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八重洲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

日本 > 東京都 > 中央区 > 八重洲
ファイル:Tokyo Station Yaesu Entrance.jpg
八重洲のランドマークであった東京駅八重洲口「大丸」(旧)東京店

八重洲(やえす)は、東京都中央区の町名である。「八重洲」は東京駅東側(八重洲口側)一帯を指す地区名としても用いられる。

郵便番号 〒103-0028(八重洲一丁目)・〒104-0028(八重洲二丁目)

目次

概要

中央区八重洲一丁目・八重洲二丁目は東京駅の東側に位置する。東京駅では西側の出口(皇居方面)を「丸の内口」、東側の出口(日本橋方面)を「八重洲口」と称することから、駅西側一帯を「丸の内」、東側一帯を「八重洲」と通称している。ただし、東京駅の駅舎、プラットフォーム等の施設はすべて千代田区丸の内一丁目に位置し、千代田区丸の内と中央区八重洲の境界は、東京駅八重洲口駅前よりもやや東にある。

八重洲口地区は、立地のよさから主にオフィス街として機能していたが、21世紀初頭から始まった再開発事業とともに商業スポットとしても注目されるようになった。八重洲には、本社を置き、また「八重洲」の名を冠した企業が多く存在する。「八重洲ブックセンター」の本店や、日本でも屈指の規模を誇る八重洲地下街もある。

八重洲の地名は、ここに住んでいたオランダ人ヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン(Jan Joosten van Lodensteyn)の和名「耶楊子(やようす)」に由来する。彼は、江戸時代日本に漂着し、後に徳川家康の国際情勢顧問や通訳として活躍し、家康からこの地に邸を与えられた。

現行行政地名としての「八重洲」は、1954年(昭和29年)の町名変更によって成立したもので、現行の八重洲一丁目は旧・日本橋区呉服橋、八重洲二丁目は旧・京橋区槇町である。中央区の町名のなかでは唯一、旧日本橋区と旧京橋区にまたがっており、前述のように八重洲一丁目と八重洲二丁目とで郵便番号が異なるのもその名残である。税務署の管轄も、八重洲一丁目は日本橋税務署で八重洲二丁目は京橋税務署と分かれている。なお、かつての麹町区(現・千代田区丸の内)にも「八重洲町」があった(後述)。

地理

中央区の行政地名としての八重洲は、西を東京都道405号外濠環状線(外堀通り)、東を八重洲仲通り、北を日本橋川、南を東京高速道路に囲まれた、南北に細長い地域である。

東京都道408号八重洲宝町線八重洲通り)を挟んで北側の八重洲一丁目と南側の八重洲二丁目が存在する。八重洲一丁目は旧日本橋区・八重洲二丁目は旧京橋区に属する。

町域の西は千代田区丸の内及び同区大手町に、東は中央区日本橋及び同区京橋に、北は中央区日本橋本石町に、南は中央区銀座に、それぞれ接する。

一般的用語としては、行政地名としての「八重洲」に限らず、東京駅東側一帯の、より広い地域を含む。八重洲口駅前に位置するグラントウキョウ(ノースタワー、サウスタワー)、シャングリラホテル東京などのビル群の住所はいずれも千代田区丸の内一丁目に属する[1]

外堀通りの東側に位置するということは、現在の「八重洲」は外堀のさらに外側(東側)にあることになる。しかし、歴史の項で示すとおり、「八重洲」は歴史的には外堀の内側、現在の千代田区丸の内に存在した地域である。

歴史

ファイル:GranTokyo south tower.JPG
東京駅八重洲口(鉄道会館ビル)とグラントウキョウサウスタワー(2008年)
ファイル:Tokyo Station Yaesu Entrance-20100327.jpg
鉄道会館ビル解体後(2010年)

元々の「八重洲」は現在の丸の内に相当する地域のうち、丸ビルと三菱ビルの間に存在する通りの南側を指す地名であった。ヤン=ヨーステンの屋敷も内堀沿いに存在した。「丸の内」は北側の永楽町と併せて江戸城の外壕の内側を指すこれらの上位的な地理的概念として存在した。

明治の頃まで京橋方面から丸の内に入るには外壕を渡らねばならず、1884年(明治17年)に呉服橋と鍛冶橋の間に丸の内の「八重洲」に通じる八重洲橋が架けられた。また、現在の東京駅八重洲口付近は、北町奉行所の在所でもあった。

1914年大正3年)には東京駅が開業した。ただし、この時日本橋側(現在の八重洲側)は駅のすぐ東側が外豪であったため、地形的な制約を受けて入口が設置できなかった。その後、東京駅拡張工事とともに濠は埋めたてられ、八重洲橋も姿を消した。埋め立てられた外豪は「外堀通り」になった。こうして地形的な制約をクリアできたため、1929年昭和4年)に東京駅八重洲口が設けられた。八重洲口の設置によって、八重洲口前を「八重洲」とする地理的な感覚が生まれることになった。

1929年(昭和4年)に東京駅周辺の地名が再編成され、東京駅の西側にあった「八重洲町」が廃されて「丸ノ内二丁目」のうちとなった(1970年の住居表示実施以降は「丸内」と表記)。

一方、中央区の「八重洲」の成立過程は以下のとおりである。現在の八重洲一丁目・八重洲二丁目のうち、北側の八重洲一丁目は旧日本橋区で、かつては呉服町等の町名があったが、1928年(昭和3年)に呉服橋一丁目から呉服橋三丁目となり、1947年(昭和22年)の中央区成立時に「日本橋」を冠称して中央区日本橋呉服橋一丁目から日本橋呉服橋三丁目となった。一方、南側の八重洲二丁目は旧京橋区で、かつては北槇町、南槇町等の町名があったが、1931年(昭和6年)に槇町一丁目から槇町三丁目となり、1947年(昭和22年)の中央区成立時に中央区槇町一丁目から槇町三丁目となった。日本橋呉服橋一丁目から日本橋呉服町三丁目と槇町一丁目から槇町三丁目は、1954年(昭和29年)に「八重洲一丁目から八重洲六丁目」に再編され、これによって名実共に東京駅の西が丸の内、東が八重洲になった。この「八重洲一丁目から八重洲六丁目」は住居表示によって再々編され、八重洲一丁目から八重洲三丁目が八重洲一丁目に変更(1973年実施)、八重洲四丁目から八重洲六丁目が八重洲二丁目に変更(1978年実施)されている[2]

太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)6月に、米軍の空襲を受けて東京駅八重洲口が焼失した。また、終戦直後の1949年(昭和24年)には失火により再び八重洲口が焼失した。2度の焼失によって八重洲口の再開発が促され、1954年(昭和29年)に八重洲口に鉄道会館ビルが建設され、八重洲のランドマークとなる大丸東京店が開業した。

八重洲口は、隣接する丸の内に比べ老朽化したビルが目立ち、再開発はあまり進んでいなかったが、現在「東京ステーションルネッサンス」の一環として再開発事業が進められている。2007年11月には、鉄道会館ビルの南北に超高層ツインタワービルグラントウキョウ(住所は「丸の内」)が大丸の移転とともに竣工した。今後、鉄道会館ビルは解体され、2013年春ごろには、跡地にペデストリアンデッキ「グランルーフ」と駅前広場が整備される予定である。鉄道会館ビルの解体により、東京湾側から丸の内側への海風の通り抜けが改善され、ヒートアイランド現象が緩和することが期待されている。

地域

教育
所轄の警察署・消防署
企業

脚注

  1. ^ 千代田区丸の内一丁目と中央区八重洲一丁目の境界は、厳密には外堀通りではなく、外堀通りよりわずかに西寄りにあり、第一・第二鉄鋼ビルの中を区境が通っている。住居表示による街区表示では、外堀通り以西に八重洲一丁目10番・11番街区が設定されているが、これらは実際の住所としては使われていない。
  2. ^ 町名の成立年代は『角川日本地名大辞典 東京都』による。

関連項目

外部リンク