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寺内 寿一(てらうち ひさいち、旧字体: 寺內壽一、1879年(明治12年)8月8日 - 1946年(昭和21年)6月12日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は元帥陸軍大将、爵位は伯爵。山口県出身。
第18代内閣総理大臣などを歴任した元帥陸軍大将寺内正毅の長男で、皇族以外では唯一陸海軍を通して親子2代で元帥府に列せられた人物。
陸軍大臣在任時は、衛生省(現・厚生労働省)の設立を提唱。太平洋戦争(大東亜戦争)期には、編成時から一貫して南方戦線の全陸軍部隊を統括する総軍である南方軍総司令官を務めた。
経歴
性格
- 二・二六事件の後、陸相として皇道派の追放(粛軍)を主導し、「追放された連中が陸相になれないように」との口実で軍部大臣現役武官制を復活させる等、軍部の影響力を増大させている。また、「腹切り問答」後に議会解散を要求し、広田内閣を総辞職に追い込んだ。
- 南方軍総司令官在任時、無謀なインパール作戦を黙認したり、現地司令官の反対を押し切ってルソン島からレイテ島への作戦転換を指示した結果、多大の犠牲者を出すに至ったとされる。同時期に寺内はサイゴンの旧フランス総督官邸から一歩も移動しなかったばかりか、愛人の赤坂芸者を軍属にして軍用機で日本からサイゴンに乗せて、現地で豪遊した[1]。
- 東條内閣瓦解後、一時は後継首班に目されたものの、戦時司令官(南方軍総司令官)たる寺内は動かせないとの理由で、朝鮮総督の小磯国昭に組閣の大命が降下した。状況によっては、最初の親子2代の内閣総理大臣となる可能性もあった。
- 育ちがいい割には部下に細密な気配りができ、陸軍では下士官や兵に人気があった。ただ、幼少時は同級生に鉄拳を振るうなど荒っぽい性格だったとも伝えられる。作家永井荷風とは高等師範学校附属尋常中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)時代の同窓生だが、山田風太郎の回想によると、軟派学生だった永井を看過出来なかった寺内は、永井に対して鉄拳制裁を加えたこともあったという[2]。
- 松前重義が東條英機によって懲罰召集され、二等兵として南方に送られて来た際には、総司令官名での辞令を連発して事実上スーツ姿で軍政顧問として働くようにしてしまった。陸軍の最長老で、元帥でもある寺内には、さすがの東條も手が出せずそのままになったが、長州閥に敵愾心を燃やした東條と長州閥のボスだった寺内正毅を父に持つ寺内との関係は微妙なものがあった。
- 戦時中は埼玉県にある盆栽村の庇護者でもあり、ホテルのマネージャーをやってみたいと語ったこともある。なお、旧日本軍最後の軍歌『壮行譜』は寺内が収監された時に贈られた曲である。
脚注
- ^ 佐治芳彦「太平洋戦争-封印された真実」219~220頁 日本文芸社
- ^ 山田風太郎 『人間臨終図巻』 徳間書店
関連文献
- 『元帥寺内寿一』 同刊行会・上法快男編 「昭和軍事史叢書」芙蓉書房 1978年
外部リンク