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小林雅英

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

小林 雅英
オリックス・バファローズ コーチ #73
ファイル:Masahide Kobayashi.jpg
インディアンス時代(2008年8月27日)
基本情報
国籍 ファイル:Flag of Japan.svg 日本
出身地 山梨県大月市
生年月日 1974年5月24日(38歳)
身長
体重
183cm
88kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1998年 ドラフト1位
初出場 NPB / 1999年4月7日
MLB / 2008年4月2日
最終出場 NPB / 2011年4月30日
MLB / 2009年5月7日
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
コーチ歴
  • オリックス・バファローズ (2012 - )
国際大会
代表チーム ファイル:Flag of Japan.svg 日本
五輪 2004年
オリンピック
男子 野球
2004野球

小林 雅英(こばやし まさひで、1974年5月24日 - )は、元プロ野球選手投手)。山梨県大月市出身。

愛称は「コバマサ」。千葉ロッテ時代は「幕張の防波堤」の異名を取った。2012年からオリックス・バファローズの二軍育成担当コーチを務める。

目次

来歴

千葉ロッテ時代

1999年の後半戦から先発として起用され、5勝5敗の成績を残した。前半戦などでのリリーフ起用を含めれば46試合に登板している。2000年も序盤で3試合に先発したがいずれも敗戦投手になったため、山本功児によって中継ぎに配置転換され、シーズンで11勝6敗14セーブの好成績を挙げる。7月2日の対オリックス・ブルーウェーブ14回戦で、小林の2球目が暴投となり、三塁を狙った一塁走者のイチローがアウトになった。その直後にチームが勝ち越したため、プロ野球史上初となる「打者0人」での勝利投手となった[1]

2001年5月25日の対日本ハムファイターズ戦から、5月30日の対福岡ダイエーホークス戦にかけて、プロ野球新記録となる6日間連続セーブをあげて月間MVPに選出された。しかし、6月までは0勝0敗21S・防御率0.78だった成績も、7月以降は0勝4敗12S・防御率11.42と打ち込まれ、最終的には防御率4.33に終わる。この年はリーグ2位の33セーブを挙げ、オフにはニュース番組のゲストに招かれることや、6日連続セーブのエピソードが寒川一之の「小林雅英物語」として漫画化されるなど、知名度を上げた。

2002年5月21日の対日本ハムファイターズ戦から、8月5日の福岡ダイエーホークス戦まで17試合連続セーブのパシフィック・リーグ新記録、さらに10月17日の対大阪近鉄バファローズ戦まで、33試合連続セーブポイントのプロ野球新記録を樹立する[2]など、44試合で37セーブ・防御率0.83の好成績を残した。2003年も好調を維持し、44試合で33セーブの好成績を残す。

2004年からボビー・バレンタインが監督に就任すると投球回数が増加。アテネオリンピック野球日本代表に選出されたのを機に、変則モーションの矯正に取り組むと、日本代表の守護神として銅メダル獲得に貢献した。

2005年5月18日の対広島東洋カープ戦において、プロ野球史上4人目の通算150セーブを達成(通算312試合登板)し、最多セーブ投手を獲得。10月16日のプレーオフ第2ステージ第5戦・対福岡ソフトバンクホークス戦(福岡Yahoo!ドーム)で胴上げ投手となる。そのまま日本シリーズ(対阪神タイガース戦)でも第4戦に登板し、胴上げ投手となった。11月13日のアジアシリーズ(対三星ライオンズ戦)でも最後の打者を三振に打ち取って3度目の胴上げ投手となった。

2006年6月7日の対中日ドラゴンズ戦で登板し、日本プロ野球初の6年連続20セーブを達成。セ・パ交流戦でも3勝0敗13Sの成績で交流戦MVPを獲得。8月18日の対北海道日本ハムファイターズ戦では史上3人目の通算200セーブを達成するが、この試合以降は一度もセーブを挙げられなかった。

2007年8月26日の対福岡ソフトバンクホークス戦でセーブを記録し、自己記録を更新する7年連続20セーブを達成。しかし、8度の救援失敗から守護神転向後初となる降格を経験した。同年11月2日、FA権行使を宣言し、11月20日にクリーブランド・インディアンスと2年契約を交わす。契約内容は2008年と2009年各300万ドル、契約破棄の場合は25万ドルの、2年計625万ドルで、3年目については球団側が325万ドルの選択権を持つものだった。

インディアンス時代

2008年4月26日の対ニューヨーク・ヤンキース戦でメジャー初登板を果たし、チームのサヨナラ勝ちによってメジャー初登板・初勝利を挙げた。1年間を通じて降格することなく在籍し、主に中継ぎとして57試合に登板して4勝5敗6セーブ・防御率4.53を記録。

2009年は前年の活躍から一転して10試合の登板・防御率8.38と不振に陥り、5月16日に降格した。その後、インディアンス傘下3Aのコロンバス・クリッパーズに合流してメジャー復帰に向けて調整していたが、7月18日にインディアンスから契約を解除された[3]。メジャーの他球団からのオファーを待つが、動きがなかったため帰国している。

12月1日、年俸5000万円プラス出来高1億円の1年契約で読売ジャイアンツへの入団が決定。背番号も30となった。スコアボードの表記は「雅」のない「小林」となった[4]

巨人時代

2010年は経験豊富なリリーフとして期待されながら、12試合の登板で1セーブ・防御率5.14と不振で、中盤以降の優勝争いには加わることはなかった。10月29日に戦力外通告を受け、11月10日の12球団合同トライアウトを受験した。ここで最速145km/hを計測し、打者5人を無安打に抑える好内容を見せたことからオリックス・バファローズが獲得に動き、11月19日に契約した。背番号は34[5]

オリックス時代

2011年は、4月に6試合に登板するも防御率13.50と結果を残せず二軍落ち。以降、一軍での登板は無かった。同年11月1日に現役引退が発表され、2012年シーズンから同球団のコーチに就任することが決定した[6]

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1999 ロッテ 4610300550--.500507124.193855341076442372.681.19
2000 65300011614--.647441109.28743741724034262.131.13
2001 4800000433--.00021852.05471321471025254.331.29
2002 4300002137--.66715843.12616104110440.830.74
2003 4400000233--.00019247.04521121301018152.871.19
2004 5100008520--.61523557.25141962503025253.901.21
2005 46000022290.50018645.1496911330014132.581.28
2006 53000062343.75021453.2494802480016162.681.06
2007 49000027270.22220747.15341242350024193.611.37
2008 CLE 5700004562.44424455.26581421354030284.531.42
2009 1000000000----459.2122401410998.381.66
2010 巨人 1200000011----6414.0190500211885.141.71
2011 オリックス 600000000----274.21025000007713.503.26
NPB:11年 4631330036342284.5142449599.05364218023144651752171952.931.20
MLB:2年 6700004562.44428965.177101822395039375.101.45
  • 2011年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

表彰

  • 山梨県イメージアップ大賞特別賞(2003年)
前年の33試合連続セーブポイントのプロ野球日本新記録を樹立を称えて
  • 県知事賞(2004年) - 千葉県より
  • 市民栄誉賞(2004年) - 千葉県千葉市より
  • やまなしスポーツ賞(2004年) - 山梨県より
アテネ五輪野球日本代表メンバーとしての銅メダル獲得を称えて
  • ア・マン・オブ・ジュエリー賞(2006年) - 山梨県水晶宝飾連合会より
「宝石の街甲府」「貴金属の山梨」の輝く男性を代表して

記録

初記録
  • 初登板:1999年4月7日、対福岡ダイエーホークス2回戦(北九州市民球場)、7回裏に救援登板
  • 初奪三振:同上、7回裏に井口忠仁から
  • 初勝利:1999年5月16日、対日本ハムファイターズ8回戦(千葉マリンスタジアム
  • 初先発:1999年8月3日、対福岡ダイエーホークス16回戦(福岡ドーム)、8回1失点
  • 初先発勝利:1999年9月2日、対福岡ダイエーホークス19回戦(千葉マリンスタジアム)、7回無失点
  • 初完投勝利:1999年9月2日、対福岡ダイエーホークス23回戦(千葉マリンスタジアム) 、9回2失点
  • 初セーブ:2000年8月17日、対日本ハムファイターズ21回戦(千葉マリンスタジアム)
  • 初ホールド:2006年5月23日、対阪神タイガース3回戦(千葉マリンスタジアム)
節目の記録
  • 100セーブ:2003年6月29日、対オリックス・ブルーウェーブ16回戦(千葉マリンスタジアム) ※史上14人目(日本人投手最速)
  • 150セーブ:2005年5月18日、対広島東洋カープ1回戦(福山市民球場) ※史上4人目(最速)
  • 200セーブ:2006年8月18日、対北海道日本ハムファイターズ13回戦(千葉マリンスタジアム) ※史上3人目(最速)
その他の記録
  • 打者0人で勝利投手:2000年7月2日、対オリックス・ブルーウェーブ14回戦(函館オーシャンスタジアム)、8回裏2死1塁で2球目に暴投、一塁走者イチローを三塁で憤死 ※史上初
  • 6日連続セーブ:2001年 ※記録
  • 17試合連続セーブ:2002年 ※パ・リーグ記録
  • 33試合連続セーブポイント:2002年 ※新記録
  • アテネオリンピック野球日本代表:2004年
  • 1イニング3暴投:2004年5月15日、対福岡ダイエーホークス8回戦(千葉マリンスタジアム)、9回表に記録 ※タイ記録
  • 7年連続20セーブ(2001年 - 2007年) ※史上初
  • オールスターゲーム出場4回:2000、2001、2005、2006年

背番号

  • 30 (1999年 - 2010年)
  • 34 (2011年)
  • 73 (2012年 - )

脚注

  1. ^ ベースボールマガジン社「2001ベースボール・レコード・ブック」 49頁。2010年末の時点でもこの記録は小林のみである。
  2. ^ 週刊ベースボール2002年12/16号 26〜27頁 「2002年レコードの周辺3 小林雅英の33試合連続セーブポイント」より。
  3. ^ インディアンスが小林雅の契約を解除 日刊スポーツ・2009年7月19日
  4. ^ これは、「(登録名は)自由にしてよい」という球団の意向に対し、小林姓が他に在籍していなかったため、小林自身が「小林」を選んだもの。
  5. ^ 【オリックス】小林雅を獲得、背番号34
  6. ^ 小林雅英投手 引退およびコーチ就任のお知らせ”. オリックス・バファローズ (2011-11-01). 2011-11-01閲覧。

関連項目

外部リンク