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南号作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

南号作戦(なんごうさくせん)は、太平洋戦争大東亜戦争)末期に日本海軍の実施した資源輸送作戦のこと。1945年昭和20年)1月下旬から3月下旬まで、シンガポール方面から日本本土へ向けて、10隊以上の護送船団を航行させたが、その多くは途中で撃沈された。

目次

背景

太平洋戦争中、日本は、石油鉄鉱石天然ゴムなど様々な資源を、南シナ海を経由して南方の占領地から本土へ海上輸送していた。特にシンガポールと日本本土を結ぶ石油輸送航路は重要視され、ヒ船団と称する護送船団が運航されていた。これに対して連合軍はこのシーレーン潜水艦などで攻撃する通商破壊を実施し、特にTemplate:Safesubst:後半にフィリピンに上陸して以後、フィリピンを拠点とする航空機により南シナ海航路を遮断しつつあった。

1945年1月12日には、輸送船10隻を練習巡洋艦香椎」を旗艦とする第101戦隊の6隻で護衛したヒ86船団が、アメリカ海軍第38機動部隊に捕捉され、空襲により護衛の海防艦3隻を残して全滅させられていた。同時期に南下中のヒ87船団(輸送船10隻、護衛艦艇11隻)も、緊急避難した香港港内などで空襲を浴びて輸送船6隻を失った。いずれも当時の日本としては大型で強力な護送船団であったが、大規模な空襲には無力だった。

作戦経過

そこで1945年1月、日本は石油など最重要資源輸送目的に限定して南方航路を維持することを決め、そのために「特攻精神」による「突破輸送」を行うこととした[1]。1月20日、大本営陸軍部と海軍部の間で「燃料竝ニ重要物資緊急還送作戦實施ニ關スル陸海軍中央協定」が締結され、海軍の担当部分に関連しては連合艦隊司令長官指揮の下で「南号作戦」が行われることとなった。ただし、戦史叢書によれば、南号作戦が中央協定の対象となる海軍の行動全てを指すものかは明確でない。この中央協定に基づき、同日、大本営海軍部は大海指第500号を発令した。なお、「南号作戦」の作戦名は、同時期に行われた残存海軍艦艇による強行輸送である「北号作戦」に対応して命名されたものである。

1月の機動部隊襲来による被害でタンカーが不足する中、損傷船の修理などが急がれ、南号作戦に投入された。ヒ86船団などの戦訓にかんがみ、従来の大船団主義を転換、空襲による被害を限定するために輸送船数隻からなる小規模な船団が原則とされ、可能な限りの護衛艦艇が付された[2]。例えばヒ88A船団は、タンカー「せりあ丸」1隻のみと護衛の駆逐艦・海防艦・駆潜艇のべ8隻から構成された。輸送船自体にも対空機銃や爆雷などの自衛兵装が多数搭載された。

3月までに、大内建二によれば11次に渡る船団としてタンカー30隻が送り出されたが、その多くは途中で撃沈された。もっとも、17000キロリットルの航空用ガソリンの輸送に数度に渡り成功した「せりあ丸」のように無事に到着した例もあり、3月27日に徳山港に入港した「光島丸」まで6隻が任務を達成した[3]。一方、戦史叢書によれば、1月20日~3月16日の期間中に航行した重要資源船団は15隊、加入輸送船はのべ45隻、護衛艦艇はのべ50隻で、そのうち輸送船20隻と護衛艦4隻を失ったとしている[4]

3月16日、沖縄諸島への連合軍上陸が迫ったため、もはや成功の見込みが無いとして、大海指第511号により南号作戦の終了が命令された。南方に残っていた可動船舶を寄せ集めたヒ88J船団(輸送船7隻、護衛艦艇9隻)が、最後の一便として3月19日にシンガポールから出航したが、サイゴン行きで途中分離した3隻を除いて同月29日までに輸送船全滅、海防艦3隻沈没という結果に終わった[5]。これにより日本の南方資源航路は事実上閉鎖された[6]

脚注

  1. ^ 大井(2001)、375頁。
  2. ^ 大井(2001)、379-380頁。
  3. ^ 大内(2004)、321-322頁。
  4. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室 『海上護衛戦』、470頁。
  5. ^ このとき沈没した海防艦84号には、甲子園大会で「伝説の投手」と呼ばれた嶋清一が乗務しており、この戦いで戦死した。
  6. ^ その後も太平洋を大きく迂回する航路などは計画されたが、成果は無かった。

参考資料

  • 大井篤 『海上護衛戦』 学習研究社〈学研M文庫〉、2001年。
  • 大内建二 『商船戦記』 光人社〈光人社NF文庫〉、2004年。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『海上護衛戦』 朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1971年。

関連項目