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慰安所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

慰安所(いあんじょ)とは、軍隊や政府組織が軍人や軍属のために民間業者が設立して軍政が経営を監督及び監査した娯楽施設のことを言う。これとは別に、軍隊や政府組織が軍人や軍属のために民間業者が設立して軍政が経営を監督及び監査した旧日本軍売春施設を特殊慰安所と、従事する公娼を特殊慰安婦と称した。韓国軍[1][2]アメリカ軍[2][3]などが戦地・占領地・訓練地で設置・利用したという研究がなされている。

本稿では旧日本軍による慰安所に関して記述する。(とあるが、正確な記述ではない。アジア女性基金のアーカイブの中の一事資料に「慰安所」と「特殊慰安所」についての文献が複数存在するので、これに基づく正確な記述へ修正する必要がある。) 韓国軍については項目「韓国における慰安所」で後述する。占領下の日本で内務省によってGHQ相手に設置された「慰安所」に関しては特殊慰安施設協会を参照。

目次

概要

上海事変から第二次世界大戦にかけて旧日本軍により軍人・軍属のために戦地に設置された売春施設。政府の調査によれば、慰安所の開設は軍の要請によるもので、軍人の住民に対する不法行為、性病の防止、防諜の必要性などから設置されたとされている[4]慰安婦の募集は、多くが業者によっておこなわれ、軍はそれらの取り締まりや衛生等の管理に直接・間接的に関与したと考えられている(政府資料)[5][6]。90年代に入り、韓国挺身隊問題対策協議会や日本の戸塚悦朗弁護士が国連に日本軍性奴隷問題として問題提起してから国際的に注目され[7]:30,34[8]:259、国連人権委員会に「強姦所」として報告されていた時期もある(マクドゥーガル報告書)。 研究者の間には、慰安所での待遇について、当時の遊里と変わらなかったという見解と[8]:391、慰安所では女性が奴隷状態に置かれ強制的に売春をさせられていたという見解[9]がある。最近になり、欧米の学者の中からも、慰安婦は当時の公娼と変わりはなく慰安所を強姦所と呼ぶのは正しくないとする意見が出てきている[10]

経緯

1930年頃、日本は公娼制度を維持していた(アメリカ、イギリス、中国にはない)が、中華民国上海租界の公娼廃止に向かっていて、租界の中で日本領事館は表向きは料理店における“酌婦”という名目で公娼制度を維持していた。1932年上海事変の際に駐屯する日本軍が増えたため、海軍によって、貸座敷(売春施設)を軍専用とする形で設置された「海軍慰安所」というものが慰安所の始まりと言われ、陸軍もこれを参考にしたと言われている。

1936年の時点では、軍直営の慰安所の他、民間の酒保・慰安所がある程度多くあった。当時の民間と見られう得る施設の中にも軍専門の業者があり、性病健康診断に軍及び警察が立ち会ったりしていた、という。当時の上海などでは取り締まりの厳格さのために新規営業を認めない方針であったが、1938年以降、日本軍占領地域での犯罪の防止と治安維持のために、軍直営ではないが軍人専用の「特殊慰安所」の設置が始まり、多くの施設が作られた[6][11]

1938年以降の戦争の全期間を通じて日本軍の展開したほとんど全ての占領地域に存在した。1941年の太平洋戦争開始に伴い太平洋地域へ拡大したと考えられている。[12]

詳細

  • 名称:「慰安所」、「軍人倶楽部」、「軍人娯楽所」、「後方施設」などと呼ばれた。「特殊慰安所」という分類名もある。軍人は俗に「ピー屋(ピーは中国語での売春婦の蔑称)」と呼ぶことが多かった。現在の研究者の間では「慰安婦」「慰安所」のように括弧づけで当時の名称であることを明示している者が多い
商事会社の漢口(現・武漢)支店に勤務していた小野田寛郎の記憶では、1939年、「漢口特殊慰安所」という看板が掲げられていたという[13]
海外娼婦の前身の呼び名としては、料理店の酌婦、また娘子軍(海外渡航娼婦=からゆき)という言い方もあった[14]
慰安所や慰安という用語の使用例は、米軍占領軍相手に強姦事件を防ぐ目的で設立された公的な売春組織=特殊慰安施設協会朝鮮戦争における韓国の慰安所[15]、戦時中に朝鮮労働者向けに企業が設置した「産業慰安所」[16]、などがある。
なお、日本軍向けの慰安所について、英語では一般に“comfort station”と訳される場合も多いが、これは米語の手洗い=公衆便所の意味となる。日本語のその蔑称は場所でなく女性に向けてのものであるため、ずれが生じる。固有名詞としての直訳形はthe Comfort Place である。国連の「マクドゥーガル報告書」では「rape center(強姦所)」と呼んでいるが、この報告書の事実認識は「アジア女性基金[17]では批判されている。
  • 施設:多くは軍が接収した民家旅館商店食堂などの建物が使われ改造された。大都市では売春行為のための細かい部屋割りをもった建物が使われている。またそれらが複数集まって街区を形成している場合もある。小規模なものでは家屋を適宜カーテンなどで仕切り使用した場合もある。戦場に近い場合、塹壕トーチカなどで行われている。多くは洗浄消毒のための小部屋が別に設けられた。
  • 分類:慰安所は大きく分けて、「軍直営」「軍専用」「軍利用」と分けられる。「軍直営」は、軍が設置、運営、利用したもの。(「軍直営」が存在したと流布されているが、実際には存在しなかった。軍が特殊慰安所を直接設置することも運営することも軍規違反であり、発覚すれば施設封鎖されて関与した将兵は更迭され、業者は営業許可を剥奪された。)「軍専用」は、軍が設置したが、経営は民間業者に任せ、利用を軍人に限定したもの。(「軍専用」とは、軍が設置したものを言うのではない。軍人軍属以外の利用を排除した、文字通り軍専用に民間業者が営業するもの。現地で必要な施設を軍が調達し、施設を民間業者に貸し出して民間業者が営業する形態も少なくなかった。これを「軍直営」と誤認したり決め付ける論調が、存在しなかった「軍直営」を生み出した。)「軍利用」は、民間の公娼施設の中で、軍が軍人に利用を認めたものである。兵站基地の近くや大都市に設置されるものと、特定の部隊専属のものがあり、部隊専属の慰安所は部隊と共に移動し、極端な例では前線のトーチカで行為が行われている。(「部隊専属」なるものなど存在しなかった。業者も従事者も総て軍政に許可登録した民間人であった。そもそも業者と特殊慰安婦の営業許可は軍政に届け出て登録した施設でしか認められておらず、違反すれば営業許可は取り消された施設は封鎖であった。)「軍専用」では軍の関わりは、募集、移送、運営面で見られ、「軍利用」でも軍の命令による設置や廃止が行われている。また全てにおいて軍医による慰安婦の性病検査と管理が行われている。

(特殊慰安婦と将兵の公衆衛生面での安全は軍政の管轄化で管理保護され、軍医がこれにあたった。営業に付いての管理監督も軍政下に置かれ、主計局が兵站部を通して監査した。)

  • 設置理由:研究者は当時の公文書から以下を設置理由と考えている。
  1. 占領地で日本軍人による強姦事件が多発したため:慰安所設置を請求する文書にこの理由が見られる。
  2. 将兵への「慰安」の提供:日本軍には休暇制度がなく、長期間戦地におり、自由の制限で不平が溜まりやすかったため。
  3. 性病の防止:民間の売春宿を利用すると性病が蔓延する事を恐れたため。
  4. 軍の機密保持・スパイ防止のため:兵士が民間の売春宿に通うと売春婦を通じて軍の機密が漏れることを恐れたため。

(第一の理由は、将兵の公衆衛生上の安全確保。第二に、現地女性との男女関係発生の防止と性的虐待や強姦抑止。共に、将兵の生理的欲求の処理が根本にある。間諜や情報漏れなど、軍の機密漏れに対する意識がこの権にさして関与していなかったことは、その成り立ちからも伺える)

  • 料金

金子安次によると慰安料金は1円50銭くらい(当時の一等兵の月給は8円80銭くらい)だったとしている。一方、慰安婦には給与が無い場合が多かったとしている[18]。 (給与規定は、アジア女性基金のアーカイブスにある一事資料に記載がある。支払い関連での取り締まりの記録も存在する。「給与が無い場合が多かった」は明らかな捏造である。)

慰安所の設置経緯

慰安所政策の背景とその影響

当時中国では売春が禁止されており、匪賊(ゲリラ、盗賊)でさえ他の略奪などに比べ、強姦することは稀だったという[12](都市部では不明。婦女誘拐や人身売買は別)。

一方、上海の多くを占めるようになっていた租界では、イギリスフランスが公娼制を行ったので中国の私娼が集まり、1930年統計では、中国人2万余り、朝鮮人千人余り、日本人700人余りとあり、そのほとんどが私娼となっている。

(日本では、 1920年に外地の日本人娼婦である「からゆきさん」が廃止。 朝鮮では、1920年代に年間3万人の私娼が朝鮮で売り買いされ、1920年代半ばには外地に売られたのが年に5000人、8割が騙されてだという。 1930年頃の朝鮮内の公娼は、日本人と朝鮮人それぞれ4、5千人程度とされる。 1937年、日本内地では、芸妓を含めて21万人)[8]

1929年に中国の国民政府国家主席である蒋介石が上海の公娼廃止を行った。前述の1930年の統計では私娼が圧倒的多数である。

<初期>
1932年、第一次上海事変が起きる。その事変の直後に日本兵の強姦事件が頻発し、その防止のために慰安所が設けられたといわれるが、また性病防止の目的も大きかったとされる。 形態は、軍が指定した家屋に業者が入り、管理費などは業者負担とし、軍の枠内で営業するものであり、陸軍もこの形を真似たとされるがやがて姿を消す。この時期は民間による民間客と兼用の慰安所・風俗売春店が多い。[[19], p91p92]

この時期、長崎の女性達がだまされたまま、帰りの旅費がないためにそのまま就業したという事件が起きている。[8]

<本格的設置の始まり>

1937年末、上海事変から南京攻略を終えたときまでの日本軍に強姦が多く発生した。当時の中国には'紅槍会という地方農民の自衛団があり、その特徴として、「特に強姦に対しては各地の住民一斉に立ち死を持って報復せるを常しあり」 ということが1937年10月6日に方面軍から通達が回っている[6]。 このような文化的な違いから、中国人の対日感情が悪化し治安が低下することに直面した日本軍が、日本軍専属の慰安所を設置することにして、年末から年初には業者が日本・朝鮮などを回っていた。

  • <警察・軍・領事>

このときの募集では、地方警察に無連絡であり、国内法と常識からは大きくはずれる点が多く誘拐と疑わしく、警察とのトラブルが生じた[20]国内的に公娼が廃止の方向に向かっていたこと、からゆきと言われる主に南方の海外娼婦を廃止させた(1920年)政策も背景と見られている。

1938年2月に内務省警保局から地方にあてた「支那渡航婦女の取り扱いに関する件」と題する通達では、海外渡航の売春関係の女性が増えていること、その中には、軍が了解しているといって回る者が頻発しつつあるとし、取り締まりの基準として、成人以上で親族・本人の同意を直接確認するなどし、また社会問題が起きないように、軍の名前を出させないようにするために、広告を禁じている(この年齢制限は内地以外は適用外であり、朝鮮・台湾の公娼は17歳以上[21]であったが、占領地ではそれも適用外であった)。これを受けた3月に、陸軍省から華中派遣軍に対して社会問題にならぬようにとの指示が作られている。[22]

1938年春頃、華中では、軍と領事館警察との間で、取り締まりについての分担を決めている。 一般人・民間兼用については警察が、軍人・軍専属の慰安所については憲兵が取り締まる。 また領事館の便宜のため軍や憲兵から職員・慰安婦の情報を伝える、など。

1937年までは、風俗関係の取り締まりが地方領事館によって一定でなかった[23]

1938年の後半、再び慰安婦の募集によって四百人が渡航したとされる。このとき、社会問題にならないように内密に行動するために、各県の警察に業者を指定するよう協力を要請され、警察はこれを受けている。

1939年、漢口の部隊が派遣軍の統制によらず、勝手に慰安所を設置しようと内地で慰安婦を集め、内地から領事館に問い合わせがあり、異例ながら事後承認しつつ、慰安婦は領事館の監督下で営業することになったことがある。

1938年初めに設立された上海の軍直轄のある慰安所に配属された軍医の資料によると、朝鮮からの者が大部分で、年も若く無垢を感じる者も多く、日本人はみな数年以上の職業を経ていて、性病の治療跡のある者もいたとされる。

1939年、上海の軍医の会では質の向上が提案されたことがあり、これが朝鮮から多くの少女がだまされて連れてこられる一因となったという主張もあるが、因果関係は定かでない。朝鮮の募集においては、下請け業者が多かったと推測されている[24]

<以後の展開と影響>

華北では、早くから売春婦が入り込んでいたこともあり、軍専属の慰安所は1940年から始まるという。(この年華北では、ゲリラ活動だった共産軍の大規模な反攻があり、日本軍は共産軍を見直したとされる)

1938年に兵站部の指導による特殊慰安所が設置されることになり、軍直営の慰安所は1938年に一旦姿を消すといわれる。しかし他面では、兵団とともに移動することも多く、辺境での末端部隊では、私的に慰安所を設置したり、巡回慰安婦という形も生じた(主に[8])。

1941年、太平洋戦争の勃発と共に慰安所は各地に展開していき、方面軍独自のものと見られる慰安所政策の要項が残っている。

太平洋戦争期の戦地では、(満州を戦地でないとして)100万以上の[25]陸軍兵士・軍属に対して、約1.2万/年の罹患者[19]であり、終戦時の連合軍の調査では、南西太平洋地域では日本軍の罹患率はきわめて低いとしている。[19]

これらの慰安婦が必要とされた不祥事の起きる背景として、単に日本軍の数の拡大だけでなく、その兵にとって、派兵生活が長期化したことの影響もあったとされる。
(後にこの不祥事への反省が、戦後の義務教育延長につながっているという。[26]

軍関係

吉見義明は警察資料、拓務省・内務省の資料の一部、従軍日誌や軍の業務日誌類、法務省・外務省の戦犯裁判資料、厚生省の復員・援護関係資料などが非公開なので事実究明に制約があると主張している。[12]

政府は河野談話で慰安所の設置に軍が関与していたことを公式に認め、政府の調査報告書にも明記された。軍の関与について研究者の間に異論はない。秦郁彦は映画などのたぐいも多く軍が関与していないと思う人の方が珍しかったろうとし、政府が「国としての関与を認めてこなかった」と報じた1992年1月11日の朝日新聞の記事を批判している。[8]

吉見義明は占領地では、民間業者が独自に慰安所を設置するのは不可能であり、軍が慰安所の設置を命令して全てが始まるとしている。
(満州、租界、などは占領地とは言わない)

その上で吉見義明は軍が大きく関与して慰安所が設置された以下の例を挙げている。

  • (以下は吉見の主張するところの「根拠」を列記している。史料解釈等について批判されているものを含む点に注意 )
  1. 1932年3月:上海派遣軍は上海で慰安所を作った、岡村寧次上海派遣軍参謀副長や岡部直三郎高級参謀が慰安所を作る指示を出し、永見俊徳参謀が設置を行った。[27][28]
  2. 1937年12月:中支那方面軍は慰安所設置の指示を出した。これを受けた上海派遣軍では参謀第二課が案を作成、長勇参謀が設置を担当した。[29]
  3. 1937年12月:第十軍参謀寺田雅雄中佐は憲兵を指揮して湖州に慰安所を設置した[29]
  4. 1938年6月:北支那方面軍の参謀岡部直三郎中将は、指揮下の区部隊に慰安所の設置を指示を出している[19]
  5. 1938年11月:第21軍は慰安所を作るため参謀久文有文少佐を日本に派遣。久文少佐は陸軍省人事局の小松光彦大佐と共に内務省警保局長に対して「慰安婦」を募集するように要請。また第21軍は台湾総督府に対して「慰安婦」を募集するよう要請。これを受けて内務省は400名の台湾総督府は300名の慰安婦を集め広東省に送り出した[30][31]
  6. 海軍:1939年:海南島の海軍部隊のため慰安所設置を計画、海軍第4根拠地隊司令部が台湾総督府海軍武官に特要員(慰安婦のこと)50名の徴募を要請。台湾総督府の武官からは特要員50人を送るという伝歩がきた。(日本海軍風流譚〈4〉―短篇逸話集 (1981年) 海軍思潮研究会)[要ページ番号]
  7. 海軍:1942年5月:海軍省事務局長岡敬純少将と兵備局長保科善四郎少将の連名で、東南アジア方面への特要員(慰安婦)の配置と運営の方針を決定。計215人をセレベス島などに送ると南西方面艦隊参謀長に通達している。(特要員と言う名の部隊、特集文藝春秋1号、1955)

慰安婦の募集方法

現在までの研究では、朝鮮、台湾などの地域では民間業者による甘言、就業詐欺が多いと考えられている。また中国やフィリピン、インドネシアなど占領地域では暴力的な方法による、いわゆる強制連行との証言が多い。(出典:慰安婦戦時性暴力の実態1&2、緑風出版 2000)朝鮮人元慰安婦の証言では、民間業者による騙し・甘言による誘拐が多く見られるが暴力的な強制連行との証言も報告されている。例えば日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦 明石書店 2003によれば十分な情報の得られる証言者43人中、大多数は就業詐欺だが、強制連行も数件存在すると主張している。

日本国内では、1938年2月23日の内務省発警第五号の「支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件」[32]により、慰安婦は、日本国内で事実上醜業(売春)を営み、満21歳以上の伝染病なき者に募集を限定し、身分証明書を発給していたことが伺える。また、発給の際には本人自らが警察署に出頭すること、親または戸主の承認を得ること、婦女売買や略取誘拐などの無きよう調査すること、正規の許可などの無い募集周旋は認めない事などが取り決められていた。

醜業条約では「未成年に対しての勧誘」などを禁じていたが、日本は、台湾や朝鮮など植民地に適用されないという、解釈宣言を行っていた。(なお条約と別に、公娼の年齢制限は、朝鮮・台湾で17歳、内地で18歳以上であった。永井和 「陸軍慰安所の創設と慰安婦募集に関する一考察」

運営

  • 慰安所利用規程:軍は慰安所開設に当たって兵士、慰安婦、業者を対象にした利用規程を定めた。利用時間、料金の設定、衛生サックを使用することなどである。
  • 慰安婦の自由:休日は無しか、月1回。朝鮮人慰安婦の証言によると月経時も休むことは許されていない[33]。慰安所利用規程や元慰安婦の証言から、慰安婦に廃業の自由、行動の自由はほとんどなく、また中国や東南アジアでは休日に自由があっても、交通の便のため事実上逃亡は不可能であった。
日本軍が住民に嫌われていたと言われる中国・フィリピンなどでは、開業前や休日でも出歩ける範囲に制限があったり、監視[34]警備区域内に住まわせられていた。漢口特殊慰安所は日華混在地区にあり、前に歩哨と憲兵がいたという。[35] 外出規則は地域によって違いがあったことが知られている。
  • 料金:利用規程により多くは階級別、慰安婦の人種別に定められた。米軍の調査した朝鮮人慰安婦のケースでは兵士で1.5円、将校が5円であった。[36]
マニラの例では、(民間慰安所では10~20円、軍専属の方は2~3円)民間の慰安所の方が好まれていたという。[19],p487
  • 報酬:朝鮮人やフィリピンなど元慰安婦の証言では多くの場合報酬は支払われていない。最初からまったく支払われない場合、また文玉珠のように金銭目的で慰安所に入った場合でも経営者は小遣い程度しか払わず、帰国時に払うとして終戦時にはそのまま逃亡している場合もある(出典:証言未来への記憶 明石書店 2006の金冨子論考)。
慰安婦のひとり文玉珠は、26,145円の貯金をし、5,000円を実家に送金したと裁判で証言しているが、これは性の代償ではない。裁判を取材した上野千鶴子によると、このお金は「労働」の代償ではなく軍人からの小遣いをためたものであるという[37]
軍票円:慰安婦の賃金が、軍票(軍用手票)により支払われた場合、戦地における軍票の過剰発行によるインフレにより軍票の価値は内地における通貨価値と比べても著しく下落しており、戦地においては豊かな生活を享受するには程遠い状況ではあった。また、戦後は軍票に対する支払いが受けられないという問題も生じた。
  • 労働:開業は朝9時ころから深夜まで、将校が泊まりがけになる場合もあった。日本兵の休日の慰安が他にないこと、相対的に数が少ないことなどから、少ないときで10人程度、多い場合は1日数10人が1人の慰安婦に詰めかける状況が生まれている(出典:証言未来への記憶 証書店 2006から金冨子の論考)。中国などの占領地では前線のトーチカや兵舎などへ慰安婦を軍が回送し、相手をさせていた事も証言されている。慰安婦のいる部屋の前に列をなし、既にバンドをゆるめて早くしろとせかす様子がよく兵士により回想されている。李英淑はこう回想している[33]
「私は軍人を相手にすると何度も性器がパンパンに腫れ上がりました。そうなったら病院に行くのですが下腹が張り裂けんばかりに痛みました。(中略)私は何度も性器が腫れて1年に3、4回は入院しました」。
  • 暴行:証言が得られる朝鮮人慰安婦の場合、多くが軍人・業者からの暴行があった事を明らかにしている。暴行は彼女たちが性交を拒否した場合が多く、また軍人の飲酒によるものも多い。証言したほとんどの慰安婦が未成年で、自分の意志で慰安所に来たものではないため起きた状態であろうと尹明淑(日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦)は分析している。
  • 公娼などとの違い:女性史研究家は当時の公娼制度は事実上の奴隷制度であり、当時においても廃娼運動がありいくつかの県議会では廃止が宣言されている事を指摘し、公娼も慰安婦も女性に対する甚だしい人権侵害行為であるとしている。また吉見義明などの慰安婦研究者は慰安婦は、就業詐欺など違法行為による強制的な徴集、より厳しい行動の制限、多く見られる兵士による暴力など、むき出しの奴隷的制度であるとしている。(出典:吉見義明「世界」2007年5月号)
秦郁彦は慰安婦は公娼より報酬の条件がいい[8]一方で、戦地であることや酔った兵の横暴にさらされやすかったなどの危険が、内地の低級娼婦よりも多かったと見ている。
からゆきの労働環境については、脚註参照[38]
軍としては一般に、酒を抑制し粗暴行為を禁じていて過度の飲酒は厳禁であった。 その一方、1941年華中では、飲酒して慰安所に来たことからとがめられた兵が、けんかの発展から、小隊長と取っ組み合いのけんかをした例や、下士官を射殺した例がある。1943年のマンダレー(中部ビルマ)の慰安所規定では、違反者は慰安所の使用停止のみならず、会報に載せられ、その部隊の使用停止につながると警告されている[39]
外出の自由については、1932年までの郭(くるわ)内の公娼(集娼制)もまた外出はできない状況にあった[40]し、外出制限の知られている所は日本軍が嫌われていたと言われる国である。 前記マンダレーでは、経営者の証印がある他出証を携行すれば他出可能で、インドネシアのセレベス島の場合は、すべて原住民系慰安婦で休養外出自由だったとされる。[19],p367p368)また、国内と違って占領地の軍隊専属のために、 休日だけでなく部隊移動にともなう繁忙・閑散期の差が大きい、[41]
開設当初は慰安婦が足りない、 [42]
環境的にも契約上も他人が借金を肩代わりする中途廃業の見込みはない(半年内の早期廃業の違約金を自分が出す規則はときにはあった[43])、 (1943年、華北で慰安婦廃業のための金を横領したとして、陸軍主計中尉が軍法会議にかけられている[44]
報酬が軍票(またはそれによる貯金)による支払いのために、太平洋戦争の後期に価値が下落し(日本円自体が戦前と戦後では100分に1になった[45] )、日本軍の解体に合わせて1945-9月価値は消滅した(実は1949年までは引き揚げ者には[46]円との交換が特定の場所で可能であったが、朝鮮・台湾人には除外となったと推測する向きがある)、
戦争末期になると、ゲリラ戦や退却逃走などのさいにも軍と同行し(あるいは従軍させられたともいう)、犠牲になることが生じた(玉砕命令によって殺されたこともあるという)。

公娼と慰安婦

邦人慰安婦にとって、慰安所が公娼のいた銘酒屋や売春宿とどう違うかの研究は進んでいない。 その一人城田すず子(仮名)は家の借金のため芸者になり15歳でお客がついたが、ひどい性病をうつされ借金を返すため、2500円の前借り金で慰安婦になり台湾に渡った。[42] 「軍艦が入るたびに海軍の兵隊さんがやってくるのよ、次々に…びっくりして泣いてばかりいたわよ。兵隊さんは列をなして待ってるんだからね。梅毒で目が見えなくなってもヨロヨロしていてもお客をとらされるのよ。私なんかも手当たり次第にやらされていたから、これじゃ体がもたない、東京に帰りたいとある男性を騙して逃げ帰ったのよ」

しかし弟の結核で借金ができまた慰安婦になりサイパン、トラック島、パラオ諸島コロール島に行く「島に私たちが着いた途端に兵隊さんたちがガーって押しかけてくるでしょう、上を下へに大騒ぎよ。元いた女の子と特要隊の女の子をあわせても間に合わないわけよ。慰安所って言っても掘っ建て小屋でベニア1枚で仕切ってあるだけ。3畳の所に畳が1枚敷いてあり入り口はカーテンで下げてあるの。1人が済むのを待って1人が入る。みんな盥みたいなのを部屋においておくの、それで洗うのよ。でも顔を洗う暇はなかったね」

1944年空襲でコロールの街は火の海になり、慰安所は部隊と共にジャングルに移された。 「椰子の木なんかを集めて慰安所を作ったのよ。女の人はみじめだったわよ、本当にみじめだった。水兵さんだって痩せこけて骨と皮ばかりになってうろちょろしているのにそれでも女の所に来るのよ。耐えられなくて自殺しちゃった女の子も一杯いたわよ」 城田さんは帰国後も生きていくため体を売るしかなかったが30歳半ばで梅毒のため背骨が骨折、厚生施設に入った。

日本政府の調査

1993年(平成5年)8月4日、内閣官房内閣外政審議室より「いわゆる従軍慰安婦問題について」と題する調査結果の発表があった。この調査結果が慰安所について述べた部分を以下に要約する。

  • 存在地域:日本・中国・フィリピン・インドネシヤ・マラヤ(当時)・タイ・ビルマ(当時)・ニューギニア(当時)・香港・マカオ・仏領インドシナ(当時)
  • 経営及び管理:慰安所は民間業者が慰安婦を募集し、経営も直接行っていた。民間経営の場合も旧日本軍は、慰安所の開設許可・施設整備・慰安所規定の作成、悪質業者の取り締まりや衛生管理をするなど、慰安所の経営・管理に関与していた。

野戦酒保と慰安所

戦地において慰安所はしばしば野戦酒保に付属して設置された。もっとも、旧軍兵士の日記に「今日、急に酒保係を命ぜられ、酒保へ行く。戦地軍隊は面白い所だ。女給ばかり居る酒保だからな。未だ売る物は一品ばかりだ。○○を買う者がどっとおし寄せて…」といった例がある通り、名ばかりの野戦酒保もあった模様である。設置は通常、大隊以上の単位で行われ設置権限は大隊長以上が持っていた。また、定員の範囲内で野戦酒保の請負商人は、軍属の身分と制服の着用が許されていた。

野戦酒保規程

  • 第一条 野戦酒保は、戦地又は事変地に於て、軍人軍属其の他特に従軍を許されたる者に、必要なる日用品飲食物等を正確且廉価に販売するを、目的とす。野戦酒保に於て、前項の外必要なる慰安施設をなすことを得。(慰安施設規定は昭和12年の改定により追加)
  • 第三条 野戦酒保は所要に応じ、高等司令部連隊、大隊、病院及編制定員五百名以上の部隊に之を設置す。(後略)
  • 第六条 野戦酒保の経営は自弁に依るものとす。但し、已む得ざる場合(一部の飲食物等の販売を除く)は所管長官の認可を受け請負に依ることを得。

平時の衛戍地より伴行する酒保請負人は、軍属として取扱い一定の服装を為さしむるものとす。但し、其の人員は歩兵、野砲兵及山砲兵聯隊に在りては三名以内、其の他の部隊に在りては二名以内とす。
(句読点の挿入及び、仮名遣い修正は執筆者による。)

韓国軍による「慰安所」

韓国・慶南大学校客員教授の金貴玉によると、韓国の公文書『後方戦史(人事編)』に「固定式慰安所-特殊慰安隊」との記述があり、旧日本軍に関係した韓国軍の幹部によって設置されていたと考えられると言う[47][48]。 また、朝鮮戦争後も継続して1980年代まで米兵相手の慰安所が韓国軍によって設置されていたという元慰安婦の訴えがある[49]

脚註

  1. ^ http://web.archive.org/web/20020223225519/http://www.asahi.com/national/update/0223/028.html 朝鮮戦争時の韓国軍の慰安婦制度 韓国の研究者発表] 朝日新聞 2002/02/23
  2. ^ a b 大韓民国の物語 李榮薫著 永島広紀訳 文藝春秋 2009/02 ISBN 4163703101
  3. ^ ‘皆さんはドルを稼いでくれる愛国者です’証言を通じて “基地村の隠された真実” 続々と明らかに(‘여러분은 달러를 벌어주는 애국자입니다’증언 통해 “기지촌의 숨겨진 진실” 속속 드러나 Ilda 2008/12/15(韓国語)
  4. ^ 『いわゆる従軍慰安婦問題について』 東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室
  5. ^ 政府が慰安婦問題に関与していたか否かの調査結果として、1992年7月6日、宮沢内閣加藤紘一 内閣官房長官が「私から要点をかいつまんで申し上げると、慰安所の設置、慰安婦の募集に当たる者の取締り、慰安施設の築造・増強、慰安所の経営・監督、慰安所・慰安婦の街生管理、慰安所関係者への身分証明書等の発給等につき、政府の関与があったことが認められた」との談話を発表した(「朝鮮半島出身者のいわゆる従軍慰安婦問題に関する加藤内閣官房長官発表」
  6. ^ a b c 「女性のためのアジア平和国民基金」(編)『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』 龍溪書舎 1997年3月20日
  7. ^ 戸塚悦朗著『国連人権理事会』日本評論社 2009年 ISBN 4535517215
    「1992年2月には、東アジアにおける日本軍性奴隷問題等に焦点をあて、国連人権委員会にこの問題の解決のための調停機関を設置するよう要請した。それ以降、軍性奴隷・組織的強姦問題に国際的な関心が集まるようになり」P.30
    「著者は、1992年2月17日国連人権委員会に対して、日本軍性奴隷を"sex slaves"として報告し、国連への問題提起を始めたが、これは、のちにILO専門家委員会報告書による対日勧告の基礎となった」P.34
  8. ^ a b c d e f g >秦郁彦 『慰安婦と戦場の性』 新潮社 1999年 ISBN 4106005654
    「一九九二年二月に韓国挺対協が李効再代表を国連本部へ...牧師の崔昌花をジュネーブの人権委員会に送ってアピールしたのが最初であろう。...裏では日本弁護士連合会の戸塚悦朗弁護士の画策があった」P.259
  9. ^ 吉見義明他「共同研究日本軍慰安婦」大月書店 1995
  10. ^ controversy of 'comfort women' The Japan Times May 10, 2009
  11. ^ 「女性の為のアジア平和基金」による復刻版『政府調査 従軍慰安婦関係資料集成』第5巻(31~35頁)
  12. ^ a b c 吉見義明 『従軍慰安婦』 岩波新書 1995年 4月 ISBN 4004303842
  13. ^ 小野田寛郎による「私が見た『従軍慰安婦』の正体」(『正論』2005年1月号)
  14. ^ 関東局(編)の『関東局施政三十年史』(原書房 1974年
  15. ^ 韓国の陸軍本部が1956年に編さんした公文書『後方戦史(人事編)』に「固定式慰安所-特殊慰安隊」「[1]」(asahi.com韓国語版)
  16. ^ 西野留美子 『日本軍「慰安婦」を追って---元「慰安婦」元軍人の証言録』(マスコミ情報センター 1995年2月)
  17. ^ 大沼保昭, 和田春樹 , 下村満子(編)『「慰安婦」問題とアジア女性基金』 東信堂 1998年10月
  18. ^ 吉見義明他「共同研究日本軍慰安婦」大月書店 1995
  19. ^ a b c d e f 吉見義明(編)『従軍慰安婦資料集』I大月書店 1992年12月
  20. ^ 日本軍の慰安所政策について 永井和京都大学文学研究科教授)(永井和のホームページ)
  21. ^ 陸軍慰安所の設置と慰安婦募集に関する警察史料 永井和 (永井和のホームページ)
  22. ^ 軍慰安所従業婦等募集に関する件 、ノート:軍慰安所従業婦等募集に関する件
  23. ^ 斉藤良衛『外国人ノ対支経済活動ノ法的根拠』(外務省通商局、文生書院 1937年)
  24. ^ 尹 明淑 (Yun, Myoung Suk)「日本の軍隊慰安所制度及び朝鮮人軍隊慰安婦形成に関する研究」一橋大学 大学院社会学研究科・社会部)
  25. ^ 中国だけで60万の兵士[2] あるいは、「慰安婦と戦場の性」p401からは、中国・南方の陸軍軍人軍属などを合わせて、太平洋戦争の初期に90万、後期に180万。
  26. ^ NHKスペシャル「日本国憲法 誕生」(2007年4月29日放送 )
  27. ^ 岡部直三郎 『岡部直三郎大将の日記』 芙蓉書房 1982年3月
  28. ^ 岡村寧次(著)、稲葉正夫(編) 『岡村寧次大将資料』 原書房 1970年
  29. ^ a b 南京戦史編集委員会(編)『南京戦史資料集』(非売品) 偕行社 1993年
  30. ^ 内務省警保局事務官「支那渡航婦女に関する件」昭和13年(1938年)11月4日, アジア歴史資料センター リファレンスコード A05032044800.
  31. ^ 千田夏光が自著『従軍慰安婦』(1978年)において、 1941年7月:関東軍は2万人の朝鮮人「慰安婦」を徴募しようと計画、原善四郎参謀は朝鮮総督府に依頼して八千人の朝鮮人慰安婦を集め満州に送ったと書いており、最初は原から直接聞いたとしていたが、後に、『関東軍』(中公新書、1965年)(島田俊彦 『関東軍―在満陸軍の独走』 講談社学術文庫, 2005/06 ISBN 978-4061597143)が出処原典とした。しかし、その書には人物や数字は存在しないという。[要ページ番号]
  32. ^ 内務省警保局警保局長「支那渡航婦女の取扱に関する件(庁府県)」昭和13年(1938年)2月18日, アジア歴史資料センター リファレンスコード A05032040800
  33. ^ a b 韓国挺身隊問題対策協議会(編)従軍慰安婦問題ウリヨソンネットワーク (訳) 『証言強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』 明石書店 1993年11月
  34. ^ 吉見義明(編著)・林博史他(編著)『共同研究日本軍慰安婦』大月書店 1995年8月
  35. ^ 「私が見た従軍慰安婦の正体」(小野田寛郎)『正論』平成16年(2004年)1月号(漢口を日本が占領して5ヶ月後)
  36. ^ UNITED STATES OFFICE OF WAR INFORMATION Psychological Warfare Team Attached to U.S. Army Forces India-Burma Theater APO 689(米国 米軍情報部 心理作戦班 米軍インド・ビルマ方面作戦部隊付 APO 689)
  37. ^ 上野千鶴子『ナショナリズムとジェンダー』 青土社 1998年3月
  38. ^ からゆきの労働条件
    からゆきさんとして有名な北川サキの、大正中期から昭和前期のボルネオ島の例では、一人2円の内、娼婦の取り分は2分の1、その内で借金返済分が4分の1、残りから着物・衣装などの雑費月10円を出すのに、20人の客を取る必要があった。「返す気になってせっせと働けば、そっでも(それでも)毎月百円ぐらいずつは返せたよ」 というから、最少で月110人に相当する(フィリピン政府の衛生局での検査の場合、週一回の淋病検査、月1回の梅毒検査を合わせると、約24円が娼婦負担にさせられていた)。普段の客はさほど多くないが港に船が入ったときが、どこの娼館も満員で、一番ひどいときは一晩に30人の客を取ったという。泊まり無しで2円。客の一人あたりの時間は、3分か5分、それよりかかるときは割り増し料金の規定だった(接待時間ではなく、性交労働時間だったと思われる)。現地人を客にすることは好まれず、かなり接客拒否ができたと見られる。しかし、月に一度は死にたくなると感想を語り、そんなときに休みたくても休みはなかったという。
    日本の円の価値は、この時期は安定していたが、ブロック経済(又は満州事変)と前後して急低下して日華事変の頃まで6割のレベルが続き、欧州戦争開始以後さらに低下している。 「国際金融」第9回 「円の歴史、PPP」 p13
    また、当時日本の大正中期から昭和の第二次大戦前までの物価はほぼ同じレベルにあり、米価は上下変動があり、第二次上海事変からとくに欧州戦争が始まってから大きく上昇が始まる。
  39. ^ [3]2巻 185、331、257頁、4巻 286頁]
  40. ^ 『従軍慰安婦』p228
  41. ^ 長沢健一 『漢口慰安所』 (図書出版社 1983年)
  42. ^ a b TBSラジオニューススペシャル「石の叫び-ある従軍慰安婦の記録」1985年放送
  43. ^ マレー軍 慰安所規定1943年
  44. ^ 「従軍慰安婦」関係資料集成」2 p195等
  45. ^ 伊藤隆敏「国際金融」第9回 「円の歴史、PPP」p13
  46. ^ 軍票(中国情報局 「時事用語ニュース」)
  47. ^ 朝鮮戦争時の韓国軍にも慰安婦制度 韓国の研究者発表 朝日新聞 2002/02/23
  48. ^ 「朝鮮戦争時に韓国軍の慰安婦存在」(中央日報)
  49. ^ “韓国人元慰安婦、韓国政府と米軍を告発 NYタイムズ紙”. Yahoo!ニュース. 産経新聞. (2009-01-08). オリジナル2009-01-08時点によるアーカイブ。. http://s04.megalodon.jp/2009-0108-1940-39/headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090108-00000542-san-int 

関連項目

外部リンク