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モンゴル人民共和国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

モンゴル人民共和国
Бүгд Найрамдах Монгол Ард Улс

ファイル:Flag of the People's Republic of Mongolia (1921-1924).svg
ファイル:Flag of the Republic of China 1912-1928.svg
1924年 - 1992年 ファイル:Flag of Mongolia.svg
ファイル:Flag of the People's Republic of Mongolia (1949-1992).svg ファイル:Coat of Arms of the People's Republic of Mongolia (1960-1991 version).png
国旗国章

国歌: モンゴル人民共和国国歌1950年-1992年
モンゴル・インターナショナル1924年-1950年
ファイル:LocationPRMongolia.png

公用語 モンゴル語
首都 ウランバートル
元首

1929年 - 1930年 ホルローギーン・チョイバルサン
1974年 - 1984年ユムジャーギィン・ツェデンバル
1984年 - 1990年ジャムビィン・バトムンフ
1990年 - 1997年ポンサルマーギーン・オチルバト

首相

1924年 - 19--年バリンギーン・ツェデンドルジ
1932年 - 1936年ペルジディーン・ゲンドゥン
1936年 - 1939年アナンディーン・アマル
1939年 - 1952年ホルローギーン・チョイバルサン
1952年 - 1974年ユムジャーギィン・ツェデンバル
1974年 - 1984年ジャムビィン・バトムンフ
面積
1,564,116km²
人口
1935年738,200人
1956年845,500人
1979年1,595,000人
1989年2,043,400人

変遷

成立 1924年11月26日
モンゴル国と改称1992年2月13日
通貨トゥグルグ

モンゴルの歴史
中国 モンゴル高原
獫狁 葷粥 山戎
月氏 匈奴 東胡
 
丁零 鮮卑
魏晋南北 高車 柔然
鉄勒 突厥
  東突厥
回鶻
五代 黠戛斯 達靼 契丹
北宋 ナイマン ケレイト
南宋 (乃蛮) (客烈亦) モンゴル
モンゴル帝国
大元
北元(韃靼)
ハルハ
中華民国 モンゴル国
中華人民
共和国
モンゴル人民共和国
モンゴル国

モンゴル人民共和国(モンゴルじんみんきょうわこく;モンゴル語:Бугд Найрамдах Монгол Ард Улс)は、モンゴル1924年から1992年まで使用した国号である。略称はBNMAUБНМАУ)である。

歴史

1921年、ボドー、ダンザン、ドクソムらの指導、スフバートルの軍事的活躍とソビエト連邦(ソ連)の赤軍の支援でボグド・ハーン(活仏・化身ラマ)を推戴し中華民国から独立したモンゴルは、1924年にボグド・ハーンの死に際して、コミンテルンの指導もあり、モンゴル人民革命党による一党独裁の社会主義国を宣言した。これがモンゴル人民共和国で、ソ連に続く世界で2番目の社会主義国家であった。中華民国はソ連の傀儡国家として独立を認めず、ソ連の軍事力によって中国からの独立が保たれた。

その後も一貫してソ連一辺倒の政策を続け、「ソ連の16番目の共和国」とまで呼ばれた。かつて東側陣営に属する社会主義諸国が「ソ連に従属する衛星国」と表現されることもあったが、この「衛星国」という表現はモンゴル学者オウエン・ラティモアがこの時期のモンゴルの国際的地位を表現する用語として使用したものである。

外政では、1939年にはノモンハン事件ハルハ川戦争)で赤軍と共に日本関東軍)と戦い、第二次世界大戦末期の1945年8月にはソ連と共に満州国に侵攻して勝利した。1945年には中ソ友好同盟条約によって中華民国からも独立を承認されたが、内モンゴルの併合は断念することとなった。1949年中華人民共和国成立により中ソ蒙3カ国の蜜月状態が現出し、1961年には国際連合への加盟も果たしたが、1960年代からの中ソ対立により再び中国と敵対関係となり、モンゴル国内にはソ連軍部隊が展開して中華人民共和国からのモンゴル防衛と有事の際の北京攻撃の役割を担った。

国内では1930年代以降ホルローギーン・チョイバルサンユムジャーギィン・ツェデンバルによる独裁体制を取った。ソ連のような重工業の発展は起こらなかったが、首都のウランバートルでは軽工業の建設と人口の集中が発生し、それ以外の地域では牧畜業の集団化が起こった。コメコンの加盟によりソ連の経済援助も受けたが、人口の希薄さなども災いして大きな経済発展は起こらなかった。また、文化面でもソ連化を進め、モンゴル語の表記を、チンギス・ハン時代からのモンゴル文字から、ロシア語と同じキリル文字への切り替えを強行したほどであった。また、社会主義体制のエリート層の多くはソ連への留学を行った。

かつてモンゴル帝国を築いたチンギス・ハンについては、ソ連においてタタールのくびきの元凶とされていることから肯定的評価を禁じ、またチンギス・ハンの子孫である約1500人を数年間の内に処刑した。このため、処刑を免れる為に子孫であることを隠して生き延びた人々も数多い。また、帝国時代から続く家系図は社会主義の平等思想に反することから多くが破却された。

1980年代後半、モンゴルでもソ連のペレストロイカが波及して民主化運動が高まり、ジャムビィン・バトムンフ指導による人民革命党の一党独裁政権は1990年に崩壊、複数政党制による自由選挙で行われる大統領制と議会制を導入して人民革命党と民主化勢力の連立政権へ移行した。その後新体制にふさわしい国名改称が提案され、「モンゴル国」と改称し社会主義の放棄を実行。モンゴル人民共和国は名実とともにその歴史的役割を終えた。

関連項目