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李垠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

昌徳宮 李王 垠
ファイル:Image-Crown Prince Euimin.jpg
続柄 高宗第七皇子
全名 李 垠(이 은)
身位 李王 →身位喪失
敬称 殿下 →身位喪失
出生 1897年10月20日
ファイル:Flag of Korea 1882.svg 大韓帝国 漢城徳寿宮
死去 1970年5月1日(満72歳没)
ファイル:Flag of South Korea.svg 韓国 ソウル昌徳宮 楽善斎
配偶者 方子女王梨本宮家)
子女
父親 高宗
母親 純献貴妃 厳氏
役職 ファイル:War flag of the Imperial Japanese Army.svg 大日本帝国陸軍(最終階級:中将)
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李 垠(り ぎん/イ・ウン、1897年10月20日 - 1970年5月1日)は、初代大韓帝国皇帝高宗の第7男子。母は純献貴妃厳氏で純宗の異母弟。同国最後の皇太子であり、日本王公族李王大韓帝国時代の称号は英親王

目次

生涯

李氏朝鮮(朝鮮国)が大韓帝国と改称した年に生まれ、純宗の即位のときに大韓帝国皇太子(懿愍皇太子)となった。幼少期に当時日韓併合による韓国および朝鮮半島一帯の統治を検討していた日本政府の招きで訪日し、学習院陸軍中央幼年学校を経て、陸軍士官学校で教育を受けた。

その後、1910年明治43年)に行われた日韓併合によって、王世子となり、王公族として日本の皇族に準じる待遇を受け、「殿下」の敬称を受ける。その後、1920年大正9年)4月に日本の皇族の梨本宮守正王の長女・方子女王と結婚する。

陸軍士官学校卒業後は大日本帝国陸軍に入り、その後歩兵第59連隊長、陸軍士官学校教官、近衛歩兵第2旅団長などを経て陸軍中将になる。1945年昭和20年)4月には、軍事参議官に補せられた。また、純宗の薨去に伴い、李王家を承継したが、第二次世界大戦の日本の敗戦後、日本国憲法施行に伴う王公族制度廃止により李王の地位を失った(身位喪失)。

在日韓国人となった李垠・方子夫妻は帰国を試みるが、日本と大韓民国の間の国交は樹立されておらず、その上王政復古を疑う李承晩大統領の妨害などもあり帰国できなかった。1960年(昭和35年)に脳梗塞に倒れるが、1963年(昭和38年)に日韓国交正常化交渉が始まると、朴正煕大統領の協力により夫婦ともに韓国へ渡り、同地で死去した。

家系

方子妃との間には2人の男子がいる。晋王世子の突然の夭折には、日朝双方の暗殺説がある。

年譜

ファイル:Crown Prince Yoshihito and Crown Prince Lee Eun 1907.jpg
1907年、皇太子嘉仁親王(左:後の大正天皇)訪韓時、嘉仁親王・有栖川宮威仁親王(右)とともに

逸話

二・二六事件

1936年(昭和11年)の二・二六事件当時、李垠は宇都宮歩兵第59連隊長であったが、2月28日には連隊の一部である混成大隊を直率して上京した。29日0時半に新宿駅に到着した後、九段のホテルを摂取して本部を構え反乱軍を鎮圧すべく対峙した[1]

第1航空軍司令官

各地の航空隊を視察する時は必ず現地の神社を参拝した[1]。1944年(昭和19年)7月26日には副官や参謀を伴って空母鳳翔に乗艦し、海軍の攻撃七〇八飛行隊(一式陸上攻撃機装備)や攻撃四〇五飛行隊(銀河装備)とともに合同で夜間雷撃訓練を行なっていた麾下の陸軍飛行九八戦隊(四式重爆撃機装備)を視察した。この部隊は後に海軍の指揮下で台湾沖航空戦に参加した[2]

関連項目

関連文献

  • 『英親王李垠伝 李王朝最後の皇太子』 同伝記刊行会編
     共栄書房、1978年/1988年/2001年
  • 本田節子 『朝鮮王朝最後の皇太子妃』
     文藝春秋、1988年/文春文庫、1991年
  • 新城道彦『天皇の韓国併合 王公族の創設と帝国の葛藤』2011年法政大学出版局

李垠を演じた俳優

脚注

  1. ^ a b 浅見雅男『皇族と帝国陸海軍』2010年、文春新書
  2. ^ 神野正美『台湾沖航空戦―T攻撃部隊 陸海軍雷撃隊の死闘』2004年、光人社
先代:
李坧(純宗)
李王
第2代:1926年 - 1947年
次代:
李玖(王世子・襲位せず)
先代:
純宗
全州李氏当主
第28代:1926年 - 1970年
次代:
李玖