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不忍池

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

不忍池(しのばずのいけ)は上野恩賜公園東京都台東区)の中に位置する天然のである。

目次

地形

上野恩賜公園の南端に位置し周囲は約2km、全体で約11万m2。北で上野動物園西園、東で京成上野駅、南と西で不忍通りに接している。

中央に弁才天を祀る弁天島(中之島)を配し、遊歩のための堤で3つの部分に分かれている。一面がで覆われる蓮池、ボートを漕いで楽しむことのできるボート池、上野動物園の中に位置しカワウが繁殖している鵜の池の3つである。それぞれの池の詳細は以下の通りである。

名前面積(千m2平均水深(cm)水量(千m3
ボート池308626
蓮池558446
鵜の池259223

名前の由来

弁天島に建つ石碑によるとかつて上野台地と本郷台地の間を忍ヶ丘(しのぶがおか)と呼んでおり、この地名にちなんで「不忍池」となったらしい。

ただし、周囲に笹が多く茂っていたことから篠輪津(しのわづ)が転じて不忍になったという説(『新編武蔵風土記稿』)やここで男女が忍んで逢っていたからという説(『望梅毎談』)もある。

変遷

縄文時代ごろ、この辺り一帯は東京湾の入り江であった。その後海岸線の後退とともに取り残されて、紀元数世紀ごろ池になったと考えられる。15世紀頃には既に「不忍池」という名で呼ばれていた。

1625年江戸幕府によって西の比叡山延暦寺に対応させこの地に寛永寺が建立された。開祖である慈眼大師・天海は不忍池を琵琶湖に見立て竹生島になぞらえて弁天島(中之島)を築かせ、弁天堂を作った。当初は文字通り船で渡る島であったが1672年に東に向かって石橋が架けられ、徒歩で渡れるようになった。

明治時代の初期までは池の形も現在とかなり異なり、特に池の北側は今よりもかなり広く藍染川(谷田川)という川も注いでいた。しかし1884年、共同競馬会社による競馬場の建設に伴い埋め立てが行われほぼ現在の形が出来上がった。池を周回する形で作られた競馬場で同年11月には天皇臨席のもと第1回の競走が行われ、以降1892年まで春と秋に競馬が行われた。1907年には東京勧業博覧会のために西に向かって観月橋がかけられ、池の中央を横断できるようになった。

1929年に築堤工事が行われ、池が4つに分割された。また1931年には、現在まで続く貸しボートの営業が開始された。現在、鵜の池となっている部分は当時は2つの池に分かれていた。戦後の一時期は水が抜かれて水田(不忍田圃)となり跡地に野球場を建設する案なども出されたが、1949年に池のまま保存することで合意がなされ現在に至っている。1967年9月には地下鉄千代田線の建設工事に伴う土砂崩れで池の底が抜け、約3万トンの水がトンネルに流れ込む事故が起きている。1990年から1994年にかけては水質浄化のため東京都建設局によって層流多循環システム、曝気噴水ポンプ、生物酸化処理膜の設置などが集中的に行われた。

自然

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鳥類

不忍池では渡り鳥、留鳥あわせて数十種類の鳥類が見られ多い時には1万羽を超えることもある。その中でも特に多いのがキンクロハジロホシハジロオナガガモである。

魚類

カムルチー、タウナギ、ティラピアなど外来魚が多い。モツゴなどもいるが、特に多いのがである。

植物

その他

2006年6月に不忍池で特定動物である産卵中のワニガメが発見され、自然繁殖している可能性が指摘された。この事件以来、ボート池の周辺にカミツキガメ、ワニガメの危険性を訴えるポスターが貼られ周囲が網で覆われている。

文学作品

石碑

不忍池の中央にある弁天島にはユニークな石碑が多いことで知られる。以下のようなものがある(時計周りに)。

そのほか不忍池周辺には以下のものがある。

  • 駅伝の碑 2002年 財団法人日本陸上競技連盟ほか

ギャラリー

周辺施設

アクセス

その他

  • 不忍池の西に広がる地名「池之端」は、不忍池の近くにあることから名づけられた。
  • 不忍池周辺はかつてはホームレスのメッカであったが2006年ごろに周囲に立入禁止のロープが張られ、テントとともに一掃された。

関連項目

外部リンク

座標: 北緯35度42分39.67秒 東経139度46分14.7秒 / 北緯35.7110194度 東経139.77075度 / 35.7110194; 139.77075