1. TOP
  2. Kiraku辞典
  3. メインページ

台湾光復

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ファイル:01122.jpg
台北市太平町にて光復を祝う横断幕
中華民国旗を左右反転した順風旗が中央にある。

台湾光復(たいわんこうふく)とは、第二次世界大戦の終結に伴い、台湾日本による統治から中華民国による統治に入れ替わった出来事である。台湾では、節目となる年には光復を祝うことが多い。特に、1995年は光復50周年だったので、記念硬貨や記念切手が発行された。

目次

植民地支配とその終焉

台湾地域は、日清戦争の後、1895年4月17日下関条約の締結で台湾住民の意思を考慮せず、から日本に割譲された。しかし清国人であった当時の台湾官僚を中心に日本軍の進出に対し台湾民主国建国・抗日武装蜂起などで抵抗したが、1920年代までにはそれらの運動は全て鎮圧された[1]。内心では強く植民地支配からの解放を願っていた台湾人もおり、日本のポツダム宣言受諾によって、台湾が植民地支配から解放されたことを知った際には喜びを露にする人もいた[2]。これについて金美齢は「台湾人はお気楽な性格で、玉音放送を聞いたときは日本人と考えていたから落ち込んだんです。でも誰かが「いや、勝ったんだ。元は漢民族だろう」と言ったんです。すると今度は喜んだんですよ」と発言している。

光復当初の台湾

1945年10月15日、中華民国の軍隊が台湾に上陸した際、台湾人は陸游の作詞した「王師北定中原日、家祭勿忘告乃翁」の詩を口ずさんだり、「台灣今日慶昇平、仰首清天白日清。六百萬民同快樂、壺漿簞食表歡迎、哈哈!到處歡迎、哈哈!到處歡迎、六百萬民同快樂、壺醬簞食表歡迎。」という陳保宗作詞、周慶淵作曲の歌を歌いながら中国の軍隊が台湾を接収することを歓迎した。 1945年10月25日、中華民国政府が台北中山堂において日本の降服式典を行った際には「台湾光復」と「祖国復帰」を祝い、再び中国人としての認同を回復し、自主の道を歩めるものと期待した。翌年8月、台湾省行政長官公署が10月25日を台湾光復節とする旨を公布した。以後、「台湾光復」は各界で多用された(例えば台湾光復致敬団(臺灣光復致敬團))。

注釈

[ヘルプ]
  1. ^ この抗日闘争の間に、大陸側(清朝政府と中華民国政府)は、台湾人指導者の再三の懇請にも関わらずなんら支援を行わず、先の頭越しの割譲決定とあわせて「大陸は台湾を見捨てた。」という印象を台湾の漢人に与えた。この事は大陸漢人への不信感を募らせる結果となり、後に国民党が一方的に台湾人を奴隷化されたと定義した際には、この歴史的経緯ともあいまって国民党と外省人への不満が増幅された。
  2. ^ 既に植民地支配が始まって50年が経過し、日本による皇民化政策が非常に進んだこともあいまって台湾人の中には自己のルーツを忘却し、身も心も「帝国臣民」となりきっていた若者も少なくなかった。故に彼等にいたってはもはや同化は主観的には「強制的」ではなく、植民地支配という実情を深く意識することもなかった。このような意識の中で終戦を「光復」の意味も分からないまま迎えたという証言も存在する。

関連項目