唐
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- 唐
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700年頃の版図 -
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唐(とう、拼音:Táng、618年 - 690年,705年 - 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた。日本の場合は遣唐使などを送り、Template:Safesubst:に菅原道真の意見で停止されるまで、積極的に交流を続けた。唐の都は長安にあった。
なお、690年に武則天によって唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述されることが通例である。
日本では唐の滅亡後も唐(から)、唐土(もろこし)の語は中国、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。詳しくは中国を参照のこと。
目次 |
国号
国号の「唐」はもともとは晋の古名であり、もとは山西省を中心とする地域を指した。古代には堯が建てたといわれる伝説上の王朝「陶唐」があり、周の時代には武王の子・唐叔虞が立てた晋の別称としての唐とは別に、今の湖北省の一部に唐を国号とする小国があったことが知られる。唐の滅亡後、五代十国時代には李存勗の後唐、十国のひとつ南唐などが唐の後継者を自認して唐を国号としたこともあったが、いずれの皇帝も唐室の血は引いていない。
李氏
唐王朝の李淵が出た李氏は、隋の帝室と同じ武川鎮軍閥の出身で、北魏・北周以来の八柱国・十二将軍と称される鮮卑系貴族のうち、八柱国の一家として隋によって唐国公の爵位を与えられていた。のちに、隋から禅譲を受けて新朝を立てるという易姓革命の手続きを踏んだ際に、この爵位にちなんで唐を国号とする。
『旧唐書』・『新唐書』によれば、李氏は李耳(老子)の子孫と称し、西涼の初代王・李暠をその遠祖としている。北周において鮮卑への復古政策が行われた時に、李氏は北周より大野(だいや)という姓を与えられ、一時的にこの姓を名乗ることになる。ただし、唐李氏の系譜についてはこの西涼の李氏とは繋がっておらず、唐李氏は鮮卑系であるとの見解が戦時中に日本の宮崎市定[1]によって出され、以後日本学界ではこの考え方がほぼ定説となっている。一方、中国学界では、陳寅恪が『唐代政治史述論稿』において、鮮卑系の関隴集団(=武川鎮軍閥)に属する趙郡の李氏が、唐朝の出自であることを論証し、やはり定説となった。近年の中国では、宮崎説を「日本軍の中国支配のために持ち出された論説である」と見る向きもある[2]が、主流な見解ではない。
歴史
唐の歴史は300年にわたり、非常に長く、また唐代の間の社会変動も大きい。そこで、ここでは唐の歴史をさらに初唐、盛唐、中唐、晩唐の4期に細分して通観する。
初唐(武周期を含む)(7世紀初頭 - )
7世紀初頭の中国は隋が統一国家を実現していたが、第2代煬帝の内政上の失政と外征の失敗のために各地に反乱がおき、大混乱に陥った。このとき太原留守(総督)であった李淵は617年(義寧元年)に挙兵、煬帝の留守中の都、大興城(長安)を陥落させると、煬帝を太上皇帝(前皇帝)に祭り上げて、その孫恭帝侑を傀儡の皇帝に立て、隋の中央を掌握した。翌618年(隋義寧2年、唐武徳元年)に江南にいた煬帝が殺害され、李淵は恭帝から禅譲を受けて即位(高祖)、唐を建国した。
建国の時点では、依然として中国の各地に隋末に挙兵した群雄が多く残っていたが、それを高祖の次子李世民が討ち滅ぼしていった。勲功を立てた李世民は、626年にクーデターを起こすと高祖の長男で皇太子の李建成を殺して(玄武門の変)、高祖を幽閉し第2代の皇帝(太宗)となる。
太宗は北方の強国突厥を降してモンゴル高原を羈縻支配下に置き、北族から天可汗(テングリ・カガン)、すなわち天帝の号を贈られた。また内治においては三省六部、宰相の制度が確立され、その政治は貞観の治として名高い。その治世について書かれたものが『貞観政要』であり、日本や朝鮮にまで帝王学の教科書として多く読まれた。
唐の基礎を据えた太宗の治世の後、第3代高宗の時代に隋以来の懸案であった高句麗征伐(麗唐戦争)が成功し、国勢は最初の絶頂期を迎える。しかし、高宗個人は政治への意欲が薄く、やがて武后(武則天)とその一族の武氏による専横が始まった。夫に代わって専権を握った武則天は高宗の死後、実子を傀儡天子として相次いで改廃した後、690年の簒奪により(載初元年)国号を周と改めた(武周)。
中国史上最初で最後の女帝であった武則天は、酷吏を使って恐怖政治を行う一方、新興富裕階層を取り込むため土地の併呑に許可を与え版籍の調査を緩めたが、農民の逃散や隠田の増加が進行して社会不安と税収減及び均田制の綻びを招いた。武則天が老境に入って床にあることが多くなると権威は衰え、705年(神龍元年)、宰相張柬之に退位を迫られた。こうして武則天が退位させた息子の中宗が再び帝位に就き、周は1代15年で滅亡した。
しかし今度は、中宗の皇后韋氏が中宗を毒殺した。韋后はその後即位した殤帝を傀儡とした後簒奪を画策したが、中宗の甥李隆基と武則天の娘太平公主の蜂起により敗れた韋后は族殺され、武則天が廃位させた李隆基の父・睿宗が再び帝位につき、李隆基はこの功により地位を皇太子に進められた。その後、今度は李隆基と太平公主による争いが起こる。
7世紀後半から8世紀前半にかけて後宮から発生した政乱を2人の皇后の姓を取って「武韋の禍」と呼ぶ。
盛唐(8世紀初頭 - )
712年(先天元年)、李隆基は睿宗から譲位され即位した(玄宗)。翌年、太平公主を処刑した。玄宗の治世の前半は開元の治と謳われ、唐の絶頂期となる。この時期、唐の羈縻支配と冊封政策は中央アジアにまで及んだが、751年にトゥーラーンの支配権を巡ってアッバース朝との間に起こったタラス河畔の戦いに敗れた。
玄宗は、長い治世の後半には楊貴妃を溺愛して政治への意欲を失い、宰相の李林甫ついで貴妃の一族楊国忠の専横を許した。楊国忠は、玄宗と楊貴妃に寵愛されていた節度使の安禄山と対立し、危険を感じた安禄山は755年に反乱を起こした。節度使は玄宗の時代に増加した官職で、辺境に駐留する藩師に軍事指揮権と一部の行政権を与える制度である。北方3州の節度使を兼ね大軍を握っていた安禄山はたちまち華北を席巻し、洛陽を陥落させ大燕皇帝と称した。
都の長安を占領され玄宗は蜀に逃亡、その途中で反乱の原因を作ったとして楊貴妃と楊国忠は誅殺された。失意の玄宗は譲位し、皇太子が粛宗として即位した。唐は名将郭子儀らの活躍や回鶻(ウイグル)の援軍(皇太子葉護ら)によって、763年に乱を平定した。9年に及んだ反乱は、安禄山とその死後乱を主導した配下の史思明の名をとって安史の乱と呼ばれる。安史の乱によって、唐の国威は大きく傷付いた。以降、唐は次第に傾いていく。
軍事力増強のために藩鎮を増やした結果、内地の節度使も増加した。各地に(藩鎮)が置かれた状態は、後の五代十国時代まで続いた。
中唐(8世紀半ば - )
安史の乱により疲弊した唐は、中央アジアのみならず西域も保持することが難しくなり、国境は次第に縮小して世界帝国たる力を失っていった。
これに対し、中興の祖とといわれる憲宗は中央の禁軍を強化することで、中央の命令に服さない節度使を討伐し朝威を回復させた。しかしその後、不老長寿の薬と称された丹砂(水銀)などの怪しげな仙薬を常用するようになると、精神不安定から宦官をしばしば殺害したため、恐れた宦官により殺された。孫の文宗は権力を握った宦官を誅殺しようと「甘露の変」と称される策略を練ったが失敗し、却って宦官の専横を招いた。
晩唐(9世紀半ば - 10世紀初頭)
文宗の弟の武宗は廃仏運動を進めた。当時、脱税目的で僧籍を取る者が多かったため、実態の無い僧を還俗させ財政改善を図った。この時期、牛僧孺党派と李徳裕党派の政争が激しくなり、これは牛李の党争と呼ばれる。
この頃から、859年の裘甫の乱、868年の龐勛の乱に代表される、行政の改善を要求する武装闘争が各地で起きた。874年頃から黄巣の乱が起きる。この乱は全国に波及、黄巣は長安を陥落させると、斉を建て皇帝就位を宣言した。しかし黄巣軍の構成員は多くが貧民出で政務を執行できず、略奪を繰り返して憎悪を買った挙句に長安を去った。この時、黄巣の部下だった朱温は黄巣を見限り唐に帰参した。朱温は唐から全忠の名前を賜り、以後朱全忠と名乗る。この頃になると唐朝の支配地域は主に首都長安から比較的近い関東地域一帯にまで縮小し、藩鎮からの税収も多くが滞っていった。
河南地方の藩師となった朱全忠は、唐の朝廷を本拠の開封に移して、唐の権威を借りて勢力を拡大した。907年(天祐4年)、朱全忠は哀帝より禅譲を受けて後梁を開き、唐は滅亡する。しかし、唐の亡んだ時点で朱全忠の勢力は河南を中心に華北の半分を占めるに過ぎず、各地には節度使から自立した群国が立っていた。後梁はこれらを制圧して中国を再統一する力を持たず、中国は五代十国の分裂時代に入る。
政治
兵制については「税制・兵制の節を参照。
律令体制とその崩壊
西晋で作られた泰始律令以来、何度か改変が重ねられ、隋の文帝により「開皇律令」が編纂され、唐はそれを受け継いで、何度か修正が加えられつつ運用されていた。
律は刑法、令は行政法であり、これを補足するものとして格式がある。律令に該当しない事例を処理する為の詔勅のうち、法として新たに加わるものが格で、式は律令を運用する上での細則である。
後述する三省六部、九品制、均田制、府兵制などは令によって規定され、このような律令を中心の柱として成り立つ国家体制を律令制と呼ぶ。
唐の律令は何度か変更され、玄宗の737年(開元25年)にほぼ完成を見る。この律令を開元二十五年律令と呼んでおり、後世に律令のお手本とされた。
律令が現実の社会状況と合致しない場合、それに代わって詔勅と格が主要な役割を果たしたとされる。安史の乱以後は、唐全体の社会状態が大きく変わり、より格式が多用されるに至る。
科挙と貴族政治
唐代は南北朝時代からの風潮を引き継いで、権門貴族が強い影響力を保持していた。皇室の李氏を含め唐の支配者層を形成したこれらの集団は、いずれも多くが関隴の地域を基盤とした貴族集団であり、この集団のことを関隴集団と呼ぶ。関は関中(陝西省)、隴は現在の甘粛省東部のことである。
関隴貴族は鮮卑系北朝貴族であり、この他には主に漢族の流れを汲む山東貴族、南朝の流れを汲む南朝貴族がある。家門の家格いう考え方は魏晋南北朝時代を通して維持され、唐が建国された後でも長い歴史を持ち最高の名門とされる山東貴族は、影響力には乏しいが家格は依然として高かった。
家格が高い家と婚姻関係を結び自らの家格を上げることが広く行われたが、この場合は下の家格の者が上の家格の者に莫大な結納金を積むのが常であった。太宗は皇室と外戚の権威を高めるべく、貴族を格付けした『氏族志』の編纂を命じたが、山東貴族の家門が第一等、皇室の李氏が第三等だったため、唐の官制に基づき皇室の李氏や親族を第一等・第二等とするよう命じた。同じく武則天も自らの武氏を李氏に次ぐ第二等とした。これは、家格が当時の人にとって大きな意味を持っていたことを示している。
貴族は政治への影響力の源泉として、詔勅の審議を司る門下省と官僚の任免賞罰などを司る尚書吏部を握っていた。
高位の官僚には課役の免除、刑罰を金銭で贖えるなどの特権が与えられ、また資蔭と呼ばれる親の官品に応じて子が任官できる制度があった。唐の政治は概ね貴族により運営されていた。
一方、隋から受け継いだ科挙も実施されていたものの、資蔭によって与えられる地位よりも低い位置で任官するのが常であった。例えば最高位である一品官の子は正七品上に任官できるが、科挙では最高でも正八品上である。さらに前述の通り、尚書吏部は貴族の意向が働いており、科挙出身者は冷遇された。
武則天は関隴貴族の出身ではあったが主流には遠く、女性の身で権力を握るという事への反発もあり、関隴貴族の反感を買っていた。そこで武則天は科挙を通過する新興富裕層を積極的に引き上げ、権力の安泰を計った。
しかし武則天の時代は新興富裕層を厚遇するあまり、大地主による土地の併呑が横行し、農民が田地を失って小作となる事例や逃亡して奴婢となる事例が蔓延、また同じく唐初以来厳格に行われてきた版籍の調査を甘くして、官位の低い新興富裕階級による土地の併呑や奴婢を囲い込みに便宜を計った為に隠田や脱税が横行、玄宗時代に税制改正が行われる原因となった。
中期以降の唐では、基本的には上位の官職に就けない状態ではあったが、科挙出身者が徐々に官界に進出する。また貴族出身にも科挙を受験する者が増える。
官制
律令制下の官制は三省六部を頂点とする。中書省が詔勅(皇帝の命令)の起草、門下省がその審議を行ない、尚書省が配下の六部(礼部・吏部・戸部・兵部・刑部・工部)を通して詔勅を実行する。門下省の長官は侍中(2名)、中書省の長官は中書令(2名)、尚書省の長官は尚書令と呼ばれるが、尚書令は皇子時代の太宗が務めていた時期があったため、唐を通じて欠員とされ、副長官の僕射(ぼくや、左右1名ずつ)が実質上の長官であった。
六名の長官が宰相職とされ、重要政策は宰相の合議によって決定された。しかし次第に皇帝の代理人である中書令の権力が強くなり実権を振るうことになる。
尚書六部の下には漢代以来の実務機関である九寺、五監があり、庶務を担当した。
また三省とは別に宮中の文書を扱う秘書省・皇帝の衣食などを取り扱う殿中省・後宮の管理を行う内侍省があり、合わせて六省と呼ばれる。他に監察機関として御史台があり、官僚たちの監察を行なった。
これらの部署に配置される官僚達は従九品下から正一品までの計30階位に分けられている。
しかし8世紀中葉以降、旧来の官制に綻びが見られる状態に対応するため新たな官制が布かれた。主なものに州の監察を行う観察使、戸部の事務処理量が膨大となったため戸部から独立させた国家財政を司る度支使、物資の運送を司る転運使、塩鉄専売を司る塩鉄使などがあり、それまでの令によって定められた役職を上回る職権を持つ職もある。このうち翰林学士などの令外官を使職と言う。
度支使は元来財政を担当した戸部尚書を上回る権限を持ち、塩鉄使はその財政上の重要さから宰相に準ずる職となる。宝応年間以降は、常に塩鉄使が転運使を兼ね、後唐に至ると度支使・塩鉄使・戸部尚書が一本化されて三司となった。
またそれまで中書省の中書舎人が行なっていた詔勅の起草の内、朝廷ではなく皇室の発するものは玄宗が設置した翰林学士が行う事となった、翰林学士は宦官と並んで大きな権限を持つことになる。
地方制度
唐は、全国を10の道に分け、後の玄宗期に15に分けた。
道は監察など広域行政のための単位であり、実際の施政を担うのは刺史を長とする州郡と、その下の県令を長とする県である。州は全国で約350あり、県は全国でおよそ1550であった。
県の下に、4家を以て隣、5隣を以て保とする隣保制と、100戸をまとめて1里とし、5里を1郷とする郷里制がある。一つの里にはその里の諸事に責任を持つ里正という郷役が里の中から選ばれ、徴税・犯罪の取り締まりなどに当たった。
安史の乱後は、多くの藩鎮が地方に置かれた。また国内には領土の統治のために連絡用の駅伝が30里ごとに置かれ有事に備えた。
宦官
唐代は歴代王朝の中でも後漢・明ほどではないが、宦官悪の顕著な時代とされている。唐において最初に権勢を揮った宦官は玄宗時代の高力士である。高力士は絶大な信頼を受け、李林甫などは高力士と結んで高位に上ったといわれる。高力士自身は全身が玄宗への忠誠心のような人物であり、あまり表には出ずに終わった。
安史の乱後、粛宗擁立に功績を挙げ宦官初の宰相となった李輔国、代宗の下で驃騎将軍となった程元振などを経て、神策軍を擁した魚朝恩の台頭の以後、宦官の存在は唐皇室の中で大きな位置を占める。
神策軍は唐の地方軍のひとつだったが、魚朝恩の行動により皇帝親衛軍とされ、以後代々の長官には宦官が任命され宦官の権力の拠り所となった。
宦官の専横に対して皇帝の側にも宦官を排除する動きが出てくる。憲宗の孫の文宗は宦官に不快感を抱いており、それを察した官僚李訓・鄭注は宦官殺害の策を練り、835年に「甘露が降るという瑞兆があった」という偽りを報告し、これを口実として宦官を集めて一気に殺害する計画を立てた。しかし内部の不一致から計画は失敗し李訓らは殺される。これを甘露の変と呼ぶ。
こうして皇帝と宦官勢力の対立が表面化したこともあったが、宦官は基本的に皇帝と不可分の存在であった。宦官の権力の源泉は皇帝であり、皇帝なくして宦官はあり得なかった。仇子良が残した言葉はこのことを如実に示している。また前述の皇帝側からの宦官に対する行動はあくまで宦官の専横の抑制を目的としており、宦官制度自体は唐代を通じて存された。宦官側・皇帝側、双方からの必要性故に宦官という存在がありえた。
権勢を振るった宦官も唐末に朱全忠・李克用らが争い合い、皇帝が名目的な存在になって以降は当然に勢力を失った。最終的に宦官は902年、朱全忠の力を借りた昭宗により全滅させられるが、その2年後に昭宗は朱全忠により殺され、さらにその3年後に唐は朱全忠へ禅譲し完全に滅亡する。
経済
※唐代の単位については以下の通り。1畝=約522.15平米。10斗=1石=59.4リットル。10尺=1丈=3.11m。1両=42.5~40g。
税制・兵制
唐の税制は北周以来の均田制・租庸調制であり、兵制は府兵制である。この両制度は相互不可分な制度である。
均田制は全国の丁男(労働に耐えうる青年男性)一人につき、永業田(相続可能な土地)が20畝まで認められ、口分田(死亡や定年60歳になると国家に返却する)が割当可能な範囲で80畝まで支給される。また官職にある者は職分田が与えられる(これは辞職した時に返却する)。その他にも丁男がいない戸、商工業者、僧侶・道士などの特別な戸に対してもそれぞれ支給量が決められている。
田地に対して、租庸調と呼ばれる税を納める義務を負う。租は粟(穀物)2石、調は絹2丈と綿3両を収める。年間20日の労役の義務があり、免除して貰う税は庸と呼ばれ、労役一日に対し絹3尺あるいは布3.75尺を収める。
府兵制はこれらの戸籍に基づいて3年に1度、丁男に対して徴兵の義務を負わせた。
均田制・府兵制の両制度の実施には戸籍が必要不可欠であるが、武則天期になると解禁された大地主による兼併や高利貸によって窮迫した農民が土地を捨てて逃亡する(逃戸と呼ばれる)事例が急増し、また事前通告しない土地の売買を解禁したため戸籍の正確な把握が困難になった。また、華北地域では秋耕の定着による2年3作方式が確立され、農作業の通年化・集約化及びそれらを基盤とした生産力の増大が進展したことによって、期間中は農作業が困難となる兵役に対する農民の負担感が増大していった[3]。かくして均田・租庸調制と府兵制は破綻をきたし、代わる税制・兵制が必要となる。
辺境において実施された藩鎮・募兵制は、府兵制は徴兵により兵役に就かせたのに対して、徴収した土地の租税の一部を基に兵士を雇い入れる制度である。710年に安西四鎮(天山山脈南路の防衛)を置いたのを初めとして719年までに10の藩鎮を設置している。当初は辺境地域にしか置かれていない。
しかし安史の乱後は内地にも藩鎮が置かれた。地方の藩鎮は唐に対する税の貢納は行っていたものの徐々に自立色を深めていき、最終的には藩鎮により唐は滅ぼされることになる。
780年に施行された新しい税制は、それまで資産に関らずに定額を課税していたものを、財産に応じた額に改めたものである。夏(6月)と秋(11月)の年2回徴収するので、両税法と呼ばれる。夏に納めるのは麦であり、秋に納めるのは粟と稲である。税額は一定せず、その年に使われる年間予算を基に税額を各地に割り当てた。
かつて安禄山軍から投降した3人の武将に授けた節度使職を元とする、成徳軍・盧竜軍・天雄軍の3つの藩鎮は特に反中央の傾向が強く、節度使の地位を世襲化し中央に納税しなかった。この3つを河朔三鎮と呼んでいる。憲宗は藩鎮を抑制する為、反抗的な藩鎮に対して討伐を加えた。
藩鎮では多くの騒乱が発生したが朝廷へ反旗を翻した例は僅かで、大部分は不満を持った驕兵悍将と呼ばれる兵士・下士官が上司たる節度使を追放する目的で行われた。このような兵乱の代表が裘甫の乱である。兵乱はあくまで自分達の利益のために背いただけで、いずれは矛を収めた。
しかし収奪された民衆は節度使にも不満を抱くが、それを抑制しない唐政府にも不満を抱いた。龐勛の乱は初めは兵乱として始まったが、後に多数の農民が参加して民乱(民衆が中心の反乱)と化した。この乱は黄巣の乱の前段階と言え、黄巣の乱は初めから民乱として出発する。
専売制
安史の乱以後の唐の財政は苦しくなり、その打破のために758年に塩と鉄の専売制を実施した。
専売の統括をする役職が塩鉄使である。塩の産地には製造業者を集める巡院という機関が置かれ、ここで登録を受け、できた塩は登録された塩商人に売り、外部へ塩が流出しないように監視された。
専売制によってかけられる税は莫大で、塩にかかる税額の大きさは専売制実施前が1斗が10銭であったのが実施後には110銭になるというほどであった[4]。しかもこれ以後財政が悪化するとその都度値上げされている。また、生産者の自由も制約されるようになると製塩従事者の勤労意欲も減退して、品質の低下に繋がった。
生活に不可欠な塩に対してこのような価格をつけることに不満を持った人々により塩の密売が当然行われ、政府は取締りを行って摘発者には死刑などの厳しい処分を下したが、密売人側も次第に武力を持った組織だったものになっていった。黄巣はこの集団の中から登場して晩唐を揺るがし、唐に致命傷を与えることになる。
貴族の没落と市民経済の勃興
科挙は試験によって人材を選抜する制度であるが、合格には長期間勉強に集中できる環境が必要であり、また書物の購入費用などもかなりの額になることから合格にはそれなりの財産が必要であった。
貴族が科挙を軽視していた時代に科挙を受けたのは、財産を積み上げてきた新興地主層で、これらの科挙合格者達は武周期を境に官界へ進出し始め、官僚としての特権を利用して財産を積み上げ、豪商・富農と呼べる存在が現れる。
商業の活発化は都市の市(いち)の変化によっても知れる。唐前期の市は場所と時間が限られており、商売には役所への登録が必要とされた。唐後期に至ると、規定以外の場所で市が開かれるようになり、時間制限や登録制は有名無実化した。また都市の区画ごとに壁が築かれ自由な流通を妨げていたが、これは唐代を通じて存続した。他には都市以外の場所でも草市(墟市)の形成が見られた。
また煬帝によって作られた大運河も流通の柱として大きな活躍をし、その重要さから政治都市・長安より、大運河沿いの商業都市・開封が中国の中心都市の地位を奪うことになる。
社会の変化に対応できない貴族層や新興富裕層は没落し、唐代の勢家は平均3~6代程度と短い。貴族の影響力の牙城であった門下省はその実質を失い、中書省に吸収されて中書門下と呼ばれるようになる。次第に貴族層も科挙を受けるようになるが、五代十国時代の戦乱の中で中国史に於ける貴族は消滅する。
新興地主層は北宋代の形勢戸に繋がり、この層が科挙官僚を生み出すことで士大夫層の形成へと繋がる。
荘園の形成
初唐の荘園は皇族と貴族層によって経営されていた。
荘園の大きさは大体10頃から100頃(58 - 580アール)の大きさで、雇い入れた客戸(本籍地を離れた民)あるいは奴婢に田地の耕作や農産物の加工などに当たらせる。またその土地を小作農に貸し出す場合もあり、その際に種籾や耕牛などを貸し出すが、その借賃で破産しそのまま奴婢となる例も多かった。
盛唐以降は新興地主層が荘園の主な経営者となる。藩鎮も積極的に貧農を雇い官田の経営を行った。
文化
首都の長安は世界各国から人々が訪れ、国際色豊かな都市であった。日本や新羅、吐蕃など周辺諸国からやってきた使節・留学生はもちろん、西方からはるばるやってきた僧侶や商人たちがいた。後の時代の首都である開封や杭州が東の海の道を向いていたのに対し、長安は西のオアシスルートを向いた首都であった。
思想・宗教
科挙制度において儒教の経典が必須科目となり、太宗は孔穎達に命じてそれまで注釈により解釈の違いが大きかった『五経』を一つの解釈にまとめる『五経正義』を編纂させたことで不便が改められ、知識階級の中での教養を共通のものとした。
後漢代に伝来した仏教は魏晋南北朝時代の混乱の中で流行した。玄奘・義浄などはインドへ赴いて大量の経典を持ち帰り、貴族・皇族の庇護を受けて大いに栄えた。特に武則天は仏教を厚く保護したことで有名である。この時代の宗派には禅宗・浄土教・密教・華厳宗などがあり、それぞれ栄えたが、三階教は徹底的に弾圧された。
皇室の李氏は李耳(老子)を祖とすると称していたので、道教は唐代を通じて厚い保護を受け、道先仏後という原則が定められていた。特に玄宗はその廟号も道教風であり、道教に傾倒している。
その他にも長安にはマニ教・祆教(けんきょう:祆は示偏に天。ゾロアスター教)・イスラム教・景教(ネストリウス派キリスト教)などの寺院が立ち並び、国際都市としての景観を持っていた。
第15代武宗は道教を信奉し、仏教を始めとする外来宗教を取り締まった(会昌の廃仏・三武一宗の法難の第三)。ただ、この措置に宗教的な色は薄く、出家により脱税を謀る私度僧を還俗させ財政の改善を目的とした。これ以降の仏教は往時の繁栄を取り戻すことはなかった。復興した仏教は禅宗や再興した天台宗が中心となるが、各宗が混在した仏教センター的な大伽藍中心の仏教ではなくなった。そのことは、禅宗教団中の新たな規則である百丈清規中の「一日作さざれば一日食らわず」という有名な言葉に表れている。
また、停滞していた儒教の方でも、変化の兆しが見られ始める。それは、韓愈の著した『原道』『原性』などの中に見られる思想で、堯・舜や孔子以来脈々と続く「道統」論を提唱し、宋学の先駆となった。
文学
唐は歴代でも漢詩の最高峰とされる時代である。古文辞学派を率いた明の文人李攀竜は「文は秦漢、詩は盛唐」といい、唐詩、特に盛唐の詩を中国史上最高の漢詩だとしている。古文辞学派に反対する文人も、唐詩が最高峰だという見解には余り異を唱えてはいない(例えば陽明学の李卓吾は杜甫を非常に重んじている)。日本でも、平安時代から白居易などの唐詩が親しまれており、江戸時代になると、李の主張を敷衍した荻生徂徠らが『唐詩選』などを通じて多く紹介したため、日本で漢詩と言えばこの時代のものを思い浮かべる人が多い。
初唐
前代の六朝時代の余風を受け、繊細で華麗な詩風を身上とする修辞主義的な詩風が主流である。宮廷の詩壇における皇帝との唱和詩がこの時期の中心的作品となっている。代表的詩人には「初唐の四傑」と呼ばれる、王勃・楊炯・盧照鄰・駱賓王のほか、近体詩の型式を完成させた武則天期の沈佺期・宋之問などがいる。さらにこうした六朝の遺風を批判し、詩歌の復古を提唱して次代の盛唐の先駆的存在となった陳子昂が現れた。
盛唐
唐代の最盛期を反映し、多くの優れた詩人を輩出した時期である。修辞と内容が調和した詩風は、それまでの中国詩歌の到達点を示している。代表的詩人には、中国詩歌史上でも最高の存在とされる李白と杜甫を頂点として、王維・孟浩然・岑参・高適・王昌齢などがいる。
中唐
中唐期では、平易な表現を重んじた白居易・元稹(稹は禾偏に眞)らの「元白体」が現れた一方、個性的で難解な表現を愛用する韓愈・李賀などの一派も存在するなど、詩風は前代よりも多様化する傾向を見せ、多彩な性格を持つ詩壇を形成した。また韓愈・柳宗元らにより、六朝以来主流となっていた「四六駢儷体」と呼ばれる修辞主義的な文体を改め、漢代以前の達意を重んじる文体を範とする、新たな文体の創出が提唱された(「古文復興運動」)。韓愈らの試みは次の宋代の文学者に引き継がれ、後世、彼ら古文運動の主導者を「唐宋八大家」と総称する。
晩唐
晩唐は繊細で感傷的な詩風が主流となる。代表的な詩人として杜牧・李商隠・温庭筠・韋荘・韓偓がいる。さらには王朝の衰退に伴う社会の動乱を憂え、詩歌による社会改革を訴えた皮日休・陸亀蒙などの詩人も現れている。
歴史の分野では、太宗がそれまでに編まれていなかった時代の歴史書を編むよう命じたのを受けて、『晋書』『梁書』『陳書』『周書』『隋書』が房玄齢らにより編纂された。『史記』や『漢書』などは、私製の書物が後に国定の歴史書に昇格したものだが、この太宗の事業の後、正史は国家事業となった。滅びた前代の王朝の正史を編むことが、それを継いだ王朝の正当性の証となったのである。それでも私纂の歴史書の地位が低下することはなく、劉知幾が著した『史通』などは中国における史学の草分けとして受け止められ、後代の史家にとって必携の書となった。
六朝時代に誕生した志怪小説は、この時代に伝奇小説に変貌して市井に流通するようになり、『古鏡記』『遊仙窟』『杜子春伝』といった数々の作品が生み出された。
美術
唐代の美術品については現存するものが少ない。そこで唐代美術を伝えるものは莫高窟や龍門石窟などの石窟寺院や墳墓の中に残るものが主となる。初唐から盛唐にかけての絵画・塑像共に写実的であること、彩色が華麗であること、さらに仏教美術が圧倒的に多いことが特徴である。
絵画においては閻立本・呉道玄・李思訓・王維と言った名前が挙がる。閻立本は太宗に仕え『秦府十八学士賀真図』などを描いた人で肖像画を得意とした。[5]呉道玄は玄宗に寵愛された画家であり、人物・仏像・鬼神・鳥獣画など幅広いジャンルでそれまでの繊細な画風を改め、躍動的な絵を描いたという。[6]しかし作品は現存していない。李思訓は武則天期の人で、色鮮やかな山水画を得意とした。これに対して王維は水墨を用いた山水画を得意とし、後世からそれぞれ北宗画・南宗画の祖として扱われるようになる。唐後期は水墨画の発展が著しくなり、次代の宋以降に繋がる流れが見られる。この代表として同時代の絵画評論文集『唐朝名画録』は王墨・李霊省・張志和の3人を挙げている。
書は王羲之を尊崇する太宗とその周囲に集まった人物たちによって隆盛を迎える。書に於ける唐初三大家と呼ばれる存在が虞世南・褚遂良・欧陽詢である。これら初唐の書は王羲之以来の均整を重んじるものであるが、これに対して張旭は狂草と呼ばれる奔放な書体を創り、さらに張旭に師事した顔真卿は自らの意思を前面に押し立てた書体を打ち立てた。上述の呉道玄と同じく蘇軾曰く「書は顔魯公に至りて終われり。」と[7]。
陶磁器の分野では、唐三彩と呼ばれる逸品が作られ、名の通り色鮮やかな点が特徴である。人物像や動物像(俑)などが多く、器も実用性の低い物が多い。一方、高温度で焼成する磁器も作られ始め、次代の宋代に於ける磁器の最盛期の基礎となっている。
木造建築
この時代の木造建築は、「三武一宗の法難」を逃れた仏教寺院などが残されている。
- 南禅寺 (山西省)
- 佛光寺 (山西省) 東大殿
ギャラリー
コモンズの唐代の美術のカテゴリも参照。
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唐三彩 |
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唐三彩 |
CMOC Treasures of Ancient China exhibit - pottery horse, detail 1.jpg
唐三彩 |
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唐三彩 |
CMOC Treasures of Ancient China exhibit - tri-coloured figure of a civil official.jpg
文官の唐三彩 |
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花をモチーフにした金箔の銀茶わん |
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馬をモチーフにした金箔の銀つぼ |
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唐宮廷の絵画 |
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韓幹による鞍馬画 |
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兵士と馬のレリーフ |
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長安の大雁塔 |
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四川省楽山市の楽山大仏 |
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唐代の琵琶 |
国際関係
唐の最大領域は高宗期の7世紀半ばで、直接統治地域は東西が朝鮮北部から天山山脈のオアシス地帯まで、南北は外モンゴルからベトナム中部までの領域である。しかし周辺区域でも異民族を支配する間接支配を執っている。
唐の異民族支配は羈縻支配(きびしはい)と呼ばれる。この政策は冊封とは異なり、その異民族の支配地に唐の地方制度の一単位である都督府・羈縻州を設置し、唐の官制に組み込まれた長官に異民族の長を任命して自治権を認めるものである。完全な直接支配と冊封の間にあるが直接支配に近い。
都督府・羈縻州の上に立って管轄するのが都護府であり、辺境に6の都護府が置かれた。
- 安西 - 640年設置。シルクロードの天山南路の守備。
- 安北 - 647年設置。外モンゴル支配。
- 単于 - 650年設置。内モンゴル支配。
- 安東 - 668年設置。朝鮮・満州支配。
- 安南 - 679年設置。ベトナム・その他の南海諸国支配。
- 北庭 - 701年設置。天山北路の守備。
盛唐までの唐は外国の文化に対して寛容であり、高句麗の高仙芝、百済の黒歯常之、日本人の阿倍仲麻呂や雑胡(異民族の混血)の安禄山のように外国人が政府の官職を受けて活躍していた。まったく外国人に対する差別が無かった訳ではないが、唐代は歴代でも極めてその傾向が低いと言える。
安史の乱以降は都護府による辺境経営が縮小し、唐の異民族政策は一気に緩んだ。このため唐は辺境へ藩鎮の配置を進め、羈縻支配を改めていったが、吐蕃により唐の西北国境は不安定となる。9世紀にはウイグルや吐蕃も衰退に向かうが、唐にはもはや周辺諸国に干渉する力は残っていなかった。
北方
6世紀に巨大帝国を築いた突厥は隋の時代に東西に分裂していたが、それでもなお巨大な力を有しており、唐建国時に突厥から兵を借りているようにこの時期には明らかに突厥の力のほうが上であった。太宗即位の626年には長安のすぐ傍まで迫られて和約を結んでいる。
しかしその後の貞観の治により唐は急速に国力を拡大し、630年には突厥から独立した鉄勒と挟撃して東突厥を滅ぼして羈縻支配に組み込み、安北都護府(設置当初の名称は燕然都護府)・単于都護府を設置した。
太宗は鉄勒を初めとする諸部族から天可汗の称号を受けている。可汗(カガン)はハーン、すなわち遊牧民世界の最高君主を意味する称号であり、唐は中華帝国の王者であると共に草原の可汗でもあった。これは当時の唐帝国が帯びていた遊牧民的世界性を如実に示している。
しかしその後も、突厥の残部はその後も度々唐に対して反抗し、682年に再び独立して突厥第二帝国と呼ばれる国を建て、モンゴル高原において再び自立した。しかし突厥は745年にウイグルを中心とした部族連合(「九姓鉄勒」「九姓回鶻」)に攻められて滅び、ウイグルが突厥にかわって中央アジアから北アジアにかけて広がる遊牧国家を建設する。
ウイグルは唐に請われて安史の乱に援軍を送って以来唐に圧力をかけ続け、また高原経由の東西交易を中継して武力を背景に有利な取引を行い、中国の富を吸い上げて盛況をきわめた。しかし8世紀にキルギスの攻撃によりウイグル国家が倒壊してから後は高原を統一する勢力は消滅する。
西方
唐は640年に高昌国(現トルファン)を滅ぼしたのを初めとして、シルクロード沿いのオアシス国家を服属させて安西都護府(クチャ)を設置し、西域経営を行った。
また635年に青海の吐谷渾を支配下に置き、チベット高原の吐蕃も服属させた。しかし吐蕃に対する支配は強力なものではなく、吐蕃は度々唐の領内に侵攻し、それに対して唐から皇帝の娘と称する女性を吐蕃公主として嫁がせるなどして懐柔に努めた。
唐の西域経営は8世紀前半には天山山脈・パミール高原以西のトランスオクシアナにまで及ぶが、751年のタラス河畔の敗戦によって頓挫、中央アジアの支配権はイスラム帝国に譲ることになる。
さらに安史の乱が起こると、吐蕃は安史の乱の混乱に乗じて一時期長安を占拠した。長安からはすぐに撤退したものの甘粛は吐蕃の領域に入り、シルクロードは吐蕃の手に入った。その後の787年には安西・北庭の両都護府が吐蕃に陥落させられ、唐の西域経営は終わる。吐蕃は唐の西方防備を大いに悩ませたが、ウイグルら周辺諸国が次々に唐との共存策に移ったことから唐との紛争を続けられなくなり、822年に唐と和睦した。
さらに9世紀には吐蕃も国内の争いから衰退し、天山ウイグル王国や甘州ウイグル、タングート(後の西夏)などの新勢力の勃興を許した。唐の西域経営後退後もこれらによる中継貿易による内陸の東西交易路は維持され、依然として盛況を示した。さらに8世紀以降はインド洋・南シナ海を通じて西アジアの商人と唐の商人が直接取引きする南海交易が次第に盛んになり、数多くのアラブ人やペルシア人のムスリム商人が広州に来航した。
東方
隋以来、中国の王朝と敵対関係にあった東の高句麗に対しては、太宗・高宗期に計5回の遠征軍を送るが、全て失敗した。しかし新羅と連合(羅唐同盟)して660年にまず南の百済を滅ぼし、668年には最終的に高句麗を滅ぼすことに成功、平壌に安東都護府を設置する。
しかしその後は新羅が勢力を拡大し、半島の支配を巡って唐と対立(羅唐戦争)するようになると安東都護府は遼東半島にまで後退せざるを得なくなり、朝鮮半島では統一新羅が誕生する。新羅はその後、唐の冊封を受けて和解した。
一方同じ頃、東北地方(満州)ではこの地方に移住させらされた高句麗の遺民たちが中心となって震国(のち渤海)を立て、唐から独立した。当初はこの国に対して遠征軍を送ったが、この国が朝貢を行うようになると渤海郡王に冊封した。やがて渤海王・大武芸は黒水靺鞨の支配を巡って唐と対立し、733年には水軍を送って山東半島の登州を一時占領したが、間もなく講和した。
渤海と新羅はお互いを仮想敵国とみなし、日本を巻き込んで外交戦を繰り広げたが、唐の時代を通じてそれぞれが唐への朝貢を続け、東方は唐にとって比較的安定した領域であった。
南方
南越の滅亡以来、長い間支配下に置かれていたベトナムは、漢代から何度となく独立運動を起こしており、この地に安南都護府を置いていたが、反抗は激しく実質的に統治はできていなかったようだ。
安史の乱で唐が衰えて以降は、吐蕃の盟下にいた雲南の南詔が勢力を拡大、四川の成都付近まで進出した。また南詔は、唐の安南都護府を何度か滅ぼし、その都度奪回はしてはいたものの、もはやこの地方に唐の支配力は及ばなくなっていった。
日本との関係
日本からは太宗の時代から散発的な遣使があったが、唐が660年に日本の同盟国である朝鮮半島の百済を新羅と結んで滅ぼすと敵対関係となった。さらに663年、唐・新羅の連合軍は百済の残党と日本の援軍を白村江の戦いで打ち破る。
しかしこの戦いは結局日本へこれ以上の大陸への政治的接触を断念させることになり、やがて遣唐使による平和的通交が再開された。遣唐使は合計16度にわたって日本から唐へ派遣され、先進の唐文化を吸収した。唐の国号は日本において中国の代名詞のように使われるようになり、大陸を意味する日本語の「から」「もろこし」などの言葉に「唐」の字があてられて使われた。
9世紀になると唐の衰えと日本独自の文化の発展から日本側が危険を冒して遣唐使を送る意欲を失っていった。894年、菅原道真の建議により遣唐使は廃止され、その後明の時代まで、長らく中国の王朝と日本の間に国家レベルの正式の通交はなかった。
唐の皇帝と元号
脚注
- ^ 宦官勢力によって父・昭宗が失脚させられた際に皇帝として擁立されたが、2ヶ月足らずで昭宗が返り咲いたため李裕の即位の事実は否定された。通例として歴代皇帝には数えられていない。
参考文献
- 谷川道雄 『世界帝国の形成』新書東洋史2 中国の歴史2、講談社〈講談社現代新書〉452 1977年
- 布目潮渢・栗原益男 『隋唐帝国』 講談社〈講談社学術文庫〉1997年
- 『世界史大系 中国史2 三国〜唐』 山川出版社、1996年 ISBN 4-634-46160-4
- 礪波護 『隋唐帝国と古代朝鮮』 中央公論社、1997年 ISBN 4-12-403406-7
- 金子修一 『隋唐の国際秩序と東アジア』 名著刊行会 2001年
- 気賀沢保規 『絢爛たる世界帝国 : 隋唐時代』(『中国の歴史』06)講談社 2005年、ISBN 4-06-274056-7
- 『唐代の詩人 その伝記』 小川環樹編 大修館書店 1976年
- 『校注 唐詩解釈辞典』松浦友久編 大修館書店 1987年
- 『唐代の文論』 京都大学中国文学研究室編 研文出版 2008年
- 『中国古典小説選 4.5.6』 竹田晃 / 黒田真美子編 明治書院 2005年 - 2008年
- 4.古鏡記 遊仙窟他、5.枕中記 李娃伝 鴬鴬伝他、6.広異記 玄怪録 宣室志他
関連項目
外部リンク




