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川端康成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

川端 康成
(かわばた やすなり)
ファイル:Yasunari Kawabata 1951.jpg
林芙美子の葬儀で葬儀委員長を務める川端康成。
誕生 1899年6月14日
ファイル:Flag of Japan.svg 日本大阪府大阪市
死没 1972年4月16日(満72歳没)
ファイル:Flag of Japan.svg 日本神奈川県逗子市
職業 小説家
言語 日本語
国籍 ファイル:Flag of Japan.svg 日本
教育 学士文学
最終学歴 東京帝国大学国文科
活動期間 1921年 - 1972年
ジャンル 小説文芸評論
主題 日本の伝統美
生死の命題
人生の転変
文学活動 新感覚派
代表作 伊豆の踊子』(1926年)
『禽獣』(1933年)
雪国』(1935年 - 1948年)
千羽鶴』(1949年)
山の音』(1954年)
『眠れる美女』(1961年)
古都』(1962年)
主な受賞歴 文芸懇話会賞(1937年)
菊池寛賞(1944年・1958年)
日本芸術院賞(1952年)
野間文芸賞(1954年)
ゲーテ・メダル(1959年)
芸術文化勲章(オフィシエ)(1960年)
文化勲章(1961年)
毎日出版文化賞(1962年)
ノーベル文学賞(1968年)
処女作 『招魂祭一景』(1921年)
ファイル:Portal.svg ウィキポータル 文学
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ノーベル賞受賞者 ファイル:Nobel prize medal.svg
受賞年:1968年
受賞部門:ノーベル文学賞
受賞理由:日本人の心情の本質を描いた、非常に繊細な表現による、彼の叙述の卓越さに対して

川端 康成(かわばた やすなり、1899年明治32年)6月14日 - 1972年昭和47年)4月16日)は、日本小説家

大阪府大阪市北区此花町(現在の天神橋付近)生れ。東京帝国大学文学部国文学科卒業。横光利一らと共に『文藝時代』を創刊し、新感覚派の代表的作家として活躍。『伊豆の踊子』『雪国』『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』『古都』など死や流転のうちに「日本の」を表現した作品を発表し、1968年(昭和43年)に日本人では初となるノーベル文学賞を受賞した。1972年(昭和47年)、満72歳で死去。死因については通説ではガス自殺とされている(詳細は下記を参照)。

目次

経歴

1899年明治32年)6月14日、大阪市北区此花町(現在の天神橋付近)に生れた。父は栄吉(医師)、母はゲン。姉芳子。

幼くして近親者を亡くす。1901年(明治34年)に父が死去し、母の実家がある大阪府西成郡豊里村(現在の大阪市東淀川区)に移ったが、翌年に母も死亡し、祖父の三又郎、祖母のカネと一緒に三島郡豊川村(現在の茨木市)に移った。1906年(明治39年)、豊川尋常高等小学校(現在の茨木市立豊川小学校)に入学。笹川良一とは小学の同級生で、祖父同士が囲碁仲間であった。しかし、9月に祖母が死に、1909年(明治43年)には別離していた姉も死亡した。1912年(明治45年)、大阪府立茨木中学校(現在の大阪府立茨木高等学校)に首席で入学。2年後に祖父が死去したため、豊里村の黒田家が引き取ったが、中学校の寄宿舎に入り、そこで生活を始めた。下級生には大宅壮一が在学していた。近所の本屋『虎谷』へは、少ないお金をはたいて本を買いに行っていた。

作家を志したのは中学2年のときで、1916年大正5年)から『京阪新報』に小作品、『文章世界』に短歌を投稿するようになった。1917年(大正6年)に卒業すると上京し、浅草蔵前の従兄の家に居候し、予備校に通い始め、第一高等学校の一部乙、英文科に入った。後年『伊豆の踊子』で書かれる旅芸人とのやりとりは、翌年の秋に伊豆へ旅行したときのものである。その後10年間、伊豆湯ヶ島湯本館へ通うようになった。

1920年(大正9年)に卒業し、東京帝国大学文学部英文学科に入学。同期に北村喜八本多顕彰がいた。同年、今東光、鈴木彦次郎、酒井真人らと共に同人誌『新思潮』(第6次)の発刊を企画。また、英文学科から国文学科へ移った。1921年(大正10年)、『新思潮』を創刊、同年そこに発表した「招魂祭一景」が菊池寛らに評価され、1923年(大正12年)に創刊された『文藝春秋』の同人となった。大学に1年長く在籍したが、1924年卒業した(卒業論文は「日本小説史小論」)。同年、横光利一片岡鉄兵中河与一佐佐木茂索、今東光ら14人とともに同人雑誌『文藝時代』を創刊。同誌には「伊豆の踊子」などを発表した。1926年(大正15年)、処女短篇集『感情装飾』を刊行。1927年昭和2年)、前年結婚(入籍は昭和6年12月2日)した夫人とともに豊多摩郡杉並町馬橋(高円寺)に移転。同人雑誌『手帖』を創刊し、のちに『近代生活』『文学』『文学界』の同人となった。

雪国』『禽獣』などの作品を発表し、1944年(昭和19年)、『故園』『夕日』などにより菊池寛賞を受賞。このころ三島由紀夫が持参した「煙草」を評価する。文壇デビューさせたその師的存在である。Template:Safesubst:4月、海軍報道班員(少佐待遇)で鹿島へ趣き、特別攻撃隊を取材する[1]。同行した山岡荘八は作家観が変わるほどの衝撃を受け、川端は「生命の樹」を執筆している。その後『千羽鶴』『古都』などの名作を上梓しながら、一方で1948年(昭和23年)に日本ペンクラブ第4代会長に就任。1957年(昭和32年)に東京で開催された国際ペンクラブ大会では、主催国の会長として活躍し、その努力で翌年に菊池寛賞を受賞した。1958年(昭和33年)に国際ペンクラブ副会長に就任。また1962年(昭和37年)、世界平和アピール七人委員会に参加。1963年(昭和38年)には、新たに造られた日本近代文学館の監事となった。1964年(昭和39年)、オスロで開かれた国際ペンクラブ大会に出席。断続的に「たんぽぽ」の連載を『新潮』に始めた。1965年(昭和40年)に日本ペンクラブ会長を辞任したが、翌年に肝臓炎のために東大病院に入院した。

1968年(昭和43年)10月に、「日本人の心情の本質を描いた、非常に繊細な表現による彼の叙述の卓越さに対して:"for his narrative mastery, which with great sensibility expresses the essence of the Japanese mind."」ノーベル文学賞受賞が決定した。12月のストックホルムでの授賞式には、モーニングではなく、文化勲章を掛け紋付羽織袴で臨んだ。記念講演「美しい日本の私 その序説」[2]を行った。翌69年から1974年にかけ、新潮社から『川端康成全集』(全19巻)が刊行[3]された。台北のアジア作家会議、1970年にソウルの国際ペンクラブ大会[4]に出席、日本近代文学館の名誉館長にも就任したが、作品の発表数は激減した。ノーベル賞受賞後発表した作品は、未完となった『たんぽぽ』の他には、短編が数作品あるだけで、ノーベル賞授与が重圧になったといわれる。

1972年(昭和47年)4月16日、神奈川県逗子市のマンション「逗子マリーナ」の自室・仕事部屋で死亡しているのが発見された。享年72。戒名は、文鏡院殿孤山康成大居士、大道院秀誉文華康成居士。

翌73年に財団法人川端康成記念会によって川端康成文学賞が設けられ、現在まで続いている。1985年(昭和60年)には、茨木市立川端康成文学館が開館した。なお茨木市名誉市民にもなっている。

年譜

ファイル:Kawabata yasunari birth.jpg
川端康成生誕地の碑
ファイル:Kawabata yasunari museum01s1760.jpg
茨木市立川端康成文学館

受賞

栄典

作品一覧

  • 『感情装飾』(1926年、金星堂)
  • 伊豆の踊子』(1927年、金星堂)
  • 『浅草紅団』(1930年、先進社)
  • 『化粧と口笛』(1933年、新潮社
  • 『水晶幻想』(1934年、改造社
  • 『抒情歌』(1934年、竹村書房)
  • 『禽獣』(1935年、野田書房)
  • 『純粋の声』(1936年、沙羅書店)
  • 『花のワルツ』(1936年、改造社)
  • 雪国』(1937年、創元社
  • 『むすめごころ』(1937年、竹村書房)
  • 『女性開眼』(1937年、創元社)
  • 『級長の探偵』(1937年、中央公論社
  • 『乙女の港』(1938年、実業之日本社
  • 『寝顔』(1941年、有光社)
  • 『愛する人達』(1941年、新潮社)
  • 『文章』(1942年、東峰書房)
  • 『美しい旅』(1942年、実業之日本社)
  • 『高原』(1942年、甲鳥書林)
  • 『朝雲』(1945年、新潮社)
  • 『愛』(1945年、養徳社)
  • 『駒鳥温泉』(1945年、湘南書房)
  • 『日雀』(1946年、新紀元社
  • 『夕映少女』(1946年、丹頂書房)
  • 『温泉宿』(1946年、実業之日本社)
  • 『虹』(1947年、四季書房)
  • 『一草一花』(1948年、青龍社)
  • 『私の伊豆』(1948年、弘文堂
  • 『哀愁』(1949年、細川書店)
  • 新文章読本』(1950年)
  • 舞姫』(1951年、新潮文庫
  • 千羽鶴』(1952年、筑摩書房
  • 『再婚者』(1953年、三笠書房
  • 『日も月も』(1953年、中央公論社)
  • 『川のある下町の話』(1954年、新潮社)
  • 山の音』(1954年、筑摩書房)
  • 呉清源棋談・名人』(1954年、文藝春秋新社
  • 『童謡』(1954年、東方社
  • 『伊豆の旅』(1954年、中央公論社)
  • 『東京の人』(1955年、新潮社)
  • みづうみ』(1955年、新潮社)
  • 『燕の童女』(1955年、筑摩書房)
  • 『女であること』(1955・56年、新潮社)
  • 『富士の初雪』(1958年、新潮社)
  • 『風のある未知』(1959年、角川書店
  • 『眠れる美女』(1961年、新潮社)
  • 古都』(1962年、新潮社)
  • 美しさと哀しみと』(1965年、中央公論社)
  • 『片腕』(1965年、新潮社)
  • 『落花流水』(1966年、新潮社)
  • 『月下の門』(1967年、大和書房
  • 『美の存在と発見』(1969年、毎日新聞社
  • 『ある人の生のなかに』(1972年、河出書房新社
  • たんぽぽ』(1972年、新潮社)
  • 『竹の声桃の花』(1973年、新潮社)
  • 『日本の美のこころ』(1973年、講談社

作詞

  • 生きてゐるのに
    • 1969年発売。作曲と歌唱は北條暁。
    • カレッジフォークグループのエマノンズがカバーした。

その文学とエピソード

数々の日本文学史に燦然とかがやく名作を遺した近現代日本文学の頂点に立つ作家のひとりである。しばしば過去より今日に至るまで日本でもっとも美しい文章を書いた作家として紹介されることがある。その主だった作品は研究対象となることが多くまた本人も専門雑誌等に寄稿した創作に関する随筆等ではやや饒舌に記述することがあったため多少の脚色はあるもののモデルやロケーション、登場事物等の中には純然たる創作(架空のできごと)によるものではなく具体的に判明しているものも多い。

府立茨木中学に首席で入学し、近隣からは神童とさわがれたとされている。ただし、随筆等に書かれているように、入学後まもなく川端の興味関心は早くも芸術や大人の世界に向き始めており学校での勉学については二の次となった。現存する中学の卒業成績表によると、作文の成績が53点で全生徒88名中の86番目の成績であった。

洛中に現存する唯一の蔵元佐々木酒造の日本酒に「この酒の風味こそ京都の味」と、作品名『古都』を揮毫した。晩年川端は、宿泊先で桑原武夫(京大名誉教授)と面会した際に「古都という酒を知っているか」と尋ね、知らないと答えた相手に飲ませようと、寒い夜にもかかわらず自身徒歩で30分かけ買いに行ったと、桑原は回想している。[6] 

日本棋院内にある対局部屋「幽玄の間」に、川端の筆による『深奥幽玄』の掛軸がある。

川端が大戦中、鹿屋海軍航空隊に諜報班として赴任していたころ、隊に所属していた杉山幸照少尉曰く、燃料補給で降りた鈴鹿で飛行機酔いして顔面蒼白になっていたが、士官食堂でカレーライスを奢ったところ、しょぼしょぼとしながらも綺麗にたいらげ、「特攻の非人間性」について語ったという(杉山は元特攻隊昭和隊所属で、転属命令が出て川端と一緒に谷田部の海軍基地に行くところであった)。杉山は、自身の著作[7] での川端に関する回想で、最後まで川端が特攻について語ることがなかったのが残念であったと記している。川端は赴任前に大本営報道部の高戸大尉から「特攻をよく見ておくように。ただし、書きたくなければ書かないでよい。いつの日かこの戦争の実体を書いて欲しい」と通告されており、高戸は後に「繊細な神経ゆえに(特攻に関して)筆をとれなかったのではないか」と推測している[8]

死因について

死亡当時、死因は自殺と報じられ、それが通説となっている。これについては死亡前後の状況から自殺を疑い、事故死とする見解がある。それぞれの見解の動機や根拠を挙げる。

自殺説
  1. 交遊の深かった三島の割腹自殺(三島事件。大きな衝撃を受けたとされる。川端は葬儀委員長でもあった)。
  2. 1971年東京都知事選挙自由民主党から立候補した秦野章の支援に担ぎ出されたことへの羞恥(秦野は落選。本来政治に関心があったという形跡はない)。
  3. 老い(創作意欲の減少)への恐怖などによる強度の精神的動揺。
  4. 川端が好きだった家事手伝いの女性が辞めたから(臼井吉見の小説『事故のてんまつ』筑摩書房、1977年[9]。ただしこの作品は遺族より名誉毀損で提訴を受け、和解の際の条件により絶版となった)。
これらについて、自殺説に批判的な立場からは、1については日時が離れていること、3についてはあくまで文芸評論家の解釈にすぎず具体的証明はないこと、4については主観的記述であり事実検証はされていないことが指摘される。
事故死説
  1. 以前より睡眠薬を常用していた(深夜に執筆を集中して行うことが多い作家では、珍しいことではない)。
  2. 遺書がなかった。
  3. ふだん自ら操作することのなかった暖房器具の使用ミス(ガスストーブの未燃焼ガスが部屋に充満したとされる)。
  4. 川端が日本ペンクラブ会長時に信頼を寄せた副会長だった芹沢光治良は、追悼記「川端康成の死」で、自殺ではなかったとする説を述べている。また、前後して川端と対面した複数の関係者の証言では、自殺死をにおわせるような徴候はまったくなかったとするものだけが残っている。自身同年秋に開催された国際ペンクラブ大会の準備でも責任者として多忙であった。

脚注

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  1. ^ #海軍主計大尉p.219
  2. ^ エドワード・サイデンステッカー英訳を併記し、講談社現代新書で刊行している。
  3. ^ 1980~84年に、『決定版 川端康成全集』(全35巻補巻2)が刊行。のちに限定一括復刊もした。
  4. ^ 余談だが、大江健三郎等は進歩的文化人として、川端のこの行動を後々まで批判した。
  5. ^ #海軍主計大尉p.217
  6. ^ 追想記『川端康成氏との一夕』(文藝春秋、1972年6月号掲載)、のち『人間素描』筑摩書房。
  7. ^ 杉山幸照『海の歌声 神風特別攻撃隊昭和隊への挽歌』行政通信社、1972年
  8. ^ #海軍主計大尉p.220
  9. ^ 小谷野敦『私小説のすすめ』(平凡社新書、2009年)195p

参考文献

  • 羽鳥徹哉 『川端康成全作品研究事典』 原善編、勉誠出版、1998年6月、ISBN 4-585-06008-1
  • 杉山幸輝 『海の歌声』 行政通信社、1972年3月10日。
  • 高戸顕隆 『私記ソロモン海戦・大本営海軍報道部海軍主計大尉の太平洋戦争』 光人社、1999年。ISBN 4-7698-2227-8
    • 憂国の至情-大本営海軍報道部「海軍報道班員川端康成」

関連項目・人物

外部リンク