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千代の山雅信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ファイル:Chiyonoyama Masanobu.jpg
千代の山雅信の銅像

千代の山雅信(ちよのやま まさのぶ、1926年6月2日 - 1977年10月29日)は大相撲力士で第41代横綱。本名杉村昌治。身長192cm。出羽海部屋所属。

目次

人物

現役時代

北海道松前郡福島町に生まれる。大横綱双葉山への入門を希望していたが双葉山に勝てる男になるためにと言われて1942年昭和17年)出羽海部屋に入門。最初から横綱を期待され、入門が新聞記事になったり、戦時中、戦後における食糧難の時代に、当時の6代出羽海(元3代目両國)親方の方針でただ一人、腹一杯の食事を与えられるほどの逸材だった。双葉山の引退のほうが早くて顔を合わせることはできなかったが新入幕の昭和20年(1945年)11月場所には何と10日間を全勝、横綱羽黒山も全勝で、当時の番付上位優勝制度のため優勝は逸したが、恐るべき力士として印象付けられたことは間違いない。国技館開館(1909年6月)以降では新入幕の土つかずは1914年大正3年)5月場所の前頭14枚目両國1917年5月場所の同13枚目大潮以来3人目であった[1]。一躍新時代のヒーローとして注目を集めた。翌場所4日目に初めて負けるまで13連勝を記録、これは未だに破られていない。

昭和24年(1949年)10月場所新大関で13勝2敗の初優勝、これは北海道出身力士として初めての優勝だった。翌場所も12勝3敗で連覇を達成するが、横綱前田山のシールズ事件をはじめ当時の横綱陣への批判が渦巻いていたあおりを受けて横綱昇進は見送られた。昭和26年(1951年)5月場所14勝1敗で3度目の優勝、ようやく横綱となった。初めての北海道出身者・横綱審議委員会推薦・相撲協会推挙による横綱である。また、千代の山以降連覇して横綱になれなかった大関は出ていない。

昭和28年(1953年)には成績不振で休場の折に横綱返上を申し出たりもしたが、当時千代の山は横綱・大関のなかで一番若かったこともあって協会は再起に期待の方針を出し横綱返上は認めなかった(これ以降、返上・降格を申し出た横綱は存在しない)。昭和30年(1955年)には連覇で復活、昭和32年(1957年)1月場所には全勝優勝を達成した。

新弟子の頃膝に重症の関節炎を患い骨に穴を開けてを抜いたそうでこの影響は最後までついてまわり一時代を築けなかった。独走すると強いが混戦はどうも苦手だったらしく昭和33年(1958年)には僅かな差で優勝を逸すること3回(3場所連続)で結局昭和32年1月場所の全勝優勝が最後の賜杯になった。

優勝は6回だが実質7回と言える。全勝2回。得意は突っ張りと右四つ、寄り。脇が堅く、相手に容易に左を差させなかった。突っ張りの強烈さは並外れており、稽古台にされた栃錦の歯ががたがたになったほどである。非常に稽古熱心でもあった。192cm120kg(112kgしかなかったとも)の細身ながら筋骨隆々とした体型で「鉄骨のやぐら」と称された。

引退後

昭和34年(1959年)1月場所で引退して年寄九重を襲名した。千代の山が土俵を去った後、番付三役に出羽海部屋の力士の四股名が消えた。明治33年(1900年)1月場所に常陸山が関脇に昇進してから60年間138場所にわたり、出羽海部屋は役力士を欠かしたことが無かった。その伝統が途切れたのである。

昭和35年(1960年)に師匠7代出羽海(元横綱常ノ花)が亡くなると後継者候補として名乗りを上げる。師匠は亡くなる間際に九重に継がせたかったという遺言を遺したともいわれたが確証がなく、元平幕力士出羽ノ花武藏川親方が継承(8代出羽海)。当時次の出羽海は九重だと本人も周囲も思っていたが、後に当時大関の佐田の山が出羽海の婿養子となり、しかも8代出羽海が部屋の土地建物を全て佐田の山名義に書き換えたことで自分が継承することはないと判断、常陸山以来の分家独立不許という不文律に悩みながら申し出ると弟子13名中10名までを連れて独立することを許されたが、弟子もろとも一門から破門されて髙砂一門へと移籍することになった。

一説には独立を考えた時は既に高砂に話をつけてあったという。また当時最高の腕を誇った床山が九重の所属になった。この時独立を許された背景には先代(常ノ花)の遺族が九重親方の味方に回ったという事情もあった。

独立して最初の場所である昭和42年(1967年)3月場所に弟子の大関北の冨士が初優勝、十両でも弟子の松前山が優勝した。その後、北の富士を横綱に、独立時の弟子から北瀬海関脇に育て、出身地も卒業した小学校も同じ千代の富士をスカウトし、幕内力士にはしたが、大成を見ることなく昭和52年(1977年10月29日肝癌のため51歳で没。

千代の山の死後、九重部屋は独立して井筒部屋を興していた北の富士が両部屋合同の形で継承した。死去前年の昭和51年(1976年)に協会の役員待遇に昇格した。独立→破門の際に監事から委員への降格を余儀なくされていたが、昇格は理事長として2期目を迎えたかつての稽古相手春日野(栃錦)の人情によるものだと言われる。

千代の山の死から3年以上経過した昭和56年(1981年)、千代の富士は同年1月場所後に大関昇進、同年7月場所後に横綱昇進をそれぞれ果たす。なおその昇進伝達式の際、通常は力士本人と師匠夫妻が揃って出席するが、千代の富士の場合当時の九重親方だった元横綱北の富士の配慮により、先代の九重親方である千代の山の未亡人が、北の富士と共に同席していた(なお千代の富士の大関昇進時の元横綱北の富士は当時独身だった)。

師匠譲りの達筆で知られ、「九重部屋」の初代看板は千代の山自らの手書きによるものだった。現在この看板は、故郷である北海道福島町の横綱千代の山・千代の富士記念館に展示されている。

主な成績

通算成績

  • 通算成績:407勝158敗2分147休
  • 幕内成績:366勝149敗2分147休 勝率.711
  • 横綱成績:239勝103敗1分137休 勝率.699
  • 幕内在位:46場所
  • 横綱在位:32場所
  • 大関在位:6場所
  • 三役在位:4場所(関脇4場所、小結なし)

各段優勝

  • 幕内最高優勝:6回(全勝優勝1回)
同点:1回(全勝)
次点:8回
  • 十両優勝:2回(1944年11月場所、1945年6月場所)

三賞・金星

幕内での場所別成績

千代の山雅信
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1945年
(昭和20年)
x x x x x 東 前頭 #10
10–0
 
1946年
(昭和21年)
x x x x x 東 前頭 #1
10–3
 
1947年
(昭和22年)
x x 西 関脇
0–0–10
 
x 西 前頭 #1
8–3
x
1948年
(昭和23年)
x x 西 関脇
4–6
(引分1)

 
x 西 前頭 #1
8–3
x
1949年
(昭和24年)
西 関脇
8–5
 
x 東 関脇
12–3
x 西 大関
13–2
 
x
1950年
(昭和25年)
東 大関
12–3
 
x 東 大関
9–6
 
x 東 大関
11–4
 
x
1951年
(昭和26年)
東 大関
8–7
 
x 東 大関
14–1
 
x 西 張出横綱
9–6
 
x
1952年
(昭和27年)
西 張出横綱
13–2
 
x 西 横綱
10–5
 
x 西 横綱
11–4
 
x
1953年
(昭和28年)
東 横綱
4–4–7
 
東 張出横綱
1–5–9
 
東 張出横綱
0–0–15
 
x 西 張出横綱
11–4
 
x
1954年
(昭和29年)
西 横綱
10–5
 
東 張出横綱
10–5
 
西 横綱
12–3
 
x 東 横綱
12–3
 
x
1955年
(昭和30年)
東 横綱
12–3
 
東 横綱
13–2
 
東 横綱
8–7
 
x 東 張出横綱
10–4
(引分1)

 
x
1956年
(昭和31年)
西 横綱
4–1–10
 
西 張出横綱
8–7
 
西 張出横綱
11–4
 
x 東 横綱
0–0–15
 
x
1957年
(昭和32年)
西 張出横綱
15–0
 
東 横綱
10–5
 
東 張出横綱
0–0–15
 
x 西 張出横綱
5–8–2
 
西 張出横綱
0–0–15
 
1958年
(昭和33年)
西 張出横綱
12–3
 
東 横綱
12–3
 
東 横綱
12–3
 
西 横綱
0–0–15
 
東 張出横綱
1–4–10
 
東 張出横綱
0–0–15
 
1959年
(昭和34年)
東 張出横綱
引退
3–3–0
x x x x x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 十両・幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

脚注

  1. ^ 両國は9勝1休、大潮は9勝1預だったので、皆勤しての全勝は千代の山だけとなる。両國1休の経緯については両國の項を参照。
ファイル:Kunisada Sumo Triptychon c1860s.jpg この「千代の山雅信」は、相撲に関連した書きかけ項目です。記事を加筆・訂正してくださる協力者を求めています(PJ相撲)。