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和田一浩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

和田 一浩
中日ドラゴンズ #5
ファイル:CD-Kazuhiro-Wada.jpg
2009年7月16日(阪神甲子園球場)
基本情報
国籍 ファイル:Flag of Japan.svg 日本
出身地 岐阜県岐阜市
生年月日 1972年6月19日(39歳)
身長
体重
182cm
90kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 左翼手
プロ入り 1996年 ドラフト4位
初出場 1997年4月30日
年俸 4億円(2011年)
2011年から3年契約(年俸変動制)
経歴(括弧内は在籍年)
国際大会
代表チーム ファイル:Flag of Japan.svg日本
五輪 2004年
WBC 2006年
オリンピック
男子 野球
2004野球

和田 一浩(わだ かずひろ、1972年6月19日 - )は、中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手外野手)。

マネジメント契約先はスポーツビズ

愛称は同姓の和田勉にちなんだベンちゃん(ベン)、ビッグベンなど。

目次

経歴

プロ入り前

岐阜県岐阜市出身。県立岐阜商業高校では2年時に控え捕手として第61回選抜高等学校野球大会第71回全国高等学校野球選手権大会に出場した。

高校卒業後、東北福祉大に進学し、仙台六大学野球連盟のリーグ戦では4年間で首位打者1回、ベストナイン2回を獲得する。4年時には主将を任され、春のリーグMVPに輝いた。

大学卒業後は社会人野球神戸製鋼に入社。社会人通算.429の打率を残し、強打の捕手として1996年のドラフト西武ライオンズから4位指名を受け入団。

西武時代

ルーキーイヤーの1997年は、主に代打として17試合に出場し、プロ初安打・初打点を記録。

1998年は、正捕手伊東勤の厚い壁のため、捕手だけでなく外野手としても出場機会を増やし、外野手で9試合にスタメン出場した。この年プロ初本塁打を記録。

1999年は、伊東、中嶋聡に次ぐ3番手捕手としてなかなか出場機会に恵まれず、代打要員に留まったが、シーズン終盤には1番・左翼手として起用された。

2000年には、打撃が認められて出場機会が増え、規定打席未満ながら3割を打った。9月9日には4番も任され、9番以外の全ての打順でスタメン出場。守備位置は捕手9試合、一塁手15試合、外野手18試合、指名打者12試合と、徐々に捕手から外野手へとシフトしていった。またこの年に、同僚の中嶋聡が捕手らしい番号を欲しており、当時背番号22だった和田は当時中嶋がつけていた一桁の5と背番号を交換している。

2001年は、東尾修監督に「次世代を担うバッテリー」として松坂大輔と開幕戦でスタメン起用され、その後も松坂と7回にわたってバッテリーを組んだ。打撃も好調で一気に16本塁打、規定打席未満ながら打率.306を打って注目を集めた。守備位置はまだ捕手と外野手で一定せず、打順も2番と4番以外全てに起用され、本格的にレギュラー獲得とはいかなかった。9月24日の対近鉄最終戦で松坂大輔がタフィ・ローズに55号本塁打を打たれ、中村紀洋に逆転サヨナラ2点本塁打を打たれた試合で捕手としてフル出場していた。

2002年は、新たに監督に就任した伊原春樹の勧めでこの年から外野手一本に絞り、5番・左翼手のレギュラーに定着。初めて規定打席に到達し、打率.319、33本塁打、81打点と、定着1年目から中軸打者として申し分ない成績を残し、4年ぶりのリーグ優勝に貢献。しかし、レギュラーとして迎えた初めての日本シリーズでは15打数無安打の大不振。指名打者部門で初のベストナインを受賞。

2003年は、前年より成績を上げ、打率.346、30本塁打、89打点を記録。自己最高の出塁率.428、長打率.632を叩き出した。また柴田博之が出場する際には中堅手右翼手としても起用された。この年から4年連続で外野手部門でベストナインを受賞。

2004年は、アレックス・カブレラの開幕出遅れで、6月まで4番を任された。打率.320、30本塁打、89打点の成績で、3年連続の3割30本80打点を達成。5月30日の対日本ハム戦(函館市千代台公園野球場)で芝草宇宙から本塁打を放ち、通算100本塁打を達成。この年からパ・リーグで開催されたプレーオフでは、第1ステージ第3戦(対日本ハム戦)で、横山道哉からサヨナラ本塁打を放ち、チームを勢い付ける。 後に移籍することになる中日との日本シリーズでは、打率.310、4本塁打、6打点で12年ぶりの日本一に貢献し、優秀選手に選ばれた。

2005年は、春先は絶不調であったが後半戦からは打率.370と一気に追い上げ、シーズン打率.322で初の個人タイトルとなる首位打者を獲得。同時に153安打で最多安打のタイトルも獲得した。パ・リーグの右打者による首位打者獲得は1993年の西武・辻発彦以来12年ぶり。4年連続30本塁打には3本届かなかった。

2006年3月、WBC日本代表に選出された。しかし尿管結石を発症するなど体調を崩し、1次リーグでの代打起用のみに終わった。

6・7月が不調に終わり打率が伸びず、後半巻き返したが打率.298で惜しくも5年連続打率3割はならなかった。本塁打も19本に終わった。しかし、自己最多の95打点を記録し、5番打者としてチームに貢献。チームメイトの赤田将吾と並んでリーグ最多補殺を記録。

2007年は、9月8日の対日本ハム戦で吉川光夫から安打を放ち、通算1000本安打を達成。前年より打率を上げてリーグ3位の打率.315を記録。本塁打はレギュラー定着後最低の18本、打点は前年の約半分の49(9月半ば頃まで打率.239の細川亨より打点が低かった)に終わった。この年は塁上に走者がいる場面では打率.224と低迷し、リーグ3位の22併殺打を記録した(逆に走者なしでは.353と好調であった)。

この年初取得したFA権を行使し、12月9日、中日ドラゴンズとの入団交渉の末、地元の岐阜に最も近い球団という事もあり、本人曰く「幼いころからのあこがれの球団」である中日への移籍を数分で即決。3年契約を結び、背番号は西武時代と同じ5に決定された。

中日時代

2008年、中日入団1年目も、西武時代と同じく5番を任される。序盤は不慣れなセ・リーグということもあり不振であったが徐々に調子を上げていく。また、主砲のタイロン・ウッズが不調の際には4番も務めた。この年通算1000試合出場を達成。2年連続3割を打つなど活躍したが、16本塁打、74打点、得点圏打率は.275とチャンスでは期待されたほどの成績を残せなかった。契約更改の際、「2009年シーズンはチャンスでもっと打っていきたい」と発言している。

2009年は、前年3割を打ったにも関わらず「ぜんぜんダメでしょ。自己ベストより1本でも1厘でも1打点でも上にいきたい」と春季キャンプで打撃改造を行い、オープンスタンスの幅や足の上げ方を変えた。前年までの主砲のタイロン・ウッズ、中村紀洋が退団したため主砲として期待され4番に座る可能性もあったが、開幕はいつもの5番で出場し、開幕戦1試合2本塁打と最高のスタートを切った。4月25日の対巨人戦でプロ通算200号本塁打を西武時代の同僚豊田清から放った。5月12日の対ヤクルト戦では地元岐阜の長良川球場で初の本塁打を放ち故郷に錦を飾った。6月21日の対オリックス戦で平野佳寿から先制の満塁本塁打を放った打席で通算4000打数に到達し、通算打率にランクイン。この時点で川上哲治落合博満をも上回る通算打率.315で、歴代6位・日本人右打者最高となった。6月には打率.415、6本塁打、15打点の成績で、2度目の月間MVPをチームメイトの川井雄太と共に受賞した(川井の投げる日は3試合連続本塁打、打率4割と相性が良かった)。交流戦では打率4割、7本塁打(ともに2位)と絶好調。7月15日には4年ぶりの20本塁打と自己最多ペースで本塁打を量産し、9月15日には10回表に永川勝浩から決勝の3試合連続本塁打を打った。打率.302で7度目の3割を記録し、29本塁打、87打点、出塁率.382と前年より大きく成績を上げ、打撃主要部門全てでリーグトップ10に入った。守備面でも元捕手の強肩かつ堅実な送球で12補殺を記録し、2年連続セ・リーグ最多補殺に輝いた。また、この年初めてシーズン全試合に出場(144試合)した。

2010年は、序盤から打撃が好調で、4月を終えて.376、5月を終えて.358の好成績でシーズン終盤まで打撃成績トップを維持し続けた。また、交流戦の途中から不調のトニ・ブランコにかわり4番を任されるようになった。シーズン終盤に少し調子を落とし首位打者は青木宣親に譲ったものの最終的に打率.339、37本塁打、93打点とチーム三冠及び西武時代を含めて自己最多本塁打の活躍でチームの4年ぶりの優勝に大きく貢献した。また前年に続き2年連続でシーズン全試合に出場した。クライマックスシリーズ第2ステージの巨人との試合では、第4戦に9回裏3-3の場面で久保裕也からサヨナラ安打を放ち、シリーズMVPに輝いた。日本シリーズでも第2戦・第4戦で猛打賞を記録。第7戦の9回裏、1点ビハインドの場面でロッテの守護神小林宏之から三塁打を放ち、次打者ブランコの一時は同点となる犠飛につなげるなど好調を維持し、7試合で29打数12安打1本塁打6打点と活躍。チームは2勝4敗1分で敗れたが、敢闘選手賞を受賞した。また、自身初となるシーズンMVP及び自身6度目・中日移籍後は初となるベストナイン(外野手部門)に選出された。11月24日の契約更改で、新たに3年総額12億円で契約を結んだ。

2011年は春季キャンプでフォーム改造を敢行。開幕戦に「4番・左翼手」でスタメン出場するも、フォーム改造や統一球の影響もありバッティングを崩し、年間を通じて成績が芳しくなかった。シーズン終盤には視力低下を訴えたこともあり中日入りして初めて2軍落ちを経験(西武時代においても2003年以降、故障以外での2軍落ちは経験がなかった)、6番に打順を下げることになった。日本シリーズでは全試合5番で出場している。

プレースタイル

打撃

バットを上段に構えて上下に揺らし、極端なオープンスタンスから左足を大きく上げ、全身を回転させるようにしてバットを背中の後ろまで一気に振り抜く独特のフォームから弾き出す安定した打撃が特徴。所謂掬い上げ打法。そのフォームはあまりに特徴的過ぎるため「真似するのは無理」「子供に薦めてはいけない」と冗談混じりに言われるほどである[要出典]。中日移籍後から2010年までの通算の対右打率.315を残しており、左に対しても.310と左右を苦にしない上に目立った苦手コースもなく、独特の打撃フォームも手伝って右方向への打球が非常に良く伸びる[1]

背筋の強さと右手の押し込みにより、ボールをかなり引きつけても詰まらずに強い打球を放つことができる[1]。スイングの後は腰が落ちたような形になるので、左方向への長打を打ったのに三塁線へのファウルボールを打ったように見えることもあり、最後まで振り切るフォームであることとあまり足が速くない事から併殺打は多い。本人によると「テニスのフォアハンドを参考にしている」といい[2]、加えて流し打ちというと通常は力を加減してボールに合わせるイメージであるが、流し打ちをする時も「右に引っ張る」と言う意識をもつことで、引っ張った時と同じ力で打てるようになったといい、プロ入りしてから数年かけてこれができるようになったという[3]。打撃開眼については金森栄治の指導が大きかったと語っており、金森の打撃理論を理想的に実践しているため金森自身も和田の打撃を最高傑作と語っている[3]。2009年からは打撃改造に伴って構え方が変化し、極端なオープンスタンスは見られなくなったが、オープンスタンス自体は維持しており、バットの振り方も従来とさほど変化していない。2011年からは本人曰く「内角のボールに対応する」ため[要出典]のオープンスタンスから完全なスクエアスタンスに改造した[4]

死球がシーズン最多でも4個、通算でも5000打席超で18個と強打者にしては非常に少ない。2010年は出場試合数が144試合であるにも関わらず、死球数は0であった。

外野守備

中日時代にはタイロン・ウッズ放出後の一塁手へのコンバート案が浮かび上がったことがあるが、左翼守備では打球判断など捕球技術の問題もなく、スライディングキャッチなど積極果敢なプレーもできるため、得点換算でも高い数値を記録しており、総合的な能力は高い[5]

捕手出身として考えれば特別強肩というわけではないが、捕球してから投げるまでが速く、正確な送球ができる。さらにフェンスに当った後などの打球判断が良いこともあり補殺は多く、セ・パ両リーグでシーズン最多補殺を記録している(肩が強いという印象が薄いため、和田のところに打球が飛ぶと走者が本塁へ突入するということも一因ではある[6])。和田のスローイングに関して、谷繁元信は「上品な球」と表現している[7]。また、「ボールを見ていなくても取れる範囲に送球がくる。走者を見ていられるためブロックしやすい」とも評している。一方で強肩として知られる藤井淳志に対しては「(コントロールが悪く)ボールを見ていないといけない」と評している[8]

守備面での問題はないが、パ・リーグで活躍していたこともあり、交流戦や日本シリーズでは指名打者として出場することが多い。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1997 西武 1722212410052001000040.190.190.238.429
1998 3657518172032883120400113.333.382.549.931
1999 205348513210173301130081.271.308.354.662
2000 5518917020521001652492031501176.306.360.382.742
2001 82236206366372161223455522320236.306.372.592.965
2002 115472439641402523326881532327317414.319.357.610.968
2003 126540468871623453029689850366134610.346.428.6321.060
2004 1094733947912621130239896204711245914.320.425.6071.032
2005 129542475801533232727269330560526617.322.397.573.969
2006 131566484721443421923995330478908414.298.392.494.886
2007 138548501771582311823749710242236522.315.370.473.843
2008 中日 136560520601573441624774120434027116.302.345.475.820
2009 144592517731562442927587520568225616.302.382.532.914
2010 144602505941712923731593500592707712.339.437.6241.061
2011 131522444491032441217154630472626412.232.339.385.724
通算:15年 1513597452438061619302312712796851693211456554920725163.309.385.533.918
  • 2011年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績


捕手一塁外野
試合刺殺補殺失策併殺捕逸守備率企図数許盗塁盗塁刺阻止率試合刺殺補殺失策併殺守備率試合刺殺補殺失策併殺守備率
199714426121.980752.286--
1998185760201.000220.000-13100001.000
199984210001.000220.000-750001.000
20008202110.957541.200151021418.9911924121.926
20012512810223.9861284.33310000----45523011.000
2002--6292410.990
2003--120195943.981
2004--1071732001.000
2005--128251531.988
2006--1222131021.991
2007--102195831.985
2008--1352281132.988
2009--1442161223.991
2010--1382288011.000
2011--1281821012.995
通算 7328925474.98728217.250161021418.99112702064842116.990
  • 2011年度シーズン終了時

タイトル

表彰

記録

初記録
節目の記録
その他の記録
2004年限りで消滅した大阪近鉄を含む13球団からの本塁打は、史上6人目(他の達成者はフェルナンド・セギノールフリオ・ズレータアレックス・カブレラ谷佳知小笠原道大ホセ・フェルナンデス
 日付対戦球団球場相手投手
11998年8月4日近鉄17回戦大阪ドーム8回表ロブ・マットソン
2同8月14日オリックス14回戦西武ドーム3回裏マーク・ミムズ
32001年4月29日ロッテ7回戦西武ドーム5回裏和田孝志
4同5月6日日本ハム8回戦東京ドーム1回表下柳剛
5同8月13日ダイエー19回戦福岡ドーム4回表佐久本昌広
62005年4月30日楽天7回戦フルキャストスタジアム宮城2回表岩隈久志
7同5月8日広島3回戦広島市民球場7回表大竹寛
8同5月13日巨人1回戦インボイスSEIBUドーム3回裏スコット・マレン
9同5月22日横浜3回戦横浜スタジアム2回表那須野巧
10同5月25日ヤクルト5回戦明治神宮野球場8回表五十嵐亮太
112006年5月23日中日1回戦ナゴヤドーム8回表川上憲伸
122008年7月20日阪神14回戦ナゴヤドーム2回裏金村曉
132009年5月19日西武1回戦県営大宮球場8回表大沼幸二

背番号

  • 22 (1997年 - 1999年)
  • 5 (2000年 - )

登場曲

関連情報

出演

脚注

  1. ^ a b 小関順二、西尾典文、泉直樹 『プロ野球スカウティングレポート2010』 アスペクトムック、2010年、80頁。ISBN 978-4-7572-1744-7
  2. ^ 小関順二、西尾典文、泉直樹 『プロ野球スカウティングレポート2009』 アスペクトムック、2009年、338-339頁。ISBN 978-4-7572-1628-0
  3. ^ a b 和田一浩-打撃フォーム連続写真-qooninSports、2011年4月4日
  4. ^ 中日和田“3冠打法”で今季本拠1号日刊スポーツ、2011年4月4日。
  5. ^ 守備を得点換算で評価するSMR Baseball Lab
  6. ^ 中日スポーツ:なぜ李ライト固定? 木俣達彦氏が高代コーチに直撃:ドラニュース(CHUNICHI Web)(2008年2月5日閲覧)
  7. ^ 中日スポーツ2009年7月12日
  8. ^ 2010年1月24日放送、中部日本放送サンデードラゴンズにて

関連項目

外部リンク