マダガスカルの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
マダガスカルの戦い(マダガスカルのたたかい)とは、アフリカ大陸の南東、インド洋西部に位置するフランス植民地のマダガスカル島で第二次世界大戦中の1942年5月5日より11月6日まで行われた、ヴィシー政権側についた駐マダガスカルのフランス軍(ヴィシー・フランス軍)および大日本帝国海軍と、イギリス軍と南アフリカ軍を中心とした連合国軍の間におけるマダガスカル島とインド洋のシーレーン奪取を目的とした戦い。
目次 |
背景
仏領マダガスカル
1940年代のマダガスカル島はフランスの植民地で、第二次世界大戦が始まるとフランス本国との貿易量が激減しマダガスカル経済は深刻な状況となった。その後フランス本国がドイツの侵攻で占領されると、フランスはドイツに休戦を提案し、親ドイツのヴィシー政府が誕生した。当時のマダガスカル総督は連合国軍への降伏を選択せず、ヴィシー政府の支持を表明した。
このころ地中海および北アフリカの戦況はドイツ軍とイタリア軍を中心とした枢軸国側に有利であり、その為に中東及びインド方面、さらにインドを経由してオーストラリアなどへ軍事物資の補給などのために向かう連合国側船団は、地中海-スエズ運河ルートではなく喜望峰-インド洋のルートへ迂回していた。
マダガスカル島はこの迂回ルートの途上に位置しており、マダガスカル島の港や飛行場が日本軍に占拠されると、中東及びインド、オーストラリア方面との補給路が絶たれる恐れがあった。
日本海軍のインド洋制圧
詳細は「セイロン沖海戦」を参照
日本軍は1941年12月の開戦以降、1942年3月の末までに東南アジア全域(イギリス領マレー半島や蘭印、アメリカ領フィリピンなど)を制圧し、続いてイギリス植民地のビルマ南部まで攻略を行い、さらに西進を行うことが可能であった。
この頃日本海軍の潜水艦はインド洋で制約を受けずに活動でき、3月には機動部隊がイギリス領セイロン島攻撃を行った。そのため、イギリス海軍の東洋艦隊はモルディブ諸島のアッドゥ環礁に退避したが、日本海軍の更なる攻撃によって手持ちの空母他多くの艦船を失い、イギリスの植民地であるケニアのキリンディニまで撤退した。
この撤退により、イギリス海軍は、日本海軍がマダガスカルをインド洋およびアフリカ大陸への前進基地として使用する可能性に対処しなければならなくなった。
つまり、イギリス海軍は次のような情勢展開を危惧した。ヴィシー政府は日本と同盟関係にあり、ヴィシー政権下にあったマダガスカル島のフランス軍基地を日本海軍も使用できるようになると予想される。日本海軍は航空機や潜水艦を配備するであろう。そうなれば連合国軍にとってさまざまな脅威が生じる。まず、連合国の太平洋、オーストラリアから中東、南大西洋の範囲に広がる海上交通網に影響する。また、守りが手薄であった西インド洋や南大西洋はおろか、アフリカ大陸まで日本海軍の攻撃にさらされる。最悪、日本陸軍によるアフリカ大陸上陸すら予想される。
「アイアンクラッド作戦」
この様な事態に対応して、イギリス軍を中心とする連合国は仏領マダガスカル島への上陸作戦「アイアンクラッド作戦」(Operation Ironclad)の実行を決めた。イギリス陸軍、イギリス海軍を中心とする連合軍部隊の指揮はロバート・スタージェス少将が取り、空母イラストリアス、インドミタブル、戦艦ラミリーズを基幹とする艦隊が上陸作戦の援護を行うこととなった。
経過
連合国軍の上陸
南アフリカ空軍機により何度も偵察が行われた後、英第5歩兵師団第17歩兵旅団、第13歩兵旅団、英第29歩兵旅団、5つの奇襲部隊、イギリス海兵隊は1942年5月5日、ディエゴ・スアレス西のクーリエ(Courrier)湾およびアンバララタ湾へ上陸した。マダガスカル島の東海岸で陽動攻撃も行なわれた。上陸に空母艦載機や少数の南アフリカ空軍の航空機が援護した。この作戦の際、イギリス軍はコルベットオーリキュラを触雷で失った[1]。
ヴィシー・フランス軍
アルマン・レオン・アネット(Armand Leon Annet)総督率いるヴィシー・フランス軍は約8000名で、うち約6000名はマダガスカル人で残りは大部分がセネガル人であった。1500から3000名がディエゴ・スアレス周辺に集中していた。
海軍の戦力は仮装巡洋艦1隻、通報艦2隻、潜水艦4隻などであったが、このうち通報艦1隻と潜水艦3隻はイギリス軍による攻撃時には在泊していなかった[2]。フランス軍のほかの戦力は沿岸砲台8門、モラーヌ・ソルニエMS406戦闘機17機、ポテ 63.11偵察機6機、少数のポテ 25TOEとポテ 29であった。フランスの戦力は本国からの供給が久しく途絶えていたこともあり少なかった。
艦艇は最初の空襲で仮装巡洋艦ブーゲンビルと潜水艦ベヴェジエが撃破され、それを逃れた通報艦ダントルカストーも攻撃を受けて座礁した[3]。さらに潜水艦ル・エローとモンジュも撃沈され、通報艦ディベルヴィルと潜水艦ル・グロリューのみがマダガスカル南部に逃れた[4]。
上陸したイギリス軍と南アフリカ軍を中心とした連合軍の大規模な攻撃後、最大都市のディエゴ・スアレスは5月7日に降伏したが、ヴィシー・フランス軍の主力は南へ後退した。
日本海軍による攻撃
枢軸国側は、ヴィシー・フランス軍からの依頼を受けたドイツ軍による増援要請を受けて[要検証]、インド洋でイギリス軍をはじめとする連合国軍と戦っていた日本海軍の潜水艦伊10、伊16および伊20がマダガスカル沖に現れた。
日本軍の潜水艦は伊30が1942年4月22日に、伊10と甲標的を搭載した伊16、伊18、伊20が1942年4月30日にペナンを出撃した[5]。伊30と伊10がアデン、ダーバンなどを偵察したが有力艦艇は確認できず、1942年5月21日に攻撃目標がディエゴ・スアレスに決定された[6]。ディエゴ・スアレス攻略後イギリス軍の艦船の多くはすぐに去ったが、戦艦ラミリーズはディエゴ・スアレスに留まっていた[7]。1942年5月30日(イギリス側記録では29日)に伊10搭載機がディエゴ・スアレスを偵察し、エリザベス型戦艦1隻、巡洋艦1隻などの在泊を報告[8]。5月31日に伊16と伊20から甲標的が発進した[9]。なお、伊18はうねりによる浸水が原因で攻撃には参加できなくなっていた[10]。甲標的の攻撃によりラミリーズと油槽船ブリティッシュ・ロイヤルティ(6,993トン)に魚雷1本が命中し、ブリティッシュ・ロイヤルティは沈没[11]。ラミリーズは応急修理の後ダーバンへ向かい、そこでの修理後イギリスに戻ってさらに修理を受けた[12]。ラミリーズが再就役したのは1943年5月のことであった[12]。
1942年6月2日、原住民からの通報を受けて探索を行っていたイギリス軍が日本人2人を発見し降伏を勧告したものの、攻撃を受けたため2人を射殺したがイギリス側も一人が死亡した[13]。二人は伊20から発進した甲標的の乗員秋枝三郎と竹本正己であるとされる[14]。なお1967年に日本大使館が現地に秋枝三郎中佐と竹本正己特務少尉の慰霊碑を建立し1997年には有志が前述2名と岩瀬勝輔大尉、高田高三兵曹長の4名の日本軍人の慰霊碑をアンツィラナナに建立している[15][16]。
この様に日本海軍による攻撃は大きな成果を上げたものの、先に実施されたセイロン沖海戦における勝利により、イギリス海軍をインド洋地域内からほぼ完全に放逐していた日本海軍にとって、補給が困難な上に主戦場から遠く離れているマダガスカルは軍事戦略的に重視しておらず、ヴィシー・フランス軍による増援要請があったからといっても更なる戦力を割いてまで制圧する気はなかった[要出典]。このため、5月31日の作戦以降は日本海軍による目立った作戦行動や、日本陸軍戦力の上陸およびヴィシー・フランス軍への支援及び援助行動は行われなかった。
その後日本軍の援護攻撃が行われなかったこともあり、イギリス陸軍第5師団は日本軍による新たな攻撃が予想されたイギリス領インド帝国へ移された。また、1942年6月に第22東アフリカ旅団が到着し、その翌週、第7南アフリカ連邦自動車化歩兵旅団と第27ローデシア歩兵旅団が上陸した。その後も日本軍による、ヴィシー・フランス軍への支援及び援助行動が行われなかったこともあり、戦力が枯渇したヴィシー・フランス軍と、イギリスを中心とした連合国軍との間の交戦は数ヶ月間低レベルの状態で続いた。
連合国による占領
第29旅団および第22旅団は1942年9月10日、雨季に先立つ連合国軍の再攻撃のためマジュンガに上陸した。直接攻撃はほとんどなかったが、連合国軍はヴィシー・フランス軍によって主要道路に設置された多くの障害物に遭遇した。
その後は、ヴィシー・フランス軍の戦力が枯渇し連合国軍へ攻撃が全く行われなかった上、連合軍が恐れていた日本軍の援護攻撃も行われなかったこともあり、連合国軍は、最終的にほとんど抵抗を受けずに首都のタナナリブおよびアンバラバウ(Ambalavao)の町を占領した。
最後の大きな戦闘は1942年10月18日にアンドリアマニャリーナで行われた。アネット総督は11月5日にフィアナランツォア(Fianarantsos)の南、Ilhosy近くで降伏し、これにより連合国軍の全島占領が完了した。なお、ディエゴ・スアレスの上陸で連合軍は約500人の死傷者を出し、1942年9月10日以降の作戦では30人が戦死、90人が負傷した。
関連項目
脚注
- ^ S.W. Roskill, War at Sea 1939-1945, Volume 2: The Period of Balance, p.189
- ^ The French Navy in World War II, p.204
- ^ The French Navy in World War II, pp.204-205
- ^ The French Navy in World War II, p.205
- ^ 本当の特殊潜航艇の戦い、127ページ
- ^ 本当の特殊潜航艇の戦い、127-128ページ
- ^ Battleships at War, p.138
- ^ 本当の特殊潜航艇の戦い、129-130ページ
- ^ 本当の特殊潜航艇の戦い、130ページ
- ^ 本当の特殊潜航艇の戦い、128ページ
- ^ 本当の特殊潜航艇の戦い、131ページ
- ^ a b Battleships at War, p.140
- ^ 本当の特殊潜航艇の戦い、131-132ページ
- ^ 本当の特殊潜航艇の戦い、134ページ
- ^ 「マダガスカル・・・アフリカに一番近いアジアの国」(1991年、サイマル出版会)山口洋一著
- ^ ディエゴスアレスの慰霊碑
参考文献
- Paul Auphau, Jacques Mordal, The French Navy in World War II, United States Naval Institute, 1959
- 中村秀樹、『本当の特殊潜航艇の戦い』、光人社、2007年、ISBN 978-4-7698-2533-3
- Peter C. Smith, Battleships at War: HMS Royal Sovereign and Her Sister Ships, Pen & Sword Maritime, 2009, ISBN 978-1-84415-982-6
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||




