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対馬丸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

船歴
起工
進水 1914年9月[1]
竣工 1914年12月22日[2]
1915年2月22日[1]
その後 1944年8月22日沈没
主要目
総トン数 6,754トン[3]
載貨重量トン数 10,615トン[3]
全長 135.64 m [3]
垂線間長
型幅 17.68 m [3]
型深 10.36 m [3]
吃水 8.19 m (満載平均)[3]
2.71 m (空艙平均)[3]
主機 三連成レシプロ機関 2基2軸
出力 4,396馬力(最大)[3]
航海速力 11ノット[3]
最高速力 13.9ノット[3]
乗員 61名[3]

対馬丸つしままる)は、日本郵船のT型貨物船の一隻で、総トン数6,754トンの貨物船。日本郵船所有船としては初代。二代目は、Template:Safesubst:にパナマ船籍タンカー「ゴールデン・ウィスタリア」 (Golden Wistaria) を購入して改名したもので、総トン数87,516トン[4]。Template:Safesubst:からは藤栄海運との共有船になったが、Template:Safesubst:以降はブルネイで係船された[5]

太平洋戦争中のTemplate:Safesubst:8月22日、政府命令による学童疎開輸送中にアメリカ海軍潜水艦の攻撃を受け沈没し、犠牲者数1476名を出した。

目次

概要

日本郵船は中古船が多数を占めていた[6]貨物船隊の改善のために、1912年(明治45年/大正元年)からTemplate:Safesubst:にかけて、イギリスから貨物船を計4隻購入し、その運用実績を踏まえて7,500総トン、11ノット型の貨物船6隻の建造を決める[7][8]。6隻のうち、グラスゴーのラッセル造船所で建造されたのが「対馬丸」と「高田丸」[注釈 1]である。川崎造船所で建造された「豊橋丸」[注釈 2]と「徳山丸」[注釈 3]、および三菱長崎造船所で建造された「豊岡丸」[注釈 4]と「富山丸」を合わせた6隻はTemplate:Safesubst:中に完成して、第一次世界大戦真っ只中の欧州航路などに就航して、連合国向けの軍需品や食糧輸送で成果を収め[8]、特に「対馬丸」はTemplate:Safesubst:6月21日、再開されたパナマ運河を経由する貨物船として、横浜~東回りニューヨーク航路第1便として横浜を出航するという栄誉に輝いた[9]。6隻は、船名の頭文字がすべて「T」で始まることから、T型貨物船という通称で呼ばれる事となった[7]。第一次世界大戦での船腹需要の増加を見越した日本郵船ではさらに、川崎造船所と三菱長崎造船所に3隻ずつ追加発注することとなり、この追加発注分も船名の頭文字を「T」で揃えた[8]。最終的にT型貨物船シリーズは、「対馬丸」より前にラッセル造船所で建造された「徳島丸」[注釈 5]と「鳥取丸」[注釈 6]をも含めて14隻に達し[8]、日本郵船ではT型貨物船シリーズの運用実績を踏まえて研究と改良を加えたL型貨物船やM型貨物船を建造する事となった[8]。また、一連のT型貨物船の成功により他社もT型貨物船の同型船を導入する事となり、日本における貨物船の国内建造の先駆として特記すべき存在となった[7]。しかし、時代が下って大阪商船畿内丸型貨物船など高速の新鋭船が就航すると、T型貨物船シリーズ以下日本郵船の貨物船隊は劣勢を強いられることとなる[10]。「対馬丸」以下T型貨物船シリーズの貨物船も、船舶改善助成施設によってA型貨物船やN型貨物船、S型貨物船など高速の新鋭船が建造されると、他航路に転用されたり他の船会社に売却されていった。

「対馬丸」はTemplate:Safesubst:9月21日付で日本陸軍に徴傭され[11]南方作戦に投入される。昭和16年12月21日のリンガエン湾上陸[12]やTemplate:Safesubst:2月のパレンバン攻略[13]に参加の後、南方作戦が一段落した5月5日付で解傭[11]。6月12日からは船舶運営会使用船となり[11]、物資等の輸送任務に就く。第268船団に加入して高雄から六連に向かう途中のTemplate:Safesubst:6月5日、船団は北緯30度52分 東経125度29分 / 北緯30.867度 東経125.483度 / 30.867; 125.483の地点でアメリカ潜水艦「シーウルフ」 (USS Seawolf, SS-197) の攻撃を受け[14][15][16]、「対馬丸」に魚雷1本が命中する[15]。しかし、幸いにも魚雷は不発に終わり[15]、「シーウルフ」は浮上して脱出を図り、船団を護衛していた第36号哨戒艇によって追い払われた[17][18]。10月6日にも、第431船団に加入してサンジャックから高雄に向かう途中に北緯12度21分 東経109度29分 / 北緯12.35度 東経109.483度 / 12.35; 109.483の地点で雷撃を受けるも、6本の魚雷のうち3本が船底下を通過するという幸運に恵まれた[19][20]。10月28日付で再び日本陸軍に徴傭され[11]、以降は最後の時まで陸軍徴傭船として行動する。昭和19年5月から6月にかけてはマニラハルマヘラ島間の輸送船団に加わって増援任務に就いていた[21]

「対馬丸事件」

事件に至るまで

昭和19年7月、サイパンの戦いサイパン島の軍人民間人のほとんどが玉砕したことにより終結し、アメリカ軍は同島からB-29爆撃機を出撃させることで、無着陸で北海道・東北北部を除く日本のほぼ全土を空襲できるようになった。これを受けて政府は、沖縄県知事泉守紀に宛てて『本土決戦に備え、非戦闘員である老人や婦女、児童計10万人を本土または台湾への疎開をさせよ』との命令を通達した。一方で、沖縄本島などへ展開させる兵員や軍需物資の輸送も同時に行う事となり、一部を除いて往路は軍事輸送、復路は疎開輸送に任じる事となった[22]。疎開に当たり、児童の親などからは疎開輸送に軍艦の投入を要請する声もあったが、日本海軍には既にこれに充てる軍艦の余裕などはあまり無く、そのほとんどをC船[注釈 7]に頼らざるを得なかった。辛うじて、第十一水雷戦隊(高間完少将・海軍兵学校41期)や呉練習戦隊、呉潜水戦隊からの艦艇が、疎開輸送に投入できる艦艇の主力であった[22][23][24][25]。もっとも、全ての沖縄県民が疎開を望んでいたかといえばそうでもなく、未知の土地への移動に難色を示す者もいて疎開希望者はなかなか集まらず、最終的には軍が隣組長や国民学校長を通じて、疎開割当者を半ば強制的に確保する命令を出した[26]

「対馬丸」も、この命令により兵員輸送と疎開活動に当たっていた輸送船の1隻であった。「対馬丸」の昭和19年8月の行動はおおよそ判明している。8月1日3時、「対馬丸」はモ05船団に加入して門司を出港する[23][27]。この時の「対馬丸」には船舶工兵第二十六連隊第一中隊の将校以下211名を乗せており[28]、護衛には敷設艦白鷹」や駆逐艦」などがあたっていた[29]。また、船団の顔ぶれの中には、陸軍輸送船「和浦かずうら丸」(三菱汽船、6,804トン)および「暁空丸」(拿捕船、6,854トン)[注釈 8]の姿もあった[23][30]。8月5日に嘉手納沖に到着したモ05船団は陸軍部隊の揚陸を行った後[31]、「対馬丸」と「暁空丸」、「和浦丸」は上海方面に回航さた後、沖縄防衛に充てられる第六十二師団本郷義夫中将)の兵員や馬匹を搭載して8月16日に呉淞沖を出港して那覇に向かう[32]。「対馬丸」は兵員2,409名と馬匹40頭を搭載しており[32]、609船団は道中大過なく8月19日に那覇に到着した[32]。この時の護衛には駆逐艦「」や「栂」[注釈 9]砲艦宇治」がいた[32]。モ05船団にしろ609船団にしろ、対潜水艦作戦能力としては十分ではない面もあったが、ともかくここまでは何事もなかった。

事件の概要

ファイル:Kagoshima Satsunan-islands.png
薩南諸島全体図。ほぼ中央部が「対馬丸」遭難海域

8月20日18時35分[33]、「対馬丸」と「暁空丸」、「和浦丸」で構成されたナモ103船団は台風接近による激しい風雨の中、「蓮」と「宇治」の護衛により長崎へ向けて那覇を出港する。「対馬丸」には一般人及び那覇国民学校の児童、その介添者合わせて1,661名[34]あるいは1,788名[35][注釈 10]、上海から転送中の乾繭1,775梱とゴマ1,000梱を乗せていた[34]。また、当時の乗組員は86名であった[36]。乗客の多くは上り下りが出来る階段一つと緊急用の縄梯子があるだけの船倉に割り当てられた[34]。児童たちの「対馬丸」船内での様子はさまざまで、「まるで修学旅行でも行くかのように」[37]、甲板に出て「和浦丸」を眺めたり[34]、「先生、ヤマト[注釈 11]に行くとが見られるでしょう」[37]とまだ見ぬ雪に思いをはせる者、船酔いになるも一晩で回復した者[37]、一晩中寝ずに騒いだ者[37]などもいた。手空きの「対馬丸」乗組員も児童たちとつきあい、「戦争の話や、前に遭難して助かった話などをした」[37]

一方、アメリカ潜水艦「ボーフィン」 (USS Bowfin, SS-287) は7月16日に6回目の哨戒で真珠湾を出撃して東シナ海で行動しており、8月10日朝には南大東島に停泊中の機帆船2隻を雷撃で破壊していた[38][39]。その後は奄美大島徳之島伊平屋島与論島近海で哨戒を行った[40]。8月19日朝には沖縄本島北西海域で前述の609船団を発見しており、浮上攻撃を試みるも逃げられている[41]。8月20日は漁船を見たのみで、8月21日は久米島北西海域で哨戒を行った[42]アメリカ海軍は暗号解読などにより、ナモ103船団の予定航路をおおよそ把握していた。はたして、8月22日4時10分頃、「ボーフィン」はレーダーによりナモ103船団を探知する[42]。「ボーフィン」は潜航状態で観測を行ったが、哨戒機2機が「機械的な旋回飛行」しかしなかったとはいえ常時張り付いていたことと、強烈なジャミングを発していたことから、「重大任務の船団」と識別して夜間攻撃を行うことに決めた[42]

8月22日を迎えたばかりの「対馬丸」の船長室では、西沢武雄船長と陸軍少尉の輸送指揮官との間で激論が交わされていた。西沢船長曰く、この航路の危険を熟知していたので、ジクザグコースを取る事を主張していた[37]。しかし輸送指揮官は、船団から離れる危険や、到着の遅延への懸念の方を重く見て直線での航行を主張し、結局「軍の命令」ということで直線コースをとった[37]。その頃、10時34分に浮上した「ボーフィン」はナモ103船団を見失っており、全速で予想針路へと急行することとなった[43]。「ボーフィン」が再びナモ103船団をレーダーで捕捉したのは12時54分頃で、彼我の距離はおよそ42,000ヤード(約38.4キロ)から45,000ヤード(約41.1キロ)であった[44]。「ボーフィン」は速力を調節しながらナモ103船団との距離を十分に保ちつつ接触を続ける[44]。19時58分、「ボーフィン」はナモ103船団への攻撃地点を平島諏訪之瀬島間の海峡の手前と決め、21時30分に攻撃予定時刻に設定の上、全速力で攻撃予定海域へと向かった[44]。夜を迎えた「対馬丸」の船内では、引率教師が児童たちに救命胴衣の着用を指示し、児童のうち3分の1は上甲板上のいかだに寝場所をこしらえて寝ることとなった[45]。前日の夜とは違い、雨がぱらついてきたので船倉へ移ったり、疲れで前日ほどの元気のない者がいた[45]。一方の「ボーフィン」は、20時53分頃には平島を後方6マイルに、諏訪之瀬島を左舷前方8マイルに、悪石島を右舷前方6マイルに臨む海域に到達[46]。「ボーフィン」からは「対馬丸」と「暁空丸」がしばし重なるように見え[46]、21時22分にはついにナモ103船団の全貌を視界内にとらえることとなった[46]。「ボーフィン」は攻撃方法を水上攻撃とし、まず艦首発射管からの魚雷を「対馬丸」、「暁空丸」および「蓮」に対して発射し、面舵で方向を転換した後、艦尾発射管からの魚雷を「和浦丸」と「宇治」に対して発射するという攻撃プランを組み立てる[47]

22時9分、「ボーフィン」は距離2,800ヤード(約2.56キロ)で艦首発射管から魚雷6本を発射し、予定通り面舵で方向転換した後、艦尾発射管からの攻撃に備えた[47]。約1分後、魚雷は「「対馬丸」と「暁空丸」の双方に2本ずつ、「蓮」に1本命中して「対馬丸」は早くも沈み始め、「蓮」は粉砕された」[47]。攻撃された「対馬丸」は見張員が魚雷発射を確認し、ただちに反撃の砲撃にとりかかろうとする[48]船橋では西沢船長が「取舵一杯、両舷全速前進」を下令する[45]。しかし、いずれの効果もほとんど示さぬまま魚雷は接近。1本は船首前方をかすめ去ったが、続く3本の魚雷が第一、第二、第七船倉左舷に命中した[45]。間を置いて、別の魚雷1本が第五船倉右舷に命中[45]。魚雷命中による夥しい海水の流入で、縄梯子はほとんど流され、階段もすぐに海水につかって使えなくなった。階段へいち早く登った者は、暑さに耐えかねて既に甲板に上がっていた者とともに船倉から脱出できた。西沢船長は「総員退船」を令し、引率教師はなかなか起きない児童を蹴っ飛ばしてまで起こし、何名かの「対馬丸」乗組員とともに梯子を登らせようとしたが上手くいかず、何人かは梯子を踏みはずして下に転落する有様であった[49]。脱出した者の中にも舷側が高すぎたため、恐怖から海に飛び降りることができなかった者が大勢おり、「対馬丸」乗組員は何人かの児童をブルワークから引き離して海に放り投げた[50]。一方、配られた救命胴衣が大きすぎたことでうまく使いこなせず溺れた児童もいた。煙突の方を見れば、児童を背負った女性が4名から5名ばかり登っていたが、煙突の崩落とともに海中に転落した[51]。魚雷命中から11分後の22時23分頃、「対馬丸」は大爆発を起こして沈没[51][52]。船の爆風で救命ボートが転覆し、生存者は台風襲来の中、筏で漂流しながら救出を待つことになった。漂流は、風雨、三角波、眠気、真水への渇望、錯覚等との戦いでもあった。攻撃した「ボーフィン」は、船尾発射管から2本の魚雷を発射して1本の命中と「対馬丸」の確認した後、横当島方向へと移動していった[53]

「暁空丸」、「和浦丸」と護衛の「蓮」、「宇治」は全速力で危険海域から姿を消していった。過ぐること9ヵ月前の昭和18年12月21日未明、「対馬丸」から沈没した海域に程近い北緯30度26分 東経129度58分 / 北緯30.433度 東経129.967度 / 30.433; 129.967の地点で、名瀬を出航した沖903船団はアメリカ潜水艦「グレイバック」 (USS Grayback, SS-208) の攻撃を受け、貨客船「湖南丸」(大阪商船、2,627トン)が轟沈し、「湖南丸」の生存者の救助にあたるため停止していた特設捕獲網艇「柏丸」(宇和島運輸、515トン)もまた「グレイバック」の魚雷で粉砕され、「湖南丸」の船客683名のうち、「柏丸」に一旦救助された者も含め576名と、その他乗員が死亡するという悲劇があった[54][55]。この轍を踏まぬとでも思ったのか漂流者救出を断念してその場を去り、ナモ103船団は数日後、目的地の長崎港に着いた[注釈 12]。海域を去る際に「蓮」は爆雷攻撃を行ったが[56]、浮上攻撃の「ボーフィン」に対する攻撃としては意味がなかった。北上していた台風は、大東諸島方面へ逸れた[注釈 13]

犠牲者の遺体の多くは奄美大島・大島郡宇検村などに流れ着いた。現地には慰霊碑が建立されている。生存者の多くは、トカラ列島の無人島に漂着したり、嵐がやんでから軍から連絡を受けた鹿児島県奄美大島揖宿郡山川町(現:指宿市山川町)などの漁船に救出された。最も長い人は10日間の漂流を強いられた。漂流中、「対馬丸」の小関保 一等運転士は10名ぐらいの児童が乗ったいかだにつかまり、漂流している児童を見つけてはいかだに乗せていた[51]。小関運転士は児童に対して、腰まで水に浸かりながらもあえて座ること[注釈 14]とかたまることを指示する[51]。小関運転士の一団は台風に翻弄されながらも必死に耐え、8月23日15時ごろに漁船2隻に救助された[57]。この2隻の漁船に救助されたのは児童、一般人83名、兵7名、乗組員21名だった[57]。他方、「対馬丸」の高射砲受け持ちであった吉田薫夫砲手は児童3名といかだで漂流し、軍歌を歌ってしばし気を紛らしたが、やがて体力の衰微とともに児童2名が相次いで死亡して「忘れられぬ悲痛」[58]を体験した後、生き残った児童とともに8月24日に救助された[59]。8月24日に救助されたのは児童、一般人90名、兵13名、乗組員33名であった[57]。最終的に乗員・乗客合わせて1,476名[注釈 15]が死亡し、このうち「対馬丸」乗組員は西沢船長以下24名が「対馬丸」と運命をともにした[57]。一方で、生き残った児童はわずかに59名だった[57]

沖縄からの疎開は、昭和19年7月からTemplate:Safesubst:3月まで疎開船延べ187隻が繰り出され、約8万名が疎開した。ただし、この数字にそれ以外の時期や、客船や漁船などによる自主的疎開は含まれていない。

事件前後から終戦まで

「対馬丸」が撃沈された事件については緘口令が布かれたが、疎開先から来るはずの手紙がない事などから、たちまち皆の知るところとなった。このため一時は疎開に対する反発などがあったが、昭和19年10月10日の那覇市への空襲(十・十空襲)があってからは疎開者が相次いだ。「対馬丸」沈没の前後には潜水母艦迅鯨」および「長鯨」、軽巡洋艦長良」、練習巡洋艦「鹿島」などの艦艇も、沖縄へ兵力を輸送する任務の帰途に、疎開輸送を行った。

「対馬丸」や「湖南丸」の他に、事故やアメリカ軍の攻撃によって他に27隻もの各種船舶が沖縄・奄美近海に沈んだ。多くは、定期船や兵員輸送船、若年の航空兵志願者や勤労動員者と女子挺身隊などの輸送船であった。モ05船団、609船団、ナモ103船団で「対馬丸」と行動をともにした「暁空丸」は、約1ヵ月後の9月18日、節船団で門司から上海に向かう途中にアメリカ潜水艦「スレッシャー」 (USS Thresher, SS-200) の雷撃により沈没し[60]、「和浦丸」は途中病院船に転じて再び輸送船に戻ったあと、昭和20年7月20日に釜山港外で機雷に触れ座礁し放棄され、後に浮揚されて韓国船「コリア」となった[61]。疎開した民間人の多くは疎開先の本土(主に九州、鹿児島県や熊本県宮崎県)や台湾で終戦を迎えている。

戦後

  • Template:Safesubst:10月、遺族会が発足、直ちに占領下の沖縄で、「対馬丸」の惨劇を伝え始めた。
  • Template:Safesubst:波之上護国寺に慰霊碑「小桜之塔」が建立される。
  • Template:Safesubst: 5月2日に、Template:Safesubst:の閣議決定(「今次の戦争に関する勤務に従事しこれに関連して死没した軍人軍属及びこれに準ずると認められる者」に対する叙位叙勲)に基づき、犠牲者の最初の叙勲がおこなわれる(学童441名、引率教師・世話人15名、学童付添者171名の合計627名)。このあとTemplate:Safesubst:9月26日に2回目の叙勲を実施(学童227名、引率教師・世話人5名、学童付添者74名)[注釈 16]
  • 昭和50年、参議院にて沖縄選出の喜屋武眞榮第二院クラブ)から内閣へ質問主意書が提出され、初めて論議になる。喜屋武による「対馬丸」に関する国会質問はこのあとしばらく途絶える(途中沖縄県知事選挙立候補のためTemplate:Safesubst:に議員辞職)が、再当選後のTemplate:Safesubst:よりTemplate:Safesubst:にかけて質問をおこなった。
  • 昭和57年、芥川賞作家大城立裕原作のノンフィクションタッチの小説が理論社より出版、それを元にした75分に及ぶアニメーション映画が株式会社シネマワークより発表され、本土でも「対馬丸事件」が広く知られるようになった。しかし、前述したようにこの書籍には多くの誤った記述(目的地や「対馬丸」についての見解、事実としては考えがたい証言がある事など)があり、事件の内容が多くの人に間違って理解されることとなってしまった[注釈 17]
  • Template:Safesubst:12月12日にようやく沈没した「対馬丸」の船影が発見された。遺族会は国会に引き揚げを要求するが、政府は引き上げ困難として行わない意向を表明[注釈 18]、代替案として「資料館」の建設が決定した。

また、「対馬丸」を撃沈した「ボーフィン」はTemplate:Safesubst:以来、真珠湾攻撃の復讐者」として、真珠湾の戦艦アリゾナ」の近辺にボーフィン・サブマリンミュージアム&パークとして展示されている[注釈 19]

出版物情報

  • 『対馬丸』理論社の大長編シリーズ(1982年1月,大城立裕,理論社) ISBN 4652010311
  • 『対馬丸 さようなら沖縄』アニメ絵本(1982年1月,大城立裕原作,理論社) ISBN 4652020112
  • 『つしま丸のそうなん-沖繩の子どもたち』(あすなろ創作シリーズ)(1972年1月,金沢嘉市,あすなろ書房) ISBN 4751512056
  • ビデオアニメ 『対馬丸 さようなら沖縄』(1982年,対馬丸製作委員会,シネマワーク)
  • 楽譜 『混声合唱組曲 海のトランペット[対馬丸の子どもたち] 児童合唱・混声合唱とピアノのために』(1990年,池辺晋一郎 作曲,全音楽譜出版社)
  • 大城立裕『対馬丸』より「撃沈」「死とたたかう漂流」(オーディオブックCD)

同型船

T型貨物船
  • 高田丸
  • 豊岡丸
  • 富山丸
  • 豊橋丸
  • 徳山丸
T型貨物船(追加建造分)
  • 常盤丸
  • 敦賀丸
  • 津山丸
  • 但馬丸
  • 龍野丸
  • 鳥羽丸

脚注

注釈

  1. ^ Template:Safesubst:2月1日にアメリカ船と衝突して、翌2日に沈没(#郵船100年史p.164)
  2. ^ 昭和17年6月4日にプーケット島沖でイギリス潜水艦「トラスティ」の雷撃により沈没(Chapter IV: 1942#郵船100年史p.165)
  3. ^ Template:Safesubst:8月2日にアメリカ東海岸沖でUボートの雷撃により沈没(#郵船100年史p.166)
  4. ^ Template:Safesubst:に鏑木汽船に売却後、昭和19年9月9日にバシー海峡でアメリカ潜水艦「クイーンフィッシュ」の雷撃により沈没(#郵船100年史p.163)
  5. ^ 昭和19年9月16日にバシー海峡でアメリカ潜水艦「ピクーダ」の雷撃により沈没(#郵船100年史p.160)
  6. ^ 昭和20年5月15日にタイランド湾入り口でアメリカ潜水艦「ハンマーヘッド」の雷撃により沈没(Chapter VII: 1945#郵船100年史pp.160-161)
  7. ^ 船舶運営会使用船並びに自営船(#戦時遭難史
  8. ^ 香港船渠で建造中に香港の戦いによって日本側に接収され、のちに日本側の手により竣工(#野間p.350、Rosebury Yard 1/700戦時輸送船模型集・暁空丸” (日本語). 岩重多四郎. 2011-12-13閲覧。)。なお、この事件を扱った小説として有名な大城立裕「対馬丸」では、「対馬丸」がイギリスからの分捕り品のように表現されているが明らかに誤りで、正真正銘のイギリスからの分捕り品は「暁空丸」である。
  9. ^ #駒宮(2)p.232 に「」とあるのは誤記
  10. ^ 大城立裕の説によると、対馬丸には那覇市・首里市(現:那覇市)、暁空丸、和浦丸には豊見城村(現:豊見城市)を中心とする本島北部・南部の民間人が乗船していたとされている。しかし、後に遺族会や日本郵船が調べたデータでは、各船ともに大きな人数のばらつきがあり、現在ではこの大城説は正しいとは言えないとされている。正確な乗船者数が、対馬丸記念館、日本郵船ともに細かく把握しきれていない理由としては、「乗船間際になって、急遽乗船を取りやめた人や学校がいくつかあった」「出港間際の「割り込み乗船」があった」とするが、真相ははっきりしない。
  11. ^ 内地(#郵船戦時上p.808)、本州
  12. ^ 大城の「対馬丸」では、ナモ103船団の目的地が鹿児島になっており、「残りの2隻が予定を変えて長崎に着いた」と表現されているが、ナモ103船団に関して言えばこれは誤り。艦艇による疎開輸送には鹿児島着があった(#田村p.90、#安達p.182)。
  13. ^ 昭和16年からTemplate:Safesubst:までの気象観測の記録がないため、大城の見解に拠った。しかし、大城の見解と救出された船員や砲兵隊員の証言とでは大きな食い違いが何ヶ所もある。
  14. ^ 「立ち上がった子供は足元が定まらず、よろけて海中に転落する。」(#郵船戦時上p.811)
  15. ^ 対馬丸資料館発表、氏名判明者のみ
  16. ^ 参議院予算委員会第一分科会(Template:Safesubst:3月29日)における秋山進・総理府賞勲局長の答弁による。
  17. ^ アニメでは「対馬丸」が白と黒の平時の塗装で描かれていたり(実際は灰色一色に武装が施されていた)、駆逐艦二隻が「対馬丸」のみを護衛し、沈没後救助活動を行わずに逃げた様に描写されている(前述の通り他二隻を護衛するため)、「和浦丸」と「暁空丸」が一切描かれてないなど、史実と異なる点が多い。
  18. ^ 政府が引き揚げを拒否した背景には船が巨大すぎること、また、船の眠る海域が、現在でも度々漁船が転覆する海の難所「七島灘(しちとうなだ)」であることが挙げられる。さらに、水深が深すぎることに加え、船齢の古さ、魚雷攻撃による被害など引揚げに耐え切れるだけの船体強度が期待できないことなどが、政府の引き上げに関する検討書に報告されている。
  19. ^ ボーフィン#現在のボーフィンも参照のこと。

出典

  1. ^ a b なつかしい日本の汽船 日本郵船の輸入船 - 大正期 對馬丸型” (日本語). 長澤文雄. 2011-12-12閲覧。
  2. ^ #郵船戦時上p.806
  3. ^ a b c d e f g h i j k #日本汽船名簿
  4. ^ #郵船100年p.518
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  6. ^ #山高p.184
  7. ^ a b c #山高p.187
  8. ^ a b c d e #郵船100年史p.142
  9. ^ #郵船100年史p.142
  10. ^ #郵船100年史p.142
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外部リンク