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村上雅則

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

村上 雅則
基本情報
国籍 ファイル:Flag of Japan.svg 日本
出身地 山梨県北都留郡七保町(現・大月市
生年月日 1944年5月6日(68歳)
身長
体重
183cm
72kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1962年
初出場 NPB / 1963年6月1日
MLB / 1964年9月1日
最終出場 NPB / 1982年
MLB / 1965年10月1日
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
コーチ歴

村上 雅則(むらかみ まさのり、1944年5月6日 - )は、山梨県出身の元プロ野球選手投手)、野球指導者、野球解説者

日本人初のメジャーリーガーとして有名。メジャー時代の愛称は「マッシー・ムラカミ」。

目次

来歴・人物

高校時代

名門・法政大学第二高等学校では1960年夏、1961年春と甲子園夏春連覇を成し遂げるものの、1年先輩に柴田勲がおり、2番手投手の村上は春の大会で1回を投げた程度であまり注目を浴びる存在ではなかった。

南海-フレズノ時代

しかし、南海ホークス鶴岡一人の目に留まり、1962年9月に南海と契約を結ぶ。プロ2年目の1964年アメリカ合衆国メジャーリーグサンフランシスコ・ジャイアンツ傘下の1Aフレズノに野球留学で派遣された。この時、ジャイアンツはメジャー昇格者が出た場合、1万ドルの金銭トレードで契約できるという条項を入れたが、南海側は昇格者が出るわけがないと高をくくっていた。

アメリカに渡った当初は英語がほとんどわからず、辞書を使ってチームメイトと会話をしていたという。当初派遣は6月中旬までの予定だったが、そのままフレズノでプレーしていた。この年の南海はジョー・スタンカ杉浦忠の両輪に野村克也広瀬叔功を擁して日本一になるなど戦力は充実しており、南海からの帰還要請はなかった。

サンフランシスコ・ジャイアンツ時代

同年8月31日、突然メジャー昇格を言い渡される。サンフランシスコ・ジャイアンツの遠征先であるニューヨーク行きの航空券を渡されてそのまま空港へというあわただしい状況だったという。ニューヨークに着くと、チームの関係者から「契約書にサインをするように」と言われて契約の中身もわからずサインをした村上は、翌9月1日の対ニューヨーク・メッツ戦に日本人として初めてメジャー登板を果たした。

9月29日に対コルト45's戦の9回同点の場面で登板して11回までを無失点に抑え、11回にチームがサヨナラ勝ちしたため初の日本人メジャー勝利投手となった。同年は9試合に投げ1勝1セーブ、防御率1.80の好成績を収めた。しかし、当時の日本は東京オリンピック準備と開催の真っ只中だったため、日本マスコミの扱いは小さかった。

1965年もジャイアンツとの契約を結んだが、そのオフに南海が留学の際の契約を反故にし村上を帰還させるよう主張したことで、村上の保有権を巡りホークス・ジャイアンツ両球団間で紛糾が勃発した。話し合いは平行線をたどり、また、メジャーリーグコミッショナーフォード・フリックはジャイアンツを全面支持した。これに対し、日本野球機構コミッショナーの内村祐之は1965年シーズン終了をもって南海に復帰させるという妥協案を提示し、シーズン開幕後の4月末にようやく決着。

村上は都合2年間メジャーでプレーした(詳しくは日本人選手のメジャーリーグ挑戦を参照)。村上はメジャー残留に迷いを見せたが、両親やチームの説得に加え、マスコミには「村上はわがまま」(『報知新聞』)と批判され、断念した。

南海-阪神-日ハム時代

1966年に南海に復帰すると、当初の期待ほどの活躍はできず不評を買うが、1968年には18勝を挙げて面目躍如を果たす。その後も南海で活躍を続け、1973年のリーグ優勝に貢献するが、1974年オフに阪神タイガース相羽欣厚とともに、和田徹野上俊夫との交換トレードで移籍した。

1975年オフに後藤和昭とともに東田正義との交換トレードで日本ハムファイターズに移籍すると、その後低迷したものの1978年には12勝を挙げて復活した。その後も安定した活躍を続け、1981年にはチームのリーグ優勝に貢献した。

1982年オフに日本ハムを退団し、これが現役選手としての引退となった。1983年、サンフランシスコ・ジャイアンツのスプリングキャンプに参加。選手契約には至らなかったが、ホームゲーム専用の打撃投手として契約した。

解説者-コーチ時代

1984年から1986年までニッポン放送で野球解説者を務め、1987年から1988年まで日本ハム二軍投手コーチ、1989年はダイエー(南海の後身)投手コーチ、1993年から1994年まで西武二軍投手コーチを歴任。

現在

その後はサンフランシスコ・ジャイアンツ極東担当スカウト、デイリースポーツ野球評論家を務め、現在はNHK-BS1大リーグ中継解説者。また、プロ野球マスターズリーグの東京ドリームスにも参加している。

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1963 南海 3000000--------102.021200200114.502.00
1964 SF 90000101--1.0005315.0811001501331.800.60
1965 451000418--.80030474.15792253853031313.751.06
1966 南海 46200064----.60038796.180102518661034333.081.09
1967 41100031----.75034080.172112607602036364.031.22
1968 4019911184----.818718177.21411840310901054472.381.02
1969 311430179----.438513119.0139193213470064604.541.44
1970 32249221111----.500791191.11671852214751079693.251.14
1971 383113001415----.483992234.2233366331678001221074.101.26
1972 3319611119----.550652147.11562046020573179704.281.37
1973 23800024----.33329565.27582507271042385.211.52
1974 102110120--.3338924.21313031000751.820.65
1975 阪神 181000211--.6678919.124470280014115.121.60
1976 日本ハム 321000100--1.00022953.06171500170024223.741.43
1977 610000746--.636446112.19671983780036292.321.02
1978 572000121110--.522530130.2125122999590054443.031.18
1979 4500005311--.62541998.2101163056421050464.201.33
1980 370000232--.40029467.070122834310039354.701.46
1981 170000110--.5009820.1281911100113104.431.82
1982 20000000------102.030100100229.002.00
NPB:18年 56612441551038230--.55769021642.11586201452361137581027506653.641.24
MLB:2年 541000519--.83335789.1651023531003134343.430.99
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰

NPB

記録

NPB

背番号

  • 10 (1962年 - 1964年)
  • 37 (1965年、1976年 - 1982年)
  • 15 (1966年 - 1974年)
  • 12 (1975年)
  • 73 (1987年 - 1988年)
  • 85 (1989年)
  • 76 (1993年 - 1994年)

関連情報

著作

そのほか、監修の選手名鑑および野球ガイド多数。

出演番組

関連項目

外部リンク