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ルイス・フィーゴ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ルイス・フィーゴ ファイル:Football pictogram.svg
ファイル:Luis Figo-2009.jpg
名前
本名 ルイシュ・フィリープィ・マザイラ・カアイル
愛称 フィーゴ、白豹
ラテン文字 Luís Figo
基本情報
国籍 ファイル:Flag of Portugal.svg ポルトガル
生年月日 1972年11月4日(39歳)
出身地 リスボン
身長 180cm
体重 75kg
選手情報
ポジション FW/MF
利き足 右足
代表歴
1991-2006 ファイル:Flag of Portugal.svg ポルトガル 127 (32)
テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj
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フィーゴFigo フィーグ)もしくはルイス・フィーゴ(ルイシュ・フィーグ)ことルイシュ・フィリープィ・マザイラ・カアイルLuís Filipe Madeira Caeiro OIH [luˈiʃ fɨˈlipɨ mɐˈðɐjrɐ kɐˈɐjru]1972年11月4日 - )はポルトガルリスボン出身の元サッカー選手。元同国代表。ポジションはウイング(主に右サイド)。

目次

人物

ポルトガルでは年間最優秀選手賞を5年連続で受賞するなど、黄金世代の中心選手として長らく代表を支えてきた選手。キャップ数は歴代最多出場記録となる127試合。そのドリブル技術の高さからマンチェスター・ユナイテッドライアン・ギグスとともに1990年代最高のウイングと評される。

語学にも堪能で、母国語英語スペイン語スウェーデン語イタリア語などが扱える。少年時代から学業の成績が良く、将来の夢は医者だと言っても誰も反発しなかったという。学力のあまりの良さに、スポルティング・リスポンに入団する際の同意書には「サッカーに専念すること」というような内容が書かれていたようである。

一人っ子である。家族は、1996年にバルセロナにてホアキン・コルテスのショーを観劇中に知り合ったスウェーデン人モデルのヘレン夫人との間に3女。フィーゴという登録名はポルトガル語でイチジクという意味。またフィーゴの名は父親のあだ名を貰ったものである。

経歴

クラブ

ポルトガルの強豪スポルティング・リスボンでキャリアをスタート。リスボンでの活躍により、1995年にユヴェントスFCパルマFCが獲得に興味を示した。フィーゴはその2クラブと、その後の2年間は他クラブへ移籍しないという契約を結んだ。しかし、同年に移籍金225万ポンドでスペインバルセロナへ移籍。その破壊力抜群の突破力とチャンスメイクで右サイドを支配、FWのクライファート、左サイドのリバウドと共に3トップを形成し、国内外の数々のタイトルを獲得する原動力となり、ドリーム・チーム以降のバルセロナのシンボルとして絶大な支持を得た。

2000年には欧州年間最優秀選手を受賞したフィーゴであったが、2000-2001シーズンにレアル・マドリード銀河系政策第1号として、バルセロナからライバルのレアル・マドリードへ電撃移籍。これに反発したバルセロナ・サポーターが、フィーゴ自身が経営するバルセロナ市内の日本料理店を破壊するという大変な騒動にまで発展した[1]。そのため引退した現在もなお、ペセテーロ(守銭奴)と呼び彼を許さないバルセロニスタが多い。

また、バルセロナのホームスタジアム、カンプ・ノウに初めて乗り込んだ試合ではフィーゴがボールに触れれば即ブーイングが起き、「守銭奴」フィーゴの顔を印刷した100億ペセタ(移籍金)のニセ札が作られ投げられ、フィーゴがコーナーキックを蹴ろうとすればスタンドからビンやゴミやペットボトル、さらには豚の顔の皮まで投げ入れられるなどして、約10分間試合が中断されるなど荒れに荒れた[2]。結果は2-0でバルセロナが勝利し、試合後には宿敵レアル・マドリードと裏切り者のフィーゴを倒したということもあり、ほとんどのバルセロナの選手がフィーゴに声をかけに行くシーンが印象的であった。またEURO2004、ポルトガルとギリシャの決勝戦でも、試合途中にFCバルセロナの旗を持ったバルサ・サポーターの男がピッチに走りこみ抗議を行い取り押さえられる場面もあり、うな垂れるフィーゴの映像も印象深く、いまだに過去の確執を根にもたれている様子である。

このような騒動があったにもかかわらず、フィーゴにとってバルセロナ時代は思い出深いものらしく、「僕の経験上、(バルセロナでの)2年目(1996-97シーズン)は本当に素晴らしいシーズンだった」[3]とインタビューで語っている。その一方で、バルセロナからレアル・マドリードへの移籍という判断に間違いはなかったとも語っている[4]

伝統的なライバル間の移籍という大きなプレッシャーの中、ラウール・ゴンサレスロベルト・カルロス、翌2001年に加入したジネディーヌ・ジダンらと共に豪華な攻撃陣を形成し、銀河系軍団と称されるレアル・マドリードの黄金期の中心選手となり、自身も2001年にはFIFA最優秀選手賞を受賞した[5]。また、同クラブ在籍中にはリーガ通算100アシストという記録も成し遂げている。

2004-05シーズンは、レギュラーとして序盤は右サイドで、2005年1月にバランサーとしてトーマス・グラベセンが加入してからはスポルティング・リスボン在籍時以来のトップ下でプレーし、まずまずのパフォマーンスを見せていたフィーゴだったが、終盤に突如ルシェンブルゴ監督との確執[6]が生じ、それ以後、先発出場がなくなり全て後半途中出場となった。半ば喧嘩別れに近い形で2005-06シーズンからはインテルへ移籍し、活躍の場をイタリアへ移した。レアル・マドリード時代は限界説が囁かれたがその能力はいまだ健在で、セリエAでもUEFAチャンピオンズリーグでも中盤の右サイドで活躍している。

2006年12月にサウジ・プレミアリーグの強豪アル・イテハドへのレンタル移籍が取り沙汰され、シーズン終了後の移籍が正式に発表されたが、クラブ側の契約内容不履行(具体的にどのようなことであったかは不明)を理由に移籍は立ち消え。プレー続行を希望するインテル側の要望に応え、2007-08シーズンもインテルで戦うこと決定した。しかし、起用法などから徐々にロベルト・マンチーニ監督との確執が表面化し、「来シーズンもマンチーニが残るなら移籍する」という旨の発言をした。その後、2008-09シーズンからは同胞のジョゼ・モウリーニョがインテルの監督に就任、「経験を生かし、若手の指南役になってほしい」との意見を聞き、フィーゴはインテルに残ることとなった。 2009年5月30日に、31日開催のアタランタ戦を最後に現役引退を自身の公式サイトで表明した。 そして、5月31日のアタランタ戦、フィーゴは前半45分だけ出場。これが現役最後の試合でもあった。 引退後はインテルの幹部に就任することになった。

代表

ファイル:Luis Figo.jpg
ポルトガル代表時代のフィーゴ

1991年にはポルトガルU-20代表としてFIFAワールドユース選手権優勝に貢献。ルイ・コスタパウロ・ソウザフェルナンド・コウトジョアン・ピント等と共にポルトガルの将来を担う「ゴールデン・ジェネレーション黄金の世代)」と呼ばれた。

1991年10月16日ルクセンブルクとの親善試合で代表デビューを飾る。当時18歳でプロデビューして間もない若手選手であったが、ゴールデン・ジェネレーションと呼ばれた仲間達と共に代表に定着し2度のワールドカップ(2002 FIFAワールドカップ2006 FIFAワールドカップ)、3度の欧州選手権(EURO1996EURO2000EURO2004)に出場した。

2000年EURO2000では初戦のイングランド戦で0-2のビハインドから見事なミドルシュートを決め逆転勝利の口火を切り、準々決勝のトルコ戦ではヌーノ・ゴメスへ2アシストの活躍でベスト4へ導いた。

2006 FIFAワールドカップ予選で一時引退していたポルトガル代表に復帰。ポルトガル代表は快進撃を続け、無敗で予選通過。本大会ではグループリーグ初戦のアンゴラ戦では得意のドリブルから絶妙なアシストを見せる等、40年ぶりのベスト4進出に貢献。ドイツとの3位決定戦を最後に代表から引退した。

エピソード

  • 寿司が好物であることでも知られ、バルセロナに日本食店を出店した。また、来日するたびに寿司店を訪れている。ナイキのコマーシャルのメイキングでも「名選手になるには?」と問われて、いくつか回答した後「ああ、あと寿司を食べることかなぁ」と冗談めかして発言したことがある。
  • スペインで寿司屋を経営していたが、スペインリーグでプレーしていた城彰二にレアル・マドリードでの試合終了後、チョイチョイと手招きをし「俺がやっている寿司屋に来てくれよ。」とさそった逸話がある。城が来店して食べてみたがあんまり美味くなかった、と雑誌で吐露。
  • かつてスペインでショットバー「7」を経営していた。名前の由来は自身の背番号。
  • インタビューで度々述べているように近々引退後に暴露本を出版する予定(本人曰く「ホラ、悪評を流す批評家、デタラメ、デマを流すマスコミ、いまに見てるがいい、いずれ名指しで暴露してやるさ……。」)。
  • 2005年-2006年シーズンのみロベルト・カルロスと共にモータースポーツであるA1グランプリのポルトガルチームのオーナーでもあった。
  • ミラノ・ダービーにてACミランのサポーターに「インテルの全てが嫌いだ。唯一フィーゴの妻を除いて」との横断幕が掲げられたことがある。
  • サッカー選手引退後は実業家の道へと進みホテル王を目指す夢がある。「俺を高く買ってくれる所なら....」とFCバルサからレアル・マドリードへ移籍したのも金銭に拘るプロ根性と言われる性格の所以。

所属クラブ

個人成績

利用者:Bcjp/t/fbp国内表 top 利用者:Bcjp/t/fbp国内表 th |- |1990-91||スポルティング-CP||24||スーペル||3||0|||||||||||| |- |1991-92||スポルティング-CP||7||スーペル||34||1||7||0|||||||| |- |1992-93||スポルティング-CP||7||スーペル||32||0||8||1|||||||| |- |1993-94||スポルティング-CP||7||スーペル||31||8||1||0|||||||| |- |1994-95||スポルティング-CP||7||スーペル||34||7||7||3|||||||| 利用者:Bcjp/t/fbp国内表 th |- |1995-96||バルセロナ||7||プリメーラ||35||5||8||1|||||||| |- |1996-97||バルセロナ||7||プリメーラ||36||4||9||2|||||||| |- |1997-98||バルセロナ||7||プリメーラ||35||5||4||0|||||||| |- |1998-99||バルセロナ||7||プリメーラ||34||7||10||1|||||||| |- |1999-00||バルセロナ||7||プリメーラ||32||9||2||0|||||||| |- |2000-01||R・マドリード||10||プリメーラ||34||9||1||0|||||||| |- |2001-02||R・マドリード||10||プリメーラ||28||7||6||1|||||||| |- |2002-03||R・マドリード||10||プリメーラ||33||10||1||0|||||||| |- |2003-04||R・マドリード||10||プリメーラ||36||8||8||3|||||||| |- |2004-05||R・マドリード||10||プリメーラ||33||3||0||0|||||||| 利用者:Bcjp/t/fbp国内表 th |- |2005-06||インテル||7||セリエA||34||5||3||0|||||||| |- |2006-07||インテル||7||セリエA||32||2||7||0|||||||| |- |2007-08||インテル||7||セリエA||17||1||1||0|||||||| |- |2008-09||インテル||7||セリエA||22||1||-||-|||||||| 利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算始134||16||23||4|||||||| 利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算行336||67||49||8|||||||| 利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算行105||9||11||0|||||||| 利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算終575||92||84||12|||||||| |}

タイトル

クラブ

  • スポルティング・リスボン時代
    • ポルトガルカップ優勝 1回(1994/95)
  • FCバルセロナ時代
  • レアル・マドリード時代
    • UEFAチャンピオンズリーグ優勝 1回(2001-2002)
    • UEFAスーパーカップ優勝 1回(2002)
    • トヨタカップ優勝 1回(2002)
    • スペインリーグ1部優勝 2回(2000-2001, 2002-2003)
    • スペインスーパーカップ 2回(2001, 2003)
  • インテル時代
    • セリエA優勝 4回(2005-2006, 2006-2007, 2007-2008, 2008-2009)
    • コッパイタリア 1回(2005-2006)
    • スーペルコッパ・イタリアーナ 3回(2005-2006, 2006-2007, 2008-2009)

個人

脚注

  1. ^ 過去にもミカエル・ラウドルップベルント・シュスターなどバルセロナからレアル・マドリードに移籍した選手はいた。しかしフィーゴは移籍の2日前に会見でファンに向けて「移籍は無い」と嘘の発言をし、また、移籍の理由が年俸が多いという理由のみであり、バルセロナのソシオの信頼を踏みにじった裏切り行為といえる移籍であった。
  2. ^ 無観客試合などの制裁は科されなかった。
  3. ^ フィーゴ思い出を語る「バルサでの2年目は最高に素晴らしかった」
  4. ^ フィーゴ氏「バルセロナを出たのは正しい判断だった」
  5. ^ フィーゴ以降のレアル・マドリードは、スター獲得でのクラブ強化に重点を置いている。
  6. ^ それまでレギュラーとしてスタメン出場していたフィーゴは、ルシェンブルゴから何の忠告もなくエル・クラシコでスタメンを外され、その後右サイドでプレーしていたデビッド・ベッカムの欠場時にもスタメン起用されることはなくなった。プライベートでは「おはよう」や「さようなら」という挨拶すら交わさなかった。