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ヤンゴン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ヤンゴン
Yangon

ရန်ကုန်မြို့
ファイル:Yangoon-south.jpg
標語 : "Yangon Purum Manaw Ra Man"
位置
ファイル:Myanmar-Loc-Yangon-Division.png
座標 : 北緯16度48分 東経96度9分 / 北緯16.8度 東経96.15度 / 16.8; 96.15
行政
ファイル:Flag of Myanmar.svg ミャンマー
 管区 ヤンゴン管区
 市 ヤンゴン
Yangon
市長 アウン・テイン・リン准将
地理
面積  
  市域 1,036km2(400mi2
  市街地 576km2(222.4mi2
人口
人口 (2005年現在)
  市域 4,107,000人
その他
等時帯 ミャンマー標準時 (UTC+6:30
市外局番 1
公式ウェブサイト : http://www.yangoncity.com.mm

ヤンゴン (Yangon) は、ミャンマー連邦の旧首都。

目次

地理

1983年統計によると人口は 2,458,712 人を数え、国内最大都市である。1989年ラングーン(Rangoon)から改称された。名前は「戦いの終わり」を意味する。エーヤワディー川デルタ地帯に位置している。

重要な交易地であり、チーク材、石油綿鉱石の輸出拠点である。主な産業は精米、木材加工、石油精製、鉄鋼業などである。

歴史

ヤンゴンは、6世紀に当時低地ビルマを支配していたモン族によって、ダゴンの名で創設された。ダゴンはシェンダゴンパゴダをほぼ中心とした小さな漁村であった。1755年、アラウンパヤー王がダゴンを征服し、ヤンゴンと改名し、ダゴンの周囲に入植した。 英国は、第一次英緬戦争中にヤンゴンを占領したが、戦後にビルマに返還した。 1841年、街は火災で壊滅した。

英国は、1852年の第二次英緬戦争によって、ヤンゴンおよび低地ビルマ地区を占領し、その後ヤンゴンをラングーンに変更、英国領ビルマの商業的かつ政治的な中心地に変えていった。軍の技師であったアレクサンダー・フレーザーの設計に基づき、英国はパズンダン・クリークの東側およびヤンゴン川の南側と東側に接するデルタ地帯の都市計画に基づき、新都市を建設した。1885年の第三次英緬戦争において、英国が高地ビルマを支配下に入れた後、ラングーンは英国領ビルマの首都となった。1890年代までに、ヤンゴンの人口および商業活動の増加により、カンドーヂー湖とインヤー湖の北側に裕福な郊外住宅地が出現した。英国人はラングーン・ジェネラル・ホスピタルなどの病院や、ラングーン大学などの大学を創設した。植民地時代のヤンゴンは、広大な公園や湖、近代的な建物と伝統的な木造建築の融合が見られ、「東の庭園都市 (The garden city of the East)」 として知られていた。20世紀の初期までに、ヤンゴンは公共サービスおよび社会的インフラにおいて、ロンドンと肩を並べるほどであった。

第二次世界大戦前、ヤンゴンの人口500,000人の約55%は、インド人あるいは南アジア人であり、ビルマ人は総人口のわずか約1/3であった。その他は、カレン族華人、英国人とビルマ人の混血および他民族であった。

第一次世界大戦後、ヤンゴンは、極左のラングーン大学生達が率いたビルマ独立運動の中心地となった。1920,1936,1938年の大英帝国に対する3度の全国的なストライキは、すべてヤンゴンで開始された。1942年から1945年にかけて、ヤンゴンは日本軍による占領を受け、大戦中に甚大な被害を受けた。1948年1月4日、英国から独立を勝ち取った際に、ヤンゴンはビルマ連合の首都となった。

1948年のビルマ独立後すぐに、植民地時代の街路や公園などの名前の多くは、ビルマの国家主義的な名前に変更された。1989年、現在の軍事政権は、多くのビルマ名の英語の音訳名を変更すると同時に、街の英語名を「ヤンゴン」に変更した。(軍事政権の名称変更が不適切であると考えている多くのビルマ人や、BBCを含む報道局ならびに英国、米国などの国家にこの改名は受け入れられていない。)

独立後、ヤンゴンは郊外に向かって拡大した。1950年代に政府は、Thaketaや北オッカラパおよび南オッカラパなどの衛星都市を建設し、1980年代には、Hlaingthaya、Shwepyithaや南ダゴンを建設した。今日、大ヤンゴン (Greater Yangon) は約600 km².もの地域に及んでいる。

孤立主義者のネ・ウィンの治世下(1962-88)で、ヤンゴンのインフラは不十分な管理によって悪化し、増加する人口に対応できていなかった。1990年代、現軍事政権の市場開放政策は、国内および海外の投資を引き寄せ、街のインフラの近代化が若干起きた。市内の居住者は新しい衛星都市に強制移住させられた。市当局は約200の植民地時代の有名な建物を市の遺産リストに登録すると同時に、多くの植民地時代の建物を、高級ホテルや官庁、ショッピングモールなどへの道を造るために取り壊わした。主要な建設計画により、6本の新しい橋と、市と内地の工業地帯を結ぶ5本の新しい高速道路が完成した。それでもヤンゴンの多くの地区では、24時間の電気使用や定期的なゴミの収集などの基本的な行政サービスが行われていない。

ヤンゴンは独立以来、民族構成において土着のビルマ人の割合が増えた。独立後、多くの南アジア人および英国人-ビルマ人の混血は、国を後にした。1960年代、多くの南アジア人は排外的なネ・ウィン政権によって、国外退去を強いられた。にもかかわらず、ヤンゴンには、大きな南アジア人および華人のコミュニティーがなおも存在している。英国人-ビルマ人の混血は、国外に逃れたり、他種族のビルマ人と結婚したりして姿を消した。

ヤンゴンは、1974、1988、2007年の大きな反政府運動の中心地であった。それぞれの年に、政府によって発砲された参加者が流血する事態となった。2007年の反政府運動では、同年9月にバンコクより現地に入り、取材を行っていた日本人ジャーナリスト長井健司氏が射殺された。2008年の5月、サイクロン・ナルギスがヤンゴンを襲った。街では数人の死者が出ただけてあったが、ヤンゴンの工業インフラの3/4が破壊、損壊を受け、被害額は8億米ドルと見積もられた。

2006年軍事政権国家平和発展評議会議長タンシュエ)によって、首都はネピドー王都の意味)に移された。これは、軍部による独裁を強めるものだと批判されている。

教育

主な教育機関として1878年に設立されたヤンゴン大学がある。

ファイル:Yangoncityhall.PNG
ヤンゴン市庁舎

事件

1983年、北朝鮮が韓国の全斗煥大統領一行の暗殺を計画、国家テロを引き起こしたラングーン事件は当地で起きた事件である。

観光

ファイル:P1040673.JPG
スレー・パゴダ
  • 寺院
  • 博物館
    • 国立博物館
    • 宝石博物館
    • ボーヂョーアウンサン博物館
  • その他
    • ボーヂョーアウンサン・マーケット
    • カンドーヂー湖
    • インヤー湖
    • 日本人墓地

交通

ファイル:Local bus in Yangon, Myanmar.JPG
市内を走る「東武」バス
  • ヤンゴン国際空港
  • ヤンゴン航空
  • 市内を走る路線バスの多くが日本の中古車で、神奈川中央交通相模鉄道東武バスなどが、車体の色をそのままに走っている事がある。その中でも多くを占める神奈中バスの場合は「運賃前払い」「出入口」「神奈中運転士募集」などの表示が、そのままになっている事が多い。なお、ミャンマーでは日本と違い右側通行となっているため、一部を除き右側にドアを取り付ける改造を受けている。

気候

ヤンゴンは、ケッペンの気候区分によると、赤道モンスーン気候である。

1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 年間
平均最高気温 ℃
(°F)
31
(89)
34
(94)
36
(97)
37
(99)
33
(92)
30
(86)
29
(85)
29
(85)
30
(86)
31
(88)
31
(89)
31
(88)
32
(90)
平均最低気温 ℃
(°F)
18
(65)
19
(67)
21
(71)
24
(76)
25
(78)
25
(77)
24
(76)
24
(76)
24
(76)
25
(77)
22
(73)
19
(67)
22
(73)

ソース: Weatherbase

姉妹都市

ファイル:01-yangon-calles-d02.jpg
市内のマーケット


外部リンク

旅行