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仏印進駐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

仏印進駐(ふついんしんちゅう)とは、第二次世界大戦下におけるフランス領インドシナ(仏領印度支那)への日本軍の進駐のことを指す。1940年の北部仏印進駐と、1941年の南部仏印進駐に分けられる。

目次

北部仏印進駐

1940年9月、日中戦争により日本と交戦中の中華民国蒋介石政権に対して行われていたイギリスアメリカ合衆国などによる軍事援助ルート、いわゆる援蒋ルートを、インドシナ半島において遮断する目的で行われた。

この進駐は、第二次世界大戦でフランスがドイツに降伏した結果、1940年7月に成立したフランスの親ドイツ政権であるヴィシー政権との外交交渉の結果得られた成果で、現地の両軍司令部間での軍事協定も結ばれていた。しかし、参謀本部第1部長富永恭次少将の強引な指示の下に進駐を開始した9月23日からの数日間、ドンダン要塞など各地で、ヴィシー政権の決定を受け入れず、日本軍の進駐に反対する一部のフランス軍との間で戦闘[1]が発生し、停戦までに数百人の死傷者が出ている。

この日本軍による一連の行動は、当時、タイを除く東南アジアのほとんどの地域を植民地として領有していたイギリスやアメリカ、オランダなどの警戒と反発を招いた。

実際に、当時ドイツと戦争状態にあり、ヴィシー政権を「親独傀儡政権」とみなし承認していなかったイギリスのほか、ヴィシー政権を承認[2]していたアメリカも日本軍の進駐を「正当な交渉結果」とは認めず、対抗手段として英領ビルマにルートを建設することで、蒋介石への援助を続けた。

また進駐直後に、日本がイギリスと戦争状態にあったドイツとイタリアとの間に日独伊三国軍事同盟を締結したことによって、日本は、イギリスとその同盟国であるアメリカと完全な敵対関係に立つ。アメリカはただちに屑鉄の対日禁輸を決定し、翌1941年(昭和16年)に入ると、銅などさらに制限品目を増やした。また蒋介石政権へは資金・物資両面から多大な援助を行った。

なお進駐後のインドシナでは統治権はフランス側に残され、フランス軍と日本軍の共同警備の形態がとられた。日本軍は、軍事協定にもとづいてフランス側から提供された飛行場を拠点とし、中華民国南部への空襲を開始した。

またこの北部仏印進駐は、仏印との間で領土問題を抱えていた東南アジアにおける唯一の独立国であるタイ王国をも刺激し、同年11月のタイ・仏印紛争勃発のきっかけとなった。

南部仏印進駐

1941年7月2日御前会議において仏印南部への進駐が決定し(『情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱』)、日本軍はヴィシー政権の許可を得て7月28日に仏印南部への進駐を開始した(南部仏印進駐)。南仏印進出は、政治的駆け引きの一端で、①米国が新たに開設した援蒋ルート(ビルマルート)を仏印・シャム軸を通じ牽制すること、②米英蘭が戦争を決意し南仏印に強固な拠点が築かれた場合、日本が戦争完遂のための物資を確保するために東南アジアへ進出することが不可能になることを恐れ、保険的な意味合いで実施された。

これに対して英米は、進駐が行われた場合には貿易制限を強化することを宣言していたが、無視して強行された。結果として、在英米蘭の日本資産凍結、日英通商条約廃棄、アメリカの対日石油禁輸などの強力な制裁が発動され、これは日本側の予想を上回るものとなった[3]。一方、8月25日には、イギリス、ソビエトはイラン帝国に侵攻したが(イラン進駐)、アメリカはレンドリース法を継続するなどして、イギリス、ソビエトを支援している。その後、日本とアメリカ合衆国は外交交渉を重ねたが、アメリカが突き付けたハル・ノートを日本政府が受け入れることができず、開戦へ向かうこととなった。12月8日に日本はイギリスやオランダやアメリカなどに宣戦布告し、ここに太平洋戦争大東亜戦争)が勃発することとなる。

太平洋戦争開始後も、従前のヴィシー政権による植民地統治が日本によって認められ、軍事面では日仏の共同警備の体制が続いた。もっとも、念のための処置として、フランス駐留軍の軍備は制限され、主要海軍艦艇の武装解除などが行われている。

1944年にヨーロッパ大陸に連合国軍が再上陸を果たし、その後シャルル・ド・ゴール率いる自由フランスと連合国軍によってフランス国内からドイツ軍が追い払われたことで、同年8月25日にはヴィシー政権が解体されることとなった。その後も1945年の初頭まで日本は仏印政府の統治を認めていたが、ド・ゴールによるヴィシー-日本間の協定無効宣言が行われたことを受け、仏印政府の立場が完全に連合国(自由フランス)寄りとなり、日本軍に攻撃を仕掛けてきたことから、3月9日に『明号作戦』を発動し武力によってこれを制圧した。

作戦終了後、仏印政府の下で辛うじて命脈を保っていた阮朝バオ・ダイ(保大帝)がベトナム帝国の独立を宣言、また、カンボジア、ラオスもほぼ同時期に独立を宣言した。しかし、同年8月14日に日本が連合国に対して降伏を予告すると、3日後の8月17日ベトナム八月革命が勃発し、日本が降伏文書に調印した9月2日には、阮朝は打倒されてベトナム民主共和国が樹立された。同時に、日本の降伏によって、日本に勝利したフランスは植民地支配を復活させた。

参考文献

注記

  1. ^ 日本側でも当初から戦闘を想定し、戦車部隊などを伴い武力制圧可能な構えであった。
  2. ^ アメリカ政府は1943年8月までヴィシー政権と外交関係を保った。
  3. ^ この処置の背景には、イギリス支援があり、日本を南に引き付け、ソ連戦に干渉させないようにするための意味合いが含まれていた

関連項目

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(ポータル:軍事/PJ軍事/PJ軍事史)