定が交わされた。

なお、この「和平協定」調印へ向けて様々な調整を行った功績を称え、レ特別顧問とキッシンジャー大統領補佐官にはノーベル平和賞が贈られたが、レ特別顧問は、「ベトナム戦争が終結していないこと」と、「ベトナム統一が実現していないこと」などを理由に受賞を辞退した。

アメリカ軍の全面撤退

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「ハノイ・タクシー」と呼ばれたロッキードC-141輸送機で、北ベトナムから帰国の途に就くアメリカ軍人捕虜

パリ協定の調印により、北ベトナムとアメリカの間に、「アメリカ軍正規軍の全面撤退と外部援助の禁止」、「北ベトナム軍に捕えられていたアメリカ軍捕虜の解放」、「北緯17度線は南北間の国境ではなく統一総選挙までの停戦ラインであること」の確認などについて合意が成立し、1973年1月29日にニクソン大統領は「ベトナム戦争の終戦」を宣言した。

その後、パリ協定に基づき、協定締結時点で南ベトナムに残っていた24,000人のアメリカ軍は撤退を開始し、併せてハノイの有名な戦争捕虜収容所「ハノイ・ヒルトン(正式名称:ホアロー捕虜収容所)」などの北ベトナムの捕虜収容所からのアメリカ軍人捕虜の解放が次々に行われた。

ベトナム戦争の最盛期だった1968年にはアメリカ軍は南ベトナムに540,000人が派遣されていたが、1969年以後は撤退計画に基づいて派遣軍の撤退と削減が続けられ、1973年1月のパリ協定の締結時にはベトナムへの派遣軍は24,000人まで削減されていたので、「終戦宣言」から2か月後の3月29日には撤退が完了した。しかし、ケネディ政権時代から南ベトナムに派遣されていたアメリカ軍の「軍事顧問団」は規模を縮小し南ベトナムに残留していた上、航空機や戦車、重火器などの軍事物資の供給も行われていた(なお、この様な状況は北ベトナムとソビエトの間でも同様であった)。

アメリカ軍撤退後の戦況

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南ベトナム空軍に貸与されたイラン空軍ノースロップF-5戦闘機

なお、パリ協定の締結までにアメリカ軍による北爆が停止されると、北ベトナム軍はすぐさま補給路を回復し南ベトナム侵攻のための体勢を立て直した。これに対して、パリ協定が締結されアメリカ軍が南ベトナムより全面撤退した結果、本来増えるはずのアメリカからの南ベトナム軍への軍事支援の規模は激減していたため、前線における南ベトナム軍と北ベトナム軍の戦力の格差は決定的に広がることとなる。アメリカは南ベトナム軍への軍事支援の削減を補うために、アメリカが中華民国や韓国、イランなどに貸与していたノースロップF-5戦闘機などをはじめとする兵器を南ベトナムへ送るようにこれらの国に呼び掛けたものの、その数はかつてのアメリカからの直接支援とは程遠いものであった。

なお、パリ協定において「停戦」が謳われたため、これを反故にした結果のアメリカ軍の再介入を恐れ、北ベトナム軍はしばらく南ベトナム軍側に対して大規模な攻勢は行わなかったが、まもなくパリ協定における停戦協定を無視した北ベトナム軍による南ベトナム軍に対する攻撃のペースは増加し、武器の供給も減り兵士の士気も落ちた南ベトナム軍の死傷者数も増大して行った。

1974年1月には勢いを増した北ベトナム軍が隣国のカンボジアの首都プノンペンに迫る。9月以降はソビエト連邦や中華人民共和国からの追加軍事援助を受け、力をつけた北ベトナム軍の部隊が南ベトナム北部を占領し、その後も南下を続け、勢いが減ることはなかった。

なおこの渦中に、中華人民共和国の中国人民解放軍が、南北ベトナム間の戦線から遠く離れた西沙諸島に駐留する南ベトナム軍を宣戦布告なしに奇襲攻撃し(西砂海戦)、独立以来の南ベトナム領で当時石油などの地下資源があると推測されていた西沙諸島一帯を占領した。その後のベトナム戦争の終結と南北ベトナムの統一、中越戦争を経た現在に至るまで、中国人民解放軍による不法占拠(実効支配)状態が続いており、ともに領有権を主張する中越間の紛争案件となっている。

ニクソン退陣

同月、アメリカ軍のベトナム全面撤退の立役者であるニクソン大統領はウォーターゲート事件で議会が弾劾訴追を準備し、罷免されることが確実と悟ったので、罷免される前に辞任し、後を継いだジェラルド・R・フォード大統領は、混迷を続ける内政の立て直しと中間選挙に集中しなければならず、これらに集中するためもあり、レオニード・ブレジネフ書記長率いるソビエト連邦とはデタントを推し進めたニクソン政権同様、積極的な宥和政策を継続し続けることになった。

その上に、ニクソン政権が残したウォーターゲート事件の後始末や、ケネディ政権が推し進めたアポロ計画による月面探査による膨大な出費、オイルショック後の景気停滞や不況からの回復などの国内問題に国民の関心が移り、アメリカは、もはやベトナム情勢に対する興味を失いつつあった。

実際に、フォード政権に移行して以降のアメリカ政府は、パリ協定で実施が約束されたはずの南北ベトナム統一総選挙実施への南北ベトナム政府への働き掛けどころか、パリ協定違反である「停戦」後の南ベトナムに対する北ベトナム軍の攻撃を止めるための働き掛けすら行わなくなった。さらに、同年8月には南ベトナム政府からの再三の働き掛けを受けて、議会が最後の南ベトナム政府への資金援助を決定したものの、その額は以前と比べ物にならないほど低かった。

北ベトナム軍の全面攻撃

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1975年3月以降、サイゴン陥落までの北ベトナム軍の攻撃の経緯を表した地図
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プノンペンからタイに脱出したアメリカのディーン大使

この様な状況を受けて、北ベトナム政府は「アメリカの再介入はない」と判断し、南ベトナムを完全に制圧し、南北ベトナムを統一すべく1975年3月10日に南ベトナム軍に対する全面攻撃を開始した(ホー・チ・ミン作戦)。

この攻勢に対して、アメリカ政府からの大規模な軍事援助が途絶え弱体化していた南ベトナム軍は満足な抵抗ができなかった。その後3月末に古都フエと、南ベトナム最大の空軍基地があり貿易港であるダナンが、南ベトナム軍同士の同士討ちや、港や空港に避難民が押し寄せるなどの混乱のもと陥落すると、南ベトナム政府軍は一斉に敗走を始める[12]4月10日には中部の主要都市であるバンメトートが陥落した。この様な状況を受けてグエン・バン・チュー大統領はアメリカに対して軍事支援を要請したものの、完全に南ベトナム政府を見捨てたアメリカ議会は、軍の派遣も軍事援助も拒否した。

4月中旬には南ベトナム政府軍が「首都であるサイゴンの防御に集中するため」として、これまで持ちこたえていた戦線も含め主な戦線から撤退を開始したが、結果的にこの戦略は裏目に出た。サイゴン防御のために撤退した南ベトナム政府軍は、アメリカからの軍事援助も途絶え装備も疲弊していた上に士気も落ちており、敵の急な撤退に進撃の勢いを増した北ベトナム軍を抑えることは出来ず総崩れになり、まもなく北ベトナム軍はサイゴンに迫った[17]

このような状況を受けて、ホワイトハウスは南ベトナムの戦災孤児をアメリカやオーストラリアに運び、養子縁組を受けさせる「オペーレーション・ベイビー・リフト」を4月4日に開始した。しかしその第1便となるアメリカ空軍のロッキードC-5「ギャラクシー」貨物機が、マニラに向けてタンソンニャット国際空港を離陸した後に墜落し、乗客乗員328人中153人が死亡し多数の戦災孤児が死亡するという悲劇が起き、北ベトナム政府はこれを「人さらいの上での虐殺である」と非難した。しかしこの作戦はサイゴン陥落直前の4月26日まで続けられ、3300人の戦災孤児が混乱する南ベトナムを離れた。

なお隣国のカンボジアでは、アメリカの支援を受けたロン・ノル率いるクメール共和国政府軍と、中華人民共和国などの支援を受けたクメール・ルージュの内戦の末、4月17日に首都のプノンペンが陥落し、直前にアメリカのジョン・ガンザー・ディーン大使などが隣国のタイへ逃亡したほか、ロン・ノルもインドネシア経由でハワイ州へ逃れた。

土壇場での混乱

4月21日には、グエン・バン・チュー大統領がテレビとラジオを通じて会見を行い、これらの事態の責任を取り辞任することを発表した。後任には、南ベトナム政府の長老の1人で、1960年代に大統領や首相を務めた経験を持つチャン・バン・フォン副大統領が就任した。

穏健派として知られるフォン大統領による土壇場での停戦交渉が期待されたものの、パリ協定発効以降、協定内容に則りタンソンニャット空軍基地に駐留していた北ベトナム政府代表団は、穏健派であるもののチュー元大統領の影響が強いとみられたフォン大統領との和平交渉を4月23日に正式に拒否し、存在意義を失ったフォン大統領は4月29日に、就任後わずか8日で辞任した。後任として同日に同じく穏健派のズオン・バン・ミン将軍が就任したが、ミン新大統領による土壇場での和平交渉は北ベトナム政府代表団によって同じく拒絶された。

首都であるサイゴン陥落による混乱を恐れた南ベトナム政府上層部の家族や富裕層は、4月中旬以降次々と民間航空便で国外への脱出を図っていたが、この頃になると、サイゴン北部のタンソンニャット空軍基地にも攻撃が及んできたために、同空港を発着するベトナム航空パンアメリカン航空シンガポール航空などの民間航空機の運航や、「オペーレーション・ベイビー・リフト」も4月26日をもって全面的に停止した。

また、一般市民も南ベトナム政権の崩壊を予測し、南ベトナムの通貨であるピアストルダイヤモンドアメリカドルに交換したため、ピアストルの価値が暴落した[12]

サイゴン撤退作戦

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国家安全保障会議でサイゴン撤退について討議するアメリカ軍のジョージ・S・ブラウン統合参謀本部議長とネルソン・ロックフェラー副大統領(左)
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海中へ投棄される南ベトナム軍のベルUH-1ヘリコプター
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ヘリコプターでアメリカ軍の航空母艦に脱出した南ベトナム人
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「ベトナム統一会堂」と改名された元南ベトナム大統領官邸

この時すでに南ベトナム軍の前線は各方面で完全に崩壊し、それとともに北ベトナム軍によるサイゴン市内の軍施設などの重要拠点への砲撃や、北ベトナム空軍機による爆撃などが続いた為に、サイゴン市内の一部は混乱状態に陥った。その後まもなく四方からサイゴン市内へ向けて進軍した北ベトナム軍の地上部隊により、南ベトナム軍のタンソンニャット空軍基地も完全に包囲された。さらに北ベトナム軍の攻撃を受けて同空港の滑走路や各種設備が破損したために、南ベトナム軍機の発着は完全に途絶し、北ベトナム軍と交戦中の南ベトナム地上軍への援護も不可能になった。

サイゴン陥落は避けられない状況となり、アメリカ政府および軍は4月28日国家安全保障会議を開き、アメリカ軍や政府の関係者と在留アメリカ民間人、アメリカと関係の深かった南ベトナム政府上層部のサイゴンからの撤退方法についての緊急討議を行い、その後のサイゴンからの撤退作戦である「フリクエント・ウィンド作戦」を発令した。

作戦開始後、市内のアメリカ政府やアメリカ軍、南ベトナム軍の関連施設からアメリカ軍や政府の関係者と、グエン・バン・チュー元大統領やグエン・カオ・キ元首相をはじめとする南ベトナム政府上層部やその家族、在留アメリカ人らが、サイゴンの沖合いに待機する数隻のアメリカ海軍空母や大型艦艇に向けて南ベトナム軍やアメリカ軍のヘリコプターや軍用機、小船などで必死の脱出を続け、空母の甲板では、立て続けに飛来するヘリコプターを着艦するたびに海中投棄し、次に飛来するヘリコプターや軍用機の着艦場所を確保した。

しかし、在留日本人は、アメリカ人や南ベトナム人の撤退を行うことだけでアメリカ軍が手一杯なことや、日本が直接参戦していないことなどから、たとえ日本人がベトナムに残っても北ベトナム政府や市民などから迫害を受ける可能性が低いことなどを理由に、アメリカ軍のヘリコプターに乗ることを拒否された。また、自衛隊の海外派遣が禁じられていたために、欧米諸国のように政府専用機や軍用機による自国民の救出活動が全く行われなかったことや、パイロット客室乗務員労働組合の反対で、フラッグ・キャリアである日本航空の救援機も運航されなかったために、混乱下のサイゴンに取り残された[12]

なおこの際に、かつてはアメリカ軍とともにベトナム戦争に参戦していた韓国人は、「アメリカ人や南ベトナム人の退去活動で手一杯であること」を理由に日本人と同じくアメリカ軍機による撤退への同行が拒否され、その結果駐南ベトナム大使以下の在留韓国人の殆どが、反韓感情が根強く残るサイゴンに取り残されることとなった。なお、サイゴンに取り残された韓国人は、国際赤十字指定地域とされた市内の病院に避難し迫害を受けることはなかった[12]ものの、その後しばらく帰国することができなかった。

「フリクエント・ウィンド作戦」に関するアメリカ軍の公式記録では、述べ682回にわたるアメリカ軍のヘリコプターによるサイゴン市内と空母との往復が記録され、1300人以上のアメリカ人が脱出に成功、その数倍から十数倍の南ベトナム人も脱出した。なお作戦中に海中投棄されたアメリカ軍や南ベトナム軍のヘリコプターは45機に達した。

サイゴン陥落と南ベトナム崩壊

4月30日の早朝には、最後までサイゴンに残ったグエン・バン・チュー元大統領ら南ベトナム政府の要人や軍の上層部とその家族、アメリカのグレアム・アンダーソン・マーチン駐南ベトナム特命全権大使や大使館員、アメリカ人報道関係者などの南ベトナムに住んでいたアメリカ人の多くが、サイゴン市内の各所からアメリカ陸軍や海兵隊のヘリコプターで、海上に待機するアメリカ海軍の空母に向けて脱出した。

しかし、撤退計画がサイゴン市内の混乱を受けて遅延したこともあり、北ベトナム軍はアメリカ政府の国際赤十字社の要請を受け、サイゴンに在留するアメリカ軍人および民間人が完全に撤退するまで、サイゴン市内に突入しなかった。なおアメリカ軍およびアメリカ大使館は、撤退後に北ベトナム政府に渡らぬよう計360万アメリカドルを撤退前に焼却処分にした。

同日午前には、前日に就任したばかりのズオン・バン・ミン大統領が、大統領官邸から南ベトナム国営テレビとラジオで戦闘の終結と無条件降伏を宣言した。その後残留南ベトナム軍と北ベトナム軍の間に小規模な衝突があったものの、午前11時30分に北ベトナム軍の戦車が大統領官邸に突入し、ミン大統領らサイゴンに残った南ベトナム政府の閣僚は北ベトナム軍に拘束され、サイゴンは陥落。南ベトナムは崩壊した。少数の南ベトナム軍の将校はサイゴン陥落後に自決した[12]

なお、サイゴン陥落の約2週間後には、クメール・ルージュが政権を握った隣国のカンボジアで「マヤグエース号事件」が勃発し、人質の解放に向かったアメリカ軍とクメール・ルージュの間で起きた戦闘により多数のアメリカ軍兵士が死亡している。

南北ベトナム統一

サイゴン陥落とそれに伴う南ベトナム政府の崩壊後、1969年南ベトナム解放民族戦線と民族民主平和勢力連合、人民革命党によって結成されていた南ベトナム共和国臨時革命政府が南ベトナム全土を掌握した。しかし臨時政府は、北ベトナムのベトナム労働党の指示に基づいて秘密党員が樹立したものであり、主要閣僚職はいずれも南ベトナム解放民族戦線内の労働党員に占められていた傀儡政権であった。

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サイゴン市内にあるホー・チ・ミンの銅像

南ベトナム解放民族戦線には仏教徒や自由主義者、リベラルな学生なども多数参加していたが、ベトナム統一後、それらの影響は排除された。なお亡命せずに国にとどまった約10万人にのぼる南ベトナム軍と旧政府関係者らは、当局への出頭が命ぜられ再教育に送られた。再教育期間は階級や地位により、軽いものは数週間のキャンプ生活で済んだが、重いものは10年以上を収容所で過ごした。1992年時点で10万人のうち9万4000人は釈放されて社会に復帰していたが、残る6000人はまだ再教育キャンプに収容されていた。米越間協議で9万4000人のうち3年以上キャンプに収容されていた4万5000人については本人の希望した場合アメリカが家族とともに受け入れる事を同意した(当時国内の窮乏と異常な失業率の高さに悩むベトナム側は、アメリカへ9万4000人全員とその家族を引き取るよう要求した)[18]

南ベトナム共和国臨時政府は正式な政府に発展すること無く、1976年4月にジュネーブ協定以来の懸案であった南北統一選挙が行われ、7月1日、南北ベトナム統一とベトナム社会主義共和国樹立(北ベトナムによる南ベトナムの吸収)が宣言され、「南ベトナム共和国」はサイゴン市陥落から1年余りで消滅した。

統一後はピアストルとドンの通貨の統合や行政官僚組織の再編成、企業の国営化が進められた。また、その後旧サイゴン市に周辺地域を統合して北ベトナムの指導者の名前を取った「ホー・チ・ミン市」が新たに制定された。

戦争の影響

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ジャングルに枯葉剤を散布するアメリカ軍のヘリコプター(1969年)
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戦時中でも活発な経済活動を見せていたサイゴン市内(1968年)
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南ベトナム解放戦線の兵士に捕虜にされたアメリカ空軍兵士(1973年)

南北ベトナム

1960年よりベトナム人同士の統一戦争として開始され、その後アメリカ合衆国が軍事介入し、15年間続いた戦争によって、南北ベトナム両国は500万の死者と数百万以上の負傷者を出した。

このことは、掲げる政治理念や経済体制にかかわらず、労働力人口の甚大な損失であり、戦後復興や経済成長の妨げとなった。アメリカ軍の巨大な軍事力による組織的な破壊と、北ベトナム軍や南ベトナム解放戦線による南ベトナムに対する軍事活動やテロにより国土は荒廃し、破壊された各種インフラを再整備するためには長い年月が必要であった。

また、共産主義政権による武力統一、および統一後の性急な社会主義経済の施行は、フランス統治時代より活発に行われていた資本主義経済と、それがもたらす消費文化に長年慣れ親しんだ南ベトナム経済の混乱を招き、また統一後の言論統制などが都市富裕層や華人の反発を招き、その後多くのベトナム難民を生む理由となった。

なお、南北統一以前のサイゴン陥落から、政権への服従を拒むかその容疑がかけられた市民は、人民裁判により処刑されるか再教育キャンプ送りになった。解放戦線はサイゴン陥落直後、人民軍への編入と同時に解散を命じられ、解放戦線の幹部は北の労働党から疎んじられた。わずかに解放戦線議長を務めて統一に貢献したグエン・フー・トが戦後に実権のない名誉職である国会議長を務めた程度である。

南ベトナムの元司法大臣のチュン・ニュー・タン(チュオン・ニュ・タン)は、『裏切られたベトナム革命――チュン・ニュー・タンの証言』(友田錫著、中央公論社)、『ベトコン・メモリアール――解放された祖国を追われて』(吉本晋一郎訳、原書房)で、サイゴン陥落から自ら亡命するまでの実態を告白している。『共産主義黒書 コミンテルン・アジア篇』(ステファヌ・クルトワ他著、恵雅堂出版、ISBN 4-87430-027-8)によれば、統一後現在までのベトナムでの死者は100万人に上るという。

また、この戦争に参戦した韓国軍兵士によるレイプで3~5千人の混血児が生まれたとされる[要出典]。それに対し韓国政府はいまだにベトナムに対し正式に謝罪を行っていない[要出典]

アメリカ

アメリカはこの戦争で、約58,000人の戦死者と約2,000人の行方不明者という人的損失をした。

またアメリカは、旧南ベトナム政府や軍の首脳陣、そして南ベトナムから流出した華人、および政治的亡命者などのボートピープル難民を数十万人受け入れた。

日本への影響

ベトナム戦争は当時高度成長期にあった日本にも大きな影響を与えた。ベトナム戦争の期間中、7年6か月間に亘って日本の総理大臣を務めた佐藤栄作1964年秋~1972年春)は、日米安保条約のもと、開戦当時はアメリカ軍の統治下にあった沖縄や横須賀横田などの軍事基地の提供や、補給基地としてアメリカ政府を一貫して支え続け、1970年には安保条約を自動延長させた。

左翼の一部はベトナム戦争を「ポスト安保闘争」の中核とみなし、一般市民による反戦運動やアメリカ軍脱走兵への支援をおこなったほか、自ら行う「反戦」(事実上の反米)運動や、破壊活動をともなう過激な学生運動も盛り上がりを見せた。なお、ベトナムに平和を!市民連合などの反戦団体のいくつかがソ連などの共産圏の政府から金銭、物資面の後援を受けていたことが戦後当事者の証言によって明らかになっている。

また、ベトナム戦争終結後、1989年の冷戦終結までの間に、共産主義政権を嫌い、漁船などを用いて国外逃亡を図った難民(ボート・ピープル)が日本にも多く流れ着いた。また、同時期にベトナム国内の華僑の計画的な追放も発生し、後の中越戦争のきっかけの一つなった。ベトナム経済が立ち直りつつあり、新たなベトナム難民がいなくなった現在においても、彼らの取り扱いに伴う問題は解決されたとはいえない。なお、ボート・ピープルは大部分が華僑であったことが使用言語などから分かっている。

和解

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グエン・チェット国家主席とアメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領(2006年11月17日、ハノイ)

1991年末日ソビエト連邦の崩壊は、ベトナム社会主義共和国とアメリカ合衆国の接近を惹き起こした。ソビエト連邦が崩壊すると、ベトナム戦争の終結から20年後に当たる1995年8月5日に、ベトナム社会主義共和国とアメリカ合衆国が和解し、国交を回復した。その後の2000年には、両国間の通商協定を締結し、アメリカがベトナムを貿易最恵国としたこともあり、フォードゼネラルモーターズコカ・コーラハイアットホテルアンドリゾーツといったアメリカの大企業が、ドイモイ政策の導入後の経済成長が著しいベトナム市場に続々と進出した。

その後、上記のような大企業を中心とした多くのアメリカ企業がベトナムに工場を建設し、教育水準が高く、かつASEANの関税軽減措置が適用されるベトナムを、東南アジアにおける生産基地の1つとしたことや、1990年代以降のベトナム経済の成長に合わせてアメリカからの投資や両国間の貿易額も年々増加するなど、国交回復後の両国の関係は良好に推移している。なお、ベトナムにとって、アメリカ合衆国は、隣国の中華人民共和国に次いで、第二の貿易相手国となっている。

また、現在は両国の航空会社が相互に乗り入れた事や、2000年代以降はベトナム政府がアメリカなどに亡命したベトナム人の帰国を、外貨獲得の観点からほぼ無条件に許したことから人的交流も盛んになっている。

アメリカ合衆国政府や議会は枯葉剤やその他の戦争被害に対しては賠償はしていないものの、フォード財団やその他の民間団体は、枯葉剤被害者に対し様々な援助を試みようとしている。

又、2000年代後半に入ると、ベトナム社会主義共和国とアメリカ合衆国は軍事面で接近し、「昨日の敵が、今日の友」に変わる勢いを見せている。この背景には、(1)友好国だったソビエト連邦が崩壊して、中ソ対立を引き摺った冷戦体制が崩壊したことや、(2)中華人民共和国(中国人民解放軍)による軍事介入や領土紛争を仕掛けられたことに対する反感(→Category:ベトナムの領有権問題)がある。2010年7月にハノイで開催されたASEAN地域フォーラムでは、アメリカのヒラリー・クリントン国務長官は南シナ海南沙諸島の領土問題に関与することを宣言し、その直後の8月11日には、ベトナム軍アメリカ軍が南シナ海で合同軍事演習を行うに至った。

ベトナム戦争勃発前の歴史を遡れば、フランス統治下にあった第二次世界大戦中のベトナムは、ベトミンを初めとする民族解放運動家たちは、東南アジアに軍事的覇権を拡大した大日本帝国日本軍)と敵対しており、アメリカ軍は原爆投下によって大日本帝国を倒した歴史を持っている。のみならず、ベトナム山中に不時着したアメリカ空軍兵士のうちいく人かは、ベトミンの手によって、日本軍及びフランス植民地政府軍の捜索から救出されており、中にはホー・チミンに伴われて昆明のアメリカ軍基地まで脱出した例もある。アメリカ軍がベトナムに潜入してタイグエンの日本軍飛行場を奪取した際、ベトミンの作戦部隊はこれに協力すらしている。つまり、「今日の友」は、「二日前の友」でもあったのである。

評価

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アメリカのニクソン大統領と歓談するフランスのド・ゴール大統領(1969年)
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現在のホー・チ・ミン (サイゴン) 市内

ベトナム戦争は従来の戦争と形態を異にした。生々しい戦闘シーンが連日テレビで報道され、戦争の悲惨さを全世界に伝えた。アメリカ国内では史上例を見ないほど草の根の反戦運動が盛り上がり、「遠いインドシナの地で何のために兵士が戦っているのか」という批判がアメリカ政府に集中した。かつてベトナムを侵略・支配していたフランスでもシャルル・ド・ゴール大統領は「ベトナム戦争は民族自決の大義と尊厳を世界に問うたものである」と述べている。ただしド・ゴールは、1954年に自国がインドシナから撤退したことについては「不本意だった」と語っている。

ベトナム戦争が終わるとに、ラオスではパテト・ラオが、カンボジアではアメリカと中華人民共和国に支援されたクメール・ルージュが相次いで政権に就いたことで、インドシナ半島タイ王国を除いて共産化され、アメリカの恐れたドミノ理論は現実になった。ただし、アメリカ軍がインドシナ半島に軍事介入して10年間持ちこたえたからこそ東南アジア全体の共産化が阻止されたとする見方もある[19]。逆に、アメリカ軍のインドシナ介入がカンボジア内戦などの諸問題を複雑にしたという声もある。

インドシナ半島はその後も安定せず、1976年7月2日に南北ベトナム統一によりベトナム社会主義共和国が成立した後も、1979年には無差別虐殺を繰り返していたポル・ポトによる独裁の打倒を掲げて民主カンプチアに侵攻してカンボジア内戦(ベトナム・カンボジア戦争)が勃発し、対して中華人民共和国がベトナム社会主義共和国に侵攻して中越戦争が起き、緊張した状況が継続した。その背景には、インドシナ半島をめぐる中国共産党とソ連共産党の覇権争いがあった。言い換えると、1979年のカンボジア内戦と中越戦争は、「ポル・ポト政権&中国共産党 vs ソ連共産党&ベトナム共産党」の構図で展開された[要出典]

ベトナム戦争終結から36年後の2011年現在、カンボジアでは1993年の選挙により政権は民主化された一方で、ベトナムラオスでは依然として共産党による一党独裁制が継続しているものの、対外的には中華人民共和国のような帝国主義ではなく、民族自決主義を敷いている。又、経済的には、「親方鎌と槌」的な統制経済[要出典]の行き詰まりから、ドイモイ政策などによって市場経済を導入し、外国の資本投資を受け入れている。ベトナム、カンボジア、ラオスは、南北ベトナム統一から冷戦終結までの間(1976年~1989年)に、東南アジア諸国連合に加盟した。

更に、2007年にベトナムはWTOに加盟し[20]、アメリカ一極体制が破綻した2008年金融危機以後は「VISTA」と呼ばれる新興経済国家の仲間入りを果たした。東南アジア諸国が市場経済体制と国際貿易体制に組み込まれ、経済的な状況に限れば、戦争だけでは実現できなかった状況が実現されることになった。

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サイゴン市内に放置された南ベトナム解放民族戦線兵士の死体

また、南ベトナム解放民族戦線 (及び北ベトナム軍) がベトナム戦争中におこなった数々のテロリズムは批判の槍玉に上がることがある。ベトナム戦争終結後の歴代のアメリカ政府や議会は、アメリカ合衆国がベトナム全土の共産主義体制化と、ベトナムを基点として東南アジア全域が共産主義化されることを抑止するために、ベトナム戦争に軍事介入したこと、枯れ葉剤クラスター爆弾対人地雷などの環境破壊や人的被害に対していかなる謝罪も賠償していない。2009年のオバマ大統領の就任演説においても、アメリカ合衆国の利益や正義を追求した先人たちの行為や努力や犠牲の事例として、独立戦争南北戦争第二次世界大戦とともに、ベトナム戦争を戦ったことを賞賛している[21]。 なおベトナム政府も同様に、南ベトナム解放民族戦線(及び北ベトナム軍)がベトナム戦争中に自国民に対して行なった数々のテロリズムに関し、謝罪するコメントを出していない。

ベトナムは多大な被害を受けたのに、現在では極端な反米感情が見られず、ベトナムには親米的な者が多いとされる。この背景には、ベトナム戦争終結後に、中華人民共和国による軍事介入や領土紛争を仕掛けられたことに対する反感から、「昨日の敵」だったアメリカ合衆国と手を結ぶことで、東南アジアに軍事的・経済的影響力を拡大する中華人民共和国を牽制したいという思惑が大きな要因となっている。

一方で、南北間には対立があり、例えば取り残された南ベトナム人は乗り込んできた北ベトナム軍によって家屋敷、公共施設は接収され警察、病院、学校などは全て北ベトナム人が要職を支配した。さらに南ベトナム人の家屋敷を召し上げ北の要人がそこに住むに至って、南ベトナム人の北ベトナム人に対する悪感情は強い[要出典]

報道

ベトナム戦争は第一次インドシナ戦争に引き続き、報道関係者に開かれた戦場であった。北ベトナムと南ベトナム(とアメリカ)の双方がカメラマン新聞記者の従軍を許可し、南北ベトナムやアメリカなどの当事国以外にも日本やフランス、イギリスやソビエト連邦など多数の国の記者が取材した。

彼らは直に目にした戦場の様子をメディアを通じて伝え、社会に大きな衝撃と影響を与えた。さらに西側メディアの感情的かつ一方的な報道は、西側諸国における反戦運動や反米運動の拡大を招いた。

またベトナム戦争は、史上初のテレビでの生中継が行われた戦争であった。特に「当事国」のアメリカでは泥沼化する戦場の様子や北爆に関連した報道は、その残虐さや影響の大きさからテレビ局新聞社が自主的に規制する風潮が高まったが、北ベトナムの場合も、取材とその報道内容については南ベトナムとアメリカのそれと比べ物にならないほどの大幅な制限がかかった。

これらの映像による報道の影響の大きさを受けたアメリカ政府も戦場報道の重要性を認識し、以降、湾岸戦争を初めとしてメディアコントロールに力を注いでいくこととなる。インドシナでの戦場報道は、その後の報道のあり方を様々な面で変えていった。

関連作品

ベトナム

ベトナムの歴史


主な出来事
仏領インドシナ成立
仏印進駐 · 太平洋戦争
ベトナム八月革命
第一次インドシナ戦争
ベトナム戦争 · 中越戦争
ドイモイ


ベトナム共産党
共産主義


「国家」
ベトナム民主共和国
ベトナム国
ベトナム共和国
南ベトナム共和国
自由ベトナム政府
ベトナム社会主義共和国


人物
バオ・ダイ
ホー・チ・ミン
ゴ・ディン・ジエム
ゴ・ディン・ヌー
マダム・ヌー
グエン・ミン・チェット
グエン・カオ・キ
グエン・タン・ズン
ノン・ドゥック・マイン


言語
ベトナム語 · チュノム
クォック・グー


[編集]

開戦当時から、主にアメリカを中心にベトナム戦争を扱った映画が多数製作された。戦争中こそドキュメンタリーや、ジョン・ウェインが製作指揮を取り自ら主演した「グリーン・ベレー」のようなアメリカ軍の側に立った戦争プロパガンダ的な映画もいくつか制作されたものの、終戦後はアメリカ軍の軍規弛緩とそれのもたらした戦争犯罪、ベトナム帰還兵の苦悩を描くものが多く制作された。日本ではアメリカや日本のテレビ局や映像制作会社が製作したノンフィクションで、両方に対して肯定的、もしくは批判的な見地からみた「実状」を知ることもできた。

  • 映画
  • ノンフィクション
    • 『泥と炎のインドシナ 毎日新聞特派員団の現地報告』(1965年大森実監修)[22]
  • ゲーム

脚注

  1. ^ Kennedy TV Interviews on Vietnam
  2. ^ a b c d e 韓国 軍も企業もベトナム参戦”. 朝日新聞 (2008-01-28). 2008-04-29閲覧。
  3. ^ 文京洙『韓国現代史』岩波書店
  4. ^ 今日の歴史(8月13日) 聯合ニュース 2009/08/13
  5. ^ 今日の歴史(9月5日) 聯合ニュース 2009/09/05
  6. ^ 『親日派のための弁明』金完燮草思社、2002)
  7. ^ 1999年5月256号ハンギョレ21
  8. ^ 군사편찬연구소(軍事編纂研究所) (2005-11-9). “연도별 해외근무수당 지급총액 및 국내송금액(年度別海外勤務手当て支給総額及び国内送金額)”. 국방부(国防部). 2010-09-23閲覧。
  9. ^ 『ベトナム戦争への道―大統領の選択』NHK 1999年』
  10. ^ 『CIA秘録 上巻』
  11. ^ 『ベトナム戦争への道―大統領の選択』NHK 1999年』
  12. ^ a b c d e f 「サイゴンのいちばん長い日」近藤紘一著 サンケイ新聞 1975年
  13. ^ ベトナム共和国「南ベトナムにおける『解放戦争』の欺瞞性」 P33
  14. ^ 米国国務省「北からの侵略」P64
  15. ^ ホーチミンを失った北ベトナム政府は、ソ連のレーニンの例に倣って、本人の意思を無視してソ連のエンバーミング専門家を招請して遺骸を防腐処理して保存し、巨大なホーチミン廟を建設して安置した。その後、1976年に中華人民共和国で毛沢東が死亡した際には、中ソ対立の影響でソ連からのエンバーミング技術指導が得られなかった中共指導部が、ある程度ノウハウがあると思われたベトナム政府に毛沢東の遺体保存への協力を求めたが断られ、毛沢東の遺体は9月の残暑の中で腐敗してしまい保存には失敗してしまった。このため葬儀では水晶で毛沢東の棺を作り真空状態にして保存したとして公開したが、中身は蝋人形であると言われており、この時のベトナム側の態度が中越対立の伏線となったとも言われている[誰によって?]。(林彪事件の際にも、わざわざ北ベトナムにことわりを入れていて、何か伏線があったのだろうと推察される)
  16. ^ 父親が儒者であったホーチミンが共産主義者としてアジアで活動を始めたのは、孫文がソ連の支援を受けて廣東に設立した黄埔軍官学校(校長は蒋介石)の教官としてであり、同校には多数のベトナム人留学生達も学び、卒業後は北伐戦に参加している。本人はアメリカ製のセーラム煙草を愛し、アメリカのOSSの要員から“ひどく良い奴だった”と回想された人物であった。
  17. ^ ホーチミンのあとを継いだ北ベトナムのレ・ズアン指導部は、当初「南ベトナム政権との戦いは1980年頃まで続くだろう」と考え、長期戦に備えて大量の兵站物資を南ベトナムの拠点に備蓄していた。しかし南ベトナム政権軍の崩壊は予想外に早く、大量の余剰軍需物資と元ベトコン・旧南ベトナム政権軍兵士の処遇に困る結果となった。この事が後のカンボジア侵攻でベトナム政府が勝負に出る原因のひとつとなった。
  18. ^ ニール・シーハン「ハノイ&サイゴン物語」P156
  19. ^ 稲垣武 『「悪魔祓い」の戦後史』 文藝春秋、1994年、219-220頁。
  20. ^ WTO・他協定加盟状況 - ベトナム - アジア - ジェトロ”. 日本貿易振興機構 (2011-02-17). 2011-04-04閲覧。
  21. ^ 2009年1月20日、大統領就任式におけるバラク・オバマ大統領の就任演説 “President Barack Obama's Inaugural Address”. (2009-01-21). http://www.whitehouse.gov/blog/inaugural-address/ 2011-02-04閲覧。 
  22. ^ 岩垂弘. “もの書きを目指す人びとへ、わが体験的マスコミ論”. イーコン. 2009-08-13閲覧。

参考文献

関連項目

人物

その他

外部リンク