北の富士勝昭
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|---|---|---|---|---|
| 基礎情報 | ||||
| 四股名 | 北の富士 | |||
| 本名 | 竹澤勝昭 | |||
| 生年月日 | 1942年3月28日(70歳) | |||
| 出身 | 北海道旭川市 | |||
| 身長 | 185cm | |||
| 体重 | 135kg | |||
| 所属部屋 | 出羽海部屋→九重部屋 | |||
| 得意技 | 左四つ、上手投げ、外掛け | |||
| 成績 | ||||
| 現在の番付 | 引退 | |||
| 最高位 | 第52代横綱 | |||
| 生涯戦歴 | 786勝427敗69休 | |||
| 幕内戦歴 | 592勝294敗62休 | |||
| 優勝 |
幕内最高優勝10回 十両優勝1回 | |||
| 賞 |
殊勲賞2回 敢闘賞1回 技能賞3回 | |||
| データ | ||||
| 初土俵 | 1957年1月場所 | |||
| 入幕 | 1964年1月場所 | |||
| 引退 | 1974年7月場所 | |||
| 引退後 | 九重部屋師匠 | |||
| 他の活動 | NHK大相撲解説者 | |||
| 備考 | ||||
| 金星1個(大鵬) | ||||
| 2009年8月1日現在 | ||||
北の富士勝昭(きたのふじ かつあき、Template:Safesubst:3月28日 - )は、北海道旭川市(出生地は網走郡美幌町)出身の元大相撲力士で第52代横綱。現役当時は「現代っ子横綱」と呼ばれた。本名は竹澤勝昭(たけざわ かつあき)。九重部屋(入門時は出羽海部屋)に所属し、引退後は日本相撲協会の年寄を襲名し理事を務めた後、現在は協会を離れNHK大相撲専属解説者。現役時代の体格は身長185cm、体重135kg、星座は牡羊座、血液型はO型。
目次 |
略歴
生い立ち
- 1942年 北海道網走郡美幌町生まれ
- 1948年 留萌市立留萌小学校入学、野球少年団でエースとして活躍
- 1954年 留萌市立留萌小学校卒業
- 1954年 留萌市立港南中学校入学、野球部のエースとして活躍
- 1956年 12月家庭の事情により旭川市立光陽中学校に転校
- 1957年 旭川市立光陽中学校卒業卒業と同時に出羽海部屋入門
相撲人生
野球からの転身〜角界入門
小中学校は野球少年で、留萌小学校時代は当時北海道最強であった軟式野球チーム萌友会の主力投手、留萌・港南中学校時代は軟式野球の投手で四番。後に父親の食堂経営が行き詰まったために、旭川に移り住み、旭川市立光陽中学校に転入した。
1954年(昭和29年)に留萌での大相撲北海道巡業で、当時の横綱・千代の山から声をかけられたことがきっかけとなり、相撲に興味をもつようになった。北海高校、旭川南高校、留萌高校の各野球部、増毛高校(当時の全国優勝校)、天塩高校の各レスリング部(当時の全道準優勝校)から熱心に誘われていたが、全てを断り角界入りした。
初土俵〜十両で史上3人目の全勝優勝
1957年(昭和32年)1月場所、「竹美山」という四股名で出羽海部屋から初土俵を踏む。入門のために上京した際、船酔いした結果体重が激減し体重不足となって新弟子検査は不合格だったが、前の場所から始まったばかりの「自費養成力士制度」により前相撲に進むことが出来た(この制度は一年で廃止)。翌3月場所は計量の直前に水を大量に飮んで体重基準を通過する。あまりにも痩せており、「香車」というあだ名が付いたほどの軽量のため期待に反して出世は遅れ、当時あった「30場所で幕下に昇進できなければ廃業」の規約を、もう少しで適用されるところだった。当人もそれを知ってこのままではいけないと奮起したという。また入門当初は先輩力士や親方ではなく、部屋付きの行司の式守鬼一郎(後の24代木村庄之助)の付き人も務めていた。
1960年(昭和35年)には三段目にまで昇進していたが、同年の夏巡業で北海道に滞在中に、先輩力士からの半ばリンチに近いぶつかり稽古等の制裁を受け、急性虫垂炎と腹膜炎を併発する。それでもなお巡業に同行したものの、実家のある旭川市までたどり着いたところで体調が限界に達し入院、50日間に及ぶ入院生活を送った[1]。このため後援者から「験直しのため四股名を変えたらどうか」との勧めを受け、同年9月場所から「北の冨士」と改名している(ただし9月場所はまだ入院中で全休しており、実際にこの四股名で土俵に上がったのは次の11月場所から)。
1963年(昭和38年)3月場所で、ようやく新十両に昇進を果した。そして、1963年11月場所では十両で史上3人目の15戦全勝優勝を達成した[2]。
新入幕〜大関昇進
1964年(昭和39年)1月場所で新入幕。この場所では13勝2敗という現在でも破られていない新入幕力士最多勝の新記録[3]樹立という好成績で敢闘賞を受賞。この場所好成績を挙げた清國、若見山とともに「若手三羽烏」と呼ばれた。同年3月場所に新三役となる小結に昇進し、同年7月場所には新関脇。その取り口は「スピード相撲」と称された。
その後の1965年(昭和40年)5月には、柏戸や大鵬らと共に拳銃をアメリカのハワイから密輸入し、その後証拠隠滅のために廃棄していた事が発覚し書類送検されたが、相撲協会からの処分はなかった。
1966年(昭和41年)7月場所後で大関に昇進、大関昇進が決まった時はまさか自分が昇進するとは思っていなかったため何の用意もできておらず、使者を迎える際に必要な紋付や足袋も持っていなかった。紋付は兄弟子の佐田の山から、足袋は足の大きさが同じだった柏戸から借りて間に合わせた。大関昇進の直前3場所の成績は8勝7敗、10勝5敗、10勝5敗の計28勝17敗で、15日制が定着した1949年(昭和24年)5月場所以後では北葉山と並ぶ最低の数字である。昇進場所では1人大関(豊山)という事情があったとはいえ、大関昇進基準が今より甘かった当時でも意外な昇進といわれていた。
大関~横綱昇進
大関時代に九重親方(横綱・千代の山)が出羽海部屋からの分家独立を申し出て破門された際には悩んだ挙句、九重親方について行くことを選んだ。それまでは横綱・佐田の山がいたため2番目の気楽な立場に甘んじていたというが、独立すると部屋頭になった。九重親方が独立して最初の場所となる1967年(昭和42年)3月場所では、かつての兄弟子・佐田の山を倒して14勝1敗で初優勝、一緒に移籍した十両の松前山も十両優勝した。
初の綱取りが期待された翌1967年5月場所は5勝10敗、その次の1967年7月場所も7勝8敗と、大関の地位で2場所連続で負け越しを喫してしまう[4]。初の大関角番となった1967年9月場所は、四股名の「冨」を「富」と改めて臨み、10勝5敗で角番を脱した。だが、その後も暫くは10勝前後の成績に停滞し、その間に後輩大関である清國の横綱挑戦(結果として失敗に終わる)もあった。
1969年(昭和44年)11月場所、13勝2敗で16場所ぶり2回目の幕内優勝を果たす。場所後に相撲協会は、横綱昇進を横綱審議委員会に諮問したが、全委員の反対により却下されてしまった[5]。しかし翌1970年(昭和45年)1月場所を再び13勝2敗で連覇を達成、この場所後に玉乃島(横綱昇進後「玉の海」に改名)と共に、今度は横審委員から文句無しで横綱に昇進した。大関21場所での横綱昇進は、当時の最長記録だった[6]。
第52代横綱
土俵入りは雲龍型で行っていたが、1971年(昭和46年)8月の巡業でのみ例外がある。この時の巡業は、北海道を中心に巡ったA班(北の富士が参加)と、信越から東北地方を中心に巡ったB班(玉の海が参加)とに分かれて行われていたが、B班の八郎潟町での巡業で玉の海が虫垂炎を起こして入院してしまった。
その為、A班の岩見沢巡業を終えて帰京しようとしていた北の富士がB班に急遽参加して土俵入りを行うことになった。しかし現地にある玉の海の不知火型用の横綱は長すぎて雲龍型の締め方ができない。さらに玉の海の付き人が不知火型の綱締めしか知らなかった。このため、玉の海の綱を締めて、太刀持ち、露払い、化粧廻しまで一式借り、不知火型の土俵入りをした。巡業とはいえ、横綱として雲龍型、不知火型両方の土俵入りを行ったのはこのときの北の富士が初の例である[7]。
同時昇進した玉の海とは最大のライバルであったが、「島ちゃん」「北さん」と互いを呼びあう親友でもあった。歴代横綱の親睦会である横綱会に玉の海と並んで初出席した際、新横綱のしきたりとして一芸を披露することになっており、玉の海のギターに合わせて北の富士が歌を歌い、栃錦に「びっくりした。時代が変わったものだねえ」と言われた。
その玉の海が、同年9月場所後に再発した虫垂炎のため緊急入院。手術し経過は順調だったが、10月11日に術後併発した右肺動脈幹の血栓症により急性冠不全で急逝した。玉の海の死に、北の富士は人目をはばからず号泣した。玉の海と交互に優勝を重ね、「北玉時代」到来と呼ばれた矢先の出来事だった。翌11月場所に13勝2敗で8回目の優勝を連覇で遂げた千秋楽の11月28日は、ちょうど玉の海の四十九日の法要が行われ、北の富士は優勝パレードを後回しにしてこの席に駆けつけた。
取り口は立合いの搗ち上げから左四つ右上手を引いての速攻、前へ出ながらの投げあり外掛けありと躍動感ある取り口だった。引き技も早かった。また左脇が固く、右四つの型をもつ玉の海に右差しを許すことが殆どなかった。これは師匠千代の山譲りといわれる。外掛けも自信があり「俺の外掛けを内掛けに返したのは玉の海くらいだ」と言っていた。勢いに乗ると手がつけられないが、反面守勢にまわると脆く、無謀な首投げや二丁投げをみせてかえって体勢が悪くなることもあった。
横綱時代に11勝が続いた頃、「じっくり相撲を取ろう」あるいは「右四つもマスターしよう」と思ったが、結局断念している。足が長く腰高になることもあって取りこぼしも多く、連勝は21どまり、1971年5月場所に初の15戦全勝優勝を果たしたが翌7月場所に8勝7敗、その翌9月場所には再び全勝優勝ということもあった。当時大相撲中継の解説を務めていた初代若乃花の二子山親方は、この「ヌケヌケ」的な成績に苦言を呈した。玉の海の死後、1971年11月場所から1973年(昭和48年)1月場所まで、8場所にわたって一人横綱を務めた。これは当時、一人横綱の最長記録[8]。
北玉 全対戦一覧
北玉両雄の対戦は、1964年5月場所~1971年9月場所の45場所間に43回実現し、千秋楽結びの一番の対戦は8回、千秋楽両者優勝圏内の対戦が2回あった。 千秋楽(太字)は、千秋楽結びの一番を示す。
| 場所 | 対戦日 | 北の富士勝敗 (通算成績) | 玉の海勝敗 (通算成績) | 優勝力士 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1964年5月場所 | 千秋楽 | ●(0) | ○(1) | 栃ノ海 | 初対戦 |
| 1964年7月場所 | - | - | - | 富士錦 | 対戦なし。 |
| 1964年9月場所 | 7日目 | ●(0) | ○(2) | 大鵬 | |
| 1964年11月場所 | 4日目 | ○(1) | ●(2) | 大鵬 | |
| 1965年1月場所 | 14日目 | ○(2) | ●(2) | 佐田の山 | |
| 1965年3月場所 | 13日目 | ●(2) | ○(3) | 大鵬 | |
| 1965年5月場所 | 8日目 | ○(3) | ●(3) | 佐田の山 | |
| 1965年7月場所 | 11日目 | ○(4) | ●(3) | 大鵬 | |
| 1965年9月場所 | 3日目 | ●(4) | ○(4) | 柏戸 | |
| 1965年11月場所 | 9日目 | ●(4) | ○(5) | 大鵬 | |
| 1966年1月場所 | - | - | - | 柏戸 | 対戦なし。 |
| 1966年3月場所 | 2日目 | ●(4) | ○(6) | 大鵬 | |
| 1966年5月場所 | 14日目 | ●(4) | ○(7) | 大鵬 | |
| 1966年7月場所 | 千秋楽 | ○(5) | ●(7) | 大鵬 | |
| 1966年9月場所 | 千秋楽 | ●(5) | ○(8) | 大鵬 | 北の富士新大関 |
| 1966年11月場所 | 11日目 | ●(5) | ○(9) | 大鵬 | 玉の海(当時玉乃島)新大関 |
| 1967年1月場所 | 11日目 | ○(6) | ●(9) | 大鵬 | |
| 1967年3月場所 | 10日目 | ○(7) | ●(9) | 北の富士(1) | |
| 1967年5月場所 | 12日目 | ○(8) | ●(9) | 大鵬 | |
| 1967年7月場所 | 千秋楽 | ○(9) | ●(9) | 柏戸 | |
| 1967年9月場所 | 千秋楽 | ○(10) | ●(9) | 大鵬 | |
| 1967年11月場所 | 11日目 | ●(10) | ○(10) | 佐田の山 | |
| 1968年1月場所 | 11日目 | ●(10) | ○(11) | 佐田の山 | |
| 1968年3月場所 | 13日目 | ●(10) | ○(12) | 若浪 | |
| 1968年5月場所 | 13日目 | ●(10) | ○(13) | 玉の海(当時玉乃島)(1) | |
| 1968年7月場所 | 12日目 | ○(11) | ●(13) | 琴桜 | |
| 1968年9月場所 | 10日目 | ●(11) | ○(14) | 大鵬 | |
| 1968年11月場所 | 千秋楽 | ○(12) | ●(14) | 大鵬 | |
| 1969年1月場所 | 千秋楽 | ○(13) | ●(14) | 大鵬 | |
| 1969年3月場所 | 12日目 | ●(13) | ○(15) | 琴桜 | |
| 1969年5月場所 | 10日目 | ○(14) | ●(15) | 大鵬 | |
| 1969年7月場所 | 10日目 | ○(15) | ●(15) | 清国 | |
| 1969年9月場所 | 11日目 | ●(15) | ○(16) | 玉の海(当時玉乃島)(2) | |
| 1969年11月場所 | 千秋楽 | ○(16) | ●(16) | 北の富士(2) | |
| 1970年1月場所 | 千秋楽 | ●(16) | ○(17) | 北の富士(3) | 千秋楽北の富士1敗、玉の海(当時玉乃島)2敗で対戦 優勝決定戦は北の富士勝利。 |
| 1970年3月場所 | 千秋楽 | ○(17) | ●(17) | 大鵬 | 北玉両者新横綱 |
| 1970年5月場所 | 13日目 | ○(18) | ●(17) | 北の富士(4) | |
| 1970年7月場所 | 千秋楽 | ○(19) | ●(17) | 北の富士(5) | |
| 1970年9月場所 | 千秋楽 | ○(20) | ●(17) | 玉の海(3) | |
| 1970年11月場所 | 13日目 | ●(20) | ○(18) | 玉の海(4) | |
| 1971年1月場所 | 13日目 | ●(20) | ○(19) | 大鵬 | |
| 1971年3月場所 | 13日目 | ●(20) | ○(20) | 玉の海(5) | |
| 1971年5月場所 | 千秋楽 | ○(21) | ●(20) | 北の富士(6) | 千秋楽北の富士全勝、玉の海1敗で対戦 |
| 1971年7月場所 | 千秋楽 | ●(21) | ○(21) | 玉の海(6) | |
| 1971年9月場所 | 千秋楽 | ○(22) | ●(21) | 北の富士(7) |
- 両者横綱昇進以前の対戦成績(1970年1月場所まで)は、玉の海の17勝16敗。
- 両者横綱同士の対戦成績(1970年3月場所以降)は、北の富士の6勝4敗。
不振続きから復活、引退
しかし、その1971年11月場所中には暴力団関係者からの祝儀を受けたことが発覚し、協会からは戒告処分を受ける。事件そのものについても当時の文部省が警告文書を出すなど、土俵外のトラブルが発生した。又土俵の中でも、一人横綱の最初の場所こそ優勝を果たしたが、その後は不振が続いてしまう。
3連覇がかかり優勝争いの本命とみられていた1972年(昭和47年)1月場所では、初日いきなり大関・琴櫻との取組に敗れつまづくと、8日目の関脇・貴ノ花との取組では「つき手」か「かばい手」か、さらに貴ノ花は「生き体」か「死に体」かで大きな話題となった一番となる。立行司・25代木村庄之助は、北の富士の付いた手が「つき手」と見て貴ノ花に軍配を上げたが、大物言いの結果審判団は「かばい手」で貴ノ花は「死に体」と判断され、行司差し違えで北の富士の勝ちとなった。後年貴ノ花が亡くなった際、この取組が思い出に残る取組として多く取り上げられるようになると、北の富士はNHKのインタビューで「あの大相撲は本当は俺の負け。俺の手は『かばい手』では無く『つき手』で、しかも貴ノ花は『生き体』だった。認めたくないが認める。生涯に残る相撲」と涙ながらに振り返っている[9]。
その後10日目まで4敗、12・13日目と連敗する乱調ぶりで、14日目より慢性胃炎と高血圧低血圧症で途中休場となった(7勝7敗1休)。これにより、1967年9月場所から1971年11月場所まで続いた通算(幕内)連続勝ち越しは、26場所でストップしてしまう[10]。北の富士の不振で、この場所は千秋楽まで4敗が3人、それを5敗の力士5人が追うという大混戦となった。[11]。
翌3月場所も序盤から取り零しが続き、早々に優勝争いから脱落し、勝ち越しはしたが結局9勝6敗に終わる。さらに次の5月場所では8日目まで3勝5敗の絶不調、同場所中の翌9日目には「不眠症」という前代未聞の理由で不戦敗・途中休場という事態も起こした。休場するためには医師の診断書が必要だが、極度の不振とはいえ身体に悪いところはどこにも見当たらない。困った医師はそこで「夜は眠れるか?」と問い、北の富士は調子が上がらない悩みから「最近寝付きが悪い」と否定したので、「ならば不眠症だな」と診断書を書いた、というエピソードが本人の口から語られている。続く7月場所を右手中指の脱臼で全休したが、休場中にハワイへ旅行をしていたことが明るみに出て協会から注意を受けた。北の富士は直ちに帰国し、場所後の夏巡業には参加した。
同年9月場所は、3回目の全勝優勝を果たし完全復活をアピールする。それでも、一人横綱の8場所中で輪島(同5月場所)と高見山(同7月場所)が初優勝を果たし、貴ノ花と輪島が同時に大関昇進(同9月場所後)するなど、角界の世代交代が進む結果となった。
1973年1月場所後に琴櫻が横綱昇進、二人横綱となる。3場所連続休場後に迎えた1974年7月場所で初日に前頭筆頭旭國、2日目関脇大受と連敗して引退。幕内優勝回数は10回(うち全勝優勝は3回)。横綱であるにもかかわらず、引退土俵入りは行わなかった。
なお、大関・清國とは幕内の取組で52回も対戦したが、これは当時の歴代最多記録だった(現在は史上3位[12])。また2009年11月場所終了時点で、十両と幕内の双方で15戦全勝優勝を達成した唯一の力士である。
ファンからサインを求められる際に「何か言葉を入れてください」と頼まれても、「忍耐」「努力」とは書かなかったという。本人曰く「『努力』と書いて努力しなかったらみっともない」「琴櫻関ならぴったりくるけどわしが書いても似合わない」。これらの行動から、稽古嫌い、あるいはルーズな横綱と誤解されがちだが、実際には四股・股割りなどの基本は念入りに行っていたなど、相撲の基礎はおろそかにしておらず、決して稽古嫌いではなかった。
現役当時から栃王山とキャバレー「月世界」を共同経営し、札幌や名古屋で相撲料理店「ちゃんこ北の富士」を経営するなど熱心に副業を手がけていた。更に、低音を生かした歌声が評価されてレコード吹き込みを勧められ、1967年(昭和42年)に発売した『ネオン無情/チャンコ花唄』は50万枚を売り上げた[13][14]。その後も何枚かレコードを出して、1969年(昭和44年)10月には当時の人気歌番組「夜のヒットスタジオ」にも「歌手として」出演している(曲は『君を慕いて』)。しかし、大関で成績がやや停滞していた時期と重なったので、天竜三郎に「本職は歌手で相撲は内職だろう」と批判されたこともあり、横綱昇進後は歌手との兼業を控えるようになった(2007年、増位山(三保ヶ関親方)が28年振りにリリースした新曲、『水玉のスカーフ』のカップリング曲、『女房に捧ぐ』では、増位山とのデュエットで久々に歌声を披露している[15])。
現役当時、様々なニックネームがあった。前述の通り自ら歌唱したレコードを発売し、当時では珍しかったボウリングやゴルフ、サーフィンを嗜み、「根性という言葉は嫌い」と宣言していたことから「現代っ子横綱」。1970年9月場所から翌1971年3月場所まで4場所続けて11勝4敗という結果を揶揄され、当時の人気深夜番組「11PM」に例えて「イレブン横綱」(横綱での勝率も11勝4敗に近い数字である)、その他にも派手な遊びっぷりから新聞記者に付けられた「プレイボーイ横綱」「夜の帝王」などが有名である。北の富士も、「俺ほど色んな呼ばれ方をされた横綱はいなかったんじゃないかな。」と振り返っている。
親方として
1974年7月場所中に現役引退、年寄井筒(12代)を襲名。引退披露興行では、断髪後に白のタキシード姿で登場し自らの持ち歌を披露して会場・関係者を驚かせた。短期間に40kg近いダイエットを敢行し、ダイエット後のスリムな容姿でこれまた周囲を驚かせた。現在でも元力士とは思えぬ体型を維持している。
井筒部屋(現在の部屋と別系統)を興したが、1977年10月の元横綱千代の山没後に部屋合同の形で九重部屋を継いだ。その後、先代から引き継いだ弟子千代の富士を1981年に第58代横綱に育て上げ、のちに昭和の大横綱として大成させた。また1987年には北勝海を第61代横綱に育成、ほか孝乃富士・巴富士らを小結まで昇進させた。特に千代の富士とのやりとりは漫才の掛け合いのように軽妙で、しきたりの多い角界には珍しく映ったこともあり、千代の富士が一気に横綱まで駆け上がった際には記事の題材によく取り上げられていた。一方で、前妻と離婚し不惑を超えてから元ホステスと再婚したり、交友関係や北天佑の弟の素行不良に対する制裁を指揮していた疑惑をかけられるなど、スキャンダルで紙面を賑わす事も多かった。なお千代の富士の大関昇進時の伝達式の時の九重は独身であったため、千代の山夫人に同席をお願いしている。
1981年7月場所後、千代の富士が横綱昇進した時には、「ウルフ(千代の富士のあだ名)、辞める時はスパッと潔く、綺麗に辞めような。チンタラチンタラと横綱を務めるんじゃねえぞ」と、千代の富士に引き際の美学を説いた[16]。当時の千代の富士はこの言葉に面食らいながらも、1991年5月場所限りで引退した時は正にこの言葉通りの、潔いものであった。また1992年5月場所直前には、まともに相撲が取れる状態ではないのに出場を決意した横綱北勝海に対して、既に九重部屋を千代の富士に譲っていたにも関わらず、北の富士は前師匠として北勝海を諭し、北勝海に現役引退を決意させたと言われている。
1992年には引退したばかりの陣幕親方(千代の富士)に九重部屋を譲って、年寄18代陣幕に名跡交換[17] 、自身はその後八角部屋に移籍した。
審判部副部長(役員待遇)時代に不祥事を起こし、一度委員(無任所)に降格されながらも審判部副部長に返り咲き、理事昇格後は長らく審判部長を務めた。その後は新設された広報部長を務めた。
相撲協会退職後・解説者として
1998年に相撲協会理事選の候補から外されたことで協会を退職し、NHKの相撲解説を務めている。2002年に弟子である千代の富士、北勝海の2横綱を従えての還暦土俵入りは行なわれたが、既に相撲協会から退職していたため国技館が使えず、都内のホテルを借りての披露となった。
大関以上の経験者がNHK専属相撲解説者になるのは、テレビ放送開始以来初めてである。解説者としては歯に衣着せぬ切れ味鋭く、かつわかりやすい解説が好評を博しており、同相撲解説者の舞の海秀平らと共に大相撲中継の名物となっている。
2010年より東京中日スポーツにて自伝「はやわざ御免」を連載中。
- 自身が「黄金の引き足」と言われる程、引き技の切れが鋭かった事(ただし「黄金の…」は自称だったともいわれる)から、千代大海、千代天山、北勝力ら、弟子筋の力士の引き技による自滅などふがいない相撲に対しては容赦ない叱責が飛ぶこともしばしば。千代天山が引き技で敗北した際、「げんこつをあげたくなるくらい悪い相撲」と評したことは好例である。このとき北の富士は、取組前までは千代天山の素質などを大いに褒めていた。弟子筋の力士に対するコメントは、引き技に関するもの以外でも辛いことが多い。
- 2008年11月場所では、大関角番では無かった千代大海に対して、取組直前に「どうせ今場所角番でしょ?」と言い放つ。その北の富士の大きな勘違いにNHKアナウンサーは絶句、「さすがにそれは失礼だと思いますが…」と言われていた。
- 2004年9月場所千秋楽で北勝力が土佐ノ海に四つ相撲で敗れた。この場所北勝力は終盤5連敗で5勝10敗。北の富士は「土佐ノ海は四つ相撲でもそれなりに取れるけど北勝力は四つに組んだら何にもならない。自分から四つに組んでいるようにも見える。どうしようもないねえ〜。こんなんじゃあ〜。」と酷評。実況していた刈屋富士雄アナウンサーも、「そうですか。」としか言えなかった。北勝力が勝っても「まあ、今日は良かったんじゃないですか。」程度。負ければ北勝力の相撲を切り捨てている。ただ、2010年初場所で、北勝力が大関の琴光喜を倒した時には絶賛していた。
- 魁皇にはこれまで何度も横綱昇進の期待を裏切られたせいか、2006年7月場所では序盤好調にもかかわらず「期待していませんから」と評していた。その北の富士の予感通り、魁皇は場所終盤で失速、結局9勝6敗に終わった。ただし、その後長く大関を務めていることには敬意を評しており、優勝争いにほとんど絡まない事に関して魁皇に限っては非難しなくなり、「一代年寄をあげてもいい」とまで発言した(ただし後日その話題を振られると、「そんなこと言いましたっけ?」と述べた)。
- 後にNHK総合テレビで放送された貴ノ花の追悼番組では北の富士が進行役を務めている。
- 正面解説に北の富士、向正面解説に舞の海が担当をしていたある場所。舞の海が真面目に喋っている時、北の富士が自分の出番じゃないからと、大きなアクビをこれ見よがしにしていた。それを見ていた舞の海は、悪戯してやろうと思いつき「それは北の富士さんに聞いたほうがいいんじゃないですか?」と唐突に話を振って慌てさせ、中継終了後に「急に話しかけるんじゃないよ!」と叱られる。しかし数日後の中継では「それは僕よりも舞の海さんの方が知ってるでしょ」と同じ手口の仕返しをして喜んでいた。
- 2004年9月場所初日では、国技館内限定FMのゲストKONISHIKIが、スナック菓子を食べながら解説をしている姿がカメラに映し出され、北の富士「(KONISHIKIに対し)オイオイ、太るよ!」、藤井康生NHKアナウンサー「いや、もう太ってますが・・・」というやりとりがあった。しかもその後藤井アナが「今でも280kgあるそうで」と引退後のKONISHIKIダイエット企画がリバウンドに終わったことをばらしてしまった。
- 藤井康生アナとのコンビの際、時に藤井アナが不用意な一言を実況中に述べた際には、すかさず忠告または注意を促す発言を行う場合も多い。
- 白鵬、把瑠都、鶴竜には、期待を込めて熱心に見守っている。特に白鵬に関しては十両〜新入幕の頃から、高い素質と恵まれた身体能力に目を付け、「大鵬二世」「いずれは横綱になる逸材」と予言していた。
- 粋なおじさんといった感じの着物姿で登場するかと思えば、いかにも往年の現代っ子横綱健在といった感じの奇抜な色のスーツで登場することもあり、独特のファッションセンスを誇る。しかし2007年9月場所頃からは、着物姿での登場が多い。
- 2007年9月場所千秋楽では、白鵬対千代大海の結びの一番で、「まぁ、白鵬が負けるとは思えないですけどねぇ。なんならあれですか、坊主にでもしましょうか?」といった発言をしたことがある。[18]
- 2008年9月場所のある取組の終了後、その相撲について実況アナウンサーから質問されたが「ご、ごめん。ちょっ、ちょっとよく見てなかった。」と解説者としてはあるまじき返答。それを聞いた実況アナウンサーは、「(当時大相撲力士大麻問題が大きく世間を騒がしていたのを利用して)角界の将来のことを考えていたのでしょうか。」とうまくフォローしていた。
- とある取組の終了後、花道のリポートをしているアナウンサーが、負けた力士の付き人の花道での様子を伝え、「(負けた力士の付き人が、その取り組みについて)モニターを見ながら、「ああ、足が出てない…」と言ってました。」とリポートすると、それを聞いた北の富士は、「誰ですか、その付き人って?親方みたいなことを言う付き人ですね。」と冗談とも本気ともとれる口調で突っ込んでいた。
- 2009年1月場所8日目、正面ゲストにかつて土俵上で激しくしのぎを削った輪島が登場した際に、ラジオ中継の解説をしている姿がテレビに映されたが、帽子にジャンパーというきわめてラフな格好であった。輪島に関しては「岩みたいだった」という表現で当時の強さを語った。
- 2009年3月場所12日目、関脇把瑠都が栃煌山を吊り出して破った相撲の後のコメント。「栃煌山は吊られっ放しじゃなくてもっと抵抗しないと。鮭じゃないんだから」「お歳暮の鮭でももうちょっと恰好よく釣られてるよ」。
- 2009年3月場所12日目、高見盛が安美錦に勝利した際、安美錦が膝を痛めたことに高見盛がいつものように意気揚々と引き上げず心配そうにしている姿を「相手に気遣うことも出来て見ていて清清しいね」と絶賛。毒舌だけじゃなく素直に褒めることもあるのが解説者として人気の要因として考えられる。
- 2009年3月場所千秋楽、248kgの山本山が登場した際、山本山が13日目豊ノ島戦で相手の機敏な動きについていき勝利したことに対して「あれはただのデブじゃないと思いましたね」。
- 2009年9月場所初日、日馬富士の取り組みの際、日馬富士の体重について、もう少し体重が増えればもっと強くなるだろうという話になった直後のコメント、「日馬富士は、今25歳?この間会った時、「27・8歳になったらもう少し体重が増えてくるよ。」と言っておきましたよ。まぁ、何の根拠もないんですけどね。」
- 旭川市の観光大使である。
- 2009年9月場所千秋楽、把瑠都が5大関全員から白星をあげるという快挙を成し遂げたのに殊勲賞の該当者がいなかったのに対し、「まぁ今の大関達にはそれだけの価値が無いって事ですよね。弱いから。」と言い放った。それに対しアナウンサーは「確かに元気の無い大関もいましたが、元気のある大関もいましたので…」とフォローしていた。
- 2009年9月場所千秋楽、朝青龍が優勝することが奇跡だと予想していたことから、向正面解説の舞の海へコメント。「まんまとしてまたやられたな、舞の海さん」「明日はふたりで床屋行くか?」
- 2009年11月場所、10日目に朝青龍との取組が組まれた大関角番で2勝7敗だった千代大海に対し、まだ取組前にも関わらず「まぁこうして引導渡してくれるのが横綱でよかったんじゃないですか?」と言い放った。これは潔さを美学とする北の富士ならではの発言である。
- 2010年7月場所は、場所前に発覚した大相撲野球賭博問題により、NHKテレビでは史上初の大相撲生中継が中止となる。その余波を受け、NHK解説者の北の富士は結局名古屋場所には現地へ一度も足を運ぶ事も無く、ずっと東京に滞在していたという(同じく舞の海も名古屋場所は解説せず)。翌2010年9月場所は、大相撲生中継を再開する事が決まったが、その件について北の富士は「職を失わないでよかったよ」「(名古屋場所中は)中継がないから、夕方4時ごろから酒を飲んで酔っぱらっていたよ」と苦笑いしながらコメントしていた[19]。
- 2010年7月場所11日目、 佐田の海戦で左ひざをケガした巨漢力士・体重265Kgの山本山を病院へ搬送しようとするが、用意したストレッチャーは大きさ・強度が足りずに断念。資材を運ぶ別の輸送車での搬送も検討されたため、その後救急車どころか消防車までも到着、救急隊員は12人も駆け付ける騒ぎとなった。この光景をテレビで見たという北の富士は、雑誌『NHK大相撲中継』の中で「あれじゃ『悲劇』じゃなくて『喜劇』ですよ」とコメントした。
「北の富士賞」
自身の達成以来十両での全勝優勝が長らく出なかった[20][2]ため十両で終盤まで全勝の力士がいると「全勝優勝したら僕からも何かやりたいね」と言っていた。2006年3月場所に把瑠都が達成、この際に実況のアナウンサーにより、全勝優勝祝いが「北の富士賞」として紹介された。把瑠都の全勝優勝インタビューの際に、アナウンサーが「北の富士関は横綱まで行きましたが、把瑠都関はどこまで行きたいですか?」と言った時に「横綱、横綱」と発言するなど横綱昇進を期待している。
改名歴
四股名
- 竹沢勝昭(たけざわ かつあき)1957年1月場所 - 1959年3月場所
- 竹美山勝明(たけみやま かつあき)1959年5月場所 - 1960年7月場所
- 北の冨士勝明(きたのふじ かつあき)1960年9月場所 - 1967年7月場所
- 北の富士勝明(きたのふじ -)1967年9月場所 - 1968年1月場所
- 北の富士洋行(- ひろゆき)1968年3月場所[21]
- 北の富士勝昭(- かつあき)1968年5月場所 - 1971年1月場所
- 北の富士勝晃(- かつあき)1971年3月場所 - 1972年5月場所
- 北の富士勝昭(- かつあき)1972年7月場所 - 1974年7月場所(現役引退)
年寄変遷
- 井筒勝昭(いづつ かつあき)1974年7月9日 - 1977年11月4日
- 九重勝昭(ここのえ -)1977年11月4日 - 1992年4月1日
- 陣幕純樹(じんまく じゅんき)1992年4月1日 - 1994年11月6日
- 陣幕克昭(- かつあき)1994年11月6日 - 1998年1月31日(退職)
成績
通算成績
- 通算成績:786勝427敗69休
- 幕内成績:592勝294敗62休 勝率.668
- 横綱成績:247勝 84敗62休 勝率.746
- 幕内在位:64場所
- 横綱在位:27場所
- 大関在位:21場所
- 三役在位:11場所(関脇9場所、小結2場所)
- 連勝記録(幕内):21(1971年9月場所初日~1971年11月場所6日目)
- 年間最多勝:3回
- 1969年(63勝27敗)、1970年(75勝15敗・玉の海と同数)、1971年(73勝17敗)
- 連続6場所勝利:78勝(1969年9月場所~1970年7月場所)
- 通算(幕内)連続勝ち越し記録:26場所(現在歴代7位タイ、当時玉錦と並び歴代2位タイ・1967年9月場所〜1971年11月場所)
- 幕内連続2桁勝利記録:11場所(1969年9月場所~1971年5月場所)
- 幕内連続12勝以上勝利:6場所(1969年9月場所~1970年7月場所)
各段優勝
- 幕内最高優勝:10回(うち全勝3回)
- 同点:1回
- 次点:3回
- 十両優勝:1回(1963年11月場所)
三賞・金星
幕内での場所別成績
| 一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
|
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1957年 (昭和32年) |
(前相撲) | 序ノ口 2–1 |
東 序二段 #131 3–5 |
x | 東 序二段 #123 4–4 |
西 序二段 #104 4–4 |
| 1958年 (昭和33年) |
東 序二段 #91 6–2 |
西 序二段 #58 1–7 |
西 序二段 #76 6–2 |
東 序二段 #39 3–5 |
西 序二段 #46 2–6 |
西 序二段 #61 5–3 |
| 1959年 (昭和34年) |
東 序二段 #48 6–2 |
東 序二段 #16 6–2 |
東 三段目 #93 6–2 |
東 三段目 #65 2–6 |
西 三段目 #78 3–5 |
西 三段目 #83 3–5 |
| 1960年 (昭和35年) |
西 三段目 #94 7–1 |
西 三段目 #51 4–4 |
西 三段目 #48 4–4 |
東 三段目 #47 2–5 |
西 三段目 #67 休場 0–0–7 |
西 三段目 #102 6–1 |
| 1961年 (昭和36年) |
東 三段目 #62 5–2 |
東 三段目 #27 4–3 |
西 三段目 #14 5–2 |
西 幕下 #81 6–1 |
西 幕下 #54 2–5 |
東 幕下 #70 5–2 |
| 1962年 (昭和37年) |
西 幕下 #45 5–2 |
西 幕下 #32 4–3 |
西 幕下 #29 6–1 |
東 幕下 #11 3–4 |
西 幕下 #12 3–4 |
西 幕下 #15 6–1 |
| 1963年 (昭和38年) |
西 幕下 #4 6–1 |
西 十両 #18 9–6 |
東 十両 #11 10–5 |
東 十両 #6 4–11 |
東 十両 #17 11–4 |
西 十両 #5 15–0 |
| 1964年 (昭和39年) |
東 前頭 #10 13–2 敢 |
東 小結 4–11 |
東 前頭 #5 9–6 技 |
西 関脇 9–6 |
東 関脇 6–9 |
東 前頭 #1 10–5 技 |
| 1965年 (昭和40年) |
西 関脇 8–7 |
西 関脇 5–10 |
東 前頭 #3 8–7 ★ |
東 前頭 #2 8–7 |
東 小結 10–5 |
東 関脇 9–6 |
| 1966年 (昭和41年) |
東 関脇 10–5 殊 |
東 関脇 8–7 殊 |
東 関脇 10–5 技 |
東 関脇 10–5 |
西 大関 10–5 |
東 大関 10–5 |
| 1967年 (昭和42年) |
東 大関 10–5 |
東 大関 14–1 |
東 大関 5–10 |
西 大関 7–8 |
西 張出大関 10–5[22] |
東 大関 8–7 |
| 1968年 (昭和43年) |
東 張出大関 10–5 |
西 大関 9–6 |
西 張出大関 10–5 |
東 張出大関 10–5 |
東 張出大関 8–7 |
西 大関 11–4 |
| 1969年 (昭和44年) |
西 大関 11–4 |
西 大関 9–6 |
東 張出大関 9–6 |
西 大関 9–6 |
東 張出大関 12–3 |
西 大関 13–2 |
| 1970年 (昭和45年) |
東 大関 13–2[23] |
東 横綱 13–2 |
西 横綱 14–1 |
東 横綱 13–2[24] |
東 横綱 11–4 |
東 張出横綱 11–4 |
| 1971年 (昭和46年) |
東 張出横綱 11–4 |
東 張出横綱 11–4 |
東 張出横綱 15–0 |
東 横綱 8–7 |
西 横綱 15–0 |
東 横綱 13–2 |
| 1972年 (昭和47年) |
東 横綱 7–7–1[25] |
東 横綱 9–6 |
東 横綱 3–6–6[26] |
東 横綱 休場[27] 0–0–15 |
東 横綱 15–0 |
東 横綱 10–5 |
| 1973年 (昭和48年) |
東 横綱 10–5 |
西 横綱 14–1 |
東 横綱 9–6 |
東 張出横綱 14–1[28] |
西 横綱 8–3–4[29] |
東 張出横綱 10–5 |
| 1974年 (昭和49年) |
東 張出横綱 3–6–6[30] |
東 張出横綱 休場[31] 0–0–15 |
東 張出横綱 休場[32] 0–0–15 |
東 張出横綱 引退 0–3–0 |
x | x |
| 各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 十両・幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
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関連項目
大相撲
出身地
人物
企業
- ちゃんこ北の富士
- キャバレー 月世界
著作・参考文献
- 速攻管理学(自書、日之出出版、1988年1月)ISBN4-89198-059-1
- 土俵で燃えろ 北の富士一代(自書、東京新聞出版局、1991年11月)ISBN-978-4-80830-417-1
- 土俵愛 国技・大相撲復興のための四十八手 緊褌一番(きんこんいちばん)(自書、日之出出版、2009年12月)ISBN978-4-89198-131-0
脚注
- ^ 東京中日スポーツ・2010年6月24日付 「はやわざ御免-わが相撲人生」
- ^ a b 15日制が定着した1949年5月場所以降、十両での15戦全勝はほかに栃光・豊山・把瑠都の3人がいる。全勝優勝を達成した全員が、その後大関に昇進している。
- ^ のちに北の冨士が初優勝した1967年3月場所で陸奥嵐がタイ記録を樹立。
- ^ 当時は大関の地位で「3場所連続」負越で関脇へ陥落となっていた。大関で「2場所連続」負越で関脇陥落にルールが変更したのは、1969年7月場所から。
- ^ その後横綱審議委員会で横綱昇進を見送られた力士は、それから25年経った1994年9月場所後の貴乃花がいるが、貴乃花も同年11月場所後に横綱昇進を決めている。
- ^ 現在は琴櫻(1967年11月場所〜1973年1月場所)・武蔵丸(1994年(平成6年)3月場所〜1999年(平成11年)5月場所)の32場所。
- ^ のちに不知火型の土俵入りをしていた白鵬が宇佐神宮の奉納土俵入りで雲竜型の土俵入りを行ったことがある
- ^ 現在は朝青龍(2004年(平成16年)1月場所〜2007年(平成19年)5月場所)の21場所。
- ^ その後日本相撲協会には貴ノ花が勝っていたと抗議が殺到。さらにこの一番を裁いた木村庄之助は進退伺いを協会に提出し出場停止の処分を受けたが、翌3月場所前に廃業した。
- ^ 1972年1月場所であと1勝して勝ち越せば、当時の連続勝越記録の第1位だった玉の海の27場所と並んでいた。
- ^ 加えて大麒麟、前の山の二大関がそれぞれ全休、途中休場、琴櫻と清國の大関同士の取組が14日目にあったため、千秋楽結びの一番に清國と前頭5枚目栃東の平幕力士が相撲を取る事態となった(千秋楽では琴櫻と関脇三重ノ海の対戦も組まれたが、番付上は清國が大関上位であったため、琴櫻・三重ノ海戦は結び前となった)。栃東が敗れれば10勝5敗の力士8人による優勝決定戦となるところであり、栃東が勝って初優勝したが11勝4敗の成績は15日制となった1939年5月場所以来最低であった(1944年5月場所から1949年1月場所まで15日制ではなかった。15日制に戻り定着したのは1949年5月場所から。その後1996年11月場所に武蔵丸が5人での優勝決定戦の末11勝4敗で優勝している)。
- ^ 1位は武蔵丸対貴ノ浪戦の58回、2位は魁皇対千代大海戦の54回。
- ^ 相撲人名鑑(北の富士 勝昭)(2008年9月19日閲覧)
- ^ 北の富士さん一喝!「高砂が悪い」…朝青龍問題、スポーツ報知、2007年8月12日。
- ^ 『水玉のスカーフ』『女房に捧ぐ』は作詞・内館牧子、作曲・船村徹で、二人とも横綱審議委員会メンバーである。
- ^ 北の富士よりも以前、元横綱栃木山の春日野親方が、栃錦の横綱昇進時にこれと同様の言葉を語っている。
- ^ あまりに早い名跡交換だったためか、新九重の千代の富士がその事実を失念してしまい、色紙にサインする際に陣幕とサインしそうになったというエピソードが大相撲放送の解説中で語られている。
- ^ 1994年の役員改選で新設の広報部長に就任したが、その頃、頭部に動脈瘤が発見され手術を受けている。審判部を離れたことで解説者としてテレビに出ることとなったが、手術の際に剃髪したため、角刈りに近い短髪姿で登場したことがある。
- ^ NHK中継再開 白鵬「世界中のファンが喜ぶ」スポニチ
- ^ 十両の好成績力士は幕内と対戦させられるため、優勝は11勝4敗ないし10勝5敗といった水準に留まることが多い。平成期には十両陣が総崩れで9勝6敗力士8人によるトーナメントでの十両優勝決定戦が行われたこともある(2001年7月場所。優勝者は武雄山)。この時は優勝者なしにすべきだなどの意見も出たほどであった。好成績の十両優勝をした大善、湊富士などでも12番、13番に留まっており14勝、全勝は極めて珍しいことである。十両で12番以上勝つということはそれだけで傑出した実力の証といえる。
- ^ 姓名判断で勝明の名では交通事故に遭うと言われた際、「ならせめて海外旅行に行きたいなあ」と思って「洋行」に改名したといわれる。
- ^ 1969年5月場所以前の「3場所連続負け越しで大関陥落」の制度の下での大関角番
- ^ 玉乃島と優勝決定戦
- ^ 前乃山と優勝決定戦
- ^ 神経性胃炎・高血圧・慢性腸炎により途中休場。
- ^ 不眠症により途中休場。
- ^ 右手中指第 2関節脱臼及び捻挫
- ^ 琴櫻と優勝決定戦
- ^ 左第11肋骨骨折により途中休場。
- ^ 高血圧により途中休場。
- ^ 右膝関節捻挫により休場。
- ^ 右膝関節捻挫により休場。
外部リンク
- 関取名鑑 北の富士勝昭(大相撲 記録の玉手箱より)
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