1. TOP
  2. Kiraku辞典
  3. メインページ

大野倫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大野 倫
基本情報
国籍 ファイル:Flag of Japan.svg 日本
出身地 沖縄県具志川市(現・うるま市
生年月日 1973年4月3日(39歳)
身長
体重
185cm
85kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1995年 ドラフト5位
初出場 1997年8月5日
最終出場 2001年4月7日
経歴(括弧内は在籍年)

大野 倫(おおの りん、1973年4月3日 - )は、沖縄県出身の元プロ野球選手外野手)。

目次

経歴

アマチュア時代

沖縄水産高では2年生の夏に外野手として選手権大会に出場し、決勝で南竜次を擁する天理高校に0-1と惜敗したものの沖縄県勢として初の準優勝を果たす。このため県民の期待は高まり、秋からエースで四番となると大きなプレッシャーを感じたという[1]。3年の4月には練習試合のダブルヘッダー完投した2日後の投球練習中に右ひじが音を立て激痛を感じたが、通院すれば試合に出場できなくなるため治療せずに練習を続けた[2]。なお、エースの座を争った同級生は夏の県大会が始まる直前に高熱をおして練習試合に登板したが、試合後に急性腎盂炎のため入院している[3]

このような状況で、県大会では医者の警告を受けながら痛み止めの注射を打って登板し[3]選手権大会への出場を決めた。県大会の優勝後は喜びよりも安堵感の方が強かったという[1]。本大会では2回戦の対明徳義塾戦で既に本来の制球力がない状態だった[4]が、有力な控え投手がいないため決勝まで6試合全てで完投し、特に3回戦以降は4連投となった。大阪桐蔭との決勝戦では萩原誠本塁打を浴びるなど[5]、13失点で敗れている。同大会では毎日栽弘義監督のマッサージを受け[2]6試合で36失点しながら773球を投げぬき、右ひじの疲労骨折と診断され9月に手術を受けたところ、剥離骨折した親指の爪ほどの骨片が複数摘出された[2]

高校卒業後は九州共立大学に進学し、故障のため投手は続けられなかったが高校通算18本塁打の長打力を活かして外野手に転向した[6]。ひじは曲がったままだったが、在学中に遠投で100mは投げられるほどに回復している[3]。1年春から福岡六大学リーグDHとして出場し、秋は外野手として打率.450、4本塁打、10打点の成績を残している[7]。翌1993年2月には最年少の日本代表メンバーとしてアジア選手権に参加し、3年後のアトランタ五輪代表候補としても期待されていた[8]

2年春のリーグ戦では四番を務めて[9]4割を超える打率でリーグ優勝に貢献し[10]全日本選手権では朝日大学との1回戦で2ランホームランを放っている[6]。同年の日米大学野球[11]ユニバーシアードでは日本代表に選ばれた[9]。4年生になると主将を任され[9]、同年の日米大学野球では代表に復帰している[12]。福岡六大学リーグ新記録の通算18本塁打を放ち[13]1995年のドラフト会議巨人から5位で指名され入団。契約金と年俸はそれぞれ7,000万円、960万円(いずれも推定)だった[14]

プロ野球選手時代

1年目の1996年ジュニアオールスターに先発出場し、翌1997年には一軍でスタメン出場も果たした[15]1999年は一軍の控え外野として[16]自己最多の11試合に出場し、オフには180万円増の年俸1,180万円(推定)で契約を更改している[17]2000年は一軍で初本塁打を放ち、10月7日には地元・沖縄の浦添市民球場で開催されたファーム日本選手権に先発出場した[18]同年の日本シリーズでは出場選手として登録された[19]ものの、試合への出場はなかった。

シリーズ後の11月18日吉永幸一郎との交換トレードが決まり、12月23日に追加された佐藤充とともに[20]ダイエーへ移籍した。2002年6月には二軍のチーム内でその月に最も活躍した選手に贈られる雁鷹賞を受賞した[21]が、一軍での出場はなく同年限りで退団、トライアウトを受験したが採用球団はなかった。

現役引退後

自動車メーカーの営業マンを経て、九州共立大学沖縄事務所長を務めている[22]。また、出身地のうるま市ボーイズリーグの「うるま東ボーイズ」を指導し、球数制限など健康管理に配慮している[2]2010年6月29日6月30日には、野球解説者として沖縄セルラースタジアム那覇の『RBCiラジオ エキサイトナイター』に出演した。

選手権大会での登板と故障

高野連の反応

故障のため選手権大会の閉会式の行進でも130度にまがったままの大野の右ひじは痛々しさを感じさせ[2]、大会の過酷な日程には批判も寄せられた[23]高野連会長の牧野直隆大阪大学医学部の越智隆弘に相談し、連投が美談とされていた風潮の中で1993年選手権大会から投手の肩やひじの関節検査を試験的に導入し、翌年から本格導入された[2]。また1993年に高野連は投手複数制を加盟校に奨励し[24]、これを受けて後にベンチ入り選手数も増加している。

1999年センバツでは、同県の沖縄尚学が決勝に進出し、前日の準決勝で200球以上投げたエース・比嘉公也を登板させず、念願の沖縄県勢初の全国制覇を果たした。一方で、2010年に沖縄県勢初の夏の甲子園優勝を達成した興南は島袋洋奨を軸に三本柱で大会に臨んだものの、島袋が中1日で4連投するなど過酷な登板はなくなっていない[2]

栽弘義への思い

大野は決勝戦敗退に関しては何の後悔もしておらず、「やっと終わったという安堵感が強かった」と述べている。栽弘義監督の起用によって投手生命を奪われたが、栽を批判する気持ちはなく「栽監督がもし勝負師に徹していたのならば、スパッと切って投げさせなかった。」と述べている。そして、「栽監督が『ここまで来たのだから勝ち負けに拘らず最後まで行こう』と(大野に)温情を入れてしまい、栽監督が栽先生になったから全国制覇を逃してしまった。」と述懐している[25]。栽が2007年に逝去した際には、告別式で感謝の言葉を伝えていた。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1997 巨人 2440100010000000020.250.250.250.500
1999 1113131200020000000052.154.154.154.308
2000 5551100141000000000.200.200.8001.000
2001 ダイエー61190100011000020040.111.273.111.384
通算:4年 24333125001820000200112.161.212.258.470

記録

背番号

  • 43 (1996年 - 2002年)

脚注

  1. ^ a b 毎日新聞、2010年3月5日付夕刊、九州地方面
  2. ^ a b c d e f g 読売新聞、2010年12月15日付夕刊、P.3
  3. ^ a b c AERA、1994年7月2日号
  4. ^ 読売新聞、1991年8月17日付朝刊、P.21
  5. ^ 朝日新聞、1995年7月14日付朝刊、P.27
  6. ^ a b 毎日新聞、1993年6月6日付朝刊、P.16
  7. ^ 毎日新聞、1992年12月16日付朝刊、P.17
  8. ^ 朝日新聞、1993年2月15日付夕刊、P.2
  9. ^ a b c 読売新聞、1995年4月8日付夕刊、九州地方面
  10. ^ 朝日新聞、1993年6月3日付夕刊、P.2
  11. ^ 第22回 日米大学野球選手権大会 日本代表
  12. ^ 第24回 日米大学野球選手権大会 日本代表
  13. ^ 毎日新聞、1996年5月15日付朝刊、P.23
  14. ^ 読売新聞、1995年12月11日付夕刊、P.16
  15. ^ 読売新聞、1997年8月11日付夕刊、P.11
  16. ^ 読売新聞、1999年3月25日付夕刊、P.7
  17. ^ 読売新聞、1999年12月3日付朝刊、P.23
  18. ^ 読売新聞、2000年10月7日付朝刊、P.28
  19. ^ 読売新聞、2000年10月20日付朝刊、福岡地方面
  20. ^ 朝日新聞、2000年12月24日付朝刊、P.21
  21. ^ 毎日新聞、2002年8月13日付朝刊、福岡地方面
  22. ^ 沖縄タイムス 2009年12月5日
  23. ^ 読売新聞、1991年8月22日付夕刊、P.8
  24. ^ 毎日新聞、1999年3月21日付朝刊、P.1
  25. ^ 【懐かしの甲子園】 沖縄水産 大野倫

関連項目