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ヴィシー政権

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

フランス国
État français

ファイル:Flag of France.svg 1940年 - 1944年 ファイル:Flag of France.svg
ファイル:Flag of France.svg ファイル:Coat of Arms of the French State.svg
国旗国章

国の標語: Travail, famille, patrie
(フランス語:勤労、家族、祖国)
ファイル:Vichy france map.png

公用語 フランス語
首都 ヴィシー
主席

1940年 - 1944年 フィリップ・ペタン

首相

1940年 - 1942年フィリップ・ペタン
1942年 - 1944年ピエール・ラヴァル

変遷

成立 1940年6月22日
崩壊1944年8月25日
通貨フラン
時間帯UTC +1(DST: +2)

ヴィシー政権(ヴィシーせいけん、:Régime de Vichy)は、第二次世界大戦中のフランス南部の政権(1940年 - 1944年)。フランス中部の町、ヴィシー首都を置いたことからそう呼ばれた。「ヴィシー政府」、「ヴィシー・フランス」ともいい、この政権下の体制を「ヴィシー体制」と呼ぶ。正式国名はフランス国(État français、エタ・フランセ)。

目次

歴史

成立

1940年6月にナチス・ドイツのフランス侵攻フランスは敗北した。ポール・レノー首相ら抗戦派にかわって和平派が政権を握り、6月17日に副首相であったフィリップ・ペタン元帥が首相となった。6月21日、ペタンの政府はドイツイタリアに対し休戦を申し入れた。6月22日には独仏休戦協定が締結され、フランス北部などの地域の占領が決まった。レノーやアルベール・ルブラン大統領は抗戦継続のためにカサブランカに逃亡しようとしたが身柄を拘束された[1]。一方でレノー政権の国防次官でペタンの部下でもあったシャルル・ド・ゴール准将はロンドンに亡命し、「自由フランス」を結成した。

フランス政府は1940年7月1日に臨時首都に指定していたボルドーから中部の都市であるヴィシーに移転した。政府主席兼首相には、第三共和政最後の首相で第一次世界大戦の英雄であったペタン元帥が就任し、副首相にはピエール・ラヴァルが就任した。ラヴァルはヒトラーから好意的な扱いを受けるためには、「堕落した民主主義」を廃して「絶対的権力を持つ権威国家」を樹立する必要があると考え、熱心にロビー活動を行った。6月25日、ラヴァルは次のように演説している。「旧秩序、フリーメーソン的かつ、資本主義的そして国際的妥協の政治制度が現在の立場に我々を導いた。フランスは、もはやそんなものを欲しない。我々は新しい計画、新しい人物を必要とする」[2]。また、新憲法制定の議会では「全ヨーロッパがフランスを置き去りにして新世界を建設しようとしている(中略)敗北した議会制民主主義は大胆で、権威的・社会的・国家的新制度にその道を譲らねばならぬ。(中略)議会が同意しないなら、ドイツは直ちにフランス全土を占領して(政治改革を)強制するだろう」[3]と演説している。7月2日、フランス艦隊の編入もしくは無力化を狙ったイギリスは、カタパルト作戦によるフランス艦隊の接収を図った。このためイギリスとフランスの間でメルセルケビール海戦が勃発し、政府とフランス国民の間で反英感情が高まった。このことはラヴァルの工作をより容易にした。

後にこの動きを知ったヒトラーは、国防軍最高司令部長官カイテル元帥と次のような会話をしている。「フランスが我がナチズムを信奉しているとは知らなかったな」「そうと知ったら攻撃の必要はありませんでした。まるで同士討ちをした想いです。」[4]

7月10日、ヴィシーで開催された国民議会は圧倒的多数で新憲法制定までの憲法的法律を制定した。その内容は「『フランス国(État français)』の新しい憲法を公布することを目的として、ペタン元帥の権威のおよび署名の元にある共和国の政府に全ての権限を与える」というものであった[5]。ペタンは強大な権限を持つこととなったが、実際の政治は副首相であるラヴァルが大半を行っていた。

モントワール精神

ファイル:Bundesarchiv Bild 183-H25217, Henry Philippe Petain und Adolf Hitler.jpg
1940年10月24日のモントワール駅でのペタンとヒトラー。中央の制服姿の人物は、ヒトラーの通訳官パウル・シュミット、ヒトラーの後方の制服姿の人物は、ドイツ外相のヨアヒム・フォン・リッベントロップ

成立したヴィシー政府の課題は国民革命(en)と呼ばれる「新秩序」建設と、ドイツとの協調であった。休戦協定による占領経費負担は莫大なものであり、さらに占領者の権限を使った搾取が横行した。たとえばフランとマルクの為替レートは12フラン=1マルクが相場であったが、一方的に20フラン=1マルクに決めた取引を押しつけることもあった[6]。この苛烈な搾取を緩和しようと、ヴィシー政府はさらなる対独協力姿勢を見せた。10月24日にはペタンとヒトラーがロワール=エ=シェール県のモントワールで会談した(fr:Entrevue de Montoire)。ヒトラーはこの席でヴィシー政府の対英宣戦を求めたが、ペタンはそれには応じなかった。しかしペタンは会談後にラジオ演説を行い、さらなる誠実な対独協力をするべきであると声明した。この会見で強調された「モントワール精神」はドイツにとってさらなる負担をフランスに求める理由となり、ラヴァルのような親独派の勢力拡大のもととなった[7]。また10月9日にはフランスではじめてのユダヤ人迫害法(en:Statute on Jews)が成立している。

国民革命はフランス革命以前の古いフランスへの復帰を求めるイデオロギーであり、アクション・フランセーズシャルル・モーラスがイデオローグであった[8]。すなわち農業国としてのフランスが求められ、「土地に帰れ」というスローガンが叫ばれた[9]。しかしこの国民革命も、ドイツの利益を優先したものにならざるを得なかった。

ダルラン時代

ファイル:Bundesarchiv Bild 146-1978-053-30, Paris, vor dem Truimphbogen.jpg
パリの凱旋門でフランスの警官がドイツの将校に敬礼する様子(1941年)

11月にはアルザス・ロレーヌのドイツへの割譲が決まり、ラヴァルに国民の非難が集まった。12月13日にペタンはラヴァルを解任し、ピエール=エティエンヌ・フランダン(en)を副首相とした。また年末にはスペインマドリードにルイ・ルージェ教授を派遣し、イギリスとの間で交渉を行っていた。しかし対独抗戦継続を求めるイギリスと、中立を求めるヴィシー政府の溝は埋まらなかった[10]。しかしドイツの介入があり、1941年2月9日フランソワ・ダルラン海軍大将が新たな副首相となった。ダルランは「ラヴァルに卵をくれというと卵しかくれなかったが、ダルランはニワトリをくれた」と言われるほど好意的な対独協力を行った[11]。5月21日には独仏軍事協定が結ばれ、親独政権が成立していたイラクに対してフランス委任統治領シリアにある軍需物資の4分の3を譲渡する契約が成立した(en:Paris Protocols)。しかしこれはシリア・レバノン戦役en:Syria-Lebanon Campaign)によってシリアが連合国の手に落ち、イラクの親独派政権も倒れたため実行はされなかった。また北アフリカ戦線のドイツ軍が撤退した場合にはチュニジアを避難地として提供することも約束した。これは占領経費の負担軽減やフランス人捕虜の解放を求めたものであったが、ドイツ側は一切譲歩しなかった[11]

一方でダルランは警察国家化を推し進め、保安部隊(fr:Service d'ordre légionnaire、略称SOL)を組織してレジスタンスを弾圧し、共産党フリーメーソン、ユダヤ人の弾圧も行った[12]。さらに1942年2月19日からはエドゥアール・ダラディエポール・レノーといった戦争に敗北した際の政治家を裁判(リオン裁判(en))にかけ、ドイツ国内の収容所に送った。しかし敗戦責任はペタンにも及ぶ可能性があったため、4月15日に裁判は中止された。こうした強権的な姿勢や積極的な対独協力は、国民革命に対する国民の信頼を失わせる元となり、1941年末にはほとんど支持する者もいなくなった[12]

ラヴァル時代

ファイル:Moneta FRANCIA 1943.JPG
1943年の1フラン貨幣。表:"フランス国" 裏:"勤労、家庭、祖国"と刻まれている。

この状況でペタンはさらにドイツの歓心を得る必要があると感じ、ダルランを解任してラヴァルを再度起用することにした[13]。1942年4月18日、憲法行為11号によって国家元首と首相の役割が明確化され、首相には強い独裁権力が認められた。これは、首相に就任したラヴァルの要求によるものであり、ペタンは首相を退いて国家元首専任となり、事実上引退状態となった[13]。ラヴァルは6月22日に「ボルシェヴィズム(共産主義)」を阻止するためにドイツの勝利を支持する声明を行い、フランス人捕虜1人解放に対してフランス人労働者3人をドイツ国内の工場に送ることとした。

11月8日トーチ作戦が始まり、フランス領アルジェリアに連合軍が侵攻を開始した。このとき、ヴィシー政府軍総司令官であり、たまたま北アフリカにいたダルラン大将が英米軍と休戦条約を結んで北アフリカのヴィシー政府軍を降伏させたため、11月10日ドイツは自由地区を占領を開始し、政府は完全にドイツの支配下に置かれた(アントン作戦)。ドイツの頽勢を悟ったペタン元帥とラヴァル首相は、連合国とドイツの調停を行おうとしたが失敗した[14]。11月17日にはラヴァルをペタンの後継者とする憲法的法規が成立した[15]

ドイツの要求はますます苛烈になり、1943年1月にはさらに25万人の労働者が要求された。ラヴァルは捕虜送還でも譲歩した上にこの要求を達成し、労働力配置総監フリッツ・ザウケルに「フランスだけがプログラムを100%履行した」といわしめた[16]。しかしこれはフランス国民に強い不満を与え、徴用忌避者によるマキが組織される元となった。

11月、ペタンは廃止した第三共和制議会を再開させようとし、憲法案を制定した。さらに親独派のラヴァルを遠ざけることを考え、11月27日にラヴァルの後継者指定を取り消した[15]。しかしこれらの動きはドイツ側の介入によって失敗した。ペタンの側近数名が逮捕され、ドイツからは「顧問」が送り込まれた上にミリス(民兵団)の指導者ジョゼフ・ダルナンらが入閣するなどドイツ支配はさらに強化された[17]。1944年1月にはドイツがさらに労働者100万人を要求し、7月21日までに72万人が送り込まれた[18]

崩壊

1944年、連合軍が北フランスに上陸すると、フランスのドイツ軍は次々に駆逐されていった。8月9日にラヴァルは第三共和政議会を招集させてヴィシー政府の合法性を認めさせようとパリに向かったが、徒労に終わった。ペタンも8月11日にド・ゴールに使者を送り、臨時政府に政権を譲って引退することで「政権の継続性」が与えられると交渉したが、受け入れられなかった[19]。8月25日にパリを守備していたドイツ軍は降伏し、ド・ゴールのフランス共和国臨時政府が帰国した。8月27日、ド・ゴールはペタンが送った使者と面会も拒絶した[20]

ヴィシー政府の閣僚はドイツによって拘束され、ジグマリンゲン(en)に移された[21]。ジグマリンゲンではブリノン侯爵フェルナン・ド・ブリノン(fr:Fernand de Brinon)を代表とし、ダルナンを内相とするフランス政府委員会(fr)が組織されたが、大きな影響を与える存在にはならなかった。

国土

ファイル:Vichyfrance.GIF
黄はドイツ軍の占領地域、橙は「保留地域」、紫はベルギー占領軍統治下の「禁止地域」、赤が禁止地域のうち、沿岸防備地域。青がドイツへの割譲地、緑がイタリア軍の占領地、白はヴィシー政府の支配地域である「自由地域」。

かねてからの係争地であったアルザス・ロレーヌはドイツへ割譲されたものの、それ以外の地域には一応ヴィシー政府の主権が認められた。しかしパリを含む北部と西部はドイツ、グルノーブルニースを含むイタリア国境から50kmのエリアはイタリアによって占領された(イタリア南仏進駐領域)。この地域はフランスの主権が認められたものの、占領地域(fr:Zone occupée)として扱われ、政府の施政権は及ばなかった。また、フランシュ・コンテなどアルザス・ロレーヌの隣接区域は「保留地域」(Zone fermée)とされ占領地区とは別に扱われた。また北海イギリス海峡大西洋沿岸から数マイルのエリアと、ベルギー国境に近い現在のノール=パ・ド・カレー地域圏付近は「禁止地域」(fr:Zone interdite)とされて分離された。沿岸地域にはドイツ軍やトート機関が「大西洋の壁」と呼ばれる防御設備を設置した。またベルギー国境付近はベルギーの占領軍の統治下に置かれた。この占領地域の占領コストはフランス側が支払うこととなっており、一日あたり4億フラン[22]という莫大な出費となった。

フランス政府が統治できるのは占領地域を除いた自由地域(fr:Zone libre)と海外植民地であった。しかし自由地域においてもドイツとイタリアの軍事物資搬送や、ドイツが指定するドイツ人を引き渡す義務を負った。また自由地域と占領地域の間には境界線(fr:Ligne de démarcation)が配置され、検問が行われた。しかし1942年11月のアントン作戦以降は全土が占領下に置かれた。

ドイツ側にとってフランス全土を占領した場合は、海外植民地や海外に駐屯部隊やフランス海軍などの維持等が重い負担になる可能性がある為、親独的中立政権としてのヴィシー政府の存在は好都合だった。

植民地

政権成立当初、フランス領赤道アフリカフランス領カメルーンfr)を除くフランス植民地はヴィシー政権を承認した。シリアやレバノンなど、ヴィシー政権を支持する植民地には連合国軍が侵攻する場合もあった。戦況の変化に従い、自由フランスにつく植民地や、連合国と独自に交渉を行って中立を維持しようとする植民地も現れた。マダガスカルやフランス領アンティルのように、連合軍が当初中立を求める予定であったのに、自由フランスの介入によって現地政府が打倒されるというケースもあった(マダガスカルの戦い)。1944年までに日本の占領下にあったフランス領インドシナ以外の植民地政府はおおむねヴィシー政権の影響下から逃れた。

政治

政府は一応共和国とされたが、ペタンの権威を根拠とする特殊なものであった[23]。この体制は新憲法制定を目的とする建前を取っていたが、ヴィシー政府の四年間の統治の間、憲法制定のための国民会議は一度も招集されなかった[24]。その代わりペタンは「憲法行為」(Actes constitutionnels)という命令を行い、フランスの統治を行った。1940年7月11日には第一号の憲法行為として自らを「フランス国主席」(chef de l'Etat français)とし、大統領制を廃止した。さらに主席は立法権、執行権を持つ、独裁的権力者と定義した[24]。しかしドイツの影響から自由にはなれず、ドイツに近いラヴァルも大きな権力を持っていた。1942年4月18日以降は首相が事実上の最高権力者となり、国家元首であるペタンは半引退状態に追い込まれた。

またフランスの標語である「自由・平等・博愛」は「労働・家族・祖国」(Travail, Famille, Patrie)に置き換えられた。

軍事

ファイル:Jean Bassompierre.jpg
ドイツ敗戦後に処刑されたジャン・バソンピエール(フランス版

動員されていたフランス兵は武装解除され、武器はドイツに引き渡された[25]

本国の陸軍は「国内秩序の維持に必要な」10万人に制限され、武器はドイツ軍とイタリア軍の監視下に置かれた。マダガスカルインドシナなどの植民地軍はこの制限の適用範囲外とされた。一方で1940年8月29日には「在郷軍人奉公会」(Légion Francaise des Combattant)という在郷軍人を組織した準軍事組織を作った。この組織からはやがて保安部隊(fr:Service d'ordre légionnaire、略称SOL)やミリス(民兵団)などが生まれた。

海軍はドイツ軍とほとんど交戦しなかったが、「植民地の維持に必要な艦船」を除いて武装解除された[25]。港に停泊中のフランス艦隊はイギリス海軍の攻撃で多数が撃沈された。

フランス人の反共主義者はドイツ陣営に志願して連合軍と戦った(ボルシェビキに対するフランス志願軍団)。また、ナチス武装親衛隊にはフランス人志願兵で構成される部隊も設置され(第33SS武装擲弾兵師団)、ベルリン陥落までドイツとともに戦った。志願兵は敗戦後に親連合国政府によって処刑されるなどした。

対外関係

イギリスは1940年6月23日にヴィシー政府を否認する声明を行ったが、その他の主要国はヴィシー政府を承認する態度をとった。ただし、ソ連は1941年6月30日に、他の連合国は1942年のドイツ軍による占領以降外交関係を断絶した。

枢軸国との関係

日本満州国イタリアなどの枢軸国各国は、ヴィシー政権率いるフランスを承認しており、日本はヴィシー政権との協定をもとに、フランス領インドシナに進駐(仏印進駐)した。その後の1944年に行われた連合国軍によるフランス解放ならびに、シャルル・ド・ゴールによるヴィシー-日本間の協定無効宣言が行われた後、1945年3月に日本軍によるインドシナ政庁をめぐるクーデター明号作戦)が起きるまで、インドシナ植民地におけるフランスの主権は存続した。

コラボラシオン(対独協力)

ファイル:Bundesarchiv Bild 101I-720-0318-36, Frankreich, Milizionär bewacht Widerstandskämpfer.jpg
逮捕したレジスタンスを監視するミリスの隊員。1944年6月21日

多くのフランス人は、積極的・または消極的にヴィシー政府の統治を受け入れた。一部の人々は積極的なコラボラシオン(対独協力)の姿勢をとり、それ以外の多くの人々はヴィシー政府下の平穏を受け入れて沈黙を続けた。その一方で、少数ながらレジスタンス運動を始める動きもあったが、本格的なレジスタンス運動が見られるのは戦況がドイツにとって不利になり始めてからである。

ヴィシー政府下での対独協力は、政治・経済・文化面の多岐に及んだ。反ユダヤ主義が広がる中で「反ユダヤ法」が1940年10月に制定され、ユダヤ人の権利を制限した。この法律はヴィシー政権の統治下にあるフランスの植民地にも適用された。また、フランス領であったモロッコアルジェリアチュニジアにナチス・ドイツの支配を逃れて避難していたユダヤ人を、現地に設置したヴィシー政権管理下の強制労働収容所へと収容している。また、本土に住むユダヤ人もヨーロッパ各地にある強制収容所へと移送された。

ヴィシー政権はドイツ軍の占領費を支出したほか、安価にフランスの資源や労働力をドイツに提供した。ドイツ軍将校の愛人となったココ・シャネルなど親ドイツ的な文化人も増加し、ヴィシー政府の統治やドイツの占領政策を支えることになった。軍事面では首相ラヴァルを指導者とする民兵組織 ミリス(民兵団)がレジスタンス狩りなどに参加し、第33SS武装擲弾兵師団などに志願する者も現れた。

一方でヨーゼフ・ゲッベルスフリッツ・ザウケルといったドイツ高官はペタンやラヴァルが協力的ではないと見ており、日記や報告で言及している。またヒトラーは「ド・ゴールはラヴァルが策術で得ようとしているものを逆に力のみで得ようとしている」と評した[26]

レジスタンス

ヴィシー政府成立後まもなくは、ペタンが戦争の苦難から救ったという考えが広まっており、それほど大きな勢いはなかった。しかし苛烈な対独協力は市民の反感を招き、1940年の秋頃からはデモやレジスタンスの宣伝活動が高まった。1941年春にはパ=ド=カレー炭坑で10万人規模の大ストライキも発生した[27]独ソ戦開始以降は共産党などの左派もレジスタンスに加わった。しかし1942年11月まではレジスタンスは分派しており、しかも少数派であった[28]

1942年11月のドイツによる全土占領は、それまで残っていたヴィシー政権への幻想を一気に打ち砕いた。1943年1月には南部の三大レジスタンス運動が統合され、共産党が自由フランスに参加した。また、元首相レオン・ブルム社会党の名において自由フランス支持を行った。5月15日にはフランス国内でレジスタンスの統一組織、全国抵抗評議会(CNR)が設立された[29]

一方でいわゆる“レジスタンス”神話は、戦後になってド・ゴール政権が自己の正統性の根拠として過大に作られたものがほとんどであるという意見もある[30]

裁判

ヴィシー政府関係者の裁判はアルジェで国民解放委員会が成立したときから始まっており、終戦によって加速された。

ペタンは4月24日にドイツの保護下から離れ、一旦スイスに入ってからフランスに帰国、4月26日に逮捕された。前後してラヴァルをはじめとする閣僚も逮捕された。1944年11月18日には臨時政府によってヴィシー政府高官を裁くための高等法院が設置されたが、裁判官はかつてヴィシー政府によって任命された者達であった。裁判は一審制であり、欠席裁判で10名に死刑判決が下ったほか、ラヴァル、ダルナン、ブリノンら3名が死刑となったが、ペタンをふくむ5名が終身刑に減刑された。ヴィシー政権関係者の粛清「エピュラシオン」による訴追人数は10万人におよぶと見られ、2071人に死刑判決が下ったが、1303名が減刑された[31]。1951年には最初の特赦法が成立し、収監されていた関係者が釈放され始めた。

評価

ヴィシー政府は連合国側から「傀儡政権」とされ、連合国側の勝利、自由フランスによるフランス共和国臨時政府の成立、第四共和政の樹立とともにそのような評価が一般的となった。このため、フランス第四共和政はヴィシー政府からの継承国と見なされていない。

しかし、ヴィシー時代の対独協力が擬態であったか否かについての議論は継続されており、しばしば政治的問題ともなる。また、第四共和政以降、政治家や官僚として戦後のフランスの政治を支えた人物の中には、フランソワ・ミッテランをはじめ、ヴィシー政権下でそのキャリアの最初を送った者も少なくなく、政権の評価に影響を与えている。

歴史家による議論

フランスの歴史家ロベール・アロンは1954年の著作『ヴィシーの歴史』で、ヴィシー政府が公式にはドイツに同調・協力しているように見せながら、実際には秘密の交渉などで統治を骨抜きにする努力を行い、フランス国民のための盾となっていたとした。しかしアメリカの歴史家ロバート・パクストン(en)は1972年の著書『ヴィシー・フランス、旧勢力と新体制』でアロンの説を否定し、ドイツの占領軍が少数であったことなどを指摘し、戦後の体制がドイツ有利になるとみたヴィシー政府が積極的な対独協力を行っていたとした[32]。歴史家のジャン・マルク=ヴァロー(fr)はパクストンの批判を現在のイデオロギーから見たものであると批判した[33]。またフランスの歴史家マルク・フェローは1987年の著書『ペタン』においてペタンが人命と物財守った代わりに国家の名誉を失った犠牲者であるとした[34]。その後もパクストンは基本的に見方を変えていないが、ヴィシーを理解することは「ますます魅力的な、そして未完の事業」であるとして、将来の議論に期待する旨を記している[35]

ペタンに対する評価

1951年のペタンの死後、ウェイガン大将の呼びかけで「ペタン元帥の追憶を守るための協会」(fr)が樹立された。この協会はペタンの名誉回復を求め続けたが、極右的政治勢力の温床にもなった[36]。1958年にド・ゴールが大統領になると、「第一次世界大戦の勝利に貢献した」として、その年11月11日の第一次世界大戦戦勝記念日にあたる追憶の日(fr)、ペタンの墓碑へ花輪を贈った。しかしペタン信奉者の一部は不快に思い、ド・ゴールの名のついたリボンを引き裂いた。その後、歴代の大統領はこの慣行を継続したが、1993年に11月8日、ミッテラン大統領は花輪の慣行を取りやめることを声明した。

1984年にはヴィシー政府の産業次官フランソワ・レイドー(fr)とペタンの弁護人で国会議員を務めたジャック・イゾルニ(fr)がペタンを弁護する新聞広告を出した。この広告は政府によって禁止され、二人は控訴したが「犯罪即ち対独協力罪の弁明」として有罪となった。両者はストラスブール欧州人権裁判所に提訴し、1998年にフランス政府の行為は表現の自由の侵害であるという判決を受けた。原告二人はすでに死亡していたが、遺族が慰謝料を受け取った[34]

ラヴァルに対する評価

チャーチルはその著書「第二次世界大戦回顧録」でラヴァルを「自分の後の行為と死の恥辱にもかかわらず、明確に遠くを見通していた」と評した。これに対してラヴァルの娘ジョゼはドイツ高官がラヴァルの非協力姿勢を語っていたことを指摘し、ラヴァルもまた偉大な姿勢を取ったのだと手紙で反論した[26]

ド・ゴールが大統領を辞任した後の1970年、ラヴァル裁判の未公開史料が一部に閲覧を許された。ジョゼの夫で弁護士のルネ・ド・シャンブラン(fr)はド・ゴール時代からジョルジュ・ポンピドゥー大統領と交渉しており、史料の閲覧を行った。この後シャンブランと会談した元首相ジョルジュ・ビドーは、ラヴァルの裁判は1945年10月の制憲議会選挙までにラヴァルを消す必要があったド・ゴールらの陰謀だと告げた。シャンブランは1983年に『歴史の前のピエール・ラヴァル』を出版し、裁判の無効を要求した。歴史家フェルド・クプフェルマン(fr)がシャンブランと連絡を取って『ラヴァル』の執筆を始めると、匿名の人物によって「ラヴァル直筆の判決反論書」がシャンブランの元に渡った。このほかにも大量の史料が送られ、その資料によってシャンブランは『ピエール・ラヴァルのための我が闘争』を1990年に出版した。また歴史家ジャン=ポール・コワンテ(fr)は、ペタンの裁判は真の裁判であったが、ラヴァルの裁判は戯画であったと指摘した上で「敵を欺く事に長けていたと見られていた」ラヴァルが、イギリス人やドイツ人、ペタンにも欺かれていたのではないかと疑問を呈した[37]

年表

1940年
1941年
1942年
  • 4月18日、ペタンが首相を辞任し、ラヴァルが首相に昇格。
  • 5月5日、マダガスカルにおいて、連合国軍とヴィシー政府軍・日本海軍間の戦いが始まる。(マダガスカルの戦い
  • 11月5日、マダガスカル陥落。
  • 11月8日、連合国軍がトーチ作戦を開始。フランス領アルジェリアのヴィシー政権軍と交戦開始。
  • 11月10日、アルジェリアにいた海軍大臣兼フランス軍総司令官フランソワ・ダルランが連合国と休戦協定を結ぶ。アルジェリアの政府関係者は逮捕され、20万人のヴィシー将兵が連合国側に降伏。
    • 同日、ドイツがアントン作戦を発動し、ヴィシーフランスの本土全域の占領を開始。
  • 11月27日、ドイツ側がトゥーロンの艦艇を接収しようとしたため、艦船の大部が自沈する(en:Scuttling of the French fleet in Toulon)。
  • 12月7日、ダルランが連合国の承諾を受けて、北アフリカにおけるフランス国家元首兼北フランスにおける陸海空軍部隊総司令官兼北アフリカ総督に就任する。
  • 12月24日、ダルランが暗殺される。アンリ・ジローがダルランの事実上の後継者となる。
1943年
  • 1月14日、カサブランカ会談。フランスのトップを決めるための調整が行われるが、決裂。
  • 5月13日、北アフリカの枢軸軍が降伏、北アフリカ全域が連合国の支配下に落ちる
  • 5月15日、フランス国内でレジスタンスの統一組織、全国抵抗評議会(CNR)が設立。ド・ゴールをフランスレジスタンスの指導者として認める声明を出す。
  • 6月3日、フランス領アルジェリアでフランス国民解放委員会(en)が結成される。共同代表はジローとド・ゴール。
1944年
  • 5月26日、ド・ゴール、「フランス国民解放委員会」を「フランス共和国臨時政府」に改称
  • 6月6日、ノルマンディー上陸作戦開始
  • 6月17日、コルシカが自由フランス軍によって攻略される。
  • 8月19日、ペタンが国家主席を辞任
  • 8月20日、ラヴァルが首相を辞任
  • 8月25日、連合国軍によるパリの解放
  • 9月7日、ヴィシー政府閣僚は南ドイツのジグマリンゲンに移る。ブリノンを長とするフランス政府委員会(fr)が組織される。
  • 10月23日、フランス共和国臨時政府がイギリス、アメリカ、ソ連の承認を受ける。
1945
  • 3月9日、日本軍第38軍、インドシナ総督府をのっとる(明号作戦)。その保護国があいついで独立を宣言。
  • 4月22日、ジグマリンゲンの亡命政府が連合軍に逮捕される
  • 4月26日、ペタンがスイスからフランス国内に入り、逮捕される

政府の変遷

国家主席フランス語: Chef de l'État français

第一次ラヴァル政権

1940年7月12日 - 1940年12月12日 (fr:Gouvernement Pierre Laval (5))

  • フィリップ・ペタン - 首相(国家主席兼任)(1940年7月10日 - 1942年4月18日
  • ピエール・ラヴァル - 副首相、1940年10月28日より外相
  • ラファエル・アルバート(fr:Raphaël Alibert) - 国璽尚書兼法務大臣
  • fr:Yves Bouthillier - 財務大臣
  • ポール・ボードウィン(fr:Paul Baudouin) - 外務大臣(-1940年10月28日)
  • ピエール・カジオ(fr:Pierre Caziot)- 農業食糧大臣
  • レネ・ブラン(fr) - 労働問題担当国務相
  • マキシム・ウェイガン - 国防大臣、北アフリカ軍最高司令官(-1941年11月)
  • ルイ・コルソン(fr) - 陸軍大臣(-1940年9月)
  • ベルトラン・プジョー(fr) - 空軍大臣(-1940年9月)
  • フランソワ・ダルラン - 海軍大臣
  • エイドリアン・マルケ(fr) - 内務大臣(-1940年9月)
  • エミール・ミロー(fr) - 文化教育大臣(-1940年9月)
  • fr:Jean Ybarnegaray - 家族・青少年問題担当国務相[訳語疑問点](-1940年9月)
  • フランソワ・ピエトリ(fr) - 官房長官[訳語疑問点](-1940年9月)
  • アンリ・レムリー(fr) - 植民地長官(-1940年9月)

1940年7月16日に以下の閣僚が追加された。

1940年9月に大幅な改造が行われた。

  • シャルル・ユンツィジェ(fr) - 陸軍大臣(1940年9月-)
  • ジャン・ベルジュレ(fr) - 空軍大臣(1940年9月-)
  • fr:Marcel Peyrouton) - 内務大臣(1940年9月-)
  • エミール・ミロー(fr) - 文化教育大臣(1940年9月-)
  • fr:Georges Lamirand - 青少年問題担当長官(1940年9月-)
  • ジャン・ベルトラン(fr) - 官房長官(1940年9月-)
  • シャルル・プラトン(fr) - 植民地長官(1940年9月-)
  • オーギュスト・ロール((fr) - 国務長官[訳語疑問点](1940年11月18日-)

フランダン政権

1940年12月13日 - 1941年2月9日 (fr:Gouvernement Pierre-Étienne Flandin (2))

  • フィリップ・ペタン - 首相(国家主席兼任)(1940年7月10日 - 1942年4月18日
  • ピエール=エティエンヌ・フランダン(en)- 副首相、1940年12月13日より外務大臣兼務
  • ポール・ボードウィン - 評議会議長国務大臣
  • シャルル・ユンツィジェ - 国防大臣、1941年1月まで陸軍大臣兼務
  • フランソワ・ダルラン - 海軍大臣
  • Marcel Peyrouton - 内務大臣
  • Yves Bouthillier - 財務大臣

※主要閣僚のみ

ダルラン政権

1941年2月9日 - 1942年4月18日 (fr:Gouvernement François Darlan)

  • フィリップ・ペタン - 首相(国家主席兼任)(1940年7月10日 - 1942年4月18日
  • フランソワ・ダルラン- 副首相、海軍大臣、内務大臣兼務
  • ポール・ボードウィン - 評議会議長国務大臣
  • シャルル・ユンツィジェ - 国防大臣
  • Yves Bouthillier - 財務大臣
  • アンリ・ジロー - 通信大臣

※主要閣僚のみ

第二次ラヴァル政権

1942年4月18日 - 1944年8月19日 (fr:Gouvernement Pierre Laval (6))

  • ピエール・ラヴァル - 首相、外務大臣、内務大臣、情報大臣兼務
  • ユージン・ブリドー(fr) - 国防大臣
  • Yves Bouthillier - 財務大臣
  • fr:Gabriel Auphan - 海洋大臣
  • クサヴィエ・バラ(fr) - ユダヤ人問題担当委員
  • ジョゼフ・ダルナン - 治安担当長官(1942年12月31日 - 1944年6月13日)

※主要閣僚のみ

参考文献

戦後フランス憲法前史研究ノート(一)
戦後フランス憲法前史研究ノート(二)
戦後フランス憲法前史研究ノート(三)

関連書籍

  • ジャン・ドフラーヌ 著\大久保敏彦・松本真一郎 訳『対独協力の歴史』(白水社文庫クセジュ、1990年) ISBN 4-560-05705-2
  • ロバート・O・パクストン 著\渡辺和行・剣持久木 訳『ヴィシー時代のフランス 対独協力と国民革命 1940-1944』(柏書房パルマケイア叢書、2003年) ISBN 4-7601-2571-X
  • 長谷川公昭『ナチ占領下のパリ』(草思社、1987年) ISBN 4-7942-0264-4

関連項目

関連人物
ヴィシー政府協力組織
反政府運動
その他

脚注

  1. ^ 大井、770-771p
  2. ^ 児島、190P
  3. ^ 児島、193P-194P
  4. ^ 児島、194P。ただし、ナチズムは蔑称であり、原語は「Nationalsozialismus」と見られる。
  5. ^ 村田、一、177-178p
  6. ^ 村田、二、130-131p
  7. ^ 村田、二、131p
  8. ^ 村田、二、131-133p
  9. ^ 村田、二、133p
  10. ^ 大井、1071p
  11. ^ a b 村田、二、134p
  12. ^ a b 村田、二、135p
  13. ^ a b 村田、二、136p
  14. ^ 大井、955p
  15. ^ a b 大井、957p
  16. ^ 村田、二、137p
  17. ^ 大井、956-957p
  18. ^ 大井、958-959p
  19. ^ 大井、965p
  20. ^ 大井、972p
  21. ^ 大井、952p
  22. ^ 村田、二、130p
  23. ^ 村田、一、178p
  24. ^ a b 村田、一、179p
  25. ^ a b 村田、一、176p
  26. ^ a b 大井、1080p
  27. ^ 村田、三、125-126p
  28. ^ 村田、三、127p
  29. ^ 村田、三、128p
  30. ^ 対独協力の観点から見た戦後フランスの政治と文化
  31. ^ 大井、1034-1035p
  32. ^ 大井、1070-1071p
  33. ^ 大井、1073p
  34. ^ a b 大井、1076p
  35. ^ 大井、1074p
  36. ^ 大井、1074p
  37. ^ 大井、1081-1083p

外部リンク

座標: 北緯46度10分 東経3度24分 / 北緯46.167度 東経3.4度 / 46.167; 3.4