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大井篤

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大井 篤(おおい あつし、1902年(明治35年)12月11日 - 1994年(平成6年)12月27日)は、日本海軍軍人。最終階級大佐山形県鶴岡市出身。

目次

略歴

旧制山形県立鶴岡中学校より海軍兵学校第51期入校。入校時成績順位は293名中第11位、卒業時成績順位は255名中第9位[1]仏印進駐の際には、海軍側折衝者として国際感覚が欠落した佐藤賢了陸軍中佐を相手に悪戦苦闘させられ、海軍の猛反対にも拘らず、陸軍は中央命令を無視して北部仏印に強行進駐する。

1943年(昭和18年)から終戦まで海上護衛総司令部参謀を務め、その知見を元に戦後『海上護衛戦』を著した。この書は当時の帝国海軍がいかにシーレーン確保や通商破壊に対する防護に無智無頓着であったかを明らかにしたものとして非常に高く評価されている。

戦後はGHQ歴史課嘱託として太平洋戦争関係者から事情聴取を行う。

人物

大井は、一時的情緒などで感情が動かされる事の無い沈着な性格であったが、戦艦大和沖縄特攻作戦のために輸送船を護衛する艦艇用の重油の割り当てをカットするという報告を受けた際、「栄光ある水上部隊の最後を飾るため」という理由を付けて承諾を求める相手に電話口で「国を挙げての戦争に、水上部隊の伝統が何だ。水上部隊の栄光が何だ。馬鹿野郎」と罵倒したエピソードが残っている[2]

海軍大学校甲種学生時代、日本史の講話に来た皇国史観の大家平泉澄に「先生は歴史上の人物を呼ぶのに楠木正成は『正成公』と呼び、足利尊氏は呼び捨てにして宮方足利方で差をつけていますが、そういうのはおかしいのではないですか」と言って平泉を唖然とさせたという。その他海軍大学校で教官を理屈で言いくるめるような不穏当な発言が多いとの理由で学生を免ぜられそうになった。しかし、兵学校でも同期だった実松譲や篠原多磨夫、果ては高松宮宣仁親王など、大井に共感する反骨精神旺盛な海大同期(甲種学生三十四期)もあって退学は免れている。また海大の戦略講義に不満だった大井は、「もう少しまともなものを書いた文献はないのですか」と教官に詰め寄ったところ、教官は埃まみれになったパンフレットを持って来た。それは井上成美が教官時代に書いた戦略テキストで「胸がスッとするような文献を見つけた」と喜んだという。井上が戦艦比叡艦長時代の部下であり、理屈が合わない物事には絶対納得しない大井に閉口していた花岡という同期から「(非常に理屈っぽいところが)井上艦長と貴様は絶対ウマが合う。尊敬するかもしれんぞ」と井上の名前を何度か聞いていたこともあり、「この人がそうか。花岡は良い艦長に仕えているな」という思いだったという。

軍令部勤務の時はちょうど日独伊三国同盟締結の件で日本中が揉めていた時であった。イギリス駐在経験はなかったが、東京外国語学校英語の勉強のために派遣されたことがあり、そこで学んだ英文学や歴史などを通してイギリスを敵に回すのは愚策であるという見解を持っていた。またそれに関して陸軍や外務省の官僚と連絡会を開き意見交換をしていた。陸軍だけでなく外務省の革新官僚もドイツかぶれになっていく様を見て歯がゆい思いをしたらしく、酒の席で白鳥敏夫を担ぐ若手官僚が白鳥を称える替え歌を歌い出したところ、「あんたらそれでも国士のつもりか。白鳥さんが何だ」と食ってかかり、相手も「何だとこの海軍の腰抜けが」と乱闘が起こるような雰囲気になったが、同席していた同じ海軍の吉田英三が無理矢理大井に短剣を持たせ二人で外に出て行ったという。また、当時の直属の上司がドイツ贔屓であったため毎日のように机を叩きながら議論をしていたといい、それを軍令部次長であった古賀峯一経由で海軍大臣の米内光政の耳に触れ、イギリス事情を聴きたいという名目で大臣室に呼ばれ、米内の前で軍令部の空気を率直に語ったという。

「日本が太平洋戦争に突入し、滅んだのは大和武蔵のせいだ」というのが持論であり、「貧乏人(日本)の娘(海軍)がとんでもなく高い晴れ着(大和・武蔵)を持っているようなものだ。それがあるばかりに、テスト前日というのに着飾って帝劇に行きたくなってくる。試験に落ちるのは当たり前だ。こんな馬鹿なことはない」と述べている[3]。これは大和の元乗員が集まる戦友会でも堂々と述べており、大井の性格を知っている内田一臣(元海上自衛隊海上幕僚長)は「大井さん、あなたという人は・・・」と呆れたという。

終戦二日後の昭和20年8月17日、護衛艦隊司令部から「全艦隊はアメリカに降伏せよ」と電報を打った際、軍令部柴勝男とばったり会ったところ、「大井君、まだ日本は負けとらん!」と言われ「天皇陛下は詔勅を出されたではないか」と言い返した。柴が「あいつは臆病だったが我々の上には大元帥陛下がいるんだ!」と怒鳴ったところ、「違う!大元帥陛下は天皇陛下の下だ!」と怒鳴り返した。[4]

晩年は高松宮宣仁親王日記の編纂委員を務め死の直前まで著述活動を続けた。NHKスペシャルの『ドキュメント太平洋戦争』にも協力し、シリーズ中「大日本帝国のアキレス腱」「一億玉砕への道」では自ら出演もしている。

阿川弘之は自著『高松宮と海軍』において、大井の死を悼んでいる。

年譜

主要著述物

  • 海上護衛戦(五出:学研M文庫2001年ISBN 4-05-901040-5 C0121
    • (初出:日本出版共同株式会社、1953年
    • (再出:原書房1975年・『海上護衛参謀の回想』に改題)
    • (三出:朝日ソノラマ文庫版航空戦史シリーズ24、1983年・『海上護衛戦』に復題)
    • (四出:朝日ソノラマ新装版戦記文庫7、1992年
  • 統帥乱れて 北部仏印進駐事件の回想 毎日新聞社ISBN 4-620-30443-3 C0020
  • 語りつぐ昭和史(2) 終戦外交無条件降伏までの経緯 朝日新聞社ISBN 4-02-260609-6 C0121
  • 新見政一『第二次世界大戦戦争指導史』原書房、1984年。序文。
  • 日本海軍の良識 提督 新見政一 自伝と追想 (該書解説が大井の絶筆) (原書房、1995年) ISBN 4-562-02696-0 C0021
  • 宇宙兵器と国際政治 自由陣営の戦略体勢 日本国際政治学会編・有斐閣
  • 証言記録太平洋戦争史 戦争指導編 米国戦略爆撃調査団編・日本出版協同)
  • マッカーサー戦記 (対訳) チャールズ・A・ウィロビー著・朝日ソノラマISBN 4-257-17203-7 C0131(上巻)  ISBN 4-257-17204-5 C0131(下巻)
  • 終戦外史 (対訳) (ロバート・J・ビュート著・時事通信社
  • 啓蒙された利己(機関誌水交 昭和28年・第2号
  • モリソン著「ガダルカナル戦」を読んで(機関誌水交) 昭和28年・第4号
  • 公海における自由はどうなるのか 竹島問題李承晩ライン (機関誌水交) 昭和28年・第6巻
  • 憲法の文民規定と旧軍人 (1~4) (機関誌水交) 昭和30年・第20~25号
  • ミサイル時代の日本の防衛(機関誌水交) 昭和33年・第55号
  • 十年後のわが国防衛のあり方(機関誌水交) 昭和36年・第100号
  • 日本の安全保障論争(機関誌水交) 昭和41年・第159巻
  • 日ソ関係の重大性を論ず(機関誌水交) 昭和42年・第166号
  • もっと「海洋日本」意識を(機関誌水交)昭和43年・第175号
  • 「海軍と日本」における海軍体質論について (1~3) (機関誌水交) 昭和51年・第341~343号
  • 終戦における海軍の役割り (1.2) (機関誌水交) 昭和61年・第388.390号
  • 兵科予備学生制度誕生記(機関誌水交) 平成7年・第484号

GHQ歴史課陳述録

  • 1945年に於ける南方地域との海上交通に就いて 1947年(昭和22年)10月15日
  • 陸海民三者連合輸送委員会に関する陳述書 1947年(昭和22年)12月10日
  • 1945年日本本土に対する米空軍の機雷投下及び其の影響に就いて 1949年(昭和24年)10月15日

参考文献

関連項目

脚注

  1. ^ 海軍兵学校の入校者数と卒業者数に大きな開きがあるのは、ワシントン軍縮条約発効を受け、海軍士官も減員を迫られることとなった結果、学年試験成績が1点たりと不足する者や、健康に若干たりとも問題を抱える者を容赦なく落第させたためである。
  2. ^ 『海上護衛戦』の中にこのやり取りの一部始終が記されている(学研M文庫版・394-398頁)。しかし、大井自身は「最後の『馬鹿野郎』は一言多かったね」と周囲や作家の阿川弘之に述べていたという。
  3. ^ 『海上護衛戦』(学研M文庫版・289頁)
  4. ^ この話は阿川弘之が『日本海軍、錨揚ゲ!』で「いかにも大井さんらしい」エピソードとして紹介している。