ペリリューの戦い
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| ペリリューの戦い | |
|---|---|
| ファイル:Amphibious trac coming out of an LST - Peleliu beach.jpg 輸送船からLVTでペリリュー島の海岸に向かう海兵隊 | |
| 戦争:太平洋戦争 / 大東亜戦争 | |
| 年月日:1944年9月15日 - 1944年11月25日 | |
| 場所:パラオ諸島 ペリリュー島 | |
| 結果:アメリカ軍の勝利 | |
| 交戦勢力 | |
| ファイル:Flag of Japan.svg 大日本帝国 | ファイル:Flag of the United States.svg アメリカ合衆国 |
| 指揮官 | |
| 中川州男 | ウィリアム・リュパータス |
| 戦力 | |
| 歩兵第2連隊 歩兵第15連隊第3大隊 など11,000 | 第1海兵師団 17,490 第81歩兵師団 10,994 |
| 損害 | |
| 戦死 10,695 捕虜 202 | 第1海兵師団 戦死 1,251 負傷 5,274 第81歩兵師団 戦死 542 負傷 2,734 合計 戦死 1,794 負傷 8,010 |
ペリリューの戦い(ペリリューのたたかい)とは、太平洋戦争中の1944年(昭和19年)9月15日から1944年11月25日にかけペリリュー島(現在のパラオ共和国)で行われた日本軍守備隊(守備隊長・中川州男 大佐)とアメリカ軍(師団長・ウィリアム・リュパータス少将)の陸上戦闘をいう。
日本軍が見せた組織的な抵抗は、後の硫黄島の戦いへと引き継がれていくことになる。
目次 |
背景
パラオは第一次世界大戦後に日本の委任統治領となり、国際連盟脱退後、太平洋上の重要な軍事拠点のひとつとして整備が進められ、1937年にペリリュー島に飛行場の建設が開始され、1941年の大東亜戦争開戦時には1200m滑走路×2本の飛行場が完成していた。1943年9月30日絶対国防圏の設定、10月11日付「作戦航空基地ニ関スル陸海軍中央協定」により、防衛体制の整備が進められていった。
当時の日本軍にとって、パラオはグアムやサイパンの後方支援基地として、また米軍にとってはフィリピン奪還の拠点として注目され、米軍はチェスター・ニミッツ提督の命令の下でパラオ攻略作戦を計画し、実行に移すこととなった。
日本軍は絶対国防圏を守るため、パラオへ関東軍最強と呼ばれた第14師団(宇都宮)を派遣し、その麾下の水戸歩兵第2連隊、及び高崎歩兵第15連隊の1個大隊(第3大隊)が中核となって、ペリリュー島の守備に当たった。彼らは珊瑚礁で出来ていてコンクリート並に硬い地質を利用し、500以上に及ぶといわれる洞窟の要塞化など、持久戦に備えた強固な陣地を築き、米軍の上陸に備えた。対する米軍は空襲で日本軍の防御力を削ごうとしたが、対空砲火に阻まれ効果的とは言い難かった[1]。また特殊工作員が上陸し、日本軍陣地の配置を探ったり、機雷の無力化を行ったという[2]。
戦力比較
日本軍
- 編成(師団長・井上貞衛 中将/参謀長・多田督知 大佐)
- 総員 約10,500名
- 第14師団歩兵第2連隊(連隊長・中川州男 大佐)
- 第1大隊(大隊長・市岡秀衡 大尉)
- 第2大隊(大隊長・富田保二章 大尉)
- 第3大隊(大隊長・原田良男 大尉)
- 第14師団戦車隊(戦車隊長・天野国臣 大尉)
- 歩兵第15連隊第3大隊
- 海上機動第1旅団輸送隊第1中隊
- 独立歩兵第346大隊
- 歩兵第15連隊第3大隊(9月22日夜、逆上陸)
- 西カロリン航空隊、第761海軍航空隊、設営隊
- 第45海軍警備隊
- 朝鮮人労働者(当時は日本国籍)約3,000名含む
- 第14師団歩兵第2連隊(連隊長・中川州男 大佐)
- 日本側装備
- 小銃5,066挺
- 九六式軽機関銃200挺
- 九二式重機関銃58挺
- 九四式37mm速射砲、105mm山砲ほか約200門
- 九五式軽戦車16両
アメリカ軍
- 総員 48,740名
- 第1海兵師団 24,234名
- 第81歩兵師団 19,741名
- 付属海軍部隊 4,765名
- アメリカ側装備
- 小銃、自動小銃41,346挺
- 機関銃1,434挺
- ピストル3,399挺
- 迫撃砲、曲射砲729門
- 戦車117両
- バズーカ砲180基
日本側の朝鮮人労働者数(軍属)を兵数としてカウントするべきか否かは議論の余地があるだろうが、実質的に日本軍の兵力はアメリカ軍の6分の1以下だったと言える。また戦力差については航空機による爆撃、軍艦からの艦砲射撃等を考慮するとアメリカ側が数百倍の火力で日本軍を圧倒している。
戦闘経過
1944年9月12日、米軍は島へ艦砲射撃と高性能焼夷弾の集中砲火を浴びせ、周囲のジャングルを焼き払った。そして9月15日「2、3日で陥落させられる」との宣言の下、海兵隊を主力とする約28,000名が上陸する。上陸地点の海岸は北からホワイト1,2,オレンジ1,2,3というコードネームで区分していた。「海岸が流血で染まったためにオレンジ海岸と呼ばれるようになった」という説は誤りである。しかし、日本軍はゲリラ戦法による徹底的な組織的抵抗を行い、米軍に大きな損害を与えた。特に米軍上陸直後の水際での戦闘は凄惨を極め、大損害を蒙った米軍の第一次上陸部隊が煙幕を焚いて一時退却するという場面すらあった。そして上陸後6日目には全連隊が壊滅状態に陥るという前代未聞の事態となった。
10月30日には米軍第1海兵師団が全滅判定(損失60パーセント超)を受け、陸軍第81師団に交代している。海兵隊の司令官はこの惨状への心労から、心臓病を発病したという。この時点で3日で終わるとされた戦いは1ヶ月半も継続されていた。
しかし、日本軍には決死の逆上陸による兵力増援はあったものの補給が一切なかったのに対し、米軍は圧倒的な物量を擁していたため、日本軍の抵抗は次第に衰えを見せ始めた。米軍の火炎放射器と手榴弾によって日本軍の洞窟陣地は次々と陥落し、さらに食料や水もなくなり、生き残った兵は極めて苦しい戦いを強いられた。11月24日にはついに司令部陣地の兵力弾薬もほとんど底を突き、司令部は玉砕を決定、地区隊長中川州男大佐(歩兵第2連隊長)は拳銃で自決。村井権治郎少将(第14師団派遣参謀)、飯田義栄中佐(歩兵第15連隊第2大隊長)が割腹自決した後、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が本土に送られ、翌朝にかけて根本甲子郎大尉を中心とした55名の残存兵力による「万歳突撃」が行われた。こうして日本軍の組織的抵抗は終わり、11月27日、ついに米軍はペリリュー島の占領を果たすこととなる。上陸開始から2ヵ月半が経過しての事であった。
この間、中川隊の異例の奮闘に対して昭和天皇より嘉賞11度、感状3度が与えられ、中川は死後に2階級特進し陸軍中将となった。
なお、戦闘終結後も生き残りの日本兵34人が洞窟を転々として生き延びており、終戦後の1947年4月22日に米軍へ投降した。この生き残りの34人は「三十四会」(みとしかい)という戦友会を結成している。
損害
日本軍
- 戦死者 10,695名
- 捕虜 202名
アメリカ軍
- 戦死者 1,794名
- 戦傷者 8,010名 ※この他に精神に異常をきたした者が数千名いた。
一般人民
- 陣地構築に徴用されていたが、軍が戦闘前に強制退避させたため死者・負傷者ともに0名とされる。
ペリリュー島の島民
ペリリュー島には1943年6月末の段階で民間人1,060名(日本人160名、朝鮮人1名、現地住民899名)が平地の多い南部を中心に居住していたが、ミッドウェー海戦後の空母不足を島嶼基地航空部隊で補う方針が採られ、飛行場拡充・防備の強化に伴い防諜の観点から、1943年9月から島民はパラオ本島とコロール島に強制移住させられた。戦後、南部が廃墟となったため北部に一部の住民が再定住した。しかし現在も戻れなかった島民と子孫1,600名が、土地所有権の絡みでペリリュー出身であると主張している。
当時の日本による教育を受けていた島民は現在でも日本語を話すことができ、また単語単位であれば若者にも日本語が通じる場合がある。
日本からの援助で購入されたコロールとの連絡船は、「YAMATO」と命名されている。また、ペリリューに桜は咲かないが、日本をイメージする「サクラ」という言葉には人気があり、スポーツチームの名前等にも使用されている[3]。
名越二荒之助及び浦茂らの主張
現地住民の被害が少なかったことは、美談として毎日新聞のコラムなどで掲載されたといわれる(これは毎日新聞ではなく毎日新聞社から出版された舩坂弘の著作「サクラサクラ」1966年と思われる)。
【ある老人が若い頃日本兵と仲良くなり、戦況が日本に不利となった時「一緒に戦わせて欲しい」と日本兵隊長に進言したが「帝国軍人が貴様らなどと戦えるか!」と激昂され、見せ掛けの友情だったのかと失意の中島を離れる船に乗り込んだ。が、船が島を離れた瞬間その隊長を含め日本兵が手を振って浜へ走り出てきた。老人はその時、隊長が激昂したのは自分達を救う為だったと悟ったという。】
パラオ共和国が誕生した時、同島出身の人らによってペリリュー島における日本軍の勇戦を讃える「ペ島の桜を讃える歌」(作詞:同島出身のジョージ・シゲオとオキヤマ・トヨミ 作曲:同島小学校副校長ウィンティ)がつくられ、今に歌い継がれている(名越二荒之助著『世界に生きる日本の心』1987年、展転社)。
前掲名越本の記述は舩坂弘著『血風ペリリュー島』(1981年、叢文社)から引用されたものであるが、舩坂本では「作詞:沖山トヨミ・庄子シゲオ 作曲:同島小学校副校長ウィンティ 監修:舩坂恵子・蜂巣一郎 指導:舩坂弘」と記述され、日本人による「監修」「指導」まで明らかにされているが名越の本では省略され、あたかもペリリュー島民が独力で制作したかのような誤解が生まれている。舩坂弘の『血風ペリリュー島』1981年は2000年に「ペリリュー島玉砕戦」と改題され出版されているが、ペリリュー島の桜を讃える歌の記述は削除されている。
日本会議事業センターが2005年に製作したDVD『天翔る青春ー日本を愛した勇士たち』には、パラオの人々が「ペ島の桜を讃える歌」を歌う映像が収録されている。
驚くべきことに「ペ島の桜を讃える歌」は後述サンケイ新聞社の住田良能記者が1978年にペリリュー島を取材した時に記録された「緑の島の墓」(作詞:小学校副校長ウィンティー・トンミ 作曲:妻のアントニア)と曲(メロディー)がまったく同じである。1981年「ペ島の桜を讃える歌」は1978年以前に作られていた「緑の島の墓」の曲を使いまわし、作詞は舩坂によってなされたのが真相であろう。
“ニミッツ提督作”とされる詩文
1982年に清流社が組織した青年神職南洋群島慰霊巡拝団の滑川裕二(右翼団体日本青年社幹部)が中心となり、地元住民には観光産業振興のため慰霊寺院 (temple)と宿泊施設を建設するとの約束のもと、地元住民が協力して慰霊施設が建設された。が、しかし完成したのは寺院ではなくペリリュー神社であった。
神社に建設された碑(1994年に建立)には、ニミッツ提督の詩文とされる文字列が彫り込まれている。
「諸国から訪れる旅人たちよ この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い そして玉砕したかを伝えられよ 米太平洋艦隊司令長官 C.W.ニミッツ」
"Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island. Pacific Fleet Command Chief(USA) C.W.Nimitz"
名越二荒之助の著作『世界に生きる日本の心』(展転社、1987年)で有名になったこの日本語で書かれた詩文は、ペリリュー神社境内の掲示板に書き込まれていたものを名越が見つけたとしている。
右の掲示板には、戦闘の経過が要約され、米国公刊戦史に載っているとして、次の詩的な一文で結ばれています。「この島を訪れる旅人たちよ。あなたが日本の国を通過することあらば伝えてほしい。此の島を死んで守った日本軍守備隊の勇気と祖国を憶うその心根を・・・・・・
— 1987年『世界に生きる日本の心』230頁
名越はこの詩文のオリジナルである英文を探そうと他の人に頼み、ついに浦茂(元陸軍中佐。宮城事件ではクーデター計画作成に関与・戦後航空幕僚長・退職後ロッキード社の代理店の丸紅顧問)が1984年に渡米し、ニミッツの資料を求めてアナポリス海軍兵学校を訪れた時、教官からニミッツの詩として伝えられたものとして、英文を提示した。
浦氏が昭和五十九年に渡米し、ニミッツの資料を求めて、アナポリス海軍兵学校を訪れました。その時、教官から教えられた英文は、次のようなものでした。「Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island. 」
— 1987年『世界に生きる日本の心』231頁
名越は『世界に生きる日本の心』本文で言及していないが、その掲示板に書かれた詩文の後に出典として舩坂弘著『血風ペリリュー島』と記され、当該詩文は米軍公刊戦史に記された詩文としか紹介されていない(名越の著作『世界に生きる日本の心』に掲載された写真に小さく写っている)。
米国公刊戦史には「この島を訪ねる、もろもろの国の旅人たちよ、あなたが日本を通過することあらば伝えてほしい。此の島を死んで守った日本軍守備隊の勇気と祖国を憶うその心根を・・・・」とある 船坂 弘著「血風ペリリュー島」より”
— 1987年『世界に生きる日本の心』231頁、写真1982年当該部分
『血風ペリリュー島』(1981年)で該当する部分は、サンケイ新聞記者の住田良能記者が1978年にサンケイ新聞の茨城県版で企画連載した「ペリリュー島78」を収録した部分に記載されている。
“犠牲の大きい戦いだっただけに、米軍にとって、勝利はひときわ印象深かった。戦後太平洋方面最高司令官だったニミッツ提督は「制空、制海権を手中にした米軍が、一万余の死傷者を出してペリリューを占領したことは、いまもって大きなナゾである」と述べ、また米軍公刊戦史は「旅人よ、日本の国を過ぐることあれば伝えよかし、ペリリュー島日本守備隊は、祖国のために全員忠実に戦死せりと」と讃えた。”
— 1981年「血風ペリリュー島」P258における1978年住田記者の記事
「血風ペリリュー島」における住田良能記者の記事では出典は明記されていないが、それとほぼ同じ文章が、舩坂弘が監修し自身が経営する出版社から出した「栄光の軍旗あゝ我が水戸の二聯隊」(1972年大盛堂書店)に存在する。
“ペリリュー島攻撃は、米国の歴史に於ける他の如何なる上陸作戦にも見られない、最高の損害比率(約四〇パーセント)を出した。
既に制空、制海権を手中に納めていた米軍が死傷者併せて一万余人を数える犠牲者を出して、ペリリュー島を占領したことは、今もって大きな疑問である。━元太平洋方面最高指揮官C・Wニミッツ著『太平洋海戦史』より
○一行空白○
旅人よ、日本の国を過ぐることあらば伝えよかし、ペリリュー島日本守備隊は、祖国日本の為に全員忠実に戦死せりと。(米軍公刊戦史より)”
— 1972年栄光の軍あゝ我が水戸の二聯隊P271-272
米軍公刊戦史にこのようなペリリューの日本兵を讃える詩文の記述は見当たらないが、元となったであろう文献が存在する。
ペリリュー島の戦いが始まる一ヶ月前に、アメリカの従軍記者として有名なロバート・シャーロッドがサイパンの戦いをレポートした「THE NATURE OF THE ENEMY」(週刊誌タイム1944年8月7日号)で、追い詰められた3人の在留邦人女性が入水自殺する前に悠然と長い黒髪を櫛ですいていた情景を目撃した海兵隊員の証言を聞き、古代ギリシアのテルモピレーの戦いを想起したとする記事を書いている。[1]
In one instance marines watched in astonishment as three women sat on the rocks leisurely, deliberately combing their long black hair. ※Finally they joined hands and walked slowly out into the sea.
- ※The marines had obviously never heard that Leonidas and his Spartans did the same before their last stand at Thermopylae.
— タイム1944年8月7日号
サイパンの戦いで自殺直前に髪を櫛けずる日本人女性達の情景を見たとする海兵隊員の証言からシャーロッドが想起したテルモピレーの同じような事例とは、ペルシャ軍の斥候がスパルタ軍の陣地を偵察した際、スパルタ兵達が頭髪に櫛を当てていた情景である(岩波文庫ヘロドトス「歴史」下P131-132参照)
またシャーロッドは1945年に自身が従軍した戦闘のレポートをまとめた「On to Westward: The WAR IN THE CENTRAL PACIFIC」という著作を出版したが、この本のサイパンの部分が中野五郎の訳で1951年日本でも出版された。タイムに掲載された部分は若干書き改められ以下のように記されている
Some of the Jap civilians went through considerable ceremony before snuffing out their lives. In one instance Marines watched in astonishment as three women sat on the rocks leisurely, deliberately combing their long, black hair-much after the fashion of Leonidas and his Spartans before their last stand at Thermopylae. Finally,the women joined hands and walked slowly out into the sea.
— 1945年「On to Westward」ロバートシャーロッド著p146
また日本人の在留邦人の一部には、みずからその生命を絶つまえに相当の儀礼をとりおこなうものがあつた。その一例として、三名の日本人の女性が、まるでテルモピレーの決死の陣にのぞんだレオニダス将軍と部下のスパルタ軍勢の流儀に大いに似て、岩頭にゆうゆうと坐つてその長い黒髪を落ちついて櫛けずりつつあつた光景には、さすがの海兵たちも呆然と驚異の目を見はつて見まもるばかりであつた。それから最後に、これらの女性はそれぞれ両手を合わせて祈りながら、しずしずと海のなかへ歩いていつて姿を消したのである。
— 1951年「サイパン」ロバートシャーロッド著中野五郎訳p302
この「THE NATURE OF THE ENEMY」におけるサイパン島日本人民間人の壮絶な最後の様子は、交戦相手国のメディアであるにもかかわらず逆利用され戦意高揚のため日本の新聞各紙(朝日、毎日、読売報知)において引用されたが、朝日新聞は1944年8月19日の紙面ストックホルム渡辺特派員の記事で、上記タイムの記事を翻訳引用したあとにその説明として以下の文を記している。
こゝに引用されたテルモピレーの戦ひとは紀元前四八〇年三百のスパルタ兵がレオニダス王の下に数百倍するペルシャ軍を迎へて全員華と散つた戦さのことである。その戦跡にいまなほ残る碑文には
「旅人よ、行きてラケダイモン(スパルタ人)に告げよ、彼等の命に従い我等のこゝに眠るを」
と書いてある
— 朝日新聞1944年8月19日付
1945年「On to Westward」ロバートシャーロッド著は主にサイパンと硫黄島の戦いを扱っているが、僅かだがペリリューの戦いに言及した以下のような記述が存在する。
During the day Marines saw most of the suicides at Marpi Point,there were loudspeakers set up on the cliff. The surrendered civilians pleaded with the others to give themselves up,assuring them that they would be well treated.But that did not stop the suicides.Among many Japanese there seemed to be apressing compulsion to die,regardless of everything. The attitude of these civilians seemed comparable to that of Jap soldiers on Peleliu who lettered a sign before they died:
“We will build a barrier across the Pacific with our bodies.”
— 1945年「On to Westward」ロバートシャーロッド著p148
海兵隊はマルピ岬で在留邦人婦女子の投身自殺の大半を見かけた当日の一日中の間にも、その断崖の上にはラジオの拡声器がいくつも据えつけられていた。そしてすでに投降した在留邦人たちは、他の同胞に向かつてよく待遇されるむねを説得しながら、投降するように大いにすすめたのであつた。
しかし、それでも日本人の自決をとどめることはできなかつた。多数の日本人の間には、あらゆることにもかかわりなく、死のうとする強烈な推進力があるように思われた。これらのサイパン島の在留邦人の態度は、総員自決するまえに次のような文字を書き残して玉砕したペリリュー島(内南洋のパラオ諸島の主島)の日本軍将兵の態度とよく似ているように見えた。
「われわれは、わが屍をもつて太平洋の防砦を築かん!」
— 1951年「サイパン」ロバートシャーロッド著中野五郎訳p306
上記シャーロッドの著作に記されているペリリュー日本守備隊の兵士達が死ぬ前に書き残した「We will build a barrier across the Pacific with our bodies」の原文(日本文)は不明だが、サイパンノ戦いで歩兵第136連隊長として指揮を取った小川雪松大佐が1944年5月9日に日本を出発する出陣式の挨拶で似たような言葉「身をもって太平洋の防波堤たらん」を訓示している、また同じくサイパンで自決したサイパン防衛の最高指揮官である中部太平洋方面艦隊司令長官南雲忠一中将も7月3日玉砕直前最後の訓示で「太平洋の防波堤となりてサイパン島に骨を埋めんとす」と述べている。この「太平洋の防波堤」という言い方は1944年2月マリアナ・パラオ方面の防衛を管轄する第31軍司令官に親補された小畑英良中将がサイパン赴任前に昭和天皇に謁見した時に誓った言葉「われ身をもって太平洋の防波堤となり、陛下と国民の期待に答えんことを期す」に由来すると思われる。小畑はサイパン赴任後の1944年5月28日~30日にはペリリューの守備部隊を視察、6月のサイパン戦時はグアム島から指揮を取り8月のグアムの戦いで玉砕戦死してるがそのとき自身も8月10日に「己れ身を以て、太平洋の防波堤たらん」との決別の電報を打っている。
時系列に並べると
- 1944年2月 第31軍(管轄サイパン・グアム・パラオ他)司令官小畑中将の誓い
- 「われ身をもって太平洋の防波堤となり、陛下と国民の期待に答えんことを期す」
- 1944年5月28日~30日 小畑中将ペリリュー島視察
- 1944年6~7月 サイパンの戦い 南雲中将の最後の訓示
- 「太平洋の防波堤となりてサイパン島に骨を埋めんとす。」
- 1944年7~8月グアムの戦い 小畑中将の決別の打電
- 「己れ身を以て、太平洋の防波堤たらん」
- 1944年8月7日タイム「THE NATURE OF THE ENEMY」(ロバート・シャーロッド)
- 「The marines had obviously never heard that Leonidas and his Spartans did the same before their last stand at Thermopylae.」
- 朝日新聞1944年8月19日(ストックホルム発渡辺特派員)
- 「旅人よ、行きてラケダイモン(スパルタ人)に告げよ、彼等の命に従い我等のこゝに眠るを」
- 1944年9~11月 ペリリューの戦い
- 1945年 シャーロッド著「On to Westward」出版 ペリリュー日本軍兵士達が遺した言葉
- 「We will build a barrier across the Pacific with our bodies」(日本語原文は不明)
- 1950~51年 アメリカ海軍準公刊戦史と目されているサミュエル・モリソン著History of United States Naval Operations in World War II(通称モリソン戦史)の部分邦訳「太平洋戦争アメリカ海軍作戦史」出版(訳者中野五郎)
- 1951年 シャーロッド著「On to Westward」の邦訳「サイパン」出版(訳者中野五郎)ペリリュー日本軍将兵が遺した言葉
- 「われわれは、わが屍をもつて太平洋の防砦を築かん!」
- 1966年2月20日 チェスター・ニミッツ元帥死去
- 1966年11月 筑摩書房世界ノンフィクション全集(12)にシャーロッドの「サイパン」とモリソン戦史の一部「ミッドウェイ海戦」が同時収録され出版
- 1972年栄光の軍旗あゝ我が水戸の二聯隊(舩坂弘監修)
- 「旅人よ、日本の国を過ぐることあらば伝えよかし、ペリリュー島日本守備隊は、祖国日本の為に全員忠実に戦死せりと」
- 1978年サンケイ新聞茨城版
- 「旅人よ、日本の国を過ぐることあれば伝えよかし、ペリリュー島日本守備隊は、祖国のために全員忠実に戦死せりと」
- 1982年ペリリュー神社掲示板(日本青年社)版
- 「この島を訪ねる、もろもろの国の旅人たちよ、あなたが日本を通過することあらば伝えてほしい。此の島を死んで守った日本軍守備隊の勇気と祖国を憶うその心根を・・・」
- 1987年名越二荒之助版
- 「この島を訪れる旅人たちよ。あなたが日本の国を通過することあらば伝えてほしい。此の島を死んで守った日本軍守備隊の勇気と祖国を憶うその心根を・・・・・・」
- 「Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island. 」
- 1994年石碑版
- 「諸国から訪れる旅人たちよ この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い そして玉砕したかを伝えられよ」
- 「Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island. 」
問題の詩文の由来は、(1)サイパンの戦いにおいて三人の民間人女性が入水自殺する様子をレポートしたアメリカの記事を朝日新聞が転載する際に注釈説明として引用した古代ギリシアのテルモピレー碑文、(2)サイパンに赴く直前の小畑英良の誓いに端を発し絶対国防圏島嶼防衛諸部隊に訓示伝達された「太平洋の防波堤」という語句、の二つである。
それが年月を経て(1)と(2)の語句、および出典のシャーロッド「サイパン」と「モリソン戦史」が混同され(サイパンとモリソン戦史の翻訳を行ったのはどちらも中野五郎)、1973年「栄光の軍旗あゝ我が水戸の二聯隊」(舩坂弘監修)においてサイパンの戦いがペリリューの戦い「アメリカ公刊戦史記述」となり、→1978年の「ペリリュー島78」→1981年の「血風ペリリュー島」→1982年ペリリュー神社掲示板と詩の中身を若干変移させつつ伝言ゲームがおこなわれ(ここまでの段階ではニミッツ作とは誰も書いていない)、
(現在資料収集中、ニミッツ作と最初に書いたのは1985年浦茂しかし浦は英文を発見していない、現在流布されている英文は浦が日本文をもとに創作・関係者に配布)
1978年のサンケイ新聞茨城版を基にして1982年のペリリュー神社掲示板(日本青年社)版が作られたがその際、旅人の前にこの島を訪ねる、もろもろの国のという文節が新に追加されている。そしてその後の1984年にアメリカで発見されたとされるオリジナル(最古であり・ニミッツ作が事実なら賦された時期は1944年~1966年に限定される)のはずの英文には、不思議なことに1978→1982の日本語文の語句の追加に照応するかのようにfrom every country who visit this islandというフレーズが見られる。
名越及び浦の記述が事実とすると、アメリカの提督であるニミッツの詩文は日本語バージョンが1978年には既に日本の一部で知られており、オリジナルの英文は1984年に発見されたことになる。しかしニミッツ作とされる英文がいつどこで作られたのか、アナポリスの教官とは誰なのかは提示されていない。また、アメリカ側の資料では未だにソースは発見されていない。ウィキペディア英語版ペリリューの戦いでも疑問が呈せられ当該記述は掲載保留となっている。
なお名越は、前掲書においてペリリューの戦いを記述する前に、ミャンマー・中国大陸や太平洋の島々の玉砕戦に比肩するものとして古代ギリシア時代のテルモピュライの戦いを例示している。このテルモピュライの戦いでも詩が賦され、石碑も建てられている。この詩は世界的に有名なので参考までに英文と日本語訳をここに付す。
"Go tell the Spartans, thou that passest by,That here, obedient to their laws, we lie."
「旅人よ、行きて伝えよ、ラケダイモン(スパルタ)の人々に。我等かのことばに従いてここに伏すと」。
パラオのジャンヌ・ダルク伝説
中川大佐配下の独立歩兵第346大隊長 引野少佐の愛人芸者(慰安婦)がパラオの中心地のコロール島からペリリュー島にやってきて日本軍と一緒に戦い最期は機関銃を乱射アメリカ兵86人を死傷させ玉砕したという伝説。2007年には靖国神社で開催されたパラオ展[2](主催靖国神社・共催NPO法人日本パラオ協会{理事長 黒岩徹の方})でも紹介され、多くの人に半ば実在したと信じられている。
- 月刊誌宝石1966年9月号児島襄著「太平洋戦争“最強部隊”の勇者達 最後の一兵は女性だったと語り伝えられるペリリュー島日本守備隊の奮戦記」以来一部伝説となって神格化されそれらしき女性の名前まで提示され、近年でも諸君2008年6月号秦郁彦著「玉砕の島ペリリュー 『女性兵士』伝説の謎を追う」で検証(秦はこの伝説の真実性に懐疑的な見方をしている)が試みられたエピソードの、現在確認される最古の資料は、海外渡航が制限されてる中で南洋諸島と往来できた数少ない日本人である燐鉱石会社社員や船員の伝聞を元にした朝日新聞1952年11月29日「八つの島(4)ペリリュー島」である。1952年朝日では1952年時点で島の中央、水府山頂に白い十字架が輝いてるとし、女性兵士最期の時期は1944年11月30日場所は中部の水府山(中川大佐が指揮を取っていた地点)となっているが、1966年児島では女性兵士最期の時期は9月下旬・場所は北部の水戸山となっている。
- また歩兵第二連隊所属 森島一等兵は、将校専属の慰安婦一名が最後まで島に残り、軍服を着用して釣りをする姿を目撃している。同連隊生還者の飯島上等兵も、米軍がたてた十字架墓を島北端の電信所付近(水戸山)で目撃している。投降後、飯島が米兵に聞くと、手榴弾を投擲して米軍を足止めした日本軍女性兵士の墓という解答があった[4]。(平野柾緒 『証言記録「生還」―玉砕の島ペリリュー戦記』、学研、2010)
- 上記、平野の著作(2010年版)では、アメリカ軍はペリリュー島内の他の場所に十字架を立てなかったから、目撃証言の十字架は日本の女性兵士を葬るためにアメリカ軍が建てたものである可能性が高いとしている。
- が実際には、アメリカ軍は自軍の戦死者を葬るために島のあちこちに十字架を立てている。[3][4]
戦死しいったん葬られたアメリカ兵の遺体はその後全て掘り起こされ本国に帰還している。
これら女性兵士に関する諸証言のさらに基となった可能性のある二つのエピソードが存在する。
- ペリリューの戦いが始まる2ヶ月前のサイパンの戦いをレポートした前節上掲ロバート・シャーロッド著「サイパン」1951年邦訳出版(訳者中野五郎)p307に、サイパンの在留邦人女性がアメリカ軍部隊に向け小銃を乱射し、最後に足を撃ち抜かれ野戦病院に収容された話が掲載されている。
- 同じくサイパンの戦いで自決を試み重傷を負うもアメリカ軍に救助された従軍看護婦の菅野静子(菅野は戦闘に参加していないが鉄帽を被っていたため女兵士と誤認された)が“サイパンのジャンヌ・ダルク”と1944年7月25日付ニューヨーク・ヘラルド・トリビューンで報道されたことが週刊新潮昭和34年8月24日号に掲載されているそうである(出典1959年菅野著「サイパン島の最期」編集後記)
脚注
- ^ 平野柾緒『証言記録「生還」―玉砕の島ペリリュー戦記』(学研、2010)64頁
- ^ 平野柾緒『証言記録「生還」―玉砕の島ペリリュー戦記』(学研、2010)66-80頁
- ^ 名越二荒之助『秘話・大東亜戦争とアジアの歌声』展転社、1994年2月。ISBN 978-4886561015
- ^ 平野柾緒『証言記録「生還」―玉砕の島ペリリュー戦記』(学研、2010)197-204頁
ペリリューの戦いを描いた作品
- 児島襄 『天皇の島』 講談社、1967年、角川文庫。小説
- 『児島襄戦史著作集 vol.7』にも収録、文藝春秋、ISBN 4-16-509470-6
- 小田実 『玉砕』 新潮社、1998年。小説
- 共著 『玉砕/GYOKUSAI』(岩波書店、2006年)にも収録、ISBN 4-00-022549-9
- 舩坂弘 『ペリリュー島玉砕戦』 光人社、2000年 ISBN 4-7698-2288-X
- 星亮一 『アンガウル、ペリリュー戦記 玉砕を生きのびて』 河出書房新社、2008年 ISBN 4-309-01869-6
- 平野柾緒 『証言記録「生還」―玉砕の島ペリリュー戦記』、学研、2010、ISBN 978-4-05-404672-6
- ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』猿渡青児・訳 光人社NF文庫 2010年 ISBN 978-4769826385
- ユージン・スレッジ 『ペリリュー・沖縄戦記』伊藤真/曽田和子・訳 講談社学術文庫 2008年 ISBN 978-4061598850
- テレビドラマザ・パシフィックの原作の1つ。ドラマ構成で3話で構成され重要なシーンで語られている。
- 久山忍 『戦いいまだ終わらず』産経新聞出版 2009年 ISBN 978-4819110846
ペリリューの戦いを描いたテレビドラマ
ペリリューの戦いを描いたゲーム
関連項目
- ペリリュー神社
- ペリリュー_(強襲揚陸艦) - この戦いに因んでの命名
外部リンク
| マリアナ・パラオ諸島の戦い |
| サイパンの戦い | マリアナ沖海戦 | グアムの戦い | テニアンの戦い | ペリリューの戦い | アンガウルの戦い |




