幣原喜重郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| 幣原 喜重郎 しではら きじゅうろう | |
|---|---|
|
ファイル:Kijuro shidehara.jpg 幣原喜重郎の肖像写真 | |
| 生年月日 | 1872年9月13日 |
| 出生地 | 大阪府茨田郡門真一番村 |
| 没年月日 | 1951年3月10日(満78歳没) |
| 死没地 | 東京都世田谷区 |
| 出身校 | 帝国大学法科大学 卒業 |
| 前職 | 外務官僚 |
| 所属政党 |
(無所属→) (同和会→) (日本進歩党→) (民主党→) (同志クラブ→) (民主クラブ→) 民主自由党 |
| 称号 |
従一位 勲一等旭日桐花大綬章 男爵 法学士(帝国大学・1895年) |
| 配偶者 | 幣原 雅子 |
| サイン | ファイル:ShideharaK kao.png |
| 任期 | 1949年2月11日 - 1951年3月10日 |
| 内閣 | 幣原内閣 |
| 任期 | 1945年10月9日 - 1946年5月22日 |
| 天皇 | 昭和天皇 |
| 内閣 | 濱口内閣 |
| 任期 | 1930年11月14日 - 1931年3月10日 |
| 内閣 | 第1次吉田内閣 |
| 任期 | 1947年5月3日 - 1947年5月24日 |
| 内閣 | 第1次吉田内閣 |
| 任期 | 1946年6月15日 - 1947年5月24日 |
その他の職歴 | |
|
ファイル:Flag of Japan.svg 初代 第一復員大臣(兼任) (1945年12月1日 -1946年5月22日) | |
|
ファイル:Flag of Japan.svg 初代 第二復員大臣(兼任) (1945年12月1日 -1946年5月22日) | |
|
ファイル:Flag of Japan.svg 第43-44代 外務大臣 (1929年7月2日 -1931年12月13日) | |
|
ファイル:Flag of Japan.svg 第40-41代 外務大臣 (1924年6月11日 -1927年4月20日) | |
|
ファイル:Flag of Japan.svg 衆議院議員 (1947年4月26日 -1951年3月10日) | |
|
ファイル:Flag of Japan.svg 貴族院議員 (1926年1月29日 -1947年4月25日) | |
|
ファイル:Flag of Japan.svg 第2代 日本進歩党総裁 (1946年4月23日 -1947年3月31日) | |
幣原 喜重郎(しではら きじゅうろう、1872年9月13日(明治5年8月11日) - 1951年(昭和26年)3月10日)は、日本の男性外交官、政治家。位階は従一位。勲等は勲一等。爵位は男爵。
外務大臣(第40・41・43・44代)、貴族院議員、内閣総理大臣臨時代理、内閣総理大臣(第44代)、第一復員大臣(初代)、第二復員大臣(初代)、復員庁総裁(初代)、国務大臣、衆議院議員、衆議院議長(第40代)などを歴任した。
目次 |
略歴
生い立ち
大阪府門真一番村(現・門真市)の豪農の家に生まれた。兄・坦は教育行政官、台北帝国大学初代総長。大阪城そばにあった官立大阪中学校から、第三高等中学校(首席卒業)を経て、1895年(明治28年) 帝国大学法科大学卒業。
戦前
1915年(大正4年)に外務次官となり、ワシントン会議においては全権委任をつとめる。外務大臣になったのは1924年(大正13年)の加藤高明内閣が最初。以降、若槻内閣(1次・2次)、濱口内閣と憲政会→立憲民政党内閣で4回外相を歴任。
彼の1920年代の自由主義体制における国際協調路線は「幣原外交」とも称され、軍部の軍拡自主路線「田中外交」と対立した。ワシントン体制に基づき、対米英に対しては列強協調を、民族運動が高揚する中国においては、あくまで条約上の権益擁護のみを追求し、東アジアに特別な地位を占める日本が中心となって安定した秩序を形成していくべきとの方針であった。そのため、1925年(大正14年)の5・30事件においては、在華紡(在中国の日系製糸会社)の中国人ストライキに対して奉天軍閥の張作霖に要請して武力鎮圧するなど、権益の擁護をはかっている。
1926年(大正15年)に蒋介石が国民革命軍率いて行った北伐に対しては、内政不干渉の方針に基づき、アメリカとともにイギリスによる派兵の要請を拒絶。しかし、1927年(昭和2年)3月に南京事件 (1927年)が発生すると、軍部や政友会のみならず閣内でも宇垣一成陸相が政策転換を求めるなど批判が高まった。こうした幣原外交への反感は金融恐慌における若槻内閣倒閣の重要な要素となった。
1930年(昭和5年)にロンドン海軍軍縮条約を締結させると、特に軍部からは「軟弱外交」と非難された。1931年(昭和6年)夏、広東政府の外交部長陳友仁が訪日し、張学良を満洲から排除し満洲を日本が任命する政権の下において統治させ、中国は間接的な宗主権のみを保持することを提案したが、幣原外相は一蹴した。その後、関東軍の独走で勃発した満州事変の収拾に失敗し、政界を退いた。幣原外交の終焉は文民外交の終焉であり、その後は軍部が独断する時代が終戦まで続いた。
なお、濱口内閣時代には、濱口雄幸総理の銃撃による負傷療養期間中、宮中席次の規定により次席であった幣原が内閣総理大臣臨時代理を務めた。その際の首相臨時代理在任期間116日は最長記録である。
第2次若槻内閣の総辞職以降は表舞台から遠ざかっていたが、南部仏印進駐の頃に近衛文麿に今後の見通しを訊かれ、「南部仏印に向かっている陸軍の船団をなんとか呼び戻せませんか?それが出来ずに進駐が実現すれば、絶対アメリカとの戦争は避けられません」と直言した逸話が残っている。
戦後
第二次世界大戦が終結し、吉田茂の後押しもあったといわれるが、戦後に内閣総理大臣に就任。当時引退済みで、本人は首相に指名されたことを嫌がって引っ越しの準備をしていたが、昭和天皇じきじきの説得などもあり政界に返り咲いた。幣原の再登場を聞いた古手の政治記者が「幣原さんはまだ生きていたのか」と言ったという逸話が残るほど、当時の政界では忘れられた存在となっていたが、親英米派としての独自のパイプで活躍、日本国憲法とりわけ第9条の誕生に大きな役割を果たした。ただし、吉田が幣原を首相に推したのは吉田の政治的な地位作りのためであったといわれている。
GHQの占領政策に基づき憲法草案を作るが、保守的な幣原の草案はGHQに拒否される。旧憲法下最後、そして女性参政権が認められた戦後初の総選挙となる第22回衆議院議員総選挙で日本自由党が第一党となり総辞職、第1次吉田内閣が発足する。幣原は無任所の国務大臣として入閣(のちに復員庁総裁兼務)。1947年(昭和22年)の第23回衆議院議員総選挙で初当選。日本進歩党総裁となり、民主党の結成にも参加したが、片山内閣の政策を批判して民主自由党に参加、衆議院議長に就任する。内閣総理大臣経験者の衆議院議長は初めてであった(その後も例がない)。議長在任中に78歳で死去。
人物・逸話
- 「幣原」という語彙は、欧米人にとっては発音しづらいものであったらしく、或る日、幣原は外国人記者から次の様な質問をされた。
- 記者:「閣下。貴方のファミリーネームは『シデハラ』なのですか?それとも『ヒデハラ』なのですか?」
- 幣原:「私(男性)は、『ヒーデハラ(Heデハラ)』で、家内(女性)は『シーデハラ(Sheデハラ)』です。」
- 外交官出身なために英語に詳しく、旺盛なユーモア精神の持ち主でもあった幣原は、このように答えたという。周りの者は仕方が無いので追従笑いでごまかしたそうである。
- 英語に関しては、まず英字新聞を和訳しその和訳文を再び英訳することを繰り返し学習したという。
- 幣原は書道や文章に優れていることで外務省内には知られており、幣原が外務大臣だったときに次官を務めていた吉田茂は、省内の文書が次官の決裁後に大臣である幣原の下に届けられると、幣原が文面を全て校正してから決裁をすることを知って、「大臣の所に行った文書は書き直されてしまうのだから、大臣の決裁を貰ってからでないと次官の決裁は出せない」と皮肉を述べたところ、この話が幣原に伝わってしまい、暫くの間二人の仲は険悪になったと言われている。だが、東久邇宮内閣総辞職後にマッカーサーから後任総理について尋ねられた時、世間から忘れ去られていた幣原をマッカーサーに推挙したのは吉田であったという。
- 経歴や行動からクエーカー派クリスチャンであったという説が有力だが判然としていない。
家族・親族
幣原喜重郎は幣原新治郎の次男として生まれた。新治郎の長男、つまり喜重郎の兄にあたる幣原坦(幼名・徳治郎)は東洋史学者で教育行政官[1]。坦の次女・澄江は農芸化学者・古在由直の長男・由正に嫁いだ[1]。由正・澄江夫妻の長男が「コザイの式」で知られている天文学者・古在由秀であり[1]、由正の弟、すなわち由直の次男がマルクス主義哲学者の古在由重である[1]。古在由秀は最後の東京天文台(国立天文台の前身)台長及び国立天文台の初代台長を務め「星の手帖」(既に廃刊)の編集委員としても知られており、2009年(平成21年)には文化功労者に選ばれている。また坦の孫にあたる幣原廣は弁護士で、古在由秀の従弟にあたる。第二東京弁護士会所属であり、副会長経験あり。多数の委員会活動に関与しているため、弁護士会では「多重会務者」などとと呼ばれている。
幣原喜重郎の妻・雅子は三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の四女。したがって喜重郎は加藤高明(春路夫人が弥太郎の長女)や岩崎久弥(弥太郎の長男、三菱財閥3代目総帥)、木内重四郎(磯路夫人が弥太郎の次女)らの義弟にあたる[2]。ただし春路・久弥・磯路の3人は弥太郎の正妻・喜勢が産んだのに対し雅子は妾腹の出である。したがって雅子は春路・久弥・磯路の異母妹にあたる。喜重郎・雅子夫妻は3人の男子をもうけた。長男・道太郎は元獨協大学教授、次男・重雄は元三菱製紙勤務、三男・平三は夭折。なお幣原内閣で大蔵大臣を務めた渋沢敬三も磯路の婿にあたる姻戚である[2]。渋沢敬三は渋沢栄一の孫にあたり、日銀総裁や大蔵大臣を務める傍ら、日本における民俗学の発展に多大な貢献をした学者でもある。また、1947年、岩崎家との縁から、財団法人東洋文庫の理事長に就任し、三菱財閥解体をうけて運営危機に陥った同文庫を翌年に国立国会図書館支部として維持させることに成功した。戦前より続く日本の東洋学研究の中心であった同文庫を解散の危機から救ったその功績は今日少なからず評価されている。
系譜
古在 由直 ┏古在 由重━━古在 豊樹 ┣━━┫ 豊子 ┗古在 由正 ┣━━━古在 由秀 熊沢 善庵━━━━━━妙子 ┏━━━澄江 ┣━━╋幣原 顕━━幣原 廣 幣原新治郎━━┳幣原 坦 ┗幣原 元━━━━━和子━┳幣原 幸秀 ┃ ┣幣原 和寿 ┗幣原喜重郎 ┗幣原 匡 岩崎弥次郎 ┣━━┳幣原道太郎━┳幣原隆太郎━┳幣原慎一郎 ┣━━┳岩崎弥太郎━━━━━━雅子 ┣幣原 重雄 ┣━━━倶子 ┗幣原 幸二 美和 ┃ ┃ ┗幣原 平三 ┗幣原 章二 ┃ ┃ ┃ ┣━━━┳岩崎 久弥━━岩崎彦弥太━━岩崎 寛弥 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃木内重四郎 ┏木内 良胤━━木内 昭胤━━木内 孝胤 ┃ 喜勢 ┃ ┣━━╋木内 信胤 ┃ ┣━━━磯路 ┗━━登喜子 ┃ ┃ ┣━━━渋沢 雅英 ┃ ┃ 渋沢 敬三 ┃ ┃加藤 高明 ┃ ┃ ┣━━━━━━悦子 ┃ ┗━━━春路 ┣━━━岡部 長衡 ┃ ┏岡部 長景 ┃岡部 長発━━━岡部 長職━┫ ┃ ┗岡部 長章 ┃櫻井 房記━━━━━━須美 ┃ ┃ ┣━━┳━━━妙子 ┗岩崎弥之助 ┏岩崎 輝弥 ┣岩崎毅太郎 ┣━━━╋岩崎 俊弥 ┗岩崎英二郎 後藤象二郎━━━━━早苗 ┗岩崎小弥太
著作
- 『外交五十年』 中公文庫。ISBN 4-122013-91-7。
- 『幣原喜重郎 - 外交五十年 人間の記録.64』、日本図書センター。ISBN 4-820543-09-1。
- ※ただし刊行時期が、占領下(読売新聞社、1951年)であるため、戦後についての執筆部分の信頼性には、疑問の声もある。
参考文献
- 浅野豊美『帝国日本の植民地法制 - 法域統合と帝国秩序』(名古屋大学出版会、2008年、ISBN 4-815-80585-7)
- 岡崎久彦『幣原喜重郎とその時代』PHP文庫(ISBN 4-569579-93-0)、PHP研究所(ISBN 4-569610-83-8)
- 岡崎久彦『吉田茂とその時代』PHP研究所〈PHP文庫〉。ISBN 4-569660-69-x。
- 塩田潮『最後の御奉公 - 宰相 幣原喜重郎』文藝春秋。ISBN 4-163463-80-1。
- 塩田潮『日本国憲法をつくった男 - 宰相幣原喜重郎』文春文庫。ISBN 4-167516-03-9。
- 馬場伸也『満州事変への道 - 幣原外交と田中外交』中公新書。ISBN 4-121003-02-0。
- 伊藤之雄『政党政治と天皇』(日本の歴史22)講談社。ISBN 978-4-06-291922-7(講談社学術文庫版)。
- 神一行『閨閥 新特権階級の系譜』講談社文庫。ISBN 978-4061855625。
関連項目
- 田中義一
- 日本国憲法第9条(発案者をめぐる議論)
- フリーメイソン
- 岩崎家 - 三菱の創業者一族。幣原家と姻戚関係にある。
- 中西輝政 - 幣原を「第一級の戦争責任を日本国民に対して負うべき人物」と批判している[3]。
脚注
外部リンク
| 議会 | ||
|---|---|---|
| 先代: 松岡駒吉 | ファイル:Flag of Japan.svg 衆議院議長 第40代:1949年 - 1951年 | 次代: 林譲治 |
| 官職 | ||
| 先代: 東久邇宮稔彦王 | ファイル:Flag of Japan.svg 内閣総理大臣 第44代:1945年 - 1946年 | 次代: 吉田茂 |
| 先代: - | ファイル:Flag of Japan.svg 国務大臣(副総理) 1946年 - 1947年 | 次代: 芦田均 |
| 先代: 創設 | ファイル:Flag of Japan.svg 復員庁総裁 初代:1946年 - 1947年 | 次代: 笹森順造 |
| 先代: 下村定(陸軍大臣) | ファイル:Flag of Japan.svg 第一復員大臣 初代:1945年 - 1946年(兼任) | 次代: 吉田茂 |
| 先代: 米内光政(海軍大臣) | ファイル:Flag of Japan.svg 第二復員大臣 初代:1945年 - 1946年(兼任) | 次代: 吉田茂 |
| 先代: 松井慶四郎 田中義一 | ファイル:Flag of Japan.svg 外務大臣 第40・41代:1924年 - 1927年 第43・44代:1929年 - 1931年 | 次代: 田中義一 犬養毅 |
| 党職 | ||
| 先代: 町田忠治 | 日本進歩党総裁 第2代:1946年 - 1947年 | 次代: 民主党へ |
| 歴代内閣総理大臣 | ||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 第43代 東久邇宮稔彦王 |
第44代 1945年 - 1946年 |
第45代 吉田茂 |
||||||
| |||||||||||
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||




