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後楽園球場

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

後楽園球場
Kôrakuen Stadium
ファイル:Kourakuen suidobashi 1974.jpg
施設データ
所在地 東京都文京区後楽1-3-61
開場 1937年昭和12年)9月11日
閉場 1987年昭和62年)11月9日
所有者 人工芝(1976年〜閉場)、
天然芝(〜1975年)
管理・運用者 株式会社後楽園スタヂアム
照明 照度 - バッテリー間:2000ルクス、内野:1500ルクス、外野:1000ルクス
建設費 123万円(開設時)
設計者 古橋柳太郎
建設者 飛島組
使用チーム • 開催試合

収容能力
内野席23,000人、外野席15,000人
     計38,000人(開場時)
内野席30,078人、外野席12,259人
     計42,337人(閉場時)
グラウンドデータ
球場規模  グラウンド面積:11,493m2
両翼 - 公称:90 m(約295.3 ft)
     実測:87.8 m(約288.1 ft)
中堅 - 公称:120 m(約393.7 ft)
     実測:120.8 m(約396.3 ft)
右・左中間 - 実測:110.1 m(約361.1 ft)
フェンス 外野2.1m〜4.7m
ファイル:Korakuen-Stadium-1.jpg
後楽園球場バックネット裏から外野を写す(1984年昭和59年)4月
ファイル:Korakuen-Stadium-2.jpg
後楽園球場レフト席から内野席を写す(1986年昭和61年)8月 左=1塁側の後方に現東京ドームの建設工事現場がある)

後楽園球場(こうらくえんきゅうじょう、英語:Korakuen Stadium)は、かつて東京都文京区にあった野球場で、正式名称は「後楽園スタヂアム」。株式会社後楽園スタヂアム(現・株式会社東京ドーム)が管理していた。

目次

歴史

1936年に日本のプロ野球(当時は職業野球)は本格的に始まったが、東京六大学野球の反発で神宮球場が使用できなかったこともあって、同年7月1日の東京でのプロチーム同士の初試合(東京巨人軍名古屋軍)は早稲田大学戸塚球場を借りて挙行せざるを得ず、東京で試合を開催する球場の問題が持ち上がっていた。このため、杉並区上井草球場、当時の深川区洲崎球場が造られたが、上井草は3万人という収容人員に比して交通の便が悪く、洲崎は海岸沿いの低湿地に立地していたせいで満潮時に度々球場が浸水するという問題を抱えていた。

このため、「日本初の職業野球」日本運動協会(芝浦協会)の創始者で、かねてからフランチャイズ制を提唱していた河野安通志押川清は、東京の都心に職業野球専用の新球場を建設しようと計画。読売新聞社正力松太郎阪急電鉄小林一三らの出資を仰いで、1936年12月に株式会社後楽園スタヂアムを設立した。東京砲兵工廠が移転したため空き地になっていた国有地を払い下げで取得し、球場直属の野球部である後楽園イーグルスの本拠地として内野2階建てスタンドを持つ野球場が建設され、1937年9月に開場した。

しかし、正力が最大の出資者となったことで、巨人が優先使用権を獲得し、イーグルスは二番手に甘んじた。程なくして球場とイーグルスの不和によりフランチャイズは解消され、1940年頃からは完全に巨人のホームグラウンドとなる。開場後、洲崎は程なく閉鎖され、上井草も使われなくなり、後楽園は完全に東京でのプロ野球興行の拠点となった。また、球場の両翼が78mしかなかったこともあって本塁打がよく出たため(1937年は開場後に82試合が行われ、84本の本塁打が出た。これに対し後楽園以外の球場では113試合で24本だった)「本塁打の出やすい球場」としてもファンの人気を集めた。1949年までの1リーグ時代に行われた4988試合のうち41%にあたる2033試合が後楽園で行われている。

第二次世界大戦末期には球場はに接収され、グラウンドではジャガイモトウモロコシが栽培され、二階席には高射砲が設置された。終戦後には兵器集積場になったりもしたが、1945年には早慶戦やプロ野球の東西対抗戦が開催されるなど、野球はすぐに再開された。1946年6月には上記のような経緯も影響してか連合国軍総司令部(GHQ)から接収命令が下るが、「東京でのプロ野球興行の場を失ってはならない」と当時の日本野球連盟鈴木龍二鈴木惣太郎がGHQを訪れて接収解除の陳情を行い、接収は6日間で解除された。

1950年にはナイター設備を設置。1958年には両翼を78mから90mに拡張するなど施設の整備に努めた。ただし、実測はもっと狭く、外野に向かって下向きに傾斜している[1]こともあって打者に有利な球場だった。そのため、両翼・センターの距離表示が消去されたという経緯もある。

1950年にセ・パの2リーグに分裂した当時、東京はおろか首都圏の近郊にプロ野球の試合の常時興行が可能な球場が後楽園しかなかったこともあって後楽園での試合数は飛躍的に増え、1950年はセ・リーグの553試合のうち171試合(全体の31%)、パ・リーグの420試合のうち117試合(全体の28%)が後楽園で行われた。
1952年にプロ野球では正式にフランチャイズ制度が導入されたが、後楽園は巨人、国鉄東急毎日[2]大映の5球団が本拠地として構えるなど日本一の球場の名を縦にした。その後、1953年に東急が駒沢球場[3]、毎日と大映の合併でできた大毎1962年東京球場へ、1964年に国鉄が神宮球場へそれぞれ移転するものの巨人戦の大きな観客動員数に支えられ、日本野球のメッカとしての不変の地位を得た。

日本最多の本塁打数を誇る王貞治は節目となる本塁打の多くをこの球場で放った。特にハンク・アーロンが保持するMLB記録を超える756号(1977年)と世界初の800号達成(1978年)の時には達成直後や試合終了後にセレモニーが催された。

王が当球場で達成した節目の本塁打

  • 1959年 - 公式戦第1号(国鉄戦)、長嶋茂雄とのONアベック本塁打第1号(阪神戦・天覧試合
  • 1974年 - 最後のONアベック本塁打(106回目 中日戦・長嶋引退試合)
  • 1976年 - ベーブ・ルースの持つMLB2位の記録に並ぶ714号と、それを超える715号(2本とも阪神戦)
  • 1977年 - ハンク・アーロンの持つMLB記録(当時)に並ぶ755号(大洋戦)と、それを超える756号(ヤクルト戦)
  • 1978年 - 世界初の800号(大洋戦)
  • 1980年 - 世界初の850号(広島戦)、現役最後の本塁打(868号 ヤクルト戦)

施設整備も進み、1966年には内野に天然芝を敷設し、1970年にはスコアボードを電光掲示化。1976年には人工芝を敷設した(後ろの二つは日本の野球場としては初)。しかし、巨人戦の動員力の大きさとは対照的に、東映→日拓→日本ハムの観客動員数は振るわなかった。オーロラビジョンが完成した1981年の日本シリーズは巨人と日本ハムの顔合わせとなり、史上初めて日本シリーズが同一球場で開催された。

1980年、巨人軍そして日本プロ野球を支えたONこと王貞治と長嶋茂雄がそれぞれ現役引退と監督辞任したことによりON時代が終焉を迎えた。しかし、二人の功績を讃え、1981年から1987年の閉鎖まで1番ゲートは「王ゲート」、3番ゲートは「長嶋ゲート」と称された。また閉場の際に1塁ベースは王に、3塁ベースは長嶋に寄贈されている。なお、ゲートの名称は閉場とともに一旦消えるが、後継の東京ドームの開場10周年記念として1998年より1・3番ゲートにそれぞれ復活した。

競輪場跡に東京ドームが建設されたことで球場としての役割を東京ドームに譲り、1987年11月8日に開催された巨人ファン感謝デーのイベントを最後に閉鎖・解体された。このイベント終了後、スタンドの椅子などを取り外して持ち帰ったファンもいたと言われている。跡地は駐車場として用いられた後、プリズムホールや東京ドームホテルが建設された。最後のパ・リーグ公式戦は1987年10月13日の日本ハム-近鉄戦で、近鉄先発の吉井理人がプロ初完投勝利を挙げている。最後のセ・リーグ公式戦は10月18日の巨人-広島戦で、巨人の吉村禎章が4ボール2ストライクから本塁打を打っている。最後のNPB主催試合は10月30日日本シリーズの巨人-西武第5戦で、最後の投手は西武の工藤公康、最後の打者は篠塚利夫である(結果は三振)。

後楽園球場でプレーした(プロ野球一軍公式戦に限る)NPB現役選手は現時点で山本昌(中日)のみとなっている。

日本プロ野球日本野球連盟日本野球機構)史上、後楽園球場での開催試合数7172試合、本塁打10416本は現在でも球場別ランキングの第1位である。

プロ野球以外での使用

プロ野球以外では社会人野球でも、都市対抗野球大会の開催地として、1938年から1987年まで使用された。

コンサートでも数多く利用され、日本初のスタジアムライブとなった1968年8月12日ザ・タイガース公演を端緒として、西城秀樹矢沢永吉アリスキャンディーズピンク・レディーたのきんトリオなどの国内アーティストの他、エマーソン・レイク・アンド・パーマーフリーグランド・ファンク・レイルロードサイモン&ガーファンクルマイケル・ジャクソンマドンナスティーヴィー・ワンダーデュラン・デュランライオネル・リッチーヒューイ・ルイス&ザ・ニュースなどの欧米のスーパースターが大規模コンサートを行ない、コンサート以外でも日本テレビの「アメリカ横断ウルトラクイズ」などの巨大イベントで使用された。また太平洋戦争が開戦された際には在京新聞8社の主催で「米英撃滅国民大会」が挙行されている。

野球場として興行を行う一方でボウリング場、場外馬券売場遊園地、屋内運動場などの施設も建設された。1949年11月には、球場に隣接する後楽園競輪場にて東京都主催による競輪が開催された。競輪は戦後復興期の都財政を支えたが、美濃部亮吉東京都知事公営競技廃止方針に伴い1972年3月に休止。跡地は夏季にはプール、それ以外のシーズンにはゴルフ練習場として活用され、その後同地に東京ドームが建設された。

球場設備の歴史

  • 1937年9月11日 - 開場。内野二階建てスタンドを持つ野球場として注目を浴びた。完成時の両翼は85m。中堅は114mとされている。同時に初代のスコアボード完成。服部時計店がタイマーを提供した。
  • 1945年 - 3月9日深夜の東京大空襲により初代スコアボードの一部が焼失。
  • 1949年 - スタンドの盛り土部分を改築し2代目スコアボード完成。両側にはライオンの商品が書かれるようになった。
  • 1950年 - ナイター設備完成(照明塔の数は内野4・外野4)。
  • 1953年 - 外野のポール付近に「アンラッキーネット」設置される(1957年に撤去)。関根潤三によれば大リーグとの親善試合で、本塁打を打たれないようにするため。
  • 1958年 - グラウンド拡張工事が完成し、両翼90m、中堅120mに。同時に外野フェンスに距離表示の数字が書かれるがこの時点ではヤード・ポンド法によるものだった。両翼の拡張によりスタンドが削られ、中堅から右中間、左中間の外野フェンスの高さ1.9mに対して、ポール際は最長4.7mと極端に高い特徴的な構造となる。
  • 1959年 - 外野フェンスの距離表示がメートル法に変更される。
  • 1961年 - 外野グラウンドの芝生を張り替える。マウンド下にスプリンクラー埋設。
  • 1962年 - バックスクリーン裏に、ホームラン噴水が設けられる(1970年に撤去)。
  • 1965年 - 内野グラウンドに芝生を貼る(いわゆるダイヤモンドターフ。初期は一部が土だが後に全面芝となる)。同時に内野ファウルゾーンの一部とバックネット裏にも芝を貼ることとなる。
  • 1967年 - フェンスに危険防止のため金網を張る。
  • 1968年 - 記者席を拡張し屋根を取り付ける。内野席をプラスチック椅子式に変更。外野両翼にカネボウのロゴマークをかたどった大型広告が設置される。
  • 1969年 - 内野二階部分のスタンド外壁塗装を白色に変更。スコアボードの両側がライオンからパイオニアの広告に変更される。
  • 1970年 - 内野二階席が拡張され新設部分は旧来のものより席数が多くなり(いわゆるジャンボスタンド)、照明塔も小さいものが2つ×2基に変更される。同時に日本初の全電光式スコアボードが完成。基本コンセプトは手書きだった2代目がベース。またブルペンが一塁側・三塁側のファウルゾーンから両翼の内野・外野スタンドの接合部の真下に移動。スコアボードの真ん中下の広告も大正製薬からパイオニアに変更される。
  • 1971年 - フェンスがラバーフェンスとなる。バックスクリーン裏に可動式のスクリーンが設置される。
  • 1973年 - それまで存在していたカネボウの大型広告に変わって、風速風向表示塔(通称エキサイティングタワー)がスコアボード脇に二機設置される。レフト側は風速、ライト側は風向を表示。ブリヂストンが提供した(1986年からキリンビール)。
  • 1974年 - 外野スタンド照明が大きいもの2基に改築され同時に内野の2基も改築される。人工芝設置のテストのため内野ファウルゾーンの土部分を人工芝に張り替える。
  • 1976年3月1日 - 日本初の全面人工芝グラウンド完成。
  • 1979年 - オーロラビジョン設置のテストのため全電光式スコアボードの自由文字表示部分をモノクロ映像表示可能のものに改良。
  • 1981年 - オーロラビジョン設置(三菱電機が提供した)。
  • 1984年 - 人工芝を透水性のものに張り替える。両翼の広告が6社ずつの12社から7社ずつの14社に変更される(球場広告の歴史も参照)。
  • 1987年11月8日 - この日を以て閉場。1988年2月までに解体。跡地は駐車場になり、現在は東京ドームホテル東京ドームシティが建つ。

スコアボードの歴史

初代は1937年〜1948年の12年間に渡って使用された。この当時は現在の球場でいうバックスクリーン付近全体を利用したもので、メインのスコアボードは15回まで記入でき、その下に第1、2試合目のスコアが記入できるスペース(各試合につき9回まで)があった。選手名の表示は得点表示の上に横スクロールで記載された。その後空襲被害を受けたため1946年のシーズン開始時に作り直しスタンド中段に移設した上で使用したが、前試合のスコア表示はできなくなった。1942年の名古屋軍大洋軍の試合が延長28回という日本プロ野球最長延長試合になった時には15回までの表示では間に合わず、16回から後のイニングは下段に表示した。なお広告は戦前から両端にライオン歯磨(当時は「ライオン歯磨本舗小林商店」)のものが掲示されていたが、戦時中はこれに変わり「進め百億火の玉だ」などの戦意高揚スローガンが掲示されていた。

2代目は1949年〜1969年の21年間に渡って使用された。スタンドの土盛り工事を行ったことにより、スコアボードの位置も高くした。スコア表示は12回までで、最大2試合分のスコアが表示できたほか、選手表記もスコアボードを挟む形で縦スクロールになった(3代目にもこのスタイルが引き継がれた)。また、スコアボードの両端はライオン歯磨とライオン油脂の商品(初期はライオン歯磨・ライオン歯刷子→後期はホワイトライオン、タバコライオン→末期はバイタリス、デンターライオン、ママレモン、バファリンなど)が書かれていたが、最末期はパイオニアの広告となった。スコアボードの真ん中下は大正製薬のワイパア(現在は白元)だったが、後期はリポビタンDの広告が表示されるようになった。この間、スコア表示の下段部を他球場のスコアの表示に変更、得点の数字の字体、およびスコア表示部のチーム名表記(ローマ字)の文字色の変更(白→黄色)といったマイナーチェンジが行われた。[1]

3代目は1970年〜1987年の18年間に渡って使用された。この3代目からスコアボードは電光掲示式に変更され、コンセプトは2代目のスコアボードがベースとなった。スコア表示は1試合のみ最大10回まで。合計スコア・ヒット・エラーの表示が可能となる。スコアボードの両端広告はパイオニアが球場閉鎖まで担当することとなり、真ん中下は大正製薬からパイオニアの広告に変更された。広告部は使用開始時は青色ネオン管(広告は白文字)を使用し、後にピンク・緑のネオン管を追加した(プレー時は青色)。パ・リーグ指名打者制度導入(1975年)以後、パ・リーグの試合のみ投手の表示はチーム名の部分に掲載し、指名打者の選手の守備番号部分は無表示であった。[2] なお打順のチーム表記は電光化後の最初は手書き時代同様にアルファベット1文字のみであった(1971年以降、英字表記となる)。スコアボード上部はフリーボードで、1981年からオーロラビジョンが採用される。選手名表示などのドットは粗く(1文字あたり15×15ドット)、画数の多い文字を表示することができなかったため、ロッテの醍醐猛夫は「ダイゴ」、広島の高橋慶彦は「高橋ょ」(のちに表示可能に)、審判の鷲谷亘は「ワシ谷」と表記されていた。なお供用開始の1970年4月に行なわれた金田正一の引退試合を兼ねたオープン戦では選手表示をせず、審判名は手書きの白地ボードを貼り付けて試合を行なっていたことが当時の映像に残っている。

また、バックスクリーンには長年、フコク生命の広告が掛けられていた。初期の頃は電光掲示(本塁打が出た場合は「HOMERUN」の文字が浮かび、噴水が上がる仕組みになっていた)だったが、その後回転広告のものになり、その上に本塁打が出た場合「おめでとう ホームラン」の電光掲示が出ていた(この表示は東京ドームに引き継がれる。ただし、「おめでとうホームラン フコク生命」に変更された)。

サブスコアボード(得点盤のみ)もあった。当初は手書きパネルでネット裏2階席最上段にあったが、その後3塁側1階席に電光掲示されたものに変更された。

広告表示の歴史

※レフトフェンスからライトフェンスの広告のみ取り上げる。
  • 1950年~1954年 トリスウイスキーラジオはナショナルサロメチール東邦生命富国生命森永ミルクキャラメルさくらフィルム胃腸にわかもと富士フイルム日本火災海上東京芝浦電気大和證券
  • 1955年~1959年 トリスウイスキー、ラジオはナショナル、サロメチール、東邦生命、富国生命、森永ミルクキャラメル、さくらフィルム、胃腸にわかもと、富士フイルム、日本火災海上、東芝のマツダランプ、大和證券
  • 1960年~1962年 トリスウイスキー、テレビはナショナル、サロメチール、東邦生命、富国生命、森永チョコレート、さくらフィルム、胃腸にわかもと、富士フイルム、日本火災海上、東芝テレビ、大和證券
  • 1963年~1964年 サントリービール、ナショナルラジオ/テレビ、サロメチール、東邦生命、富国生命、森永チョコレート、さくらフィルム、強力わかもと、富士フイルム、日本火災海上、東芝テレビ、大和證券
  • 1965年~1966年 サントリービール、テレビはナショナル、サロメチール、東邦生命、富国生命、森永ハイクラウンチョコレート、さくらフィルム、強力わかもと、富士フイルム、日本火災海上、東芝カラーテレビ、大和證券
  • 1967年~1969年 サントリー純生、カラーテレビはナショナル、サロメチール、東邦生命、富国生命、森永エールチョコレート、さくらカラー、ヨコハマタイヤ、フジカラー、日本火災海上、東芝カラーテレビ、大和證券
  • 1970年~1972年 サントリー純生、ナショナルカラーテレビ、サロメチール、東邦生命、フコク生命、森永ハイクラウンチョコレート、さくらカラー、YOKOHAMA、フジカラー、日本火災海上、XEROX、大和證券
  • 1973年~1975年 サントリービール純生、Technics、サロメチール、東邦生命、フコク生命、森永ハイクラウンチョコレート、サクラカラー、YOKOHAMA、フジカラー、日本火災海上、XEROX、大和證券
  • 1976年~1977年 サントリービール、Technics、サロメチール、東邦生命、フコク生命、森永ハイクラウンチョコレート、サクラカラー、YOKOHAMA、フジカラー、日本火災海上、XEROX、大和證券
  • 1978年~1979年 サントリービール純生、ナショナルホームビデオ、サロメチール、東邦生命、フコク生命、森永ミルクキャラメル、サクラカラー、YOKOHAMA、フジカラー、日本火災海上、XEROX、大和證券
  • 1980年~1981年 サントリービール純生、ビデオはナショナル、サロメチール、東邦生命、フコク生命、森永ハイクラウンチョコレート、サクラカラー、YOKOHAMA TIRES、フジカラー、日本火災海上、FUJI XEROX、大和證券
  • 1982年~1983年 サントリー生ビール、ビデオはナショナル、サロメチール、東邦生命、フコク生命、森永ハイクラウンチョコレート、サクラカラー、YOKOHAMA TIRES、フジカラー、日本火災海上、FUJI XEROX、大和證券
  • 1984年~1986年 サントリー生ビール、ビデオはナショナル、サロメチール、リョービ、東邦生命、フコク生命、パソコンは富士通、サクラカラー、日本航空[4]、フジカラー、クボタ、日本火災、FUJI XEROX、大和證券
  • 1987年 サントリー生ビール、ビデオはNational、ワールド、リョービ、東邦生命、フコク生命、パソコンは富士通、コニカカラー、日本航空、フジカラー、KUBOTA クボタ、日本火災、FUJI XEROX、大和證券
※2011年現在、東京ドームの外野フェンス広告のスポンサーで後楽園時代から出しているのはサントリー、フコク生命、コニカミノルタ、日本興亜損保、大和証券の5社である。内野ではトンボ鉛筆などが引き続き掲示。

ベンチ広告の歴史

※ミズノ、森永製菓は東京ドーム完成後もベンチスポンサーを長く務めていたが、1997年限りで降板し、後楽園時代からのスポンサーは2011年現在、キーコーヒーのみである。また、資生堂は東京ドームの完成後はバックネット広告に専念している(1996年限りで降板)。

放送席

バックネット裏には、1957年頃に設置された放送席(いわゆるゴンドラ席)があり在京の各放送局が所有。席下には所有している局のロゴマークが書いてあった。席順は、設置当初~1966年頃は一塁側からRKB毎日放送毎日放送朝日放送中部日本放送、貴賓席を挟んでTBS日本放送協会(NHK)、日本テレビニッポン放送文化放送日本短波放送(NSB)、北海道放送ラジオ関東。1967年頃~閉場までは前述の中部日本放送までの4席が空白となり(空白のゴンドラ席は後に、日本短波放送→ラジオたんぱや東京12チャンネル→テレビ東京テレ玉tvkチバテレビ中京テレビ副音声における中日応援実況)、よみうりテレビ(副音声における阪神応援実況)などが使用)、一塁側からTBS、NHK、日本テレビ、ニッポン放送、文化放送、ラジオ日本、NETテレビ→テレビ朝日フジテレビ

後楽園球場と日本シリーズ

後楽園において、日本シリーズ1950年の第1回から、1987年までの間で、巨人軍主管試合を中心に28回にわたって開催されてきた。これは歴代の日本シリーズ開催の球場の中で最多の開催回数である。(1981年は巨人と日本ハムの2チームがともに後楽園を本拠としていたため史上唯一の1球場単独開催だった。次の項と、1981年の日本シリーズ参照。1950年1962年1974年1978年特殊例外により、巨人など本来の本拠チーム以外のチームが主催した試合を開催)

幻の後楽園シリーズ

1981年、当時後楽園を本拠地球場としていた巨人と日本ハムが揃ってリーグ優勝を決め、日本シリーズは後楽園だけで開かれた「後楽園シリーズ」となった。日本シリーズの一球場のみでの開催は史上唯一の例である。

だが、この他にも4回「幻の後楽園シリーズ」が実現する可能性があった。1961年の巨人 - 東映、1974年と1977年の巨人 - ロッテ、1978年のヤクルト - 日本ハム、1982年の巨人 - 日本ハムが仮に実現した場合、以下の取り決めで後楽園のみを使う可能性があった(実際には1961年は南海が、1977年と1978年は阪急が、1982年は西武がそれぞれパ・リーグを制し、1974年と1982年は中日がセ・リーグを制したため、これら4年の後楽園シリーズは幻となった)。

  • 1961年:東映は当時駒沢球場を本拠地としていたが、同球場が1964年の東京オリンピックに備えてスポーツ公園(駒沢オリンピック公園)の整備を実施するために閉鎖されることが決まっており、東映主催の第1戦は駒沢で開くも、それ以後は後楽園で開催される予定になっていた。
  • 1974年、1977年:ロッテは当時実質的な本拠地を宮城球場(現:日本製紙クリネックススタジアム宮城=楽天本拠地)としていたが、同球場が協約上の規定に満たず、ロッテ主催は後楽園で開催される取り決めとなった。
  • 1978年:ヤクルトの本来の専用球場である神宮球場東京六大学野球連盟との日程調整が付かず、ヤクルト主催は後楽園で開催されることになっていた。
  • 1982年:中日が最終戦[5]で敗れれば巨人が優勝し、また日本ハムもプレーオフで西武に勝てば2年連続の優勝で2年連続で後楽園シリーズが開催される予定だった。

日本シリーズ退場事件

1969年には日本シリーズ初の退場事件が起きた。巨人2勝1敗で迎えた10月30日、第4戦が後楽園球場で開催された。阪急3点リードの4回裏、巨人は無死一・三塁のチャンスを作った。ここで長嶋茂雄は三振に倒れたが、王貞治土井正三がダブルスチールを敢行。阪急捕手の岡村浩二は二塁へ送球し、二塁手の山口富士雄が受け取る。土井が本塁へ突入してきたのを見て、山口はすばやく岡村に返球してきた。岡村は土井を完璧にブロックしており、完全にアウトと思われたが、岡田功球審の判定は「セーフ」。この判定に激怒した岡村は岡田球審の顔面を殴打。シリーズ初の退場処分を受けた。

このトラブルの後、流れが変わり最終的に9 - 4で巨人が勝った。試合後、岡田球審は周囲から大いなる非難を浴びせられる。岡田球審自身も「もしかしたらミスジャッジだったかもしれない」と考え、一時は辞表を提出することも考えた。しかし、翌日のスポーツ紙に土井の左足が岡村に跳ね飛ばされる前にしっかりとホームを踏んでいたシーンの写真が掲載されたことで、「誤審」と思われた岡田球審の問題の判定は正しかったことが証明され、周囲からの非難は沈静化。岡田球審の的確な判定が高く評価されるようになった。

大相撲本場所の開催

太平洋戦争大東亜戦争)中の2度、大相撲本場所の会場となったことがある。両国国技館(初代)を軍に接収された相撲協会の苦肉の策で、当然「晴天10日間」の興行だった。マウンドに急ごしらえの土俵をつくったと当時の関係者の証言が残る。ただし、後楽園での開催は幕内・十両の取組だけで、幕下以下は、5月は両国国技館、11月は神宮外苑相撲場で、日程を前倒しして非公開で開催された。

昭和19年5月場所
双葉山定次羽黒山政司立浪部屋の両横綱が優勝を争った。双葉山が9日目に照國万藏に破れ、決定戦制度のなかった時代、番付上位者優勝の制度だったために、羽黒山の2度目の優勝が決まった。千秋楽も勝って10戦全勝。
昭和19年11月場所
野外での興行であるため、力士の体調管理に配慮し、翌年1月場所を前倒しして開催したもの。大関前田山英五郎関脇東富士欽壹の高砂一門の兄弟弟子が優勝を争い、9勝1敗の同点、番付上位の前田山の優勝。若瀬川泰二も幕内下位ながら最後まで全勝をつづけたが、三根山隆司に敗れ優勝を逃した。
双葉山は6日目に東富士に敗れ、翌日から休場。引退を決意したと言われているが、関係者の説得でこの時は翻意した。しかし、結局この後楽園球場での東富士戦が、双葉山の実際に土俵に上がっての最後の敗戦になった。
備考
  • 後楽園で横綱をつとめた力士は、双葉山定次、羽黒山政司、安藝ノ海節男、照國万藏の4人。後楽園で幕内をつとめて後に横綱に昇進した力士には、前田山英五郎と東富士欽壹がいる。
  • 後楽園で大関をつとめたのは前田山と佐賀ノ花勝巳。佐賀ノ花は5月場所の7勝3敗で大関昇進。後楽園場所で誕生した唯一の新大関である。ただ新大関場所となる11月場所では初日から連敗の後3日目から休場、後楽園球場で大関としては1勝もあげられなかった。
  • 後楽園球場で最多勝をあげた力士は、羽黒山(10戦全勝+7勝3敗)と前田山(8勝2敗+9勝1敗)でともに17勝である。

同球場で開催されたその他のスポーツ大会

プロボクシング

プロレス

スキー

モータースポーツ

コンサートを開催したミュージシャン

国内アーティスト

  • ザ・タイガース(1968年8月12日)
    • 日本では史上初のスタジアムコンサートとなった。
  • キャンディーズ(1978年4月4日)
    • スタジアム公演としては、史上初の解散コンサート。
  • 西城秀樹(1978年7月22日、1979年8月24日、1980年7月18日、1981年8月16日)
    • 後楽園球場の最多公演アーティスト。
  • ピンクレディー(1978年7月23日・24日、1981年3月31日)
    • 1981年3月31日公演は、解散コンサート。
  • 矢沢永吉(1978年8月28日)
  • たのきんトリオ(1981年8月6日)
    • 1983年8月7日は、都合により公演中止。
  • アリス(1981年8月31日、11月7日)
    • 1981年11月7日は、解散コンサート。

海外アーティスト

フェスティバル・ジョイントコンサート

  (出演:ウォーゴダイゴ

  • サマーフェスティバル(1975年7月19日)

  (出演:内田裕也&1815 Rock'n'Roll Bandカルメン・マキ&OZ、あんあんBAND、クリエイションジョー&フェリックス・パパラルディ

  • World Rock Festival(1975年8月7日)

  (出演:イエロー、ジェフ・ベック、カルメン・マキ&OZ、四人囃子、クリエイション、ニューヨーク・ドールズ、フェリックス・パパラルディ with Joe)

  • '76 サマーロックフェスティバル(1976年7月20日)

  (出演:内田裕也、スマイラー、内海利勝&ニューグループダウン・タウン・ブギウギ・バンド、四人囃子、ジョニー大倉

  (出演:吉田拓郎武田鉄矢南こうせつ八神純子RATS&STARALFEE

  • PAX MUSICA '84(1984年7月11日)

  (出演:谷村新司チョー・ヨンピルアラン・タム

  • SOUND HOT '85(1985年8月31日)

  (出演:武田鉄矢、堀内孝雄&ケインズ杉山清貴&オメガトライブセイント・フォー八田雅弘

関連項目

脚注

  1. ^ 江本孟紀の著書「プロ野球を10番楽しく見る方法」([ISBN 4584004676])でもこのことについて言及されている。
  2. ^ 宮城球場を暫定本拠地としていた1973年1977年の間も特例として、巨人と日本ハムの主催試合が組まれていない空き日程を利用して10試合前後の主催試合を開催した。ジプシー・ロッテも参照。
  3. ^ 東京オリンピックの関係で1962年に球場が閉鎖されてからは神宮を経て1964年に再び後楽園へ戻る。
  4. ^ 1985年8月12日に起きた日本航空123便墜落事故の後、この事故による宣伝活動自粛に伴い一時的に消されていた。
  5. ^ 横浜スタジアム大洋

外部リンク

前本拠地:
n/a
-
読売ジャイアンツの本拠地
1937 - 1987
次本拠地:
東京ドーム
1988 - 現在
前本拠地:
n/a
-
大和軍の本拠地
1937 - 1943
次本拠地:
n/a
-
前本拠地:
n/a
-
大映ユニオンズの本拠地
1946 - 1957
次本拠地:
n/a
-
前本拠地:
n/a
-
東急フライヤーズの本拠地
1948 - 1953
次本拠地:
駒澤野球場
1953 - 1961
前本拠地:
n/a
-
中日ドラゴンズの本拠地
1948 - (1シーズン限り)
次本拠地:
ナゴヤ球場
1949 - 1996
前本拠地:
n/a
-
国鉄スワローズの本拠地
1950 - 1963
次本拠地:
明治神宮野球場
1964 - 現在
前本拠地:
n/a
-
大毎オリオンズの本拠地
1950 - 1962
次本拠地:
東京スタジアム
1962 - 1972
前本拠地:
明治神宮野球場
1962 - 1963
日本ハムファイターズの本拠地
1964 - 1987
次本拠地:
東京ドーム
1988 - 2003