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安藤照

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

安藤 照(あんどう てる、明治25年(1892年) - 昭和20年(1945年5月25日)は、鹿児島県出身の彫刻家彫塑)。


目次

来歴

鹿児島市新屋敷町生まれ(現・鹿児島市立病院敷地の一角に誕生碑がある)。明治40年(1907年)に旧制県立川辺中へ入学するが、まもなく旧制県立二中へ転校。二中を8年かけて卒業し、東京美術学校へ入学。美術学校時代に帝展入選を果たしているが、卒業後も第3、5、6回帝展にて特選を受賞、大正15年(1926年)の第7回帝展では特選に加えて帝国美術院賞を受賞した。翌昭和2年(1927年)には帝展審査員に就任。彫刻の本質的な造形性、中でも量感の表現を唱えた。昭和4年(1929年)、塊人社を結成。東京大空襲にて没す。享年54。

代表作

西郷隆盛像(鹿児島市)

昭和3年(1928年)に東郷平八郎より依頼を受けてから、西郷の体格や外見の研究に1年を費やし、さらに国内の古美術や銅像見学に1年かけ、加えて銅像研究のため欧州へ渡った。帰国後7年を経て安藤は「身長5尺9寸、体重29貫、襟首19インチ、肥満であったが、肉つきは引き締まっており、相撲のため耳だこがあり、首は短く肩が小山のごとく盛り上がっている」との結論に至った。安藤が思い描いた構図は、故山の大地を、市民と同じ足で踏みしめ、胸を張って桜島と向き合う巨人だった。

かくして銅像は昭和12年(1937年)に完成した。また、土台製作の為に小根占(鹿児島県肝属郡南大隅町)より大小合わせて150有余の花崗岩を運ばせて、背景に城山と有機的に調和する小山を築き、造園した。

西郷銅像について、安藤は『大西郷と銅像』(改造第十九巻九号、1937年)にて、次のように記述している。

  • 「襟は十九インチ、身長は五尺九寸余、体重は二十九貫と云うので胴回りなどの研究を進めることもできた。翁の令孫隆治氏は柔道剣道の達人で相当偉大な体躯の持主であるが、この大将服を着用せられてなお二貫余の綿を入れなければならなかった。また私共が、二人も一しょに入れるような胴回りである」(文中に登場の西郷隆治は、二中において安藤(8回卒)の3年後輩(11回卒)で、卒業後は二中で柔道師範を務めた人物)

作家の海音寺潮五郎は、著書『西郷隆盛』にて次のように述べている。

  • 「これはぼくだけの見当だが、安藤は西郷の孫にあたる西郷隆治さんをモデルにし、それを彼の主観でアレンジして造形したのではないかと思っている。安藤は鹿児島二中の出身であるが、隆治さんも二中の出身だ。大体同じころに在学している見当でもある。隆治さんは西郷が奄美大島る流謫中にめとった島の娘アイカナの産んだ菊次郎の子で、西郷に最もよく似ているといわれている人である。(中略)ともあれ、安藤のつくった銅像は隆治さんによく似ている」

2008年12月30日の南日本新聞記事によると、西郷のモデルは、元・山形県議の男性であることが判明。安藤のアトリエで撮影された、銅像のひな型や肖像画などが写り込んだモノクロ写真が、男性の遺族宅で発見されたという。遺族は「(祖父の)目は隆治さんに似ていると思う」とも述べている。

忠犬ハチ公像(初代、東京都)

関連文献

  • 「創立五十周年記念誌 甲南」鹿児島県立甲南高等学校編、1956年
  • 「鹿児島上町の歴史と文化」鹿児島玉龍高等学校創立五十周年記念実行委員会編、1990年