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加藤斌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

加藤 斌
基本情報
国籍 ファイル:Flag of Japan.svg 日本
出身地 栃木県宇都宮市
生年月日 1944年5月21日
没年月日 1965年1月4日(満20歳没)
身長
体重
180cm
74kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1963年
初出場 1963年
最終出場 1964年
経歴(括弧内は在籍年)

加藤 斌(かとう たけし、1944年5月21日 - 1965年1月4日)は日本のプロ野球選手投手)。栃木県宇都宮市出身。

目次

来歴・人物

作新学院高等部ではエースだった八木沢荘六の控え投手として主にリリーフを担当していた。

1962年、作新学院は八木沢などの活躍もあって選抜高等学校野球大会に優勝、続く夏の全国高等学校野球選手権大会栃木県大会も勝ち上がり、春夏連覇に期待をかけられた。春の優勝後、加藤は野球部長の勧めで投法をオーバースローからアンダースローに転向している。

そんな中、甲子園大会直前、エースの八木沢が赤痢にかかるというハプニングが襲い掛かった。そこでチームは加藤を主戦投手として戦うこととなった。1回戦、2回戦は苦戦したものの勝ち上がり、準決勝、決勝では共に加藤が敵チームを完封。見事に八木沢の代役を勤め上げ、作新学院は史上初の甲子園春夏連覇を果たした。

甲子園優勝投手となった加藤にはプロ野球からオファーが殺到、獲得競争が始まった。当初は読売ジャイアンツ入りが有力視されていたが、中日ドラゴンズは当時コーチだった土屋弘光と加藤の姉を見合いさせて加藤に接近しようという作戦を立てた。結果、お見合いは見事に成功、加藤も中日入りすることとなった(詳細は土屋の項も参照)。

プロ入りした加藤は、1年目から一軍で登板し、初勝利も挙げている。

勇躍を期待された加藤だったが、1965年1月3日、帰郷していた加藤は宇都宮市内で開かれた作新学院のクラス会に出席、その2次会にも参加するため友人を乗せて自家用車で日光市の旅館に向かっていた。加藤が運転するダットサン・フェアレディ今市市(現・日光市)内を走行中、凍結した路面でハンドル操作を誤り、民家のブロック塀の角にフロント部分が突き刺さる状態で衝突した。加藤は頭蓋骨陥没により意識不明の重体、同乗の友人も軽傷を負った。病院に搬送された加藤は意識を取り戻すことなく、翌4日に死亡した。享年20。

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1963 中日 4000010----1.000359.070100400311.000.89
1964 311011024----.33329469.173101823190045384.961.31
通算:2年 351011034---.42932978.180101923230048394.501.26

背番号

  • 26(1963年-1964年)
    • なお、この背番号は後に作新学院の後輩にあたる落合英二もつけている。

関連項目