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ホーランジアの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ホーランジアの戦い
ファイル:Hollandia Landings - April 1944.jpg
ホーランジアへ上陸するアメリカ軍
戦争太平洋戦争/大東亜戦争
年月日1944年4月22日 - 6月下旬
場所:ニューギニア島東部ホーランジア
結果:連合軍の勝利
交戦勢力
ファイル:Merchant flag of Japan (1870).svg 大日本帝国 ファイル:US flag 48 stars.svg アメリカ合衆国
指揮官
遠藤喜一
北園豊蔵
稲田正純
ロバート・アイケルバーガー
戦力
14,600 40,000
損害
戦死・戦病死 10,000超
捕虜 611[1]
戦死 159
戦傷 1,067[2]

ホーランジアの戦い(ホーランジアのたたかい、英語: Battle of Hollandia)とは、太平洋戦争大東亜戦争)中の1944年4月下旬から6月下旬に、日本軍とアメリカ軍の間で、ニューギニア島北岸の町ホーランジア(現在のジャヤプラ)で行われた戦闘である。アメリカ軍の作戦名は「レックレス作戦 Operation Reckless」である。

目次

背景

戦争初期に太平洋に面したニューギニア北岸一帯から東岸までを占領した日本軍であったが、1942年7月からのポートモレスビー攻略作戦は失敗に終わった。代わって連合軍の反撃が始まり、ブナ方面の作戦バサブアの戦いラエの戦いフィンシュハーフェンの戦いと次々に日本軍は敗北、1944年4月頃には戦線がニューギニア東端を回り込んで太平洋岸に後退していた。

1944年当時のホーランジアは、東部ニューギニア地区の日本軍の重要な後方拠点であった。連合軍上陸前日の4月20日時点では、日本陸軍の第18軍兵站関係者約6600人、第6飛行師団を中心にした第4航空軍関係者約7000人、海軍の第9艦隊関係者約1000人の計約14600人が駐留していた[3]。兵力は多かったが、より東のウェワクが先に攻撃目標になると考えられていたため、ほとんど地上戦闘要員は含まれていなかった。わずかに南洋第6支隊が守備隊として送られたが、現地で兵員調達の予定のため幹部要員のみで、しかも輸送船を撃沈されて兵器弾薬を喪失した状態で到着していた。なお、4月15日までは第4航空軍の司令部も置かれていたが、南方軍直轄への配属変更の関係でメナドへ後退した。隷下の第6飛行師団も後退を検討していたが、実現前に上陸を迎えた。

連合軍は、フィンシュハーフェンの戦いでビスマルク海を制圧したことにより、日本側の第8方面軍司令部(在ラバウル)との連絡を遮断して、そのニューギニア方面への作戦指揮を不能にさせた。そして、蛙飛び作戦(アイランドホッピング)を実行し、防備の固いウェワク付近を飛び越してホーランジアとアイタペへ上陸することにした。アメリカ軍はホーランジアに約4万人の兵力を、アイタペには2万人を投じることにした。準備作戦としてアドミラルティ諸島攻略を決め、1944年2月29日にアメリカ軍約45000人を主島のマヌス島に上陸させ、3月までに日本の守備隊約2500名を戦死させた(アドミラルティ諸島の戦い)。アドミラルティ諸島は、艦隊の根拠地として整備された。ホーランジアとアイタペへの上陸日は4月22日に決まった。

参加兵力

日本軍

以下の部隊のほか、アイタペから転進中の第18軍関係部隊が、第41師団の一部、野戦高射砲第36大隊や独立工兵第36連隊、第1揚陸隊など計2500人いた。また、ホーランジアから西へ移動中の海軍第8建設部の軍属約2000人もあった[4]

  • 第18軍関係 - 6600人
    • 第3野戦輸送司令部 - 北園豊蔵少将。
    • 南洋第6支隊 - 本来は2個歩兵大隊と戦車中隊から成るが、戦車中隊は経由地のパラオに残置。2個歩兵大隊は編成未了で幹部要員のみ。
    • 第54兵站地区隊 - 石津經吉大佐。第54兵站警備隊(3個中隊と歩兵砲隊)、第54兵站勤務中隊ほか。
    • 港湾・船舶関係:海上輸送第4大隊、第31・第49碇泊場司令部主力、第3揚陸隊の一部
    • 第79・第113兵站病院
    • その他:独立自動車第42大隊・建築勤務第49中隊・特別建築勤務第26中隊・軍通信隊・軍補給諸廠の各一部
  • 第4航空軍関係 - 7000人
    • 第6飛行師団 - 可動航空機30-40機と地上要員多数。
    • 防空関係:独立機関砲第38・第39中隊、野戦高射砲第66・第68大隊、照空第3大隊
  • 海軍関係 - 1000人

連合軍

  • アメリカ陸軍第6軍
    • 第41歩兵師団主力 - 2個連隊戦闘団が助攻部隊としてフンボルト湾に上陸。なお、残余はアイタペ攻略に。
    • 第34歩兵師団主力 - 2個連隊戦闘団が主攻部隊としてタナメラ湾に上陸。なお、残余はアイタペ攻略に。
    • 第24歩兵師団の第34歩兵連隊戦闘団 - 予備隊としてタナメラ湾に上陸。

経過

米軍の上陸

ファイル:Japanese Hollandia Operation.jpg
ホーランジアの戦いの戦闘経過図

ホーランジアとアイタペ方面には、3月頃から米軍による空爆や陸地への艦砲射撃が相次いでいた。上陸前日の4月21日には米航空部隊約600機による大規模な空襲に見舞われ、日本側航空戦力は全滅状態となった。日本側は4月上旬の北園少将着任の頃から泥縄式に防備体制構築を図っていたが、4月16日にようやく状況把握が終わって、第54兵站司令官の石津大佐が警備責任者に部署されたという段階であった。比較的に戦闘力のある南洋第6支隊と第54兵站警備隊がフンボルト湾の水際守備に配置されたが、予備の第54兵站勤務中隊を加えても合計でわずか500人足らず。タナメラ湾にいたっては、ほとんど無防備に近かったと見られる。

1944年4月22日、第24師団及び第41師団を主力とする米軍が、フンボルト湾およびタナメラ湾からホーランジアへ上陸した。主攻撃目標は、守備が特に手薄なのを見抜いてタナメラ湾を選んでいる。米軍の上陸部隊は多数の航空機などに援護され、22日のうちにホーランジアの東海岸と西海岸の地域をほぼ全域を占領することができた[5]。日本軍は多くが軍刀銃剣を武器とするなど満足な装備が無く、有効な抵抗ができない間に大きな損害を受け、退却を余儀なくされた。海軍部隊でも、第9艦隊司令長官遠藤喜一海軍中将が負傷、その後一時行方不明となるなど大損害を受けていた。

4月23日の日没直後に飛来した日本軍航空機1機だけが、連合国側にとって大きな障害となった。この機が投下した爆弾は、連合軍占領下にあった日本軍の弾薬庫に命中して誘爆させ、連合軍側の物資集積所にまで延焼した。火災は24日中続き、連合軍側は「日本軍の逆上陸があった」などの誤報が飛び交う混乱状態に陥った。損害は死傷124人以上、揚陸済み物資の60%(戦車揚陸艦11隻分)が焼失する甚大なもので、揚陸地点が一時使用不能となったこととあわせて、連合軍側の兵站に相当な困難をもたらした。25日に新たな補給船団が到着して、なんとか十分な食料が兵士にいきわたるようになった[6]

サルミへの撤退

米軍が上陸した5日後の1944年4月26日に、飛行場などは連合軍の制圧下に入り、以後、連合軍は6月6日まで掃討戦を続けた。同日、現地での先任指揮官であった第6飛行師団長心得稲田正純少将は、日本軍の残存兵力を西部ニューギニアのサルミ方面へ撤退させることを決断した。しかし、サルミまでの400kmの道は非常に険しく、途中には100以上の川を越えなければならなかった。渡河の際、体力の低下が激しかった将兵たちは、豪雨の影響もあり激流に流され、そのまま死亡する者も多かった。さらに、食料が著しく不足していた上にマラリアの感染者も多く、発熱して道に倒れたまま死んでいく者も多かった。そのためホーランジアとサルミ間の道は白骨化した死体が続く惨状となった。ホーランジアにあった第18軍関係部隊の人員6600人の内、1-2ヶ月後にサルミに到着した者はわずかに約500人に過ぎなかった[7]。海軍部隊は5月3日に米軍部隊と遭遇して全滅、遠藤司令長官も戦死した(死後、大将に昇進)。

奪還作戦

ホーランジアへの敵襲を知った第18軍司令官安達二十三中将は、直ちに反撃することを決意し、これに同意した第2方面軍司令官阿南惟幾大将は、4月24日、サルミにあった第2軍所属の第36師団による救援作戦を立案した[8]。阿南大将は、第36師団の反対を押し切り、同師団から歩兵第224連隊主力を基幹とする松山支隊を編成、5月8日に出動させた。舟艇機動により逆上陸をかけてホーランジアを奪還する計画であったが、移動中の5月17日に、サルミほかへも米軍の上陸が始まったため作戦中止となった(サルミの戦い)。松山支隊は、付近の上陸部隊の迎撃に充てられた。

結果

ホーランジアの日本軍は壊滅し、同地は連合軍の占領下となった。また、同じ4月22日に連合軍が上陸したアイタペでも、日本軍を破って予定通りに占領している(アイタペの戦い#背景を参照)。米軍上陸前、ホーランジアに駐留していた日本の第18軍の関係者は約6700人、総兵力14600人だったのが、上述のとおり、サルミまで生きてたどり着いた者は僅かに約500名であった。この無事に転進できた者も、そのままサルミ攻防戦に加入することになり、最終的に日本へ帰還したのは143名だけだった[9]。ほかにホーランジアで捕虜となった者が611人ある。

ダグラス・マッカーサーは、占領したホーランジアを拠点としてフィリピン奪還作戦の指揮を執った。

脚注

  1. ^ Smith, p.101
  2. ^ Smith, p.577
  3. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 南太平洋陸軍作戦(5)―アイタペ・プリアカ・ラバウル―』(朝雲新聞社、1975年)、21-22頁。
  4. ^ 『南太平洋陸軍作戦(5)』、25-26頁。
  5. ^ 『南太平洋陸軍作戦(5)』、38頁。
  6. ^ Smith, pp.77-81
  7. ^ 『南太平洋陸軍作戦(5)』、42-48頁。
  8. ^ 『南太平洋陸軍作戦(5)』、52-53、76-77頁。
  9. ^ 『南太平洋陸軍作戦(5)』、47頁。

参考文献