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大正

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大正(たいしょう)とは、明治昭和の間にある日本元号大正天皇の在位期間である1912年明治45年/大正元年)7月30日から1926年(大正15年/昭和元年)12月25日までの期間。

目次

改元

大正改元の詔書1912年(明治45年)7月30日

朕菲德ヲ以テ大統ヲ承ケ祖宗ノ威靈ニ誥ケテ萬機ノ政ヲ行フ茲ニ先帝ノ定制ニ遵ヒ明治四十五年七月三十日以後ヲ改メテ大正元年ト爲ス主者施行セヨ(以下略)[1]

  • 1926年(大正15年)12月25日 - 大正天皇が崩御し、摂政宮裕仁親王(のちの昭和天皇)が践祚したため、昭和に改元、同日は昭和元年12月25日となった。皇太子裕仁親王は1921年(大正10年)11月25日に、病が篤くなった大正天皇の摂政に就き、以来天皇の名代としての務めを行っていた。

出典

「大正」の由来は『易経』彖伝・臨卦の「亨以、天之道也」(大いに亨(とほ)りて以て正しきは、天の道なり)から。「大正」は過去に4回候補に上がったが、5回目で採用された。

なお大正天皇実録によれば元号案として「大正」「天興」「興化」「永安」「乾徳」「昭徳」の案があったが、最終案で「大正」「天興」「興化」に絞られ、枢密顧問の審議により「大正」に決定した。

特徴

大正天皇の治世を指している。日本の歴史上の時代区分で、日本近代史で、年号によって時代区分された大正時代は学術上は絶対的に認められた時代ではないが、大正時代は(年数で15年間・期間は14年間)で日本史で一番短い時代である。平成時代安土桃山時代が次に短い時代である。後世では大正デモクラシーに基づいた、明治期に成立した大日本帝国としての日本の最盛・安定期として見られることが多い。第二次世界大戦前の日本における転換期に当たる。

1912年(大正元年)は辛亥革命が終わって中華民国が成立した年で、「民国N年」が「大正N年」に当たる。この時期の世界は、第一次世界大戦が起こった時期でもあり、その結果として敗れた帝国が続々と解体され、ヴァイマル共和国など共和制国家が多数成立した。大正年間を通じて都市に享楽的な文化が生まれる反面、スラムの形成、民衆騒擾の発生、労働争議の激化など社会的な矛盾が深まっていった。

大正年間には、2度に及ぶ護憲運動(憲政擁護運動)が起こり、明治以来の藩閥支配体制が揺らいで、政党勢力が進出した。それは大正デモクラシーと呼ばれ、尾崎行雄犬養毅らがその指導層となった。大正デモクラシー時代は、1918年(大正7年)の米騒動の前と後で分けられることが多いが、米騒動後、初めて爵位を持たず、衆議院に議席を持つ平民宰相原敬が内閣を組織した。

しかし、原はその登場期に期待された程の改革もなさないままに終わり、一青年により東京駅頭で暗殺された。普選運動が活発化し、平塚雷鳥市川房枝らの婦人参政権運動も活発となった。1925年(大正14年)には、普通選挙法が成立したが、同時に治安維持法が制定された。言論界も活況を呈し、君主制民主主義を折衷しようとした吉野作造民本主義美濃部達吉天皇機関説などが現れた。

1921年(大正10年)11月25日皇太子裕仁親王大正天皇の病状悪化によって摂政宮となった。力強かった時代の明治時代を見直す機運から明治天皇昭憲皇太后を祀る明治神宮が建立された。

1923年(大正12年)に関東大震災が起こり、首都が壊滅的な打撃を受けたが、程なく復興した。震災後、山本権兵衛内閣が成立した。その後、第二次護憲運動(憲政擁護運動)が起こり、護憲三派内閣として加藤高明内閣が成立した。第一次世界大戦後には、ベルサイユワシントン体制に順応的な幣原外交(加藤内閣)が展開され、中華民国への内政不干渉、ソビエト連邦と国交回復など、一定の民主的な色彩を示した。昭和前期が軍国主義化した独裁時代であると認識している戦後生まれの日本人たちにとってはこの時代が戦前の象徴とされている。この時代には江戸生まれ~明治初期生まれの人たちが逝くようになり、明治維新の功労者や明治の文豪逝去するようになった。

護憲運動と政治

1911年明治44年)に第2次西園寺内閣が成立したころ、日本の国家財政は非常に悪化していたが、中国辛亥革命に刺激された陸軍は、抗日運動対策もかねて朝鮮に駐屯させる2個師団の増設を強く政府にせまった。緊縮財政方針の西園寺公望がこれを拒否し、政府・与党(立憲政友会)と陸軍が対立すると、多くの国民が陸軍の横暴に憤った。一方、1912年(明治45年/大正元年)7月に明治天皇が崩御して大正天皇が政権に就いた事や、美濃部達吉が『憲法講話』を刊行して、天皇機関説や政党内閣論をとなえたことは、国民に新しい政治を期待させた。

1912年(大正元年)の末、2個師団増設が閣議で認められなかったことに抗議して、上原勇作陸相が単独で辞表を大正天皇に提出し、陸軍が軍部大臣現役武官制をたてにその後任を推薦しなかったため、西園寺内閣は総辞職に追い込まれた。代わって長州閥と陸軍の長老である桂太郎が、就任したばかりの内大臣侍従長を辞して第3次桂内閣を組織すると、「宮中府中の別」の原則を無視して宮中の職から首相に転じたことが、藩閥勢力が新天皇を擁して政権独占を企てているとの非難の声が上がった。

ファイル:YukioOzaki TaroKatsura.jpg
1913年(大正2年)2月5日、尾崎行雄桂内閣弾劾演説(大正政変)。
1913年(大正2年)2月5日、桂太郎首相の施政方針演説に対する質問に立った尾崎行雄は、桂首相を激しく糾弾した。

立憲国民党犬養毅立憲政友会尾崎行雄を先頭とする野党勢力や新聞に、商工業者や都市部の知識階級も加わり、「閥族打破・憲政擁護」を掲げる運動が全国に広がった(第一次護憲運動)。桂は立憲同志会を自ら組織してこれに対抗しようとしたが、護憲運動は強まる一方だったので、1913年(大正2年)、民衆が議会を包囲するなか、在職わずか50日余で退陣した(大正政変)。

桂のあとは、薩摩出身の海軍大将山本権兵衛立憲政友会を与党に内閣を組織した。山本内閣は行政整理を行うと共に、文官任用令を改正して政党員にも高級官僚への道を開き、また軍部大臣現役武官制を改めて、予備・後備役の将官にまで資格を拡げ、官僚軍部に対する政党の影響力拡大に努めたが、1914年(大正3年)、外国製の軍艦や兵器の輸入をめぐる海軍高官の汚職事件(シーメンス事件)が発覚すると、都市民衆の抗議行動が再び高まり、やむなく退陣した。

これを見た山県ら元老は、庶民の間で人気のある大隈重信を急遽後継首相に起用した。第2次大隈内閣長州藩や陸軍の支援のもと、立憲同志会を少数与党として出発したが1915年(大正4年)の総選挙では立憲同志会などの与党が立憲政友会に圧勝した。この結果、懸案の2個師団増設案が議会を通過した。

第一次世界大戦の勃発でイギリスドイツに宣戦すると、日英同盟を理由にドイツに宣戦し、中国における青島山東省南洋諸島の一部を占領した。ついで大戦のためヨーロッパ諸国が中国問題に介入する余力のないのを利用して、1915年(大正4年)に袁世凱政府に、加藤高明外相が二十一か条の要求を提出した(対華21ヶ条要求)。続く寺内正毅内閣では、袁のあとを継いだ北方軍閥の段祺瑞内閣に巨額の借款をあたえて(西原借款)、政治・経済・軍事にわたる中国における日本の権限を拡大しようとつとめた。極東の権益を保持するため第4次日露協約、イギリスとの覚書、特派大使石井菊次郎石井・ランシング協定を締結した。1917年(大正6年)のロシア革命を好機とみた寺内内閣北満州沿海州まで勢力を広げようとした(シベリア出兵)。

寺内正毅超然内閣に対抗して憲政会が結成されると、寺内首相は1917年(大正6年)に衆議院を解散、総選挙の結果立憲政友会憲政会に代わって衆議院の第一党となった。大戦による急激なインフレとシベリア出兵をきっかけとして国内では米価が暴騰し、富山県から米騒動が起こり、全国に広がった。政府はようやくそれを鎮圧したが、シベリア出兵を推進した寺内正毅首相は退陣した。

民衆運動の力を目の当たりにした元老たちはついに政党内閣を認め、立憲政友会原敬を首相に指名し、華族でも藩閥でもない「平民宰相」が誕生した。しかし、国民の期待に対して原内閣は普通選挙制の導入には冷淡で、選挙権の納税資格を3円以上に引き下げ、小選挙区制を導入するにとどまった。政治腐敗から1921年(大正10年)に原が東京駅頭で一青年に暗殺された(原敬暗殺事件)。続いて政友会総裁となった高橋是清が首相となったが、短命に終わり、代わって海軍大将加藤友三郎が事実上の与党として内閣を組織し、非政党内閣が続いた。

その後、関東大震災虎ノ門事件の発生は、それまでの藩閥に危機意識を抱かせ、第2次山本権兵衛内閣が虎ノ門事件で倒れた後、枢密院議長から天下って清浦奎吾が内閣を組織しようとした。それに対し憲政会・革新倶楽部・政友会の三派は、普選の採用、政党内閣制の樹立を掲げて、藩閥・官僚勢力を主体とした政友本党に対抗した(第二次護憲運動)。護憲三派(憲政会、政友会、革新倶楽部)は選挙で勝利し、護憲三派内閣として加藤高明内閣が成立した1924年(大正13年)、第二次大正政変)。加藤高明内閣は1925年(大正14年)、普通選挙法を成立させ、ついに身分や財産によらず成人男子すべてに選挙権を与える普通選挙が実現することになる。普選は、婦人の参政権は認めず、生活貧困者の選挙権も認めないなどの制約があった。

またそれは「革命」の安全弁としての役割も期待されていたが、それと同時に治安維持法を成立させ、「国体の変革」「私有財産否定」の活動を厳重に取り締まった。しかし、これによって政党政治が定着するようになった。この後、1932年昭和7年)に犬養毅内閣が五・一五事件で倒れるまでの8年間は、政党政治が続き、明治以来の藩閥政治は一応終焉した。政党内閣時代はこのときまで続き(憲政の常道)、政治は、官僚や軍部を基盤にしつつも政党を中心に動いていくこととなった。

第一次世界大戦と景気

1914年(大正3年)には第一次世界大戦が勃発した。日本は直接的戦闘地域はほとんどなかったにもかかわらず元老の井上馨はその機会を「天佑」と言い、日英同盟を理由に参戦し戦勝国の一員となった。

発生直後こそは世界的規模への拡大に対する混乱から一時恐慌寸前にまで陥ったが、やがて戦火に揺れたヨーロッパの列強各国に代わり日本米国両新興国家が物資の生産拠点として貿易を加速させ、日本経済は空前の好景気となり、大きく経済を発展させた。特に世界的に品不足となった影響で造船業・繊維業・製鉄業が飛躍的に発展し、後進産業であった化学工業も最大の輸入先であるドイツとの交戦によって自国による生産が必要とされて、一気に近代化が進んだ。こうした中で多数の「成金」が出現する。また、政府財政も日露戦争以来続いた財政難を克服することに成功する。

しかし、1918年(大正7年)に戦争が終結すると過剰な設備投資と在庫の滞留が原因となって反動不況が発生して景気が悪化した。更に戦時中停止していた金輸出禁止の解除(いわゆる「金解禁」)の時期を逸したために、日本銀行に大量のが滞留して金本位制による通貨調整の機能を失って、政府・日銀ともに景気対策が後手後手に回った。更に関東大震災による京浜工業地帯の壊滅と緊急輸入による在庫の更なる膨張、震災手形とその不良債権化問題の発生などによって、景気回復の見通しが全く立たないままに昭和金融恐慌世界恐慌を迎えることになる。

パリ講和会議では、人種差別撤廃案を主張し、人種差別撤廃を訴え大多数の国の支持を得たが、アメリカ、イギリス、オーストラリアなどの反対によって否決された。また、旧ドイツ領であったマーシャル諸島を信託統治するようになり、アメリカと直接接するようにもなり、日英同盟が解消されるなど、太平洋戦争への伏線が芽生えることとなった。

震災復興

1923年(大正12年)には関東大震災が生じた。この未曾有の大災害に東京は大きな損害を受けるが、震災後、山本権兵衛内閣が成立した。新内閣の内務大臣山本内閣の内務相)となった後藤新平が震災復興で大規模な都市計画を構想して辣腕を振るった。震災での壊滅を機会に江戸時代以来の東京の街を大幅に改良し、道路拡張や区画整理などを行いインフラが整備され、大変革を遂げた。

またラジオ放送が始まるなど近代都市へと復興を遂げた。しかし、一部に計画されたパリロンドンを参考にした環状道路や放射状道路等の理想的な近代都市への建設は行われず、日本は戦後の自動車社会になってそれを思い知らされることとなり、戦後の首都高速の建設につながる。一方、この震災に乗じて、暴動が生じるというデマが振り撒かれ、朝鮮人や共産主義者の虐殺が行われた亀戸事件などが起こったことや、震災直後の緊急対策であった筈の震災手形の処理を遅らせて不良債権化させた結果として金融恐慌を招いたことは歴史の負の側面であろう。

文化

日本初の歌謡曲として松井須磨子カチューシャの唄をはじめとする数々の歌謡曲が誕生して、実はジャズもこの時代に日本に伝わり、それなりに発展する。昭和時代芸能界として発展をする「俳優女優歌手」などの職業が新しく誕生して、その後の大衆文化の原型が生まれた。

日露戦争頃から、当時の経済文化の中心地であった大阪神戸において都市を背景にした大衆文化が成立し(阪神間モダニズム)、全国へ波及した。今日に続く日本人の生活様式もこの時代にルーツが求められるものが多い。

大阪では、東京よりも先におびただしい私鉄網が完成し、なかんずく小林一三が主導した阪神急行電鉄の巧みな経営術により、阪神間に多くの住宅衛星都市群が出現した。一方、日清戦争1894年1895年〔明治27年~明治28年〕)を経て東洋一の貿易港となっていた神戸港に夥しく流入する最新の欧米文化を彼ら衛星都市の富裕層が受け入れて広まり、モダンな芸術・文化・生活様式が誕生した。大阪・神戸は関東大震災1923年〔大正12年〕)後に東京から文化人の移住等もあって、文化的に更なる隆盛をみた。大正中期に都市部で洋風生活を取り入れた「文化住宅」が一般向け住宅として流行をした。

東京においては、震災において下町が江戸時代の街並みを失う一方、震災の影響が総じて少なかった丸の内大手町地区にエレベーターの付いたビルディングの建設が相次ぎ、一大オフィス街が成立した。下町で焼け出された人々が世田谷、杉並等それまで純然たる農村であった地域に移住して、新宿、渋谷を単なる盛り場から「副都心」へと成長させた。1918年(大正7年)に専門学校から昇格する形で私立大学を中心に旧制大学を認可する大学令高等学校令が公布されて高等教育機関が整備されて、東京帝大の卒業生の半数が民間企業に就職するようになり、「サラリーマン」が大衆の主人公となった。明治時代まで呉服屋であった老舗が次々に「百貨店」に変身を遂げ、銀座はデパート街へと変貌した。

戦中に中断されて、戦後に復活して継続されている箱根駅伝甲子園球場で行われるようになった中等学校野球などのスポーツが開始された。明治神宮外苑に「神宮外苑野球場」ができたのが1926年(大正15年)で、その前年出発した「東京六大学野球」が愈々隆盛をきわめるようなる。「大阪朝日新聞」、「大阪毎日新聞」が100万部を突破して東京に進出、それに対抗した「読売新聞」も成長を果たして、今日「三大紙」といわれるようになる新聞業界の基礎が築かれた。

1925年(大正14年)3月には、東京、大阪、名古屋でラジオ放送が始まり、新しいメディアが社会に刺激を与えるようになる。震災で鉄道が被害を受けたこともあって、「自動車」が都市交通の桧舞台にのし上がり、「円タク」の登場もあって、旅客か貨物であるかを問わず陸運手段として大きな地位を占めるようになる。都市部では新たに登場した中産階級を中心に“洋食”が広まり「カフェ」「レストラン」が成長、飲食店のあり方に変革をもたらした。

カレーライスとんかつコロッケ大正の三大洋食と呼ばれた。特にコロッケは(コロッケの唄がヒット曲となり、コロッケ以外にオムレツが大正の3大洋食と呼ばれた)の登場により、洋食とは縁のなかった庶民の食卓にまで影響が及ぶこととなった。子供たちに人気があったロシアパンが伝来して、1919年(大正8年)7月7日 に日本で初めての乳酸菌飲料カルピスが発売される。明治時代まで庶民には縁のなかった「欧米式美容室」、「ダンスホール」が都市では珍しい存在ではなくなり、男性の洋装が当たり前になったのもこの時代である。一方、地方(特に農漁村)ではそういった近代的な文化の恩恵を受けることはまれで、都市と地方の格差は拡大していった。

文学界には、新現実主義芥川龍之介耽美派谷崎潤一郎、さらに武者小路実篤志賀直哉人道主義(ヒューマニズム)を理想とした白樺派が台頭した。このころまでに近代日本語が多くの文筆家らの努力で形成された。今日に続く文章日本語のスタイルが完成し、上記の他に、中里介山の『大菩薩峠』や『文藝春秋』の経営にも当った菊池寛などの文芸作品が登場した。

同時期の1921年(大正10年)には、小牧近江らによって雑誌『種蒔く人』が創刊され、昭和初期にかけてプロレタリア文学運動に発展した。また1924年(大正13年)には、演劇で小山内薫築地小劇場を創立し、新劇を確立させた。新聞、同人誌等が次第に普及し、新しい絵画や音楽、写真や「活動写真」と呼ばれた映画などの娯楽も徐々に充実した。

社会問題

この当時、社会事業をめぐる議論が盛んとなり、米騒動後には政府・地方で社会局および方面委員制度の創設が相次いで行われ、それらの機関によって都市の貧民調査や公設市場の設置などが進められていった。

また1919年(大正8年)には、第一次世界大戦を契機とした国民の思想・生活の変動に対処するという目的で内務省の主導による民力涵養運動が開始されており、後の教化総動員運動の先駆けともなる、国家が国民の生活の隅々まで統制を行おうとする傾向がこの時期から見られるようになる。

こうして大正年間において社会事業が活発となった原因として、小作争議の頻発や労働運動の大規模化など、地方改良運動に見られるような従来の生産拡大方針では解決不可能な問題が深刻化したことが指摘されている。鈴木文治によって友愛会が設立されて、第一次世界大戦期間中にインフレが進行した事によって米騒動が発生した。成金が誕生する一方で貧富の差が拡大したことで急増した労働争議に友愛会などの労働組合が深く関係した。

大正デモクラシーによって様々な社会運動が行われた。近世以前から続く封建制度による負の遺産として被差別部落問題が存在した。明治維新によって四民平等となったが、近代化以後も被差別部落問題が解決されなかったために全国水平社が結成された。普通選挙運動の要求が男性のみであった事から、日本にも婦人参政権運動を目的として結成された新婦人協会が設立されて、女性が地位向上を求めるようになった。三・一独立運動によって日本統治時代の朝鮮朝鮮総督府がこれまでの憲兵制度による武断政治から、内鮮一体朝鮮半島近代化を目的とする文化政治に改めたが、在日朝鮮人が増加した事から日本人朝鮮人の衝突を解決する必要性が発生した。

エピソード

大正改元に際し、新元号をスクープしたのが朝日新聞記者の緒方竹虎である。このスクープにより出世し、同社政治部長、主筆など幹部を経て、後に党人派の大物政治家へと栄転した。

略年表

西暦との対照表

大正元年2年3年4年5年6年7年8年9年10年
西暦1912年1913年1914年1915年1916年1917年1918年1919年1920年1921年
干支壬子癸丑甲寅乙卯丙辰丁巳戊午己未庚申辛酉
大正11年12年13年14年15年
西暦1922年1923年1924年1925年1926年
干支壬戌癸亥甲子乙丑丙寅

大正を冠するもの

企業

地名(大正区内)

テーマパーク

文化作品名

商品

  • 大正海老(タイショウエビ)

学校

大正時代の評価

参考文献

  • 『平成日本の原景大正時代を訪ねてみた』(著者は皿木喜久)
  • 『日本の歴史第17巻大正時代~大正デモクラシー』(著者は松尾尊兌

脚注

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関連項目


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